かなどん
Ⅳ.かなどん ①
「……何か、今初めて実感が湧いてきました。私、引っ越したんですね。」
徐々に冬の足音が大きくなってきた、十月十五日の午前十一時。段ボール箱が並ぶ新居のリビングルームを前にした夏目さんの呟きに、
「嬉しいですか?」
「もちろん嬉しいです。これからは画角が自由自在ですから。……ここ全部を撮影に使えるんですね。わくわくしてきました。」
うーむ、何ともライフストリーマーらしい感想だな。やはり第一にあるのは撮影なのか。希望一杯の様子で部屋の中央に立った夏目さんのことを、マネージャーとして感心しつつ眺めていると……廊下からひょっこり顔を出した
「お姉、そういうのはいいから。早く荷解きしないとでしょ。」
「……ちょっとは感慨に浸らせてよ。叶は嬉しくないの? あんなについて来たがってたのに。」
「めちゃくちゃ嬉しいよ。だからさっさと荷物を片付けて、部屋のレイアウトを整えたいの。……駒場さんも手伝ってください。キッチンの物をお願いします。」
「了解しました、開けていきますね。」
いつも通りの無表情だけど、実はめちゃくちゃ嬉しかったらしい。相変わらず読めない子だな。そんな叶さんの指示に従ってカッターで箱を開きつつ、中の物を確認していく。……つまり、現在の俺は夏目姉妹の引っ越し作業を手伝っているのだ。
さくどんチャンネルの登録者数が先月の中頃に二十万人を突破して、ある程度の収入を得られるようになってきたということで、先日とうとう夏目さんが引っ越しを決意したのである。そして何故妹の叶さんまで一緒に引っ越すのかと言えば、夏目家で繰り広げられた家族会議の結果としてそうなってしまったからだ。
夏目さん的には一人暮らしをしたかったようなのだが、話を聞き付けた叶さんが『おっちょこちょいな姉のお目付け役』に立候補し、両親もその方が安心だと主張したため……最終的には一対三に持ち込まれた夏目さんが折れて、『姉妹二人暮らし』という結論に至ったらしい。
とはいえ代わりに実家への五万円の仕送りが暫くの間免除されたから、十万円の家賃が『実質半額』になったし、叶さんの分の生活費も両親が出してくれるそうなので……まあ、そんなに悪くない結末だと思うぞ。ひょっとしたら彼女の両親は、援助の口実として叶さんを送り込んだのかもしれないな。いくら同じ都内とはいえ、十七歳で一人暮らしとなれば心配もするだろう。
ちなみに新居はオートロックの賃貸マンションで、何と広さは2LDKだ。しかもリフォームしたばかりな上に、アイランド式のキッチンまで付いている。……香月社長の知り合いの不動産屋を頼ったから安くなったのだと思いたいが、俺としては正直事故物件を疑っているぞ。だってこれで家賃十万は幾ら何でも安すぎるじゃないか。
内見の時からずっとその懸念を抱いていたものの、夏目さんは広くてオーブン付きの綺麗なキッチンを見て即決していたし、叶さんも珍しくハイテンションで『ここ、凄くいい』と口にしていたから結局言い出せなかったのだ。……契約した直後の不動産屋のあの顔付きが引っ掛かるな。何だかホッとしていたぞ。契約が取れたからホッとしていたのか、それとも別の理由があったのか。もはや引き返せない今となっては、前者であることを祈るばかりだ。
まあでも、この部屋でこの立地かつ一台分の駐車場有りで家賃十万円。共益費と管理費込みでも月々たったの十一万五千円となれば、仮に事故物件だったとしてもお買い得なのかもしれない。俺なら迷うぞ。かなり迷う。白い壁と淡い茶色のフローリングの落ち着いた内装だし、バストイレ別だし、宅配ボックスもあるし、十階だし、洗面所も広めだったのだから。
どうか心霊現象とかが起こりませんようにと密かに願っていると、黒いスキニージーンズに長袖のTシャツ姿の叶さんが小さめの段ボール箱を寄越してきた。『食器』とマジックで書かれてある箱をだ。……夏目さんもジーンズにパーカーだし、二人はこういうシンプルめな服装が多い気がするな。一ノ瀬家の双子と違って、夏目姉妹は服の好みが共通しているらしい。
「駒場さん、これ。食器です。キッチンの棚に入れてください。」
「分かりました。場所は適当で大丈夫ですか?」
