Ⅲ.雪丸 ⑦



「よっと。……戻りました。」


うだるような暑さの八月三日の午後。俺は背中でドアを押し開けながら、大型テレビの箱を撮影部屋に運び込んでいた。外は暑かったし、箱は重かったぞ。往復を面倒くさがらずに台車を使えば良かったな。今更すぎるが。


「お帰りなさい、駒場さん! ……おー、おっきいですね。わくわくしてきます。」


編集中だったらしい朝希さんが机から離れて近寄ってくるのに、苦笑いで応答を口にする。左右の下側で短く結んである髪が、今の彼女の気分を表すようにぴょこぴょこ揺れているな。新品の家電の大きな箱となれば、わくわくしてくるのは何となく分かるぞ。


「香月社長が奮発してくれました。五十型です。電気屋の店員に聞いて買ったので大丈夫だと思いますが、一応端子を調べてもらえますか?」


「はい! ……小夜ち、五十インチだって。大画面だよ、大画面!」


「こら、興奮しないの。……結構しましたよね、これ。本当にいいんですか?」


「まあ、元々買おうという話になっていましたからね。特に問題はありませんよ。私はテレビ台を持ってきますから、良ければ出してチェックしてみてください。」


二人に言い残してから事務所を出て、うんざりする気温の駐車場まで下りていってみると……むう、苦戦しているようだな。開いた状態の軽自動車のトランクを前に、渋い顔で突っ立っている香月社長の姿が見えてきた。


「お帰り、駒場君。やっぱり重くて無理だったよ。二人で運ぼう。」


「……じゃあどうして『テレビ台は私が運ぶよ』と自信満々に言ったんですか。」


「実際持ってみたら重かったのさ。……君、ガラガラはどうしたんだい? ガラガラが無いと非力な私は運べないぞ。」


「『ガラガラ』? ……ああ、台車のことですか。二人で運ぶなら必要ありませんよ。大きい方を私が持ちますから、小さい箱と電気屋の袋をお願いします。」


香月家では台車を『ガラガラ』と呼んでいるらしい。独特だな。……つまり、俺と香月社長は昼食の後で電気屋にテレビを買いに行っていたのだ。小夜さんに言ったように元々事務所に置こうと考えていたし、対決企画のゲームを小さなモニターでやるのは味気ないということで、社長がこの機に購入しようと決断したのである。


仕事をするスペースにテレビを置くのには賛否あるんだろうけど、うちは曲がりなりにも映像を取り扱っている会社だし、何よりほぼ毎日通っている朝希さんと小夜さんの良い暇潰しになってくれるはず。単純に『大きめのモニター』としても使えるんだから、一台持っておくのは悪くないように思えるぞ。ギリギリで必要経費の範疇だろう。


思案しながら家具屋に寄って買ったテレビ台を二人で持って、エレベーターを使って三階へと向かう。箱が複数あるということは、それなりに面倒な組み立てが必要だということだ。録画環境のテストも早くしたいし、すぐに取り掛かるとするか。


まあでも、そういう組み立て作業は嫌いではないぞ。ちゃちゃっとやってしまおうと気合を入れつつ事務所のドアを抜けると、エアコンに冷やされた空間に到着した香月社長が声を上げた。至福の表情でだ。


「あー、涼しいね。エアコンの開発者に何故ノーベル賞が与えられていないのかが不思議でならないよ。多くの人間に恩恵を齎している、近代の最も偉大な発明の一つなのに。……ひょっとして、受賞したのかな? 私が知らないだけとか?」


「私に聞かれても困りますよ。誰なのかも、存命なのかも、どの国の人なのかも知りません。」


また変な話が始まったな。そういう話は外出中の由香利さん相手にやって欲しいぞ。首を傾げながら応じてみれば、香月社長は箱と買い物袋を応接用ソファに下ろして肩を竦めてくる。


「何とも可哀想なことだよ。これほど役に立つ機械を発明しても、名前一つ覚えてもらえないのか。いつだって名が残るのは創り出したヤツじゃなく、便乗して金を稼いだヤツなのさ。後世の歴史家はそれを笑うだろうね。」


「……でも、社長だって知らないんでしょう?」


「今から調べるよ。知らないことは罪ではないが、知ろうとしないのは明確な悪行だ。知恵の実を食った存在として行動していこうじゃないか。」


「……それなら知恵の取得は社長に任せて、私はテレビ台を作ることにします。」


自分のデスクに着いてパソコンを起動させている香月社長に一声かけた後、彼女が運んできた荷物も手にして撮影部屋へと歩き出す。大いに正しい発言だとは思うが、全員が全員ソクラテスみたいなことをしていると物事が何一つ進展しないのだ。エアコンの開発者を知る作業は社長に一任して、俺は現実的な労働をすべきだろう。


