Ⅳ.かなどん ③



「あー、髑髏男爵さんですか。あの人はこれから伸びるでしょうし、良いお話だと思いますよ。」


地獄のタイツ問答から二日後の、小雨が降る水曜日の昼過ぎ。俺は夏目さんと会話をしながら、大型家電量販店の掃除機コーナーを歩いていた。俺や由香利さんは香月社長から聞くまで知らなかったのだが、研究熱心な彼女は『髑髏男爵』という登録名のライフストリーマー……ホワイトノーツへの所属を希望してきた人物のことを知っていたらしい。さすがだぞ。


今日は昼食を食べた後で事務所を出て、夏目さんの買い物に付き合っているのだが、その途中で先日電話をくれたライフストリーマーの話題を投げてみたわけだ。ちなみにこの後は百円ショップとスーパーにも寄る予定でいる。マンションに戻ったら撮影の補助をして欲しいとのことだったし、全部終了したらそのまま帰宅になりそうだな。


立ち止まってスティック型の掃除機をチェックしながら応答してきた夏目さんへと、俺も足を止めて相槌を打つ。昔はキャニスター型ばかりだったのに、今はもう売り場の割合がスティック型優勢になっているようだ。俺もそろそろ買い替えるべきかな? 短大時代からずっと使っている掃除機、吸いが悪くなってきているし。


「まだチャンネルの登録者数は五万ほどなんですが、再生数の平均は高めなようです。そういうこともあるんですね。」


「結構ありますよ。頻繁に投稿してない人だったり、チャンネル内のジャンルがバラバラだったり、娯楽というか『参考になる動画』をメインにしてる人に多いパターンですね。登録者数は広告収益の単価にも影響してくるので、もちろん多ければ多い方が良いんですけど……でも、それだけが基準じゃないと思ってます。総再生数とかトラフィック量とかと同じように、一つの目安ってくらいに見ておくのが一番です。」


「勉強になります。……香月社長によれば、フォーラムに来た時点では本格的に仕事にするかを迷っていたらしいんです。その頃はまだ初投稿から三ヶ月しか経っていなかったそうですから。だけど半年近くやってみて手応えを感じたので、今回連絡してきてくれたようですね。」


髑髏男爵さんは三十代前半の女性で、何というかその……『ブス』であることを売りにしているライフストリーマーだ。今年の春までは銀行員をしていたものの、解雇されてしまったので現在は貯金を切り崩して生活しているらしい。何だか親近感が湧いてくる境遇じゃないか。


メインの動画はコスメやファッション系で、最近は商品紹介や企画ものにも手を出しているようなのだが……まあ、インパクトがある容姿ではあったな。一度見たら忘れられないレベルの特徴的な顔立ちだったぞ。


メイクの動画では冷静な口調で見事な技術を披露しているのに、企画ものになると尋常じゃないハイテンションになるのも面白かったし、これから伸びていきそうだという点には同意できるけど……動画で見た限りだと性格も独特っぽかったから、最初のうちはマネジメントに苦労するかもしれない。


とはいえキャラを作っている可能性もあるので、実際に会ってみなければ細かい部分は判断できなさそうだ。宮城在住らしいから俺たちが行くか向こうに来てもらうかはまだ未定だけど、香月社長は近々直接話し合うつもりだと言っていたし、その時の雰囲気でマネジメントの初期方針を定めよう。何事も先入観で決めてしまうのは良くないはず。


もし話が上手く進めば、モノクロシスターズ以来四ヶ月振りの新規クリエイター所属になるな。初心を忘れず丁寧にいこうと考えている俺に、夏目さんが掃除機の値札を確認して苦く笑いながら声を上げた。


「私なんかの判断じゃ参考にならないでしょうけど、どこかの段階で一気に伸びるかもしれませんよ。髑髏男爵さんの動画からは『誰かに見せよう』って意図がきちんと伝わってきますから。……これは高すぎますね。出せて三万円なので、七万円代は絶対無理です。」


「誰かに見せる動画、ですか。」


「最近は増えてきてますけど、昔のライフストリームはそういう動画が少なかったんです。どっちかって言うと『ホームビデオの保管庫』って雰囲気でした。自分のための動画を、一応他人も見られますよって感じの。」


「原始的な動画共有サイトの形ですね。」


そこが出発点なわけか。次の掃除機をチェックしながら唸っている俺へと、夏目さんはこっくり首肯して口を開く。


「それから徐々にアメリカで『見せる動画』が広まり始めて、今は日本でも増えてきてるって状態ですね。ショーとしての動画って言うべきなのかもしれません。……例えばこの掃除機を映す時に、こうやって普通に撮りながら『コードレスの掃除機です』って喋るのが昔の動画です。ただ説明するだけっていうか、客観的に記録として撮影してるっていうか、一、二年前まではそういう動画が殆どだった気がします。」


掃除機にビデオカメラを向けている風のポーズで解説した夏目さんは、続けて今の動画についてを語ってきた。先程は掃除機に対して構えていた『エアカメラ』で、今度は掃除機と自分が両方収まるように自撮りしながらだ。


「それで、今の動画がこうです。……今日は電気屋さんに掃除機を見に来ました! こちらがお目当ての最新式の掃除機になります。コードレスタイプでとっても軽そうですね。」