「お姉、食器の場所は? キッチンはお姉の縄張りでしょ?」
俺の質問をそのまま夏目さんにパスした叶さんへと、別の箱を開封していた担当クリエイターどのが慌てて反応する。車に荷物を積み込む時もそうだったけど、叶さんが居ると作業がサクサク進むな。助かるぞ。
「あっ、待ってね。駒場さん、こっちです。この辺の棚に入れてください。……何かすみません、扱き使ってるみたいで。お休みの日なのに。」
「いえいえ、構いませんよ。こういうのもマネージャーの仕事の内ですから。」
「……違うと思いますけどね、私は。マネージャー云々とは無関係で、単に駒場さんがお人好しすぎるだけですよ。」
そうかな? 叶さんがポツリと突っ込んでくるのを耳にしつつ、食器の段ボール箱を……妙に軽いけど、プラスチック製の食器が入っているんだろうか? やけに軽い箱をキッチンスペースに持っていって、夏目さんが備え付けの棚を開くのを横目に開封してみれば──
「……あの、夏目さん。これは恐らく食器の箱ではありませんね。」
箱に詰め込まれているのは、どう見たって色取り取りの女性用下着だ。即座にパタリと閉じて夏目さんに報告すると、彼女はかっくり首を傾げて中身をチェックしてから……少し赤い顔で叶さんに声を飛ばした。
「あれ、何が入ってました? ……か、叶! また変な悪戯したでしょ!」
「したけど?」
「何で堂々と開き直るの! ……もしかして、他にもやった? やってないよね?」
「やったけど?」
無表情で……物件選びで叶さんと接する機会が多かったから、最近違いを判別できるようになってきたのだが、あの無表情は『愉悦の無表情』だな。何となくそういう雰囲気が伝わってくるぞ。姉をからかっている時によく浮かべる表情でけろっと白状した叶さんを見て、夏目さんはぷんすか怒りながら次々と段ボール箱を開け始める。
「どうしてそういうことするの? 一体全体何が楽しくて……駒場さん、何も開けないでくださいね。私が先に確認しますから。」
「……はい。」
「駒場さん、無視して開けてください。折角仕込んだんですから。」
「叶は黙ってて! ……駒場さん、こっちが本物の食器の箱です。持っていってください。」
叶さんが一緒だと、普段はレアな『怒る夏目さん』を頻繁に目撃できるな。それに苦笑しつつ、夏目さんが見つけ出した『本物』をキッチンに運んで中身を棚に移している途中で……うーん、策士。皿やカップの下の方に、一枚の薄ピンクのパンツが紛れ込んでいるのが視界に映った。二段構えだったらしい。
「……あのですね、夏目さん。この箱にも下着が入っています。」
「へっ? ……かーなーえ! 怒るからね! お姉ちゃん、本気で怒るよ!」
「お姉、そう言って本当に怒ったことないよね。だから舐められるんだよ。……あと駒場さん、それは姉のじゃなくて私の下着です。持ってきてください。」
リビングから薄い笑みで手を差し出して要求してくる叶さんへと、困り果てた気分で返答する。ついでに俺もからかおうというわけか。やっぱりこの子は苦手だぞ。
「……こういう物は、他人が触れるべきではないと思うんですが。」
「あれ? ひょっとして恥ずかしいんですか? 駒場さんっていい大人なのに、学校の男子みたいなこと言いますね。触っていいですよ。もし欲しいなら持って帰っても構いません。何に使うのかは知りませんけど。」
「いい加減にしなさい、叶! ……どうしてそんな子になっちゃったの? お姉ちゃん、悲しいよ。」
俺の代わりにパンツを回収しながら注意する夏目さんに、叶さんは口の端を吊り上げて返事を返す。二人纏めて遊ばれているな。相性が悪すぎるぞ。
「お姉と駒場さんが叱らないから悪いんだよ。……ほら、ぶったら? ビンタの一つくらいはすべきじゃない? 駒場さんがやってもいいですよ? こんな小娘に生意気なこと言われて、怒ってますよね?」
「駒場さんも私もそんなことしないよ。……叶、ここに正座しなさい。私にはやってもいいけど、土曜日なのにわざわざ手伝ってくれてる駒場さんに迷惑かけるのは──」
「つまんないね、二人とも。思いっきりビンタすればいいのに。……心配しなくてもそれで『仕掛け』は全部だよ。私は先に自分の部屋の荷物を処理してくるから、お姉たちはリビングをやっておいて。」