短大の哲学の授業は面白かったなと思い返しつつ撮影部屋に入室してみれば、テレビの箱を囲んで話し合っている二人が目に入ってきた。ちなみに今日のモノクロシスターズはお揃いのショートパンツ姿だ。朝希さんはデニムのパンツに白いTシャツで、小夜さんはハイウエストの黒いボタンショートパンツに半袖のブラウスを合わせている。朝希さんはいつもこんな感じの服装だけど、小夜さんがスカートじゃないのは珍しいな。


「箱をカッターで分解すべきでしょ。それが合理的な出し方よ。普通に出そうとして『すぽん』ってなって、落としでもしたら大変じゃない。」


「でもでも、箱を傷付けると保証が利かなくなるよ。発泡スチロールで固定されてるはずだから、横にして出すべきだって。……駒場さん、持ちます!」


「ありがとうございます。……テレビを出す前に、テレビ台を作ってしまいましょうか。」


荷物を抱えている俺を見て駆け寄ってきてくれた朝希さんにお礼を送りながら、上部だけが開封されてあるテレビの箱を横目に意見してみると、小夜さんがこっくり頷いて賛成してきた。今出しても邪魔になるだけだもんな。何事も順番が大切なわけか。


「そうですね、手伝います。朝希、開けて説明書を探し当てて。……駒場さん、ドライバーって二本ありましたっけ?」


「事務所に元々あった一本と、お二人が持ってきた一本があるはずです。取ってきますね。」


断ってから事務所スペースに移動して、ジャケットを脱いで椅子にぐでーっと背を預けている香月社長を尻目に二本のドライバーを回収し、撮影部屋に戻って三人で天板やら底板やらキャスターやらを取り出していると……小夜さんが眉間に皺を寄せつつ言葉を飛ばしてくる。朝希さんが見つけた組み立て説明書を捲りながらだ。


「まあまあ複雑ですね。……私はここから作りますから、駒場さんは最初のページから順番に作っていってください。それでこの段階で組み合わせましょう。」


「了解しました。」


「小夜ち、私は? 私は何すればいい?」


「あんたはすぐネジを潰すから部品を渡す係をやりなさい。ドライバー禁止。」


冷静な口調で作業指示を出した小夜さんに、朝希さんがムッとしながら反論を投げた。となれば俺は、底板に支えを付ける作業からだな。キャスターはその次に付けるらしい。


「……私だってネジ回しくらい出来るもん。やらせてよ。」


「ダメよ。あんたはいつもいつも馬鹿力でグッと回して、ネジの頭を削りまくってるでしょうが。こういうのは程々でいいの。組み立ては私と駒場さんでやるから、あんたは部品係をやってなさい。」


「けど、ちゃんと締めないと緩んじゃうじゃん。」


「だから、緩まない程度にちょうど良く回すのよ。……ほら、部品係。三番のネジを四本渡しなさい。」


現場監督に就任した小夜さんの指令を受けて、朝希さんは不満げな面持ちになりながらも三番のネジを探し始める。そんな彼女を見て苦笑しつつ、俺もドライバーを手に取って口を開いた。『組み立て作業』は小夜さんが主導権を握る分野なわけか。


「そういえば、前に言っていたゲームの遅延に関しては大丈夫そうですか?」


「パススルー出力がある外付けのキャプチャーボードにしたので、テレビでプレイする分には問題ないはずです。ただしパソコンで録画してる画面にはラグがあるから、音声とかにズレが出てくるかもしれません。そこは編集の段階で合わせないとダメですね。」


「……よく分かりませんね。」


「つまり、噛み砕けば……ゲーム機から出力された映像を、間に繋いだキャプボで分岐させてテレビとパソコンの両方に送るんです。それがパススルー機能ですね。だけど処理の関係でパソコン側だけが一秒くらい遅れた映像になるので、他の遅延無しで録画録音した別素材とのズレが生じちゃうんですよ。ぼんやり見てると気にならないけど、じっくり見ると引っ掛かるかもってレベルの些細なズレが。」


んー、難しいな。パソコンで録画した画面は実際に見ているテレビの画面よりも『遅い』ので、実況者の反応がほんの僅かにだけ『先取り気味』になってしまうということか? ネジを回しながら小夜さんの説明を咀嚼していると、彼女も手を動かしたままで話を続けてくる。


「基本的には、動画で出すならそこまで困らないと思います。編集でどうにでも出来ますから。別素材を組み合わせる時に、ラグの分をズラせばいいだけです。……なのでまあ、ここはむしろ生配信をやってる人たちが悩む部分ですね。リアルタイムでマイクの音声とか別撮り画面も一括処理しないといけないので、解決するのはかなり大変なんじゃないでしょうか? パススルーさせて別画面でやると反応がズレるし、させないでパソコン画面でやると単純にラグでプレイし辛い。どっちにしろ問題になっちゃうわけですよ。」


