Ⅳ.かなどん ②



「それで、命じられるがままに足にキスをしたんですか? 瑞稀さん、それは……変ですよ。さくどんさんの妹もかなり異常ですが、従ってしまう貴方も中々におかしいです。」


夏目さんが引っ越した次の日の、十月十六日の日曜日。俺は訪れた中古車の合同展示会場で、並ぶ車の隙間を歩きながら深雪さんに苦い笑みを向けていた。自分でも分かっているぞ。当日だって訳が分からないままで流されていたが、一晩経った今は更に意味不明になっているのだから。どうしてあんなことになってしまったんだろう?


現在の俺たち二人は中古車を見るために、さいたま市で開かれている大型の中古車合同展示会に参加しているところだ。俺が今乗っている軽自動車のリース期間が今月末で終了するということで、深雪さんが見に行きませんかと誘ってくれたのである。最近は彼女や豊田さんに頻繁に車の相談をしていたから、展示会の情報を見つけて声をかけてくれたのだろう。ありがたいぞ。


そんなわけで深雪さんの車で会場となっている郊外のイベント施設の駐車場までやって来て、のんびり話しながら中古車を順繰りにチェックしている途中、昨日の叶さんの話題になったのだ。あまりにも悩み過ぎてついつい相談してしまった俺に、深雪さんは秋の晴天を見上げつつ呆れ果てた表情で口を開く。


「だってそんなの、人質を取られた女騎士の行動じゃありませんか。素直に屈しすぎですよ。薄い本じゃあるまいし、もっとしっかり抵抗してください。」


「薄い本? ……喩えがよく分かりませんが、呆れているのは伝わってきます。」


「勿論呆れていますし、驚愕もしています。どうやらさくどんさんの妹は、性格的には姉に全く似ていないようですね。……現実世界に『足に誓いの口付けをしろ』とのたまう人間が居るとは思いませんでしたよ。今日日ファンタジーの世界でだってそう見ないはずです。」


半笑いで呟いた深雪さんは、僅かに心配そうな顔に変わって発言を重ねてくる。ちなみに今日の彼女は細いブラックのパンツにタートルネックのセーター、そしてブラウンのチェスターコートという格好だ。お洒落だな。男性から見たカッコいい女性って雰囲気の服装だぞ。


「ひょっとするとその子、相当にエグい性癖を持っているんじゃありませんか? 従い続けるのは危険ですよ。その子にとっても、貴方の社会的な立場にとっても悪影響です。」


「……さくどんさんの妹さんは、まだ中学二年生ですよ?」


「あのですね、瑞稀さん。中学生というのは男性だろうが女性だろうが頭の中がピンク色なんです。無駄に神聖視していると痛い目に遭いますよ。『健全な少年少女』なんてのは、拗らせた大人の妄言に過ぎないんですから。……そんなものはユニコーンとか、ドラゴンとかと同じジャンルの生き物です。自分が中学二年生だった頃を思い出してから物を言うべきですね。あるいは社会の情報化によって『そういう画像や動画』の入手が一気に容易になった所為で、土手の隅で成人向け雑誌を発掘していた世代から見ると乱れているだけかもしれませんが、何れにせよ『ピュアな中学生』など絶滅危惧種ですよ。ニッポニア・ニッポンくらいのレア度だと判断すべきでしょう。」


トキと健全な少年少女は、『空想上の生き物』というジャンルに片足を突っ込んでいると言いたいわけか。……まあ、うん。男女共に異性への強い興味を持つ時期ではありそうだな。それを踏まえた上で、深雪さんへと反論を放つ。


「しかしですね、私ですよ? 私に対してそういう興味を抱くとは思えません。仮に妹さんが『エグい性癖』を持っていたとして、それが向けられるのは同い年前後の男性のはずでしょう? 容姿が整っている男性アイドルとか、俳優さんとか、学校のサッカー部のカッコいい先輩とか。そういった人物が世の中には山ほど居るんですから、平凡な見た目で一回りも年上の私では『対象』にならないはずです。」


「どうでしょうね。性癖は千差万別ですから、私は然して意外に思いません。アダルトビデオや成人向けのコミック、同人誌なんかを見れば一目瞭然じゃありませんか。……どギツい性癖を抱えている人間というのは案外多いものなんです。普段は人目を気にして覆い隠しているだけで、人間なんてのは一皮剥けば皆揃って異常者ですよ。であれば彼女の関心を惹く何らかの要素が貴方に備わっていても、特段不思議だとは言えないでしょうね。」


「……深雪さんは、成人向けのコミックとかに詳しいんですか?」


「言葉の綾です。そこに食い付かないでください。」


ジト目で注意してきた深雪さんは、仕切り直すように咳払いをしてから話題を『叶さん問題』に戻す。


「とにかく、良くありません。非常に悪い状況です。私はさくどんさんに相談すべきだと思います。」


「……それをやれば、さくどんさんへの『悪戯』が再発してしまいます。彼女は本当にストレスを感じていたようなんです。あのままでは精神的に参ってしまいますよ。」


「代わりに貴方が被害に遭うのでは仕方がないでしょう? ……さくどんさんに打ち明けて、妹を強引に新居から追い出すべきですね。それが最もスマートな解決方法です。そうすればさくどんさんはストレスから解放されますし、貴方も小生意気な要求を呑まずに済むんですから。」


「ですが、その場合姉妹仲が壊れてしまいます。……私が黙って従っていれば、そのうち飽きてくれるかもしれませんよ? 多感な時期だからあんなことをしているだけって可能性もありますし。」


分が悪いことを認識しながら抵抗してやれば、深雪さんは額を押さえて声を寄越してくる。


「希望的観測にも程がありますね。私は貴方の友人なので、貴方に害を及ぼしているその小娘のことを好きになれませんが……しかし、主張の中の一点だけには諸手を挙げて賛同できます。貴方はお人好しすぎる。見事にそこに付け込まれているじゃありませんか。」


「……悪いことでしょうか?」


「美点であり、欠点です。私は貴方の誠実さと善性を好ましく思っていますが、今回はそれが甘さに感じられます。……大体ですね、仕事にだって影響が出るかもしれませんよ? 学校から歩いて帰るのが面倒だから、毎日家まで送り届けろと言われたらどうするつもりですか?」


「そこは大丈夫です。仕事の邪魔をしたり、平日に呼び出したりはしないと言っていましたから。」


笑顔で唯一の『救い』を語った俺に、深雪さんは……うわぁ、更に呆れているな。巨大なため息を吐いて教えを投げてきた。


「瑞稀さん、それは小娘の作戦です。最初に小さな要求を通して、後の大きな要求を通し易くする手法を聞いたことがありませんか? 悪人の常套手段ですよ。詐欺師の教本があったら一ページ目に書かれているであろう、物凄くエレメンタリーな手口ですね。」