夏目さんの説教を無視して彼女からパンツを取り上げた叶さんは、数個の段ボール箱を抱えて廊下へと去っていくが……いやはや、トラブルメーカーだな。叶さんの場合は意図的にやっているのだから、『悪戯っ子』と表現すべきなのかもしれないが。
皿を棚に仕舞う作業を再開しながら苦く笑っていると、巨大なため息を吐いた夏目さんがこちらに謝罪を送ってきた。姉の苦悩が顔に滲んでいるぞ。
「すみません、また巻き込んじゃって。最近はこういう悪戯ばっかりで……私はもう、叶のことが全然分かんないです。」
「俺はまあ、段々と慣れてきたから平気です。……叶さんのあれは、夏目さんに構って欲しくてやっているんだと思いますよ?」
「私に対してだけならいいんですけど、駒場さんにまでやるのはダメですよ。……お父さんにもお母さんにも『良い子』で接してるのに、どうして駒場さんにはああいう態度を取るんでしょう?」
訳が分からないという面持ちで呟きつつ、鍋やフライパンを箱から出している夏目さんだが……根本的には俺をからかっているわけじゃないんだと思うぞ。俺にちょっかいを出した際の夏目さんの反応が目当てなのだろう。二人っきりの時はある程度普通に接してきているし。
「俺に何かすると、夏目さんが強く反応するのが面白いのかもしれませんね。……あえて無関心になってみるのはどうでしょう? 気にしていない風を装うんです。」
推察と共に提案してみれば、夏目さんは渋い顔付きで首を横に振ってくる。ダメなのか。
「すぐ見破られるから無意味です。私、分かり易いみたいで。構うから図に乗るんだと思って、昔暫く無視してたんですけど……むしろ悪戯がエスカレートしていきました。それこそ無視できなくなるくらいに。」
「……そうでしたか。」
「叶との二人暮らし、凄く不安です。今まではお父さんとお母さんが近くに居たから、派手なことはあんまりしてきませんでしたけど……ここでは私と叶だけなので、遠慮せずにやってくるに決まってます。そう思うと本当にストレスですよ。」
ストレスとまで言うのか。俺が思っている以上に参っているらしい。再度深々とため息を吐いた夏目さんへと、ポリポリと首筋を掻きながら口を開く。マネージャーの分際で家庭の問題に深く介入するのは避けたいが、担当がそこまで悩んでいるなら動いてみるべきかな。
「俺からやんわりと言ってみましょうか? そういう立場じゃないことは分かっていますが、間に誰かが入れば改善するかもしれませんし。」
「……お願いできますか?」
おっと、素直に頼んでくるのか。普段の夏目さんなら『そんなの悪いですよ』と固辞している場面だし、ここで迷わず頼んでくることが問題の大きさを物語っているな。
夏目さんのリアクションから事態の深刻さを認識しつつ、彼女に首肯して了承を放つ。
「では、俺から叶さんに話してみましょう。解決できるかは分かりませんが、なるべく真摯に夏目さんが困っていることを伝えてみます。」
「あの、はい。申し訳ないんですけど、よろしくお願いします。最近はもう、叶が怖くて。次は何をしてくるのかって思うと全然落ち着けないんです。おまけに他人の前では『本性』を上手く隠してるので、両親に相談しても真面目に取り合ってくれませんし……こんな状態で二人暮らしなんてしてたら、不眠症とかになっちゃうかもしれません。」
「『怖い』? ……そこまでなんですか。」
「お父さんとお母さんが心配してるみたいだったので、安心させたくて二人暮らしを認めちゃったんですけど、実はかなり嫌だなって思ってました。何故か今年の夏頃からどんどん悪戯が悪化してきてたので。……でも面と向かっては叶に言えないし、早く引っ越して撮影環境を改善したいって気持ちの方が強かったから、ずるずる解決できないままで今日まで来ちゃったんです。」
誰にも言えずに不満を溜め込んでいたらしい。堰を切ったように本音を捲し立ててくる夏目さんに、一言かけてから叶さんの部屋へと向かう。単なる悪戯だと甘く考えていたけど……実際はこれ、姉妹関係的に結構マズい地点まで来ていたようだ。となれば真剣に説得しないといけないな。