やや高めのテンションで実演すると、夏目さんはこちらに向き直って小首を傾げてくる。


「どうでしょう? 違い、伝わりますか?」


「言わんとしていることは分かります。今主流の動画は、カメラの向こう側を意識しているわけですね?」


「んー……そうですね、大体そんな感じです。視聴する側を楽しませようって意思とか、自分じゃない誰かが見るんだって意識とか。そういうのが最初に持ち上がってきて、広告収益のシステムが出てからはそこに『プロ意識』が加わったんだと思います。前までは究極、自己満足の世界でしかありませんでしたから。だけど収入が生まれて仕事になるようになったから、責任感や向上心を持ったライフストリーマーが増えてきてるんじゃないでしょうか?」


「『動画の共有保管庫』から、『見せるためのメディア』に発展したわけですか。開発者の狙い通りなのかもしれませんね。」


七月末のフォーラムで聞いた話からするに、ライフストリームを開発した目的はむしろ後者であるはずだ。前者もまあ、中立的な記録の保管という視点で見れば評価されるべき方向性だが……エンターテインメントとしての性質を求めるなら後者だろうな。パーカー氏たちの『テレビスター殺害計画』は順調に進行しているらしい。


うーむ、前職の主戦場が民放だった俺としては複雑な気持ちになるぞ。確かに民間放送は問題を多々抱えているし、その一側面の所為で俺は職を追われたわけだが……しかし当然ながら、情熱を持って働いている人もきちんと存在していたのだ。誇りある報道を目指す人たちや、心から面白さを追求している作り手たちが。


古き王者が王座を守り抜くか、新たな挑戦者が簒奪するか。何れにせよライフストリームはまだまだ成長途上だし、決戦は今からずっと先の話だろう。俺が眉根を寄せてメディアの戦いのことを思案していると、夏目さんが棚の掃除機の中の一台を持ち上げながら応じてきた。


「私はそれを、凄く良い流れだと思ってます。見せる動画を上げるライフストリーマーが増えていけば、利用者もどんどん増えてくれるはずですから。……うあ、重いですね。買おうか迷ってた掃除機なんですけど、思ってたより重いです。これなら紙パックのやつの方が使い慣れてていいかもしれません。」


「こっちのはどうですか? デザインが似ていますし、『店員オススメ』らしいですけど。」


「三万四千円ですか。……予算的にキツいですね。少しずつ貯めてた貯金が引っ越しですっからかんです。本当は新しいアイフォンを買って紹介するつもりだったんですけど、それも無理になっちゃいましたし。」


「あー、ロータリーさんがレビュー動画を上げていましたね。」


『iPhone 4S』か。豊田さんは先週の発売日に名古屋の店舗に並んで買って、その日のうちにレビュー動画を上げていたな。夏目さんも件の動画を視聴済みのようで、悔しそうな面持ちで小さく頷いてくる。


「その動画、見ました。私も銀座のお店に並んで買うのを動画にしたかったです。……来年5が出る時は必ずやります。最新スマホの紹介動画はもう、レビュー系ライフストリーマーの定番になりつつありますから。」


「生活に直結している物のレビューは視聴され易いですし、流行に乗るという点も重要ですからね。」


「欲を言えば『流行を作り出す側』で居たいんですけどね。雪丸さんとかはそれを目指してるみたいですし、そっちの方がライフストリーマーとして一流なんだと思うんですけど……今の私じゃちょっと難しそうなので、暫くは乗っかる側で動いていきます。」


ああ、確かに深雪さんは作り出す側と言えそうだ。『誰もやったことがない』を積極的に目指している気がするぞ。代表動画である『革靴を食べよう!』の他にも、『ポテトチップスを芋に戻そう!』とか『巨大サボテンの針を漬物にしよう!』といった独特な動画をいくつもアップロードしていたな。


日本ではまだやっている人が少ない『シナモンチャレンジ』の動画も真っ先に上げていたし、最近だとダチョウの卵を使って巨大な目玉焼きを作っていたっけ。派手で興味を惹く内容だったから、あれは乗っかるライフストリーマーが出てくると思うぞ。


だけど、ダチョウの卵なんてどこからどうやって仕入れたんだろう? 今度聞いてみようかなと考えている俺に、夏目さんはキャニスター型のコーナーに移動しつつ話を続けてきた。


「流行を作るのは無理でも、アンテナを張っておけば流行り出す直前にキャッチできるはずなので……先ずはそこを目指してみます。早めに察知して、自分流に取り入れていきたいです。」


「夏目さん流となると、料理に活かしたりですか?」


「そうですそうです、そんな感じです。流行ったものをそのままやるだけじゃ埋もれちゃいますからね。雪丸さんほどの独特さは出せないので、私は代わりに親近感を出していきます。……流行の『グレードアップバージョン』をやるのがベストなのかもしれません。それもそれで難しくはあるんですけど。」


「グレードアップバージョン?」


よく分からなくて首を捻っている俺へと、夏目さんは分かり易い説明を口にする。少し前に流行った『科学実験』を例に出す形でだ。


「例えばメントスコーラが流行ったなら、『お風呂一杯のコーラに大量のメントスを入れてみた』とか、『メントスじゃなくて重曹でやってみた』とかをやるんです。……だって、メントスコーラは別に誰でも出来ちゃうわけじゃないですか。そんなの動画にしたって面白くないですよ。誰もが手軽に試せる身近な流行を、普通はやらない規模でやるのが大事なんだと思います。それなら『知ってる』って親近感と、初めて見る『驚き』の両方を取れますから。」


「……夏目さんは親近感に寄せて、雪丸さんは驚きに寄せているわけですか。」


「ざっくり言えばそうですね。でもスタートは多分正反対です。私は親近感から驚きに近付けてて、雪丸さんは驚きから親近感に近付けてるんですよ。誰もが知ってることを誰もやらない形でやるか、誰もやろうとしなかったことを誰もが知ってる形で表現するかの違い……じゃないでしょうか? 雪丸さんがそういう風に意識してるかは分かりませんけど、私はそう考えてやってます。」