「……足にキスしろというのは『小さな要求』ですかね?」


「そこは恐らくテストですよ。ダメ元で試してみたらまさかの成功を収めたから、本格的に貴方を籠絡しようと考えたに違いありません。徐々に要求を上げてくるつもりでしょう。何とも邪悪な小娘ですね。つくづくさくどんさんとは正反対です。」


「顔は結構似ているんですけどね。……まあ、ちょっと様子を見てみることにします。彼女はさくどんさんのことが嫌いだから悪戯をしていると言っていましたが、どうしてもそこまで単純な理由だとは思えないんです。ここで突き放してしまえばそれまででしょうし、暫く付き合って探ってみますよ。」


夏目さんのためにも、叶さんのためにもそうすべきだろう。少なくとも夏目さんは、妹との関係が崩れてしまえば深く悲しむはずだ。叶さんの方がどう思っているにせよ、夏目さんは妹のことを大切に想っているようなのだから。


上手く原因を見つけ出してどうにか対処してみようと思考している俺へと、深雪さんが再びため息を吐いた後で……やれやれと首を振ってくる。


「あえて『先送り』とは言いませんよ。お人好しな貴方ならそうするだろうと予測できていましたから。」


「……言っているじゃないですか。」


「せめてもの気晴らしです。甘んじて聞き流してください。……ただし、瑞稀さん。世には『本当に悪い人』も居るんですからね? 小娘が純粋な悪意を持ってさくどんさんに悪戯をしているという事態も、大いに有り得ることだと覚えておくべきですよ。」


「……分かりました、覚えておきます。」


深雪さんの真剣な顔付きでの忠告に頷いてやれば、彼女はピンと人差し指を立ててもう一つアドバイスを送ってきた。……先ず、叶さんという人物をしっかりと知る必要があるな。彼女のことを理解しないと、夏目さんに対する感情を探るのなど夢のまた夢だ。差し当たりそれを目指してみよう。


「それと、小娘との間に起こったことを私にメールで知らせてください。万が一訴訟になった時に証拠になりますから。」


「いや、訴訟は無いと思うんですが。そもそもそれは、私が訴えられるという意味ですか? どちらかと言えば私は被害者ですよ?」


「貴方が小娘の足にキスする瞬間を、隠し撮りされていたらどうなると思います? 密室で、女子中学生の足に唇を押し付ける成人男性。非常に厳しい弁護になるでしょうね。……小娘がさくどんさんに対して恨みを持っている場合、貴方を罠に嵌めるのはかなり有効な手です。『しまった、罠だ!』とならないように警戒しておくべきですよ。カートゥーンの世界なら笑えますが、現実世界の『しまった、罠だ!』は笑えませんから。死ぬまでに一度は言ってみたい台詞ではありますけどね。」


恐ろしいことを考えるじゃないか。顔を引きつらせている俺を目にして、深雪さんは鼻を鳴らしてから言葉を繋げてくる。それは確かに笑えないな。俺としては死ぬまで口にせずに済ませたい台詞だぞ。


「瑞稀さんなんて嵌めようと思えば楽勝ですからね。ちょろすぎて欠伸が出ますよ。ちょろちょろ村のちょろちょろ人間です。……とにかく気を付けて、ちょろくない私との連絡を密にしてください。さくどんさんに内緒にするからには、彼女に話が伝わる可能性があるホワイトノーツの面々にも相談できないわけでしょう? 『誰も知らなかった』というのが一番怖い展開ですからね。そんなもの相手の思う壺ですよ。的確な報連相こそが身を守る最善策なんですから、細かく私に連絡すべきです。」


「そこまでちょろくはないつもりですが……はい、頼りにさせてもらいます。」


さすがにそんな展開にはならないと思うけど、深雪さんは割と真面目に危惧しているようだし……ここは賢い友人の忠告に従っておこう。実際問題として『中学生の足にキスする』というのは結構危険な行為なのだから。今更ゾッとしてきたぞ。


まさかあれ以上の要求、されたりしないよな? 不安になりつつ中古車を見ていると、俺の『憧れの車』が並んでいるコーナーが目に入ってきた。叶さんのことを考えていると気分が沈むばかりだし、一度車に逃避させてもらおう。


「いいですね、ジープ。カッコいいです。」


有名な大型のオフロード車に歩み寄りながら呟いた俺に、深雪さんが苦笑して返事をしてくる。最近のはツルッとしたデザインだけど、面構えはジープのそれだな。面影が残っていて何だか安心するぞ。


「男の子ですね、貴方も。『大きなオフロード車』が好きなんですか。」


「まあ、どうしても憧れてしまいますね。深雪さんは惹かれませんか?」


「嫌いじゃありませんし、カッコいいとも思いますが……私はオフロードだと国産車派ですね。むしろオオカワのランスタに惹かれます。」


ジープの区画とは別の方向……ああ、あっちにはランドスターがあるのか。オオカワ自動車の高級大型クロスカントリー車がある方を指して言った深雪さんへと、唸りながら応答を飛ばす。ランドスターシリーズもいいな。甲乙付け難いぞ。


「私もランドスターは好きなんですが、比べてしまうと僅差でジープに軍配が上がりますね。……深雪さんは基本的に国産車派なんですか?」


「そんなことはありませんよ。外車だとアメリカよりもヨーロッパ派ですけどね。……私はBMW党なんです。BMWそのものというか、傘下が好きなだけですが。要するに私はイギリスの車が好みなのかもしれません。」


「BMWの傘下となると、ロールス・ロイスかミニですか?」


ジープの車内を覗き込みながら相槌を打った俺に、隣で同じ行動をしている深雪さんがこっくり首肯してきた。


「タイプは全然違いますが、両方好きですよ。……『ミニミニ大作戦』という映画を知っていますか? 邦題は上手いんだか悪夢なんだか評価に迷いますけど、兎にも角にもミニ・クーパーを扱った面白い作品でして。私が車好きになった切っ掛けはその映画なんです。」


「あー、知っています。面白かったですね、あの映画は。」


「だからまあ、ミニは外車だと断トツで好きですね。そしてロールス・ロイスは瑞稀さんがジープを好いている理由と一緒ですよ。憧れです。必死に働いて金を稼いで、いつか買いたいと思っています。」


「……それはつまり、自分で運転したいってことですか?」


ロールス・ロイスとなると、運転手を雇って後ろに乗るってイメージの車だが……まあ、彼女の場合はそうだよな。深雪さんは苦笑いで肯定を返してくる。


「そうなりますね。運転したくて買うんですから、一人で運転席に乗ることになりそうです。……もしいつの日か買えたら、瑞稀さんも一緒に乗ってください。独り寂しく乗る車ではないという認識は私にだってありますよ。」


「では、乗れる日を楽しみにしておきます。」


「ええ、期待しておいてください。……というか、私の車のことを考えていても仕方がありませんよ。今日は瑞稀さんの車を探しに来たんですから。希望はどの車種なんですか?」


「狙っているのはまあ、オオカワかスバルのセダンかSUVですね。……けど、段々ランドスターも良く思えてきました。例えばこの辺なら軽めのローンで手が届きそうです。」


ランドスターはやっぱり車内が広いな。クリエイターの送り迎えにも使うことを考慮すると、こっちもありかもしれないぞ。ジープは新しめの物が多かったけど、ランドスターは五年落ちとか十年落ちの安めの中古車が豊富に展示されているようだし、この際選択肢に入れるべきか?