「気付けなくてすみませんでした。叶さんと真剣に話し合ってみますから、ここで待っていてください。」
「……情けないこと頼んじゃってすみません。改めて考えるとバカみたいですよね。妹の悪戯を注意できなくて、こんなに気にしてるだなんて。」
「抱える問題は人それぞれですよ。夏目さんが深刻に捉えているなら、俺も真面目に考えます。パートナーなんですからこういう時こそ頼ってください。……それでは、行ってきますね。」
傍から見れば、というやつだな。香月社長がいつだったか言っていた話を思い出すぞ。曰く精神的な問題は客観的にではなく、相対的にでもなく、あくまで当人の主観から判断すべきらしい。周囲や自分がどう捉えるかよりも、問題を抱えている人物がどう思っているかが重要なんだそうだ。
だからまあ、『姉妹の些細な問題』とは考えないようにしよう。大切なのは夏目さんの主観だ。彼女が本心からやめて欲しいと思っているのであれば、きちんと話してやめさせなければ。
しかしこれ、唐突にキツい状況に陥ってしまったな。楽しい引っ越しのはずだったのに、俺が苦手とする『担当の家庭トラブル』に直面してしまったぞ。とはいえ不満が爆発するまで気付けないよりは遥かにマシだと自分を慰めつつ、一度深呼吸をして叶さんの部屋のドアをノックしてみれば……中から応答の声が響いてきた。
「はい。」
「駒場です。少しいいですか?」
「どうぞ。」
端的な許可を受けて入室すると、フローリングの床にぺたんと座って小さめの本棚を組み立てている叶さんが目に入ってくる。ちなみに部屋は六畳くらいの洋室だ。こっちが叶さんの私室になって、リビングと直接繋がっている同じ広さの部屋が夏目さんの私室になるらしい。
あー、胃が痛いぞ。強めに注意すれば当然嫌われるだろうな。しかし夏目さんのためにビシッと言わねばならないのだ。内心で自分に喝を入れつつ、覚悟を決めて会話をスタートさせた。……でも一応、ワンクッションの話題は挟もう。その方が話がスムーズに進むはずだし。
「失礼します。……順調ですか?」
「ついさっき始めたばかりなのに、順調も何もないですよ。……今更ですけど、ベッドは持ってくるべきでした。今度家に戻って分解して、宅配でこっちに送ることにします。」
「軽く片付けをして、昼食を食べた後でもう一往復しましょうか? そこまで距離があるわけではありませんし、今日中に運ぶのも可能ですよ。」
大きな物は無いし、両親は定食屋の仕事があるということで、今回は俺の車を使って三人だけで荷物を運び入れたのだ。結局満載の状態で三往復したけど、所詮軽自動車の積載量での三回だから……まあ、比較的楽な引っ越し作業だったと言えるんじゃないだろうか?
そういった事情も相俟って、もしかするとベッドを運ぶのを遠慮させてしまったのかもしれないな。夏目さんはそもそも寝袋で寝ていたし、叶さんも敷布団で構わないと言っていたのだが……そりゃあ今までベッドで寝ていたんだったら、慣れているそっちの方が良いだろう。俺もベッド派だから気持ちは分かるぞ。
案を提示しながら叶さんの前に正座で腰を下ろすと、彼女は小さく頷いて応じてきた。
「じゃあ、お願いしていいですか? カーテンも私の部屋にあった物をそのまま使えそうですし、ついでに持ってくることにします。そこそこ慎重に考えたつもりだったんですけど、引っ越しっていうのは案外難しいみたいですね。……で、何の用ですか?」
「真面目な話があるんです。……実はですね、夏目さんが叶さんの悪戯に困っているようでして。それをやめて欲しいという話をしに来ました。」
機と見てストレートに切り出してみた俺に……うわ、いきなり不機嫌になったな。叶さんはスッと雰囲気を変えて反応してくる。どうやら想像していたものよりも悪い展開になってしまいそうだ。
「……へぇ? 自分で言う勇気がなくて、駒場さんを頼ったわけですか。つくづく苛々する行動ですね。実の妹が相手なんだから、直接私に言えばいいのに。」
本棚を組み立てる手を止めて冷笑する叶さんへと、なるべく真剣な声色になるように意識して発言を返す。『冷笑する女子中学生』というのは非常に怖いな。迫力満点だぞ。担当のためでなければ逃げ出していたかもしれない。