「……夏目さんの『分析』を聞いていると、自分の経験不足を痛感します。俺は正直なところ、そこまで深く考えていませんでした。」


たまにこうやって夏目さんの実力を思い知るな。動画越しにはのほほんとやっているように見えて、その実彼女は物凄く熱心に研究や分析を重ねているのだ。才能でも発想力でも先見性でもなく、地道で堅実な努力の人。それがマネージャーの立場から見た『さくどん』だぞ。


未だパートナーとして追いつけていないことを悔しく思っていると、夏目さんは困ったような笑顔で返答してきた。


「私はちょっとだけ先に始めたってだけですよ。それに駒場さんにはライフストリーマーじゃなくて、マネージャーさんとしての目線でアドバイスして欲しいんです。何ていうかその、『社会人』のアドバイスを。そこは私には無い部分ですから。」


「……はい、先ずはそれを目指してみます。ライフストリーマーとしての目線を磨くのは、マネージャーとして一人前になってからですね。」


両方やるとなるともうマネージャーではなく、プロデューサーの領分だろう。……でも、香月社長からはいつかプロデュースもやって欲しいと言われているんだよな。数年先の話になりそうだが、そっちの土台もコツコツ作っておかなければ。


クリエイターたちを補佐しつつ、自分も成長していかなければならない。そのことを肝に銘じている俺に、夏目さんが思い出したように新たな話題を振ってくる。


「あっ、そう。いきなり関係ない話になっちゃうんですけど、駒場さんに一つ相談がありまして。私、ツイッターを始めようと思ってるんです。」


「ツイッターですか。」


「はい、昨日の夜に叶が『やったら?』って提案してくれたんですよ。私はそういうのに詳しくないので、今まで手を出してこなかったんですけど……さすがにもう、やらないとマズいかなと思いまして。大分流行ってきてるみたいですし。」


うーん、SNSか。特に『Twitter』は若年層の利用率がかなりの勢いで伸びているようだし、プロモーションの場としては魅力的なものの……マネージャーとしては悩みの種なんだよな。コメットの担当をしていた時、メンバーの一人が『mixi』や『Facebook』で一度炎上しかけたぞ。ちょっとした失言が火種になって、一瞬にして騒動に発展したのだ。


何とか本格的に燃え上がる前に消せたけど、あの時は全くもって大変だった。上司からはしっかり見張れと激怒されて、擁護派のファンと批判派のファンで苛烈な論争が起こり、メンバー間でも解散に繋がりかねないレベルの大喧嘩が勃発したっけ。


その後紆余曲折あった末、最終的には雨降って地固まる結果になったけど……俺としては大反省の事件だったな。当時の俺はSNSに疎かったので、投稿のチェック等を行っていなかったのだ。責任を感じてめちゃくちゃ落ち込んだし、殆どトラウマになっているぞ。


そんな苦い思い出が蘇ってきて渋い顔になっている俺に、夏目さんがおずおずと問いを寄越してくる。


「……あの、ダメでしょうか? 駒場さんがダメって言うなら、やめておきますけど。」


「いえいえ、ダメではないんですが……まああの、芸能マネージャー時代に良くない思い出がありまして。それが頭をよぎってしまったんです。」


「あー……なるほど、何となく分かります。炎上的なあれですか。」


「そういうやつです。夏目さんなら慎重に投稿するでしょうし、大丈夫だとは思うんですが……最初のうちは一応、投稿内容のチェックをさせてもらえませんか? あくまで念のために。」


申し訳ない気分で尋ねてみれば、夏目さんはあまり気にしていない感じにこくんと首肯してきた。囚人じゃあるまいし、こっちとしても自由にやらせてあげたいのは山々なのだが、ある程度有名な人物の発言は『まさかの致命傷』に繋がることが有り得るのだ。情報化社会における『有名税』だな。


「はい、それはこっちからお願いしようと思ってました。動画と同じで自分じゃ問題に気付けないこともあるでしょうし、出来ればチェックしてもらいたいです。」


「すみません、窮屈でしょうけどよろしくお願いします。」


「いえあの、そんなに気にしないでください。こっちから頼んでるんですから。……それにですね、暫くは動画を投稿しましたよってお知らせにしか使わないはずです。私ってそういうのが本当に苦手なので、叶に教えてもらわないとまともに使えないと思いますし。」


「……叶さんはやっているんですか? ツイッター。」


何となく意外だなと思いながら質問してみると、夏目さんは首を縦に振って肯定してくる。やっているのか。


「アカウントを教えるのは嫌だけど、やってはいるって言ってました。……朝希ちゃんとか小夜ちゃんはやってないんですか? ピンポイントで流行ってる世代だと思うんですけど。」


「モノクロシスターズとしてはやっていませんね。何と言えばいいか、朝希さんが……『素直すぎる』ということで、小夜さんが利用を制限しているんじゃないでしょうか?」


恐らくそうだと思うぞ。しかし小夜さんは個人的なアカウントでやっていそうな気配があるし、今度勉強のために聞いてみようかな。ライフストリームと同様に、SNSもこれからどんどん広まっていくだろう。ライフストリーマーとSNSは切っても切れない縁になりそうだから、きちんと調べておかなければ。