だが、そうするくらいなら時間をかけて古めのジープを探したい気もするし、スバルのインプレッサとかオオカワのイウリアも捨て難いから……迷うな。嬉しい迷いだ。車選びってのはどうしてこんなに楽しいんだろう? わくわくが止まらないぞ。


良さげなランドスターの前に移動して懊悩していると、深雪さんが冷静な指摘を放ってきた。


「ディーゼルエンジンですよ、そのランスタ170は。いいんですか?」


「……判断できませんね。ディーゼルの車には乗ったことがありません。」


「私も乗ったことはありませんが、燃費が良い代わりにメンテが面倒というイメージがあります。高速で長距離をガンガン走る人向けなのかもしれませんね。短距離かつ低速になる街乗りは、ディーゼルだといまいちな予感がしますよ。」


「あー……そうですね、そんなイメージはあります。」


この赤茶色のランドスター、カッコいいんだけどな。十年近く前の古いモデルだけど、相応に安くなっているようだし……うーむ、後ろ髪を引かれるぞ。未練ったらしく内部をチェックしている俺に、深雪さんが少し離れた位置にある別の車両を指差して声をかけてくる。


「あっちのランスタ220はどうですか? ミドルグレードのマニュアルですが、ガソリン車ですよ。中もかなり綺麗ですし、三年落ちにしては価格が……何とまあ、価格が有り得ないほどに安いですね。ディーラーのミスかもしれません。」


そんなに安いのか。訝しげな面持ちでダッシュボードの上に置かれてある車の詳細情報を見た深雪さんは、やがて納得の半笑いを浮かべて肩を竦めてきた。値引きの原因を発見したようだ。


「ミスではありませんでした。走行距離が原因ですね。」


「何万キロだったんですか?」


「二十二万キロです。尋常ならざるドライブ好きか、あるいは長距離移動が多い仕事の人が所有していたようですね。……ただ、事故ってはいなさそうですよ。中のパーツが正常かは保証しかねますが。」


「これは確かに格安ですが……まあ、そうなると値段相応かもしれませんね。」


三年で二十二万キロ? 一年で七万キロ以上乗ったということか? 一体全体どんな使い方をしたらそうなるんだと目を瞬かせている俺へと、深雪さんが呆れ半分、感心半分の顔で応じてきた。日本を車で一周しても一万キロ程度だろうし、一年あたり七周するペースで走らせていたことになるな。


「個人の所有ではなかったのかもしれませんね。一人でやっていたら異常ですよ。一日に二百キロほど走っていたことになります。……あるいは、海外で使われていた車だとか?」


「仮にアメリカとかでも、年間七万キロは相当だと思いますけど……少なくとも北米仕様ではないみたいですね。さすがにおかしすぎる距離ですし、メーターを弄っている可能性もありそうです。」


「しかし、弄る場合は距離を少なくするはずでしょう? わざわざ増やしたところで元のオーナーにも、ディーラーにも得はありませんよ。事実としてこんなに安くなっているんですから。……こうなると『掘り出し物』と見るか、『外れくじ』と見るかで迷ってしまいます。一昔前なら余裕で廃車の走行距離ですが、三年落ちでこの価格は魅力的ですからね。これほど不思議な中古車は初めて見ました。」


「……一つだけ確かなのは、このディーラーが正直な会社だということですね。」


外観は二十二万キロ走ったとは思えない綺麗さだし、走行距離を偽ればもっとずっと高値で販売できてしまうはず。それをやっていない以上、誠実なディーラーであることは間違いなさそうだ。……うわ、また迷いが湧き上がってきたぞ。たった三年前のモデルの高級車がこの値段か。そこがもう魅力でならないな。


ごくりと唾を飲み込んでいる俺に、深雪さんが忠言を寄越してくる。


「冷静になるべきですよ、瑞稀さん。外側は美味しそうに見えますが、中身は腐っているかもしれません。仮に極限まで丁寧に使ったとしても、二十二万キロ走ったら色々と壊れてくるはずです。地球を一周したって四万キロなんですから。……一度ぐるっと見て回りましょう。その上でまだこのランスタに気持ちが残っていたら、戻ってきて真剣に検討してみるのはどうですか?」


「名案ですね、そうしましょう。……深雪さんが一緒で良かったです。こういう時、一人だと冷静な判断が出来ませんから。」


「おや、付き合い甲斐のあることを言ってくれるじゃありませんか。」


クスクス微笑んで離れていく深雪さんに続いて、件の白いランドスター220をもう一度見やってから歩き出す。……けど、結局戻ってくることになりそうだな。何せ俺はピンと来てしまったのだから。他の車を満足いくまで見た後に、まだ売れずに残っていたら担当の人に詳しい状態を尋ねてみよう。


───


そして趣味が合う友人との楽しい車選びから一夜明けた、大雨が降っている月曜日の午後。俺はホワイトノーツの事務所内でスマートフォン越しに夏目さんの声を耳にしながら、これまた電話をしている香月社長と由香利さんの姿を眺めていた。偶然の電話ラッシュだな。ちょっと面白い現象かもしれない。


『──なので、明後日あたりにもう一回百円ショップとスーパーと電気屋さんに行こうと思ってます。小物と調味料だけじゃなくて、電源の延長コードとかも足りてなくって。』


「分かりました。これといった予定はありませんし、私が車を出しましょう。他は大丈夫そうですか?」


『えと、ありがとうございます。今のところそれだけです。冷蔵庫は昨日届きましたし、電子レンジも実家にあった古いやつが動きましたし……あっ、掃除機。掃除機だけは買わないとなんでした。ネットで安いのを調べたんですけど、やっぱり実物を見てから買うのが一番なので、ついでに電気屋さんでチェックしてみます。』


「では、電気屋で一緒に確認してみましょうか。……ちなみに、叶さんの様子はどうですか?」


やはり引っ越しをすると、後から足りない物に気付きがちらしい。担当クリエイターがよくある現象に陥っていることに苦笑しつつ、恐る恐る叶さんの動向に関してを問いかけてみれば……夏目さんは何とも嬉しそうな声色で答えてくる。


『すっごく良い子になってくれてます。悪戯は一切しなくなりましたし、それどころか家事とか片付けを手伝ってくれるようになって……昔のお姉ちゃんっ子だった頃の叶が戻ってきた感じで、とってもとっても嬉しいです。』