「夏目さんはそういうことを言える人ではないんです。それは叶さんにも分かるでしょう?」
「ええ、分かりますよ。今のお姉はどこまでも甘っちょろい人間ですからね。そして困って人に縋って、助けてもらわないと生きていけないんです。」
「叶さん、夏目さんは本気で参っているようなんです。私はお二人の仲が悪くなって欲しくありませんし、叶さんも本心ではそう思っているはずでしょう? コミュニケーションの取り方は人それぞれですが、夏目さんが嫌がる行動を続けるのは感心できません。どうか控えてくれませんか? お願いですから。」
誠心誠意頭を下げて頼んでみれば、叶さんは冷たい無表情で返答してきた。小馬鹿にするような語調でだ。
「いいですね、お姉は。みんなに大切にされて、こんな風に助けてもらえるんですから。駒場さん、まるで保護者です。姉のことがそんなに大切なんですか?」
「もちろん大切ですし、叶さんのことも大切にしたいと思っています。だからお二人の関係が壊れるのは──」
「あー、むず痒くなってくるのでそういうのは結構です。……まあ、分かりました。最近やり過ぎてるなって自覚はありましたし、そこまで参ってるなら暫くは大人しくしてあげます。駒場さんが近くに居るとお姉ったら情けなくてみっともない反応をしてくれるので、匙加減を間違えちゃったみたいですね。」
「……暫くではなく、きっぱりやめてはもらえないでしょうか?」
面倒くさそうに肩を竦めた叶さんへと、真っ直ぐ目を見てお願いしてみるが……ダメそうだな。彼女は小さく鼻を鳴らした後、素っ気無い回答を投げてくる。
「嫌です。少し回復したらまた始めます。……駒場さん、何か勘違いしてませんか? 私は姉のことが嫌いなんですからね? 好きだから意地悪しているとか、構って欲しいとかじゃないんです。嫌いだからやってるんですよ。」
「……そうとは思えません。本当に嫌いなのであれば、積極的に関わろうとしないはずです。一緒に住もうとするのもおかしいですよ。」
「だったら勝手にそう思っていればいいじゃないですか。でも実際は単に嫌いなだけですよ。もっともっと姉を苦しめてやるために、二人暮らしをごり押しただけです。父と母が居ないここなら、姉を思う存分虐められますからね。……駒場さんのそういうところ、イラつきます。ひょっとして悪い人間は居ないとかって思ってますか? 目の前に居ますけど。見えてます? 私のこと。」
ずいと顔を近付けて冷ややかに言い放ってきた叶さんは、皮肉げな笑みで言葉を重ねてきた。……それでも俺は『単に嫌いなだけ』だとは思えないぞ。もっと複雑な感情が根底にある気がするのだ。この考えは間違っているんだろうか?
「あ、良いことを思い付きました。姉への悪戯をやめる代わりに、駒場さんが犠牲になってくださいよ。出来ますか? 出来ますよね? 駒場さんは姉と一緒で『良い人』ですもんね?」
「……『犠牲になる』というのは?」
「私の命令、聞いてください。駒場さんが素直に聞いてくれるなら、姉には構わないでいてあげます。つまりストレス発散の対象を、姉から駒場さんに移すわけですね。……ほら私、とんでもない理不尽を突き付けてますよ? どう考えたって悪いのは私なのに、こんなの無茶苦茶です。怒りましたか?」
「……分かりました、それで叶さんの気が済むならそうしてください。」
俺が叶さんの頼みを聞き入れるだけで、姉妹仲の危機が去ってくれるなら万々歳だぞ。根本的には全く解決できていないわけだが、とりあえず悪戯が止まれば表面上だけでも落ち着くはず。今の夏目さんには精神的な休息が必要なようだし、場当たり的にでも対処できるならすべきだろう。
そんな考えから承諾を口にしてやれば、叶さんは……うわぁ、こういう顔もするのか。物凄く悪い笑顔で返事をしてくる。普段の無表情で落ち着いた彼女からは想像できないような、興奮している感じの邪悪な笑みだ。
「いいんですか? 認めちゃうんですか? さすがはお人好しの駒場さんですね。姉のためなら何でもしちゃえるわけですか。……じゃあはい、ここにキスしてください。早く。」