新たな課題を発見しつつ、掃除機を横目に話題転換を放つ。同じキャニスター型でもサイクロン式か紙パック式かの違いがあるようだ。頻繁に買う物ではないから普段は意識しないけど、こうも種類が豊富だといざ買う時になって迷いそうだな。掃除機のレビューも需要はあるわけか。記憶しておこう。


「そういえば、お二人も髪を染めるつもりらしいんです。染めるというか、インナーカラーを入れたいんだとか。夏目さんも染めるなら一緒にどうかと朝希さんが言っていました。」


「あっ、それはありがたいです。二人はカラーに慣れてそうですし、私は美容院が少しだけ……あの、苦手なので。一人で行くのは不安かなって思ってました。」


「折角ですし、動画にしてみますか?」


「いいですね、二回目……ゲーム対決を入れると三回目? のコラボ動画にしてみたいです。」


となると、美容室の撮影許可が取れるかどうかだな。取れなくても構成は出来そうだが、過程も映せるに越したことはないはず。双方とやり取りしつつ店を探してみるか。当たって砕けろの精神で交渉してみよう。


───


そして途中カフェでの休憩を挟んだ二時間後。俺たち二人は掃除機の箱や買い物袋を両手に抱えた状態で、夏目さんの新居の玄関を潜っていた。電気屋では掃除機と細々としたケーブル類しか買わなかったのだが、百円ショップとスーパーで大量に買い込んだな。ビニール袋の持ち手が手に食い込んで痛いぞ。


ガチャリと閉じたドアを背に革靴を脱いでいると、先に廊下に上がった夏目さんが荷物を床に置きながら口を開く。


「うぁ、重かったです。すみません、何か凄い買い物になっちゃって。」


「徒歩でこれを持ち帰るのは大変でしょうし、車を出せるタイミングで買っておくべきですよ。リビングまで運びますね。」


ちなみに際立って重いのは、今俺が持っている二リットルのミネラルウォーターが三本入っている袋だ。夏目さん曰く、叶さんはこの銘柄しか飲まないので常備しているそうなのだが……水の味の違いなんてよく分かるな。東京は水道水がいまいちなので、さすがにそれとミネラルウォーターの違いは俺にも分かるけど、ミネラルウォーター同士だと判別できないぞ。姉妹揃って舌が繊細らしい。


これは遺伝の所為なのか、それとも育った環境が影響しているのかを思案しながら、廊下を抜けてリビングに入室してみれば……うわ、もう学校から帰ってきていたのか。さくどんチャンネルの象徴たる白い座卓の前のクッションに座っている、制服姿の叶さんが目に入ってくる。ソファやダイニングテーブルは貯金が貯まってから購入するということで、現在は実家から持ってきた『撮影セット』を食卓にして生活しているようだ。


「お帰りなさい、駒場さん。どうですか? 私の制服姿。何気に見るのは初めてですよね?」


「……どうも、叶さん。お邪魔しています。よく似合っていますよ。」


「ありがとうございます。私服より中学生っぽさがあって良いでしょう? 特別感、ありますよね?」


何だ『特別感』って。自分が着ているジャンパースカートタイプの黒い制服を示しつつ、謎の発言に困っている俺に対して愉悦の薄笑いを浮かべた叶さんは……続いて入ってきた夏目さんを見てパッと無表情に変わったかと思えば、立ち上がってこちらに歩み寄ってきた。一瞬で表情と雰囲気が変化したな。彼女は役者の才能を持っているらしい。


「お姉、お帰り。荷物持つよ。水、重かった? ごめんね。」


「大丈夫、駒場さんが持ってくれたから。安かったし、三本買ってきたよ。」


「ありがと。学校帰りに寄れそうなコンビニを回ってみたんだけど、どこにも売ってなかったの。今度スーパーも見てみるね。」


「でも、平気だよ? 叶は勉強で大変だし、こういうのは暇なお姉ちゃんが買ってくるから。」


円満な会話だな。夏目さんからは見えないように、叶さんがニヤリと俺に笑いかけてきているのを除けばだが。……つまり彼女は、『きちんと約束は果たしているぞ』ということを伝えたいわけか。


そんな二人を眺めつつ、掃除機の箱や買い物袋をキッチンの近くに置いたところで、叶さんが座卓の横のスクールバッグを回収しながら声を上げる。ネイビーで四角いフォルムのあのバッグだ。俺も中学の頃に使っていたな。ちょっと懐かしくなってしまうぞ。


「お姉、これから撮影するんだよね? その前に少しだけ駒場さんと話してもいい? 相談に乗って欲しいの。」


「相談?」


「うん、進路の相談。駒場さんは頼りになる人だし、大人だから。色々聞いて欲しくて。」


「あっ、そういう。……駒場さん、お願いできますか?」


ああほら、早速来たぞ。夏目さん経由で頼んでくるのに、諦観の気分で了承を返す。ここで渋ったところで無駄だろう。時間をかけてじりじりと追い込まれるだけだ。であれば覚悟を決めて対峙した方がいいはず。


「分かりました、リビングで話しますか?」


「もちろん私の部屋でです。大事な話なんですから、二人っきりでじっくり話しましょう。……さあ、駒場さん? 来てください。」


「……はい。」


「じゃあ私、片付けと撮影の準備をしておきますね。」


何も知らない夏目さんの明るい声を背にして、叶さんの先導で廊下を抜けて彼女の私室に入った瞬間──


「……はい、ベッドに座ってください。早く。」


スクールバッグを床にどさりと落としてから、カチャリと後ろ手にドアの鍵を閉めた叶さんが、冷たい声色で指示を出してきた。いきなり苛々している様子になったな。超怖いぞ。どうしてそんなに不機嫌なんだ。