「……そうですか、それは何よりです。」


『何もかも駒場さんが話してくれたお陰です。本当にありがとうございます。……今日もですね、一緒に料理をする予定なんですよ。学校帰りに材料を買ってくるって言ってくれて。叶ったら、別人かと思うくらいに優しくなりました。』


「なるほど。……まあ、姉妹仲が順調に改善されていっているようで私も嬉しいです。」


聞いた限りでは、叶さんはともすれば過度なほどに『良い子』を演じ切っているようだ。そして夏目さんはこの急激な変化を一切疑わずに歓迎しているらしい。……改めてちょっと変な姉妹だな。真実を知る俺としては複雑な気分になってしまうぞ。


そんな俺の心境を他所に、夏目さんは絶好調の時の声で話を締めてきた。


『えへへ、最高です。……じゃああの、すみませんけど明後日はよろしくお願いします。叶も駒場さんに会いたいって言ってたので、買い物が終わったら家で撮影を手伝ってもらってもいいですか? 何か美味しい物を作りますから、それを三人で食べましょう。』


「……了解しました、楽しみにしておきます。」


『それじゃ、失礼しますね。』


「はい、失礼します。」


応答してから電話を切った後、椅子に背を預けて大きくため息を吐く。……そうか、叶さんは俺に会いたがっているのか。それはつまり、『良い妹代』を請求する気だということだ。今度は一体何を要求されるんだろう?


何にせよ、次こそは状況に流されないようにしなければ。自分を強く持って、叶さんの内心を慎重に探り、その上で良い方向に導くのだ。それがマネージャーとして、友人として、良識ある年長の人間としてすべきことのはず。


明後日の『戦い』に向けての決意を固めたところで、こちらも電話を終えたらしい由香利さんが話しかけてきた。ちなみに香月社長は事務所スペースを歩き回りながら引き続き電話中だ。どうして彼女は電話をする時、ああやって忙しなく動き回るんだろう? 癖なのかな?


「瑞稀先輩、新しいスポンサー契約ゲットです。またアザレアさんが依頼してきてくれました。」


「おー、いいですね。ロータリーチャンネルへの依頼ですか?」


「ええ、豊田さん指名です。冬用のアウトドアグッズを宣伝して欲しいみたいなので、明日すぐ向こうに出向いて詳しい打ち合わせをしてきます。」


「お見事です、由香利さん。豊田さんもきっと喜びますよ。」


由香利さんが言っている『アザレア』というのは、六月頃にホワイトノーツとして初めてのスポンサーになってくれたアウトドア用品の会社だ。そこが再びスポンサー動画の制作依頼をしてきてくれたらしい。しかもクリエイター指定で。……それは要するに、前回の豊田さんの動画を気に入ってくれたということであるはず。でなければ『リピート依頼』はしてこないだろう。


いやはや、嬉しいな。かなり嬉しいぞ。何たって担当クリエイターの努力が認められたわけなのだから。机の下でこっそりガッツポーズをしている俺へと、由香利さんが笑顔で口を開く。


「段々とお仕事の話が入ってくるようになってきましたね。営業担当としてホッとしています。」


「由香利さんが頑張って蒔いた種が、徐々に芽吹き始めている感じですね。夏頃の飛び込み営業の成果が出てきたんじゃないでしょうか?」


「かもしれませんね。とにかく売り込んでさえおけば、後々成果に繋がることもあるみたいです。例のスマホゲームの案件もそういうパターンでしたし、これからも気長に営業先を広げてみます。」


まだまだ金額的には安めの小規模な依頼ばかりだが、豊田さんは九月に二件と今月に一件のガジェット系商品紹介のスポンサー動画を作っているし、夏目さんも先月の中頃に一件を処理している。加えてモノクロシスターズの二人には、新興のゲーム会社からスマートフォン向けソーシャルゲームのスポンサー依頼が入っているのだ。それなりに順調だと主張できるんじゃないだろうか?


由香利さんの営業センスの賜物だなと感心していると、ようやく電話を終えたらしい香月社長が席に戻ってきた。固定電話の子機を置きながらご機嫌の笑みを浮かべているし、こちらも良い電話だったらしい。


「やあやあ、君たち。前言を撤回する必要があるようだよ? 特に駒場君、君は夏にあったフォーラムでのスカウトは失敗だったと主張していたね? 偉大な社長であるこの私が、手応えがあったと言っているのにも拘らずだ。」


「主張というか、事実として音沙汰が無かったじゃないですか。」


「今あったよ。事務所に所属したいんだそうだ。……さあ、謝りたまえ。有能な社長を疑ったことを謝罪したまえよ。」


「それはまた、随分とタイムラグがありましたね。……有能な社長を疑ってすみませんでした。」


二ヶ月半の期間を空けて連絡が来たわけか。奇妙な話だなと首を捻りながら、とりあえずオウム返しに謝罪してみれば、香月社長はふふふんといつも以上に胸を張って返答を……しようとした瞬間、ジャケットの前を開けていた彼女のシャツのボタンが、『ブヅン』という鈍い音と共にあらぬ方向へと吹っ飛んでいく。胸元のボタンが内部からの圧力に敗北したようだ。


「……社長、またボタンが飛びましたよ。威張るからそうなるんです。目とかに入ったら危ないからやめてください。」


「……うるさいぞ、駒場君。仕方がないじゃないか。私の偉大さに耐え切れないボタンが悪いんだよ。風見君、付けてくれ。」


「別にいいですけど、シャツのサイズがおかしいんだと思いますよ? 見直すべきじゃありませんか?」


まあ、香月社長のシャツのボタンが飛ぶのはこれが初めてではない。俺が目撃しただけでも五回目だ。そんなわけでそこまで驚かずにデスクの引き出しから裁縫セットを取り出した由香利さんに、自分の胸元を見下ろしている香月社長が渋い顔で悩みを口にした。……というか、早く隠してくれないかな。社長視点だと自分の胸が邪魔で見えていないようだが、下の方の隙間から黒い下着が覗いているぞ。


「私は背が低いのに胸が大きいから、合う服が中々見つからないんだよ。胸に合わせるとぶかぶかになるし、背丈に合わせると胸がキツすぎる。忌々しい話さ。シャツだったら普通の服より多少マシだが、それでもこういうトラブルが頻繁に起こるんだ。」