「処理によるタイムラグが発生するのは何となく理解できるんですが、それでプレイし辛くなるのは何故なんでしょう? 仮に遅く入力しても……あれ? ダメですね、頭がこんがらがってきました。」


「例えば遅延ありの画面内でキャラが被弾しそうになったとして、それを視認した時点で処理上はもう当たっちゃってるんです。そういうのが映像の遅延の問題ですね。……あとはコントローラーの操作にも当然ラグがあるわけなので、キャラが一瞬遅れて動くんですよ。ターン制のRPGなんかだとプレイできないこともなさそうですけど、アクションとかは厳しいと思います。出来るか出来ないか以前に、そんなのやっててイライラするでしょうし。」


「あー、はい。ようやく理解できました。それは確かにイライラしそうですね。」


そっか、ゲーム機本体の処理やコントローラーの操作には遅延なんて無いわけだもんな。そりゃあやり難いだろう。一秒遅れた画面を見て入力して、一秒後に入力が反映されると。それはまあ、中々のストレスになりそうだ。


ゲーム実況の問題をざっくりと認識できたところで、部品係の任を全うしている朝希さんが話に参加してきた。


「でも、パソコンでやるゲームだと簡単ですよ。全部内部で処理してるからズレません。音声とゲーム画面をそのまんまセットで扱えますし、顔画面だってやろうと思えば録画する時点で入れられます。私たちは編集でくっ付けてますけど。」


「わざわざテレビに分岐させるのは遅延無しでプレイするためで、キャプチャーボードを挟むとパソコン側のゲーム画面に遅延が出てしまうのは分かったんですが……そもそも、直接ゲーム機とパソコンを繋ぐのは不可能なんですか?」


「んっと、パソコンもゲーム機も出力する側なんです。それを映像に変換するのがテレビとかモニターだから、パソコンとゲーム本体を繋いでも無意味……なんだよね? 小夜ち。」


「まあ、ふわっと理解だとそうなるわ。……ゲーム機から出力された情報をパソコン用に『翻訳』するための、一番身近で手軽な手段がキャプチャーボードって感じですね。録画するためにはパソコンのシステム上に画面を入力させなきゃなので、翻訳による遅延を避けるのはほぼ不可能です。一応録画機能があるモニターを使ったりとか、荒っぽくテレビ画面をカメラで直撮りするって方法も存在してますけど、そういうのは画質とか費用面で現実的じゃないですし。」


直接画面をカメラで撮るというのは随分と強引な解決方法に思えるが、確かにそれっぽい動画を実況動画の研究中に見たことがあるぞ。みんな苦労しているんだなと唸っていると、小夜さんが追加の解説を寄越してくる。


「パソコンで録画するだけならここで終わりですけど、生配信をやりたいとなると更に面倒になりますよ。さっき言ったラグには目を瞑るとしても、キャプチャーした画面を配信に組み込む作業がありますから。キャプボに付属してるソフトだとそこまで補助してくれないパターンが多いので、配信用のソフトを二重で走らせるなり、設定を弄って配信用ソフトに直で入力するなりしないといけないんです。」


「……『難しい』ということだけは伝わってきます。」


「結局のところ、慣れなんでしょうけどね。外から見ると複雑でも、やってみると案外できたりすることって多いじゃないですか。最近は配信用ソフトがデフォルトで有名どころのキャプボをサポートしてくれるようになってきてますし、数年経てばずっとやり易くなってるはずです。」


「ライフストリームでライブ配信が可能になったら、お二人もやってみたいですか?」


小夜さんが期待半分の口調で話を締めたところで、棚板を嵌め込みながら将来の展望についてを尋ねてみれば、朝希さんが眉根を寄せて答えてきた。


「私はやりたいんですけど、小夜ちがダメって言うんです。」


「あんたはどうせ荒らしコメントですぐヘコむし、上手く捌けないでしょ。もうちょっとそういうのに慣れてからやるべきよ。他の人の配信を見て勉強しておきなさい。……五番のネジを六本頂戴。」


『荒らしコメント』か。まあうん、ライブ配信だと避けては通れない障害だな。そっち方面のノウハウは事務所として全然集められていないし、ライフストリームがライブ配信を取り入れるまでには取得しておきたいぞ。


いやはや、相変わらず課題だけはどんどん見つかるな。新たな『宿題』を発見してしまった俺がため息を吐いているのを他所に、朝希さんが小夜さんにネジを渡しつつ主張を述べる。