「あの、叶さん? 何故そんなに機嫌が悪──」


「お姉との『仲良し姉妹ごっこ』のストレスに決まってるじゃないですか。マジで苛々しますよ。実の姉妹なのに気を使い合って、譲り合って、無駄に褒め合って……あのやり取り、本当に苦痛なんです。いいからベッドに座ってください。」


文句を呟きながらぐいと背中を押してきた叶さんは、ブラウンの掛け布団が敷かれたベッドに腰掛けた俺を見下ろして口の端を吊り上げた後、目の前に立ったままで唐突すぎる命令を送ってくる。マズいな、流されているぞ。このままだと前回の二の舞だし、しっかり抵抗しなければ。


「じゃあはい、着替えさせてください。」


「……はい?」


「あれ? 聞こえませんでした? 私の制服を脱がせて、部屋着を着せて欲しいって言ってるんですけど。」


首を傾けながら『どうぞ』と両手を広げている叶さんに、弱り果てた思いで拒否の返事を飛ばす。着替えさせる? 余所の家の中学生の娘さんを? そんなこと出来るわけがないだろうが。


「無理です、出来ません。」


「へぇ? 今日はちょっと強気じゃないですか。冷静になって考え直して、今度こそ抵抗しようって決意してきたとか? 説得の方法、頑張って考えてきたんでしょう? ……でも、残念。こっちだってその程度のことは予想済みなんですよ。」


うわぁ、完璧に読まれているな。言い当てられて怯んでいる俺へと、叶さんは何とも楽しそうな面持ちで続きを語ってきた。随分と魅力的な笑顔じゃないか。状況が状況だから全然喜べないが。


「駒場さん、お姉がSNS始めるって話は聞きました? 今朝学校に行く前、マネージャーの駒場さんに相談しろって言っておいたんですけど。」


「……聞きましたが、それがどうしたんですか?」


急に話題が移ったな。俺の横にぽすんと腰を下ろした叶さんに頷いてみれば、彼女は至近距離からこちらの顔を覗き込みつつ話を続けてくる。


「お姉は疎いから、アカウント作成とかは全部私が手伝うわけなんですけど……あれ? そうなると私、お姉名義で発言し放題ですね。こっそり下着姿の写真とか撮って、載せてみせましょうか? 『さくどん』はまあまあ有名ですし、ネットニュースになるかもしれませんよ?」


「……正気ですか?」


「私だってやりたくはありませんよ。身内の恥を晒すわけですし、そこまでやると絶縁ものですから。……けど、ストレスでおかしくなったらやっちゃうかもしれません。そして今の私はおかしくなる寸前です。」


「叶さん、お願いですから……お願いですからやめてください。そんなことをすれば、夏目さんは傷付くどころじゃ済みませんよ? ネットに出たものは一生残るんです。取り返しが付かないような心の傷になってしまうかもしれません。」


何てことを考えるんだ。ゾッとしながら懸命に説得する俺を目にして、叶さんは我慢しきれないとばかりににやっと笑った後……強引に俺をベッドの上に押し倒したかと思えば、腰の部分に馬乗りになって耳元で囁いてきた。


「立場、改めて理解できましたか? 私がその気になればそういうことも出来ちゃうんです。今更全部を打ち明けて、お姉に警告したって無駄ですよ。一番身近な家族ですからね。方法なんていくらでも思い付きます。……だけど駒場さんがストレス解消に付き合ってくれるなら何も起こりません。学校でも家でも波風を立てずに過ごせそうです。どうです? やる気になりました?」


「……服を着替えさせればいいんですね?」


「はい、良い子。最初からそうすればいいんですよ。無駄な抵抗されると面倒なので、これからは素直に従ってくださいね? 私は浅知恵で歯向かおうとする生意気な駒場さんじゃなく、素直で従順な可愛い駒場さんが好きなんですから。……じゃあ、どうぞ。脱がせてください。」


前半を妙に優しげな声で言った叶さんは、ころりとベッドに横になって再度指示を出してくる。身を起こしてその姿を横目にしてから、心中で巨大なため息を吐いてのろのろと動き始めた。……あんな脅しをされたら従う他ないじゃないか。俺は一体どうすればいいんだ。


解決策を見出せないままで叶さんのジャンパースカートを脱がせていると、彼女は脱力した状態でクスクス微笑みながら『アドバイス』を告げてくる。


「ここは私の部屋です。そして私と駒場さんしか居ません。だから世間一般の常識とか、道徳とか、法律とかからは切り離された空間なんですよ。そういう余計なものは頭から追い出しちゃってください。そうすれば楽になれますから。」


「……そんなことは出来ません。」


「ふぅん? 真面目ですね、駒場さんは。誰も見てないんだから、もっと楽しめばいいのに。私は今、めちゃくちゃ興奮してますよ。スーツ姿の大人の男の人に、自分のベッドの上で服を脱がされてるだなんて……ぁは、やば。最高です。」


「……まさか叶さん、こういうことを日常的にやっているわけじゃないですよね?」


インモラルすぎる台詞を耳にして、彼女の日常生活が心配になって問いかけてみれば、叶さんは半眼で否定を寄越してきた。そういうわけではないらしい。ホッとしたぞ。


「ひょっとして駒場さん、私が『パパ活』とかしてるんじゃないかって思ってます? そんな頭が悪いことしてませんからね? 勘違いされるのは困るので言っておきますけど、別に大人の男性に興味があるわけじゃないですから。駒場さんがお姉の大事なマネージャーだからこんなことをしてるんですよ。」