「背も胸も平均的な私には縁遠い悩みですね。こっちに来てください、そのまま付けますから。……あと、瑞稀先輩からブラが見えていますよ。」


「なっ……駒場君? 君、何故黙っていたんだい?」


「私から指摘するのは気まずいじゃないですか。すぐ目を逸らしましたよ。……どうぞ、ボタンです。早く付けてもらってください。」


床に落ちたボタンを拾って渡しながら言い訳を述べてみれば、香月社長はジト目で文句を投げてくる。意味不明な文句をだ。


「……ジッと見られるのは恥ずかしいが、かといってすんなり逸らされるのも気に食わないね。私如きの下着は見るに値しないということかい? 失礼しちゃうよ、まったく。」


「私にどうしろと言うんですか。」


無茶苦茶じゃないか。僅かに頬を染めながら移動していった香月社長に反論すると、針に糸を通している由香利さんが冷静な面持ちでポツリと呟いた。


「初心ですね、香月さんは。箱入りすぎますよ。不可抗力でブラを見たくらいで責められる瑞稀先輩が可哀想です。朝希ちゃんとか小夜ちゃんがやるなら年相応で微笑ましいですけど、香月さんの年齢でそれだと何だか哀れになってきます。」


「君、唐突にキツい評価を下してくるじゃないか。……では聞くが、君は見られても気にしないのかい?」


「それは人によりますよ。その辺の知らない人に見られるのはかなり嫌ですけど、瑞稀先輩ならまあ……嫌ってほどではないですね。『あっ、見られちゃったな』程度の感情が胸によぎるだけです。」


「何というはしたない発言なんだ。もっと羞恥心を持ちたまえ、風見君。駒場君は男なんだぞ。」


驚愕の表情で注意する香月社長に対して……うわ、ちょっと怖いな。由香利さんは物凄く深刻な口調で淡々と応じる。社長もビクッとしているぞ。


「本気で心配しているので言いますけど、香月さんは先月二十五歳になったわけですよね? それなのにこんなことでいちいち大騒ぎしているようじゃ、このまま一生独りぼっちですよ? もっと異性に慣れてください。さすがに拗らせすぎです。」


「『拗らせすぎ』とはまた、言ってくれるね。……そんなにヤバいのかい? 私って。」


「ヤバいです。四捨五入すれば三十なんですよ? 三十。実際のところ男性と女性じゃ『二十五歳』の意味合いが全然違うんですからね? 二十歳までは男慣れしているよりも貞淑な方が魅力的ですけど、三十になるとそれが途端に逆転します。この先ずーっと一人で居たくないなら、少し気を付けた方がいいと思いますけど。」


「……はい。」


うーん、リアル。俺も今月末で二十六歳だし、他人事にはしておけないな。色々と気を付けることにしよう。年下の部下からのお説教を受けて、香月社長がいつになくしおらしい態度で素直に頷いたところで……事務所の平均年齢を一気に下げる二人が入室してきた。朝希さんと小夜さんがだ。


「おはようございます!」


「おはようございます。」


「おはようござ……二人とも、びしょ濡れじゃないですか。呼んでくださいよ。」


何とまあ、これでもかというほどに濡れているな。今日は昼前から急に雨が降り出したので、学校に傘を持っていかなかったらしい。そういう時は迎えに行くから呼んで欲しいぞと眉根を寄せつつ、慌てて給湯室に向かって戸棚からタオルを出していると、二人がお揃いのバツが悪そうな顔付きで返事をしてくる。


「走ればいけると思ったんです。学校を出た時はちょっと弱まってたので、小夜ちと相談して駒場さんを呼び出すのも悪いかなってなって──」


「それで地下鉄でこっちに来るまではそんなに濡れなかったんですけど、駅から出たらどしゃ降りになってました。……まあはい、その結果がこれです。タイツまで濡れちゃいましたよ。」


「風邪を引いたら大変ですし、早く拭いて着替えてください。……今度からは呼んでくださいね? 約束ですよ?」


「はーい。……駒場さん、駒場さん。拭いてください。わしゃわしゃーって。」


俺が拭くのか。一つに結んでいた髪を解いてずいと突き出してきた朝希さんの頭を、言われるがままに優しくタオルで拭く。……出会った頃は肩にギリギリ届かない長さのボブだったのだが、今や肩下になっているな。最近は短い尻尾のポニーテールにしていることが多い気がするぞ。


「駒場さん、もっと強く。わっしゃわっしゃしてください。」


「強くですか? ……このくらいですかね?」


「んへへ、そんな感じです。」


気持ち良さそうだな。誰かにこうやって拭いてもらうのが好きなんだろうか? そんな朝希さんの頭を丹念に拭いている俺に、自分の長髪の水滴を拭っている小夜さんが半眼で声を飛ばしてきた。彼女の方は前と変わらずダークグレーのロングヘアだ。毛先の位置が腰のままだし、意図的にあの長さをキープしているらしい。


「はい、甘やかし警報が出ました。たった半月で二十回突破ですね。罰則ですよ。」


「駒場さん、駒場さん。タオルで耳をぐりぐりってしてください。美容室でやるみたいに。……んー、これ好きです。」


「はい、更に甘やかし。二十一回目。」


「顔も、顔もごしごしって。ごしごしってやってください。」


「はい、二十二回目。短時間での常習なので、一回追加でカウントは二十三です。」


見事な双子のマッチポンプだな。朝希さんの指示に従うと、小夜さんから甘やかしを注意されてしまうわけか。……しかし、全力でおねだりしてくる朝希さんを無視することなど到底できない。分かっていても従う他ないぞ。


諦観の思いで朝希さんの顔をごしごしと拭いてやれば、彼女は満足の笑みでお礼を伝えてくる。


「ん、んぅ……ぷぁ。気持ち良かったです! ありがとうございます!」


「上手くできたなら良かったです。このまま服も着替えてしまってください。」


「了解です! ……小夜ち、何その不満顔。拭いてもらいたいなら頼めばいいじゃん。駒場さん、やってくれるよ?」


「ち、違うわよ! さっさと来なさい!」


タオルとスクールバッグを持って撮影部屋へと入っていく小夜さんと朝希さんを見送った後、相変わらず賑やかな二人組だなと苦笑いで自分のデスクに着くと……香月社長と由香利さんが何とも言えない面持ちでこちらを見つめてきた。社長も隣のデスクに戻っているし、ボタンは付け終わったようだ。早業だな。


「……何か?」


「いや、何ってほどではないんだが……君、本当に一人っ子なのかい? そりゃあ今に始まったわけじゃないがね、最近は前にも増して面倒見がいいじゃないか。距離が近付いてきたということなのかな?」


「特に朝希ちゃんが甘えまくっていて超可愛いです。私と香月さんにはやってくれないのに、瑞稀先輩にはべったり甘えてきますよね。羨ましくて堪りません。……これって母性の差なんでしょうか?」


「私は男なんですが。」


せめて父性と言って欲しいぞ。由香利さんの素っ頓狂な発言に突っ込んでみれば、彼女はほうと息を吐いて話を続けてくる。


「包容力がありますよね、瑞稀先輩って。ひどいことしても何だかんだ許してくれそうです。……何発か理不尽に殴った後で謝りながら泣いて縋れば、『いいよ、大丈夫だから』って笑いかけてくれる感じがあります。」