言いながら叶さんは、黒い靴下を脱いだ右足を突き出してきたわけだが……いや、嘘だろう? この子、マジで言っているのか? 足にキスしろと? 想定の数段上の要求に怯んでいると、叶さんはぺろりと唇を舐めて足の裏を俺の膝に押し付けてきた。少しだけ頬を上気させながらだ。
「あれ? 嘘だったんですか? 無理なんですか? それなら姉への悪戯を続けますけど。今までよりもずっとキツいのを延々やり続けますよ?」
「いや……あの、叶さん? 本気でキスしろと言っているんですか? つまりその、足に?」
「本気です。姉妹の問題にずけずけと横から踏み込んでくるなら、その覚悟を見せてくださいよ。足の甲に誓いのキスをしてください。ちゅって。……やってくれたら姉には一切手を出しません。約束は守ります。ほら早く。早くしないと私の気が変わっちゃいますよ? 早くキスしないと。」
ニヤニヤしながら急かしてくる叶さんを前に、何でこんなことになっているのかと混乱しつつ、先程の夏目さんの参りっぷりを思い出して……ええい、やるさ。やってやる。俺がプライドを捨てて訳の分からない行為をすることで、夏目さんの心が休まるならやるべきだ。
自分の内側に居る常識人が『いやお前、本気? 嘘だろ? やめとけよ』と止めてくるのを、『担当のためだ、やれ』と主張しているマネージャーとしての責任感が僅かにだけ上回っていることを感じつつ、決意を固めてごくりと唾を飲み込む。そのまま眼前の小さな足の甲に顔を近付けて、真っ白いそこに一瞬だけ唇を触れさせてみれば……ぷるりと震えた叶さんが、我慢できないとばかりに吐息を漏らした。純度百パーセントの愉悦の表情でだ。
「ぁは、ふふ。……マジでやった。駒場さん、マジでやっちゃうんですね。こういうの、本当に通用しちゃうんだ。ダメ元で言ってみただけなのに。」
「……これで悪戯はやめてくれますね?」
「はい、やめます。だってもっと面白いこと、見つけちゃいましたから。……お姉、どんな顔すると思います? 私が駒場さんを取っちゃったって知ったら、きっと凄い顔しますよ。自分が引っ越し作業してるすぐ隣で、駒場さんが私の足にキスしてたって教えたら? 見たことない顔になると思いませんか?」
「……夏目さんには言わないで欲しいんですが。」
眉根を寄せて呟いた俺へと、叶さんはクスクス笑って応答してくる。表情も、口調も、態度も。何もかもが崩れているな。これがこの子の素の顔なのか? 邪悪すぎるぞ。
「言うわけないでしょう? 言ったらさすがにマジギレされて、その瞬間に全てが終わっちゃいますからね。我慢します。たった一回しか見られない顔なら、きっちり最後まで進めてから見るべきですよ。……あーもう、すっごい快感。お姉のものを取るのって、何でこんなに楽しいんですかね? 最高にぞくぞくしてきます。」
話しながら俺へと手を伸ばしてきた叶さんは、好き勝手に鼻や口を触り始めるが……俺、何をやっているんだろう? 我に返ると意味が分からんぞ。どういう状況なんだ、これは。
「叶さん、やめ──」
「あれ? 口答え? 口答えするんですか? 駒場さんは私に従うって約束のはずですけど。誓いのキスまでしたのに、今更約束破ります?」
「……そういうわけではありません。ただ私は──」
「分からないんですか? 喋るなって言ってるんですよ。黙ってされるがままになっておいてください。……はい、良い子。それでいいんです。」
黙った俺を目にして満足そうに頭をぽんぽんしながら褒めた後、叶さんは何かを確かめるように耳を触ったり、頬をぷにぷに押したり、唇に指を這わせていたかと思えば……唐突にパッと手を離してにんまり笑いかけてきた。
「それじゃあ、今日はここまで。駒場さんが素直でいればお姉には一切手を出しませんし、何なら『姉想いの良い妹』を演じてあげます。……ほら、立って。早くお姉に報告しに行きましょうよ。」
「……分かりました。」
「けど、忘れないでくださいね? 駒場さんが抵抗したり、私の命令を無視したら、即お姉への嫌がらせを再開しますから。」
「……はい。」
まるで奴隷契約じゃないか。立ち上がりつつ沈んだ気分で了承した俺へと、叶さんは何とも楽しそうな声色で語りかけてくる。皮肉なことに、俺が見た彼女史上一番魅力的な笑顔でだ。