「しかしですね、私に襲われたらどうするつもりなんですか? もっと警戒心を持つべきです。」


「襲わないでしょ、駒場さんは。何回も接してみてそうだと判断したから行動に移したんです。考えなしのバカ扱いしないでください。……だって駒場さんは『真人間』ですもんね? 気持ち悪いったらないですよ。普通ここまですれば下心の一つくらいは覗かせるはずなのに、駒場さんは今も欲望ゼロじゃないですか。前にも同じような話をしましたけど、正直不気味です。性欲自体はあるって言ってましたし、もしかしてゲイだとか?」


「……一応、恋愛対象は女性です。」


肩紐……と呼ぶべきなのか? とにかく肩の部分を外して、慎重にジャンパースカートを腰まで下げながら回答した俺に、上半身がブラウスだけになった叶さんは訳が分からないという表情で会話を継続してくる。


「なら、駒場さんは私が知る中でもぶっちぎりの異常者ですね。真人間ほど異常な人間は居ないんです。見せかけだけのヤツなら沢山居ますけど、駒場さんみたいに『マジの真人間』はそう居ません。……というか、何でそんなにゆっくりゆっくり脱がしてるんですか? 躊躇ってたって何も解決しないんだから、さっさと脱がせてくださいよ。心配しなくても下は体操着の短パンを穿いてます。」


「……では、失礼します。」


「ええ、とっとと失礼してください。……これは本気の疑問なんですけど、駒場さんは中学生相手だと興奮しないんですか?」


「しません。未成年ですから。」


断言しつつスカート部分をひと思いに抜き取ってみれば……穿いていないじゃないか、体操着。黒いリボンが付いたグレーの下着が視界に映った。それから反射的に目を逸らしていると、叶さんは興味深そうな面持ちで上体を起こしながら口を開く。平然とした口調でだ。


「それって病気ですよ、病気。『道徳や良識には従わなきゃいけない病』。言っておきますけど、世間の人たちはそこまで真摯に従ってませんからね? 駅とかを歩いてると、スーツ姿のいい大人がどこ見てるかなんてすぐに分かるんですよ。こっちが呆れるくらいにスカートの中を見ようとしたり、胸をちらちら見てきますから。当人は隠してるつもりでも、見られてる側からするとバレバレなんです。……なのに、駒場さんからはそういう視線を一切感じません。気味が悪いですよ。どういう人生を歩んだらそうなるんですか?」


「特筆すべきことのない、普通の人生です。……そんなことより、隠して欲しいんですが。短パンなんて穿いていないじゃないですか。」


「あれは嘘です。学校では穿いてましたけど、家に帰った後で上着と一緒に脱いじゃいました。文句を言ってないで早くブラウスも脱がせてくださいよ。そしたら部屋着の場所を教えてあげますから。……あ、また良いことを思い付きました。姉から取っちゃうついでに、私が駒場さんの価値観を矯正してあげます。姉好みの駒場さんから、私好みの駒場さんに変えちゃうんです。」


「……ブラウス、脱がせますね。」


隠す気がないなら、一刻も早く終わらせて部屋着とやらを着てもらおう。急いでブラウスのボタンを外している俺に、叶さんは楽しげな雰囲気で意味不明な『計画』を語り続ける。そもそも俺は『夏目さんのもの』じゃないぞ。だったら奪うも何もないだろうに。


「駒場さんの身も心も奪っちゃえば、お姉は今度こそ本気で私に怒るかもしれません。悔しがって、大泣きして、マジギレするでしょうね。……ゾクゾクしてきました。興奮しすぎて鼻血が出そうです。」


「……脱がせ終わりましたよ。部屋着はどこですか?」


「靴下が残ってますよ、駒場さん。私、外で着てた服を家でも着るのは嫌なんです。駒場さんにやらせようと思って我慢して着替えないでおいたんですから、最後まできっちりやってください。」


「……はい。」


わざわざ我慢して待っていたのか。やめて欲しいぞ。パンツとお揃いの色のノンワイヤーブラ姿で要求してくる彼女に首肯して、小さな足から白い靴下を脱がせてやれば……完璧に下着だけの格好になった叶さんは、大きく伸びをしつつベッドの上にぺたんと座り直した。挑発するような薄い笑みを浮かべながらだ。


「んっ……ふふ、どうですか? さすがに興奮します?」


「しません。部屋着を出してください。」


「へぇ? 矯正するの、結構苦労しそうですね。……まあ、時間をかけて徐々に徐々にやっていきましょうか。これですよ、着せてください。」


言葉と共に叶さんがクローゼットから出した服……ふわふわした生地で上下セットの柄の、長袖のシャツとショートパンツのルームウェアだ。それを手早く着せてからもこもこの靴下も履かせてやると、彼女は最後に頭をずいと突き出して催促してくる。


「髪も結んでください。やり方、分かります? うなじの上で、簡単に一つに結んでくれれば充分なんですけど。」


「分かります。……これでいいですか?」


朝希さんが頼んでくることが多いので、軽く結ぶくらいならパパッと出来るぞ。黒いミディアムヘアをパイルのヘアゴムで結んでやれば、叶さんは手で髪をチェックした後……何をするんだ。いきなり俺の頭をガバッと抱き寄せてきた。