「……それ、典型的なDVの被害者じゃないですか。」


「だから、それっぽいんですよ。例えば今私が思いっきりビンタしても、瑞稀先輩は多分怒りませんよね?」


「いやいやいや、それはまた別の話ですよ。いきなり過ぎて驚きが先行します。私じゃなくても怒るというか、『えぇ……?』ってなるはずです。」


何だその仮定は。状況が混沌としすぎているし、『包容力』とは無関係じゃないか。……由香利さんはたまにこういう不思議な問答を仕掛けてくるな。からかっているわけではなさそうだから、やや独特な思考回路を持っているということなのだろう。


困惑しながら回答した俺に、後輩どのは小首を傾げて会話を継続してきた。続いちゃうのか、この話。


「そうですか? 私なら即殴り返しますけど。グーで。」


「……社長、どっちの反応が一般的ですか?」


「間違いなく駒場君だよ。風見君は『元ヤン』だからね。根が暴力的なのさ。」


そうだったのか。驚いている俺を目にして、由香利さんが少し焦っている顔付きで訂正を送ってくる。『根が暴力的』ってのは結構な表現だな。今の彼女からは全く想像できないぞ。


「違います、瑞稀先輩。違いますからね? 香月さんは『箱入りお嬢様』だから、金髪の女性を全員ヤンキー扱いするんです。偏見ですよ、偏見。大学の入学当初は髪を染めていたってだけで、全然元ヤンじゃありません。」


「『うっす、何すか?』とか言っていたけどね。口調がもうヤンキーだったよ。ちなみに仕草もそうだったぞ。風見君が学食の椅子を足で乱暴に引いているのを見た時、私は『うわぁ、ヤンキー上がりの粗暴な後輩だ』と確信したものさ。」


「プレートを両手で持っていたからでしょう? 確かに行儀が悪い行動ですが、両手が塞がっていたから足を使っただけですよ。……それに、今はしません。絶対に。」


「普通はテーブルの上にプレートを置いて、それから手で椅子を引くけどね。『矯正』が上手くいったようで何よりだ。」


ぼそりと指摘した香月社長に、由香利さんが怖い笑顔で言葉を放つ。空気がピリピリしてきたぞ。誰か助けてくれ。


「……さっきの復讐ですか? 私が『拗らせ女』扱いしたことへの復讐なんですね?」


「復讐? まさか。私は一切気にしていないよ。ただ駒場君に真実を教えたいだけさ。私が拗らせ女なら、君は粗暴な元ヤンだという真実をね。……駒場君、気を付けたまえ。風見君はDVする側の人間だぞ。そして君はされる側の人間だ。ああいう質問をしてくること自体が、風見君の本質を如実に表しているだろう? 相性が良くないからあまり近付かないように。」


「やめてください、香月さん。私はゴリッゴリに尽くすタイプです。仮に、万が一、もし私がヤンキーだったとしても、それとDV云々は関係ないでしょう?」


「君、一年生の頃に『おーっす、元気?』と言いながら友達の背中を蹴っていたじゃないか。しかも倒れたその子を見てケラケラ笑っていたね。天性のサディストだよ、君は。よくもまあ『尽くすタイプ』だなんて主張できるもんだ。」


うーむ、ケラケラ笑っていたのか。十八の頃の由香利さんはやんちゃな人だったようだ。香月社長の暴露を食らって、後輩どのはスーッと目を逸らしながら弁解を口にする。彼女がこういう状態になるのは珍しいな。きちんと根も葉もある話だったらしい。


「……今は違います。」


「どうだかね。人間というのはそうそう変われないものさ。上手く隠せるようになっただけの話だろう?」


「……いいえ、私は尽くすタイプに生まれ変わったんです。高校生までの私は死にましたし、火葬も済んでいます。墓を掘り返さないでください。」


「過去からは逃れられないぞ、風見君。栃木のヤンキー時代の君は未来永劫宇宙の歴史に残り続けるんだ。それを忘れないようにしたまえ。」


完全に攻守が逆転したところで、ふと思い付いた問いを会話に投げ込む。由香利さんの昔の話もちょっと気になるが、ここは今の悩みを優先させてもらおう。彼女なら叶さんの気持ちが理解できるかもしれない。何というか……その、似通った嗜好を持っているようだし。


「あの、由香利さん。誰かに命令して、自分の足にキスさせたいと思ったことはありますか?」


「瑞稀先輩? 今の先輩の中で、私はどういうイメージになっているんですか? ……香月さんの所為ですよ。早く訂正してください。今まで築き上げてきたものが崩壊しているじゃないですか。」


「いや、違うんです。そうじゃありません。何と言えばいいか、参考にしたくて聞いただけですから。」


「……『参考』に? 瑞稀先輩はそういうプレイに興味があるんですか?」


若干引き気味で尋ねてきた由香利さんに、聞いたことを後悔しながら弁明を返す。こういう話題を出すと、やっぱり変な方向に話が転がってしまうな。やめておけば良かったぞ。


「そういうわけではないんです。ただその、どういう思考からその行為に繋がるのかなと疑問に思いまして。」


「……どうしてそれを私に聞くんですか? つまりそれは、私が『足にキスさせるタイプの女』だと思っているってことですよね? 女王様的な。」


「……やめましょうか、この話は。職場に相応しくないようですし。」


「やめる必要はないぞ、駒場君。社長として許可しようじゃないか。……言うんだ、風見君。謎を謎のままにしておいたら駒場君が可哀想だろう? 『専門家』として同僚の心理的な疑問を解消してあげたまえ。」


ここぞとばかりに囃し立てる香月社長のことを、由香利さんはジト目で睨み付けた後……唐突に笑顔になったかと思えば、ぱちんと手を叩いて提案を場に投げた。世にも恐ろしい提案をだ。


「いいですよ、教えてあげても。確かに私は『足にキスさせたい人』の気持ちが少しだけ理解できます。たった三人の社員なんですから、こういう『暴露トーク』で仲良くなるのも良いかもしれませんね。……ただし、私だけが話すのはアンフェアです。香月さんと瑞稀先輩も自分の性癖を暴露してください。」


「仕事に戻るぞ、駒場君。話は終わりだ。やめやめ、もうやめ。」


「実際にやった経験はないので、あくまでも想像になりますけど……足にキスさせようとするのは、相手を支配している感覚が得られるからだと思います。たとえ屈辱的な行為でも、自分の命令なら従う。それが快感なんです。独占欲や支配欲が前に出るか、嗜虐心とか優越感が前に出るかで違ってきそうですけど、私の場合は前者なので誰でもいいってわけではないですね。どちらかと言えば愛情の確認って側面が──」


「こらこら、風見君。何をとち狂っているんだ。やめたまえよ、もう終わりだと言っただろう?」


物凄い早口での説明だったな。顔を引きつらせながら止めた香月社長へと、ほんの少しだけ赤くなっている由香利さんが促しを飛ばす。彼女は『自爆戦法』に打って出たようだ。死なば諸共というわけか。