「そんな顔しなくても大丈夫ですよ。ちょっとしたお遊びに付き合ってもらうくらいですから。仕事の邪魔をしたり、プライベートで呼び出したりはしません。ただ姉の手伝いに来た時、ほんの少しだけ私ともコミュニケーションを取ってもらうだけです。」
「……なるほど。」
「でも、勇気を出して試してみて良かったです。頭おかしいことやってるかなと心配になったんですけど、まさかこんなに上手くいくとは思いませんでした。お人好しの駒場さんも嬉しいですよね? だってほら、これで姉はストレスから解放されるんですから。……じゃあはい、お姉を喜ばせに行きましょうか。」
「……そうですね。」
考える力を失くして適当な相槌を打ってから、二人で部屋を出てリビングに戻ってみれば……緊張の面持ちで正座をして待っていた夏目さんが、恐る恐るという様子で叶さんに言葉を放つ。
「あっ、叶。……あの、怒ってる?」
「怒ってないよ。……お姉、ごめんね。お姉がそんなに気にしてるとは思わなかったから、ついついやり過ぎちゃったみたい。もうしないから安心して。」
「えっ? ……分かってくれたんだ。」
「これからは良い妹になるから、許してくれる?」
役者すぎるぞ。無表情のままで見事にしゅんとした雰囲気を醸し出している叶さんに、夏目さんが大慌てでこくこく頷く。
「うぁ、許すから。許すからそんなに寂しそうにしないで。……叶、ごめんね。私もう、どうしていいか分かんなくなっちゃって。それで駒場さんにお願いしたの。」
「いいよ、許してあげる。これからは仲良くしようね。」
「うん、ありがとう!」
えぇ、一瞬で立場が逆転しているじゃないか。マジックみたいだな。何故か叶さんが許して、夏目さんが許されて嬉しそうになっている光景を、何とも言えない微妙な心境で見ていると……安心した表情の『お姉ちゃん』が俺にお礼を寄越してきた。
「駒場さん、ありがとうございます。本当に、本当にありがとうございます。これで安心して眠れそうです。」
「いえ、その……気にしないでください。」
「うあー、私……凄くホッとしました。片付け、頑張りましょう! 引っ越し蕎麦を作りたいので、先ずはキッチンですね。天ぷらも載せますから、楽しみにしておいてください。新居初料理はやっぱり引っ越し蕎麦ですよ。」
ああ、これはもう絶対に言い出せないな。真実を伝えた時、夏目さんがどんな顔をするかを想像すると……無理だ、打ち明けられそうにない。そんな俺をちらりと確認して薄く笑った叶さんは、これ見よがしに姉に対して提案を飛ばす。
「お姉、折角だから動画にしたら?」
「……でも、叶は嫌じゃないの? 私が動画撮るって言うと不機嫌になるから、嫌なのかと思ってたんだけど。」
「そんなことないよ。お姉の大事な仕事でしょ? この家の家賃はそこから出るわけだし、一緒に住む私も協力していかないと。」
「か、叶。……うん、撮ろっか。本当はね、撮りたかったの。美味しく作るから、叶も食べてね。」
急に殊勝なことを言い始めた妹に、夏目さんは感動の顔付きで大きく首肯しているが……叶さん、逃げ道を塞ぎにかかっているな。それを理解したところで俺には為す術がないわけだが。というか、夏目さんもちょっとは疑って欲しいぞ。
「それとお姉、髪染めたいんでしょ? この前お母さんと話してたよね?」
「あっ、そう。そうなんです、駒場さん。ちょっとあの、明るい色にしてみたくて。あんまり派手なのはあれなので、落ち着いた茶色っぽい感じにしようと思ってます。引っ越しましたし、心機一転ってことで人生初カラーにチャレンジしたいんですけど……ダメでしょうか?」
「……良いと思いますよ。変化を付けていくのも重要でしょうから。」
「駒場さんが賛成してくれて良かったね、お姉。片付けながら三人でどんな色にするか話し合おっか。私も真剣に考えるから。」
どうやら俺は、厄介な泥沼に嵌ってしまったらしいな。『善き妹』を演じる叶さんと、それに喜んでいる夏目さん。協力して段ボール箱を片付け始めた夏目姉妹のことを眺めつつ、新たなトラブルが這い寄ってきた気配を感じるのだった。
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