「あれ、案外上手いじゃないですか。……はい、上出来ですよ。よく出来ました。よしよし、良い子良い子。」


「……叶さん、急に何を──」


「黙って撫でられてください。……よく頑張りましたね、駒場さん。偉いですよ。えらいえらい。」


何なんだこの急激な態度の変化は。ついて行けなくて混乱している俺の頭を、叶さんはベッドに倒れ込んで撫で続ける。耳元に口を寄せて甘い声色で囁きながらだ。


「私の匂い、分かりますか? これが『ご褒美の匂い』ですから、きちんと覚えてくださいね。……ほら、力抜いて。全身を私に預けてください。気持ち良いでしょう? こうやって抱き締められてると、安心してとろんとしてくるでしょう? 良い子、良い子。」


「……あの、何をしているんですか?」


「私の言うことにしっかり従えたから、可愛い駒場さんにご褒美をあげてるんですよ。私がいいって言うまで喋らないで、とろとろにリラックスしてください。……はい、そうです。それでいいんです。ちゃんと言うこと聞ける駒場さんは良い子ですね。よしよし、偉いぞ。」


耳元というか、もう完全に耳に唇をくっ付けて喋っている叶さんは、黙った俺のことをギュッと抱き締めながらこしょこしょ声で褒めてくるが……ああもう、ダメだ。状況が本当に分からん。困惑の極地だぞ。


脅して足にキスさせて、無理やり自分の着替えをやらせて、異常者扱いしたかと思えば抱き締めながらベタ褒めする? 思考回路が大迷宮じゃないか。複雑すぎるにも程があるぞ。意図を全く掴めなくて呆然としている間にも、叶さんの吐息と声が俺の耳の中に侵入してきた。


「力、抜けてきましたね。そのまま全部私に預けてください。……ほら、気持ち良い。私の言うことを聞くと、こんなに気持ち良くなれるんです。もっともっと素直になれば、もっともっと気持ち良くなれますよ。今の駒場さん、可愛くて大好きです。好き、すきすき。だーいすき。」


叶さんは俺の頭を胸元に抱いて、蕩けるような声色で好きを連呼しているわけだが……これ、ちょっと怖いぞ。意味不明すぎて段々怖くなってきたかもしれない。まさかこの子、二重人格とかじゃないよな?


「好き。すーき。……私の心臓の音、聞こえますか? ドキドキしてますよね? 駒場さんのことが好きだからですよ。すきすき、大好き。」


絶対嘘じゃないか、そんなの。幾ら何でもこの流れで『そっか、叶さんは俺のことが好きなんだ』となったりはしないぞ。頭を包む柔らかくて優しい体温と、眠気を誘う心地良い香りと、右耳から聞こえてくるトクトクという心臓の音と、左耳を擽る甘い囁き声。それに頭がぼうっとしそうになるのに、理性の警告を頼りにして抗っていると──


「はい、終わり。……あれ、あんまり嬉しくありませんでしたか?」


パッと俺の頭を解放した叶さんが、こちらの表情を見てやや不満そうに尋ねてくる。……他の誰かに同じことをやられたらともかくとして、叶さんの場合は疑いが先行するぞ。疑念も持たずに喜ぶわけがないじゃないか。


「嬉しくないというか……その、意味が分かりませんでした。」


それに尽きるぞ。自身の感情を正直に伝えた俺に、叶さんは小さく……うわぁ、舌打ちだ。この年頃の女の子に舌打ちされるときっついな。舌を鳴らした後でやれやれと首を振ってきた。


「これだけやってその反応ですか。……まあ、別にいいですけどね。初回ですし、こんなものでしょう。」


「……初回? 『次回』もあるということですか?」


「そういうことです。少しレベルを上げてみますから、次の『ご褒美』も楽しみにしておいてください。……じゃあほら、お姉に怪しまれないように髪を整えて。駒場さんは私が嫌いな『ワックスベタベタ人間』じゃないみたいなので、今のままでもまあ大丈夫ですけど、次来る時はヘアワックス一切無しで来てくださいね。そっちの方が好きなので。」


「……はい。」


『レベルを上げる』という発言に怯えつつ、ベッドから離れて髪を整えていると、叶さんは一瞬だけ黙考した後で次なる指令を送ってくる。これはもう、本当に早く解決しないとマズいな。エスカレートしていく前に歯止めをかけなければ。


「あと、折角だから最後に私の舌を引っ張ってください。ぐいって。遠慮せずに。」


「……はい?」


ああ、俺の人生の中でこれほど訳の分からない状況が他にあっただろうか? 遠い昔、遥か彼方の銀河系に居た生命体と会話している気分になってくるな。思考がストップした状態で聞き返した俺に、叶さんはちろりと出した真っ赤な舌を示してきた。


「舌ですよ、舌。私の舌を掴んで、ぐいっと引っ張るんです。」


「いや……しかし、何のためにですか?」


「それを駒場さんが知る必要、あります? 私がやれと言ったらやるんです。疑問も理由も必要ありません。……さあ、早く。これで最後ですから。」


「……分かりました。」


俺は一風変わった考え方をする人に何度も会ってきたし、仕事の関係上奇妙な価値観を持つ人と付き合うこともあったのだが……もしかすると、この子は断トツで『変な人』かもしれないな。未知との遭遇だぞ。


何にせよ早く『常識の世界』に帰還したいから、もう深く考えずにやってしまおうという一心で、恐る恐る手を伸ばして舌を掴んでそっと引っ張ってみれば……叶さんは不機嫌そうなジト目になった後、俺の手を舌から退けて注意を飛ばしてくる。ベッドの縁に座り直して、反対側の部屋の壁を指差しながらだ。