「次は香月さんですよ。私は自分の性癖を正直に白状しました。だったら二人にも話してもらわないと困ります。」


「……嫌なんだが。どう考えても素面でやる会話じゃないぞ。しかも職場で。」


「もう賽は投げられたんですよ。もはや元通りにはなりませんし、私は二人が白状するまで決して諦めません。だから嫌でもやるんです。どうぞ。」


かなりの圧力がある由香利さんの催促に、香月社長はとんでもなく嫌そうな表情になった後……えぇ、言うのか。斜め下の床を見つめながら、蚊の鳴くような声で呟いた。


「……私は、一晩中ギュッと抱き締められながら耳元で褒め続けてもらいたいよ。それだけだ。」


「なるほど、日々そういう妄想をしているわけですか。初心な香月さんらしい内容です。……じゃあ次、瑞稀先輩。私と香月さんが言ったのに、まさか先輩だけ逃げたり誤魔化したりしませんよね?」


当然ながら言うのは嫌だが、ここで逃げる勇気など俺には無い。大迫力の笑顔でこちらを見てくる由香利さんへと、全てを諦めた気分で自供する。香月社長も『一人だけ助かろうとしたって無駄だぞ』という目線を向けてきているし、白状するしかなさそうだ。どうして俺は『足にキス』の話題を出してしまったんだろう? 本当に後悔しているぞ。


「私は……まああの、黒いタイツを着た女性の脚が綺麗で好きですね。」


「これ、こっちに干してもいい……です、か?」


観念して己の嗜好を暴露した瞬間、撮影部屋からブラウスとロングスカートに着替えた小夜さんが出てきてしまう。さっき穿いていたタイツを手にした状態の小夜さんがだ。……人生でも屈指のバッドタイミングじゃないか。絶望的だぞ。


目を大きく開いて硬直していた小夜さんは、見る見るうちに顔を紅潮させていったかと思えば、バッとタイツを背に隠して口を開いた。俺の言葉はしっかり聞こえていたらしい。悪い夢かと疑うレベルの状況だな。


「なっ、なっ……へん、変態! 駒場さん、いきなり何言ってるんですか!」


「小夜さん、違うんです。会話の流れでこうなったんですよ。言い訳をさせてくだ──」


「でも、はっきり言ってたじゃないですか! タイツを着た私の脚がき、綺麗で好きだって! 私のこと、そういう目で見てたんですね? えっちな……あの、えっちな目で! えっちな目で見てたんでしょう!」


小夜さんの脚とは言っていないぞ。発言の捏造だ。香月社長と由香利さんが『あーあ』という面持ちで事態を見守る中、必死に弁明しようとするが……真っ赤な顔の小夜さんが声を被せてくる。


「小夜さん、落ち着いて話を──」


「落ち着けるわけないじゃないですか! タイツを使い始めた先月からずっと、私の脚を見てこっ、興奮してたんでしょう? こっそり興奮してたんですね? 『タイツバージョン』の私の脚で!」


「ちょっと小夜ち、うるさいよ。……駒場さん、着替え終わりました!」


「ダメよ、朝希! 駒場さんに近付いちゃダメ! あんたも無理やりタイツを穿かされて、それで餌食にされるわよ! タイツフェチの餌食に! きっと食べるんだわ! タイツを! タイツを食べるの!」


そんな頭がおかしいことはしないぞ。どういう警告なんだ。撮影部屋から出てきた長袖のTシャツにハーフパンツ姿の朝希さんは、俺に駆け寄った後で小夜さんの注意を耳にして……きょとんと首を傾げながらストレートに問いかけてきた。


「駒場さん、タイツが好きなんですか?」


「……まあ、はい。ですがあくまで成人女性に限った話であって、中学生は──」


「ほら言った! ほらね? 駒場さんは私の脚が好きなのよ! 『綺麗』って言ってたもの! タイツに包まれた私の太ももを触ったり、撫でたり……色々したいって思ってたんでしょう? そういう妄想をしながら見てたんですね? 私の脚を!」


何故頑なに『私の』と付けるんだ。小夜さんがどうとは一言も言っていないじゃないか。冤罪だぞ。どうにか誤解を解かなければと焦っている俺を他所に、後退しながらわなわな震えている双子の片割れをちらりと見た朝希さんが、にぱっと笑って大きく頷いてくる。


「分かりました! じゃあ私、今度からタイツ穿きます。そしたらそしたら、アリとアブラムシのあれ……『相利共生』になりますよね? 私が駒場さんの匂いを嗅いで、駒場さんが私の脚を触ればいいんです。」


「おや、朝希君は難しい言葉を知っているね。フェティシズムの相利共生ってのは中々斬新なアイディアじゃないか。学校で習ったのかい?」


「はい、理科で習いました。意味、合ってますか?」


「日常会話ではその使い方で問題ないが、しかしテストでは気を付けたまえよ? 厳密な定義としては、異なる生物同士の関係にしか適用されないんだ。ヒト同士だと少し話が変わってくるね。」


いいぞ、そのまま訳の分からない方向に流してくれ。ハチドリと花の話とかをするんだ。香月社長が会話を脱線させ始めたところで、戦慄の顔付きになっている小夜さんが声を上げた。タイツの話題に引き戻そうというつもりらしい。もういいじゃないか。


「あんた、正気? 本気で言ってるの? 駒場さん、タイツフェチなのよ? タイツを穿いて近付いたら、興奮されちゃうんだからね?」


「いいよ、別に。私だけ匂いを嗅がせてもらうのは悪いなって思ってたもん。でもでも、私は最近あんまりスカート穿かないから……ショートパンツにタイツでもいいですか?」


「あの、朝希さん。大丈夫ですから。タイツのことはもう、すっぱり忘れてください。」


「ひょっとして駒場さん、恥ずかしいんですか? 私も匂いフェチだって言われて恥ずかしかったけど、開き直ったら好き放題嗅げるようになりました。駒場さんもそうした方がいいですよ。……ストッキングじゃダメなんですよね? 夏はタイツだと暑そうなので、ストッキングでもいいならその方が助かるんですけど。」


もう勘弁して欲しいぞ。ぐいぐい来るな。俺に背を預ける形で同じ椅子に座ってきた朝希さんへと、徐々に顔の赤さを引かせている小夜さんが制止を放つ。何故だか知らないが、ちょびっとだけ勝ち誇るかのような口調と態度だ。


「やめなさい、朝希。無駄よ。駒場さんは私の脚じゃないと興奮しないの。タイツを着た私の脚が綺麗で好きって言ってたんだから。」


「……小夜さんのとは言っていません。『女性の脚』と言いました。」


「まあ、瑞稀先輩はそう言っていましたね。……んー、ちょっと残念です。私はタイツもレギンスもトレンカも穿かない人間なので、先輩の欲求を叶えてあげられそうにありません。穿くのに苛々するし、ずり下がってくるし、とにかく面倒くさくなっちゃうんですよね。香月さんはどうですか?」