「力が弱すぎますよ。もっと真面目にやってください。私がここに座りますから、あっちまで無理やり引っ張っていく感じでお願いします。犬のリードを引く感覚で。」


「……あ、はい。じゃああの、やりますね。」


『真面目に舌を引っ張る』というのがもう分からないぞ。泣きたい思いで言われるがままに舌をしっかり掴んで、壁までぐいぐい引っ張ってみると──


「あっ、ぁ。……ふぁ、ん。」


変な声を出しながら少しだけ力を入れて抵抗していた叶さんは、壁に到着して舌から手を放した俺に……ぷるるっと震えつつ『オーケー』を知らせてきた。実に満足げな笑みでだ。


「ぁは、んふふ。……はい、もういいですよ。先にリビングに戻ってください。私は駒場さんが出て行った後に着替えたことにしますから、少し時間を空けて戻ります。」


「……では、失礼します。」


「今日のこれで一週間は良い気分で過ごせるので、暫くは演技を続けられそうです。……けど、またストレスが溜まったらよろしくお願いしますね? 分かったら早く出てください。私はやることがあるので。」


やること? 言いながらぐいぐい背を押されて、応答する間も無く部屋から追い出されてしまうが……よし、深雪さんに相談しよう。俺はもうお手上げだ。無理無理、分からん。叶さんの行動も、意図も、理由も、感情も、心の底からちんぷんかんぷんだったぞ。


解決するどころかむしろ悪化してしまったことに落ち込みながら、ひどく疲れた心境でリビングに入室してみると、キッチンスペースで何かをしている夏目さんの姿が見えてくる。


「あっ、駒場さん。叶との話、終わりましたか?」


「……無事終わりました。叶さんは着替えてから戻るそうです。」


「そうですか。妹の相談に乗ってくれてありがとうございます。……買ってきたハーブティーを淹れてみたので、それを飲んでちょっと休憩してください。撮影の準備、まだ終わってないんです。」


「それは……砥石、ですか?」


キッチンカウンターに置いてあったマグカップを手にしつつ、夏目さんが持っている物体のことを問いかけてみれば、彼女は笑顔で肯定してきた。……ホッとする味のハーブティーだな。今は特に心が休まるぞ。満身創痍ではあるものの、俺はどうにか日常に帰還できたらしい。


「はい、まあまあ良い砥石みたいですよ。前に注文した荷物が実家の方に届いちゃって、昨日それを取りに帰ったついでにお父さんから借りてきたんです。……えへへ、じゃじゃーん。これを研ぐのを動画にしようと思いまして。」


「これはまた、随分と錆びた包丁ですね。」


「引っ越し作業で庭の倉庫を漁ってた時に見つけたんです。お父さんはお爺ちゃんが昔使ってた包丁じゃないかって言ってました。分厚い木の箱に入ってましたし、ここに手彫っぽい銘も掘られてるので、多分高い包丁なんだと思います。多分ですけど。」


うーん、今は亡き祖父の包丁を倉庫から『発掘』したわけか。よく見る三角形ではなく長方形の、これでもかと言うほどに錆びた和包丁。それを目にして夏目家の歴史を感じていると、夏目さんは嬉しそうな顔付きでクレンザーやら数種類の砥石やらを指して企画内容を語ってくる。


「このままにしておくのは勿体無いですし、研いで綺麗にして料理動画で使っていくことにします。それで折角だから研ぐところも一本の動画にしようと思ったんです。ただ研ぐだけなのであんまり伸びないでしょうけど、これだけ錆びてる包丁が綺麗になるのは……何ていうか、ちょっと面白いかなって。」


「良いと思いますよ。俺としても少し惹かれる内容ですし、視聴者の立場なら見てしまうかもしれません。」


「まあ、そこまで期待せずに上げてみます。箸休めの動画って感じで。……ただやるからには真剣にやりたいので、時間がかかっちゃうかもしれないんです。なので料理動画を撮る前にこっちをちょこっとだけやりますね。後半は固定カメラで撮れると思いますから、前半の錆び取りだけカメラ役をお願いします。」


「了解です。……刃物を研ぐのは難しそうですけど、やったことがあるんですか?」


俺には色とサイズの違いしか分からない数個の砥石を横目に聞いてみれば、夏目さんは自信ありげに頷いてきた。あるのか。凄いな。


「一応定食屋の娘ですから、包丁のメンテナンスは得意なんです。お父さんから教えてもらって、何回もやったことがあります。錆び取りだけは初めてですけど、そこはきちんと調べておきました。」


「さすがですね。……俺も準備を手伝います。何をやればいいですか?」


「いやあの、駒場さんは休んでてください。買い物で疲れてるでしょうし。」


「大丈夫です、夏目さんが淹れてくれたハーブティーのお陰で回復しました。二人でパパッとやってしまいましょう。」


夏目さんの穏やかな声を耳にしていると、叶さんにゴリゴリ削り取られた精神力が回復してくるぞ。……とにかく、撮影だ。悩みは悩み、仕事は仕事。まだ若干動揺を引き摺っているが、ここは気持ちを切り替えて臨まなくては。


要求も脅しもエスカレートしているから、叶さんのことは当然放置しておけないものの……情けない話、俺一人では解決に繋がる名案を思い付けそうにないぞ。ここを出たらすぐ深雪さんに連絡しよう。賢い友人ならある程度叶さんの内心を読み解けるだろうし、一人で悩むよりはマシな結果を齎してくれるはずだ。


未だリビングに戻ってこない『宇宙生命体』のことを考えつつ、やる気満々の夏目さんからは見えないようにこっそりため息を吐くのだった。

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