「私も常時パンツスーツだから使わないよ。悪いね、駒場君。この事務所はタイツ率ゼロだ。……社員のメンタルケアは社長の役目だし、今度一度だけ穿いてきてあげようか? 福利厚生の一部だと思って我慢してあげるよ?」


余計なお世話だぞ。ニヤニヤしながらからかってくる二人のことを、抗議の半眼で睨んでいると……俺の膝の間でお尻の位置を調整している朝希さんが言葉を投げる。双子の片割れに対して、心底呆れている感じの声色でだ。


「小夜ち、耳おかしいの? 全然関係ないじゃん。……駒場さん、明日穿いてくるから楽しみにしててください!」


「あのですね、朝希さん。本当に大丈夫ですから。タイツのことは頭から追い出して、好きな服を着てください。」


「我慢しなくていいんですよ? 小夜ちは嫌みたいですけど、私は平気ですから。……それよりそれより、私たち髪染めようと思ってるんです。いいですか?」


小夜さんが無言でぷるぷる震えているのは気になるけど、俺としては早く話題が移って欲しいので……うん、ここは話題転換に乗らせてもらおう。タイツの話なんてもう終わりだ。


「えーっと、髪ですか?」


そんな思いから相槌を打ってやれば、朝希さんは結び直した自分の髪を弄りながら会話を続けてきた。既にホワイトアッシュに染まっている髪をだ。染め直すという意味かな?


「スポンサー動画の撮影に合わせてインナーカラーを入れたいんです。私は暗めの白寄りのグレーを入れて、小夜ちは明るめの黒寄りのグレーを入れようと思ってます。……意味、分かりますか? 私は小夜ちから最初に説明された時、さっぱり分かんなかったんですけど。」


「……つまり、単純にお互いの髪色をインナーに入れるというわけではないんですね?」


「私はそうしたかったんですけど、色で見ると違いがありすぎて微妙でした。だから、えっと……ざっくりした割合で言うと白八黒二の髪の私が白六黒四のインナーカラーを入れて、白二黒八の小夜ちが白四黒六を入れるって意味です。」


「あー、なるほど。理解できました。五段階にした場合の白寄りの二色を朝希さんが使って、黒寄りの二色を小夜さんが使うわけですか。」


要するに、同系統のグレーでグラデーションをつけるってことか。同じグレーなのに双子で一切被らせないのは面白いな。俺の纏めに首肯してきた朝希さんへと、インナーカラーを入れた状態の二人を想像しつつ了承を送る。


「それならモノクロシスターズのイメージに合った変化ですし、お二人がやりたいなら良いんじゃないでしょうか? ……そういえば、夏目さんも髪を染める予定だと言っていましたよ。」


「そうなんですか? じゃあじゃあ、さくどんさんと一緒に美容室に行きたいです! 私、毛先もくしゃくしゃってさせたくて。本当に先っぽの方だけを。そこまで変えちゃうのはやり過ぎな気もするし、インナーカラーだけで充分かもしれないんですけど、もう少しで十五万人になるから良い機会だと思って──」


「タイツ、ここに掛けますね。乾かさないといけないので。」


朝希さんがやや興奮気味に喋っている途中で、小夜さんが俺の席のすぐ背後のブラインドにハンガーを掛けた。……どうしてそこなんだ。ブラインドがくにゃってなっているじゃないか。他にきちんと引っ掛かりそうな場所は沢山あるのに、不自然にも程があるぞ。


「ここに。ここに掛けておきますから。さっき穿いてた私のタイツを。」


「……はい。」


「小夜ちのタイツなんかどうでも良いよ。髪の方が大事でしょ? ……それと私、伸ばしてみようかなって思ってるんです! 小夜ちは長いのにうんざりしてきたみたいだから、何年かかけて少しずつ長さを近付けていって、どこかのタイミングで逆転させたら面白──」


俺の胸に寄り掛かりながら気の長い計画をハイテンションで語る朝希さんの正面に、ジト目の小夜さんがツカツカと移動してきたかと思えば……おおう、いきなりだな。双子の片割れの髪を思いっきり両手で掻き乱し始める。ぐっしゃぐしゃにだ。


「わっ、ちょっ……何すんのさ、小夜ち!」


「あんたは、最近、駒場さんに、甘えすぎなの! 椅子から降りなさい! 失礼でしょうが!」


「だって、駒場さん『もっと甘えてください』って言ってたもん! やめてよ、やーめーて!」


「大体あんた、『ヘアスタイル計画』は私の発案じゃない! スポンサー動画に合わせて試しにインナーカラーを入れてみようって言ったのも、長さを逆転させてみようって言ったのも、パーマをかけるのはどうかって言ったのも私! 全部私! なのに何であんたが話してんのよ!」


怒りつつ俺の椅子から朝希さんを引き摺り降ろした小夜さんは、じろりとこっちに視線を向けた後で……びしりと窓の方を指差して謎の念押しをしてきた。


「駒場さん、私のタイツがあそこに干してありますからね? ちゃんと覚えましたか?」


「……いやあの、小夜さん? それに何の意味が──」


「覚えましたか?」


「……はい、覚えました。」


強めの語気に怯んで頷いた俺に、小夜さんはあらぬ方向を見つめながら依頼を寄越してくる。また顔の赤さが復活しているな。


「私が取り込むのを忘れたら、駒場さんが回収してください。いいですね?」


「……物凄く目立ちますし、忘れないと思いますよ?」


「もし忘れたらの話です。そしたら香月社長でも風見さんでもなく、駒場さんが保管しておいてください。……じゃあ次、髪の話。私はミディアムくらいまで短くしたいので、朝希の髪が伸びるのに合わせて短くしていって──」


「小夜ち!」


うーん、話が進まないな。小夜さんが話し始めたタイミングで、ぐしゃぐしゃにされてヘアゴムが絡まっていた髪を直した朝希さんが彼女に飛び掛かった。香月社長と由香利さんはどちらが勝つかに明日の昼食を賭けているようだし、ここは俺が止めなければならないらしい。最近よくやっているけど、『モノクロシスターズ賭博』はいい加減にやめて欲しいぞ。


「やめなさいよ、バカ朝希! あんたは黙って聞いてればいいの!」


「バカは小夜ちじゃん! 私が説明してたのに何で取るのさ! 意地悪! 折角褒めてもらおうと思ったのに!」


「それはね、私の案だからよ! 説明するのも、褒められるのも、タイツを着るのも私なの! アイディア泥棒はすっこんで……この、すっこんでなさい!」


「いーやーだー!」


まあうん、事務所内の距離は順調に縮まってきているな。でなければさっきの『暴露トーク』は生まれないし、二人もこういう素の喧嘩を見せたりしないだろう。そこだけは間違いなさそうだと苦笑しつつ、姉妹喧嘩への介入の切っ掛けを探すのだった。

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