「はい、ネジ。……私、出来ると思うよ? 無視すればいいんでしょ?」


「無視は出来るかもしれないけど、気にしちゃって口数が減るでしょ。あんたは心の中が態度に出易いんだから。」


「……小夜ちは平気なの?」


「荒らしコメントなんて、こっちが取り上げなければ存在しないも同じよ。書き込む自由は向こうにあるけど、拾うかどうかを選択するのは配信者なの。主導権はあくまでこっちにあるってこと。」


小さく鼻を鳴らして言う小夜さんへと、朝希さんは悩んでいる顔付きで返事を返す。俺が見たところ、小夜さんも気にするタイプではありそうだけどな。外側の態度がどうであれ、内心ではもやもやしてしまうだろう。


「……私はそんな風に割り切れないよ。嫌なこと言われたら嫌な気分になるし、悲しいもん。」


「だからまだ早いのよ。無意味な文句と意味がある意見を見分けられるようになりなさい。雪丸さんも動画でそう言ってたでしょ。チャンネルのための厳しい意見はきちんと読んで、訳の分かんない『チンパンジーの書き込み』は無視すればいいの。」


「……小夜ちは『雪丸派』だもんね。私は『さくどん派』だから、さくどんさんに聞くよ。」


「べ、別にそういうわけじゃないわよ。私だってさくどんさんを参考にするわ。事務所の先輩なんだから当たり前でしょ。」


何だその派閥は。邪魔なジャケットを脱ぎながら耳にしていた俺に、朝希さんが小夜さんを指差して『告げ口』してくる。


「駒場さん、小夜ちは裏切り者なんです。さくどんチャンネルより先に、雪丸スタジオに登録してました。処罰してください。」


「なーにが処罰よ。それはホワイトノーツに所属する前の話でしょ? 所属前はノーカン。カウントに値しないわ。……大体ね、あんただって両方登録してるじゃないの!」


「私はさくどんチャンネルが先だもん。ライフストリームを見始めた時、一番最初に登録したよ。……白状しなさい、小夜ち! さくどんさんより雪丸さんのファンなんでしょ! どっちかって言ったら、雪丸さんを選ぶんでしょ!」


「違うわよ! さくどんさんに決まってるでしょうが! ……妙な疑いをかけないで欲しいわね。冤罪よ、冤罪。」


若干焦っている様子で弁明している小夜さんだが……いやまあ、別にいいと思うぞ。そこは個人の好みだろうし、同じ事務所だから過度に持ち上げろというのは無茶苦茶だ。俺だって雪丸スタジオの動画を面白いと感じているのだから、小夜さんがファンになってもおかしくはないだろう。


とはいえ朝希さんは許せないようで、ぷんすか怒りながら小夜さんに挑戦を叩き付けた。


「私がさくどんチームになって、絶対勝つからね。裏切り者の小夜ちなんかぺちゃんこにしてあげるよ。」


「ちょっと? チーム分けはじゃんけんで決める約束でしょ?」


「小夜ちはさくどんチームに相応しくありません! ……ね? 駒場さん、ね?」


「あーっと……その前に、『チーム分け』というのは?」


何故か俺が脱いだジャケットを回収しながら『ね?』をしてきた朝希さんに問いかけてみれば、彼女は……どういう行動なんだ、それは。手に入れたジャケットをすんすん嗅ぎつつ回答してくる。さも当然かのように自然にやっているけど、恥ずかしいからやめて欲しいぞ。


「カウントフューチャーは二対二でやることにしたんです。ゲームに慣れてない二人だけだとぐだぐだになっちゃうかもですし、CPUを入れるくらいなら私たちが参加すべきかなって。」


「なるほど、そういうことですか。四人でやれば賑やかになるでしょうし、良いアイディアだと思います。……それより朝希さん、ジャケットを返してください。」


「ダメです、良い匂いなので。」


ダメなのか。真夏だし、汗の臭いとかがしそうで嫌なんだけどな。パッとジャケットを俺から遠ざけた朝希さんへと、小夜さんがやや赤い顔で注意を送った。


「やめなさいよ、朝希。駒場さんに返しなさい。」


「やだよ。この匂い、好きだもん。小夜ちには貸してあげないから。」


「あんたそれ、何か……変態っぽいわよ。匂いフェチのヤバいヤツじゃないの。」


双子の片割れから『匂いフェチのヤバいヤツ』扱いを受けた朝希さんは、俺のジャケットを抱き締めたままでぴたりと停止した後、見る見るうちに頬を紅潮させていって……勢いよく『ブツ』をこっちに返してくる。急に恥ずかしくなったらしい。


「か、返します。……小夜ち、変なこと言わないでよ! 何なのさ、『匂いフェチ』って。意味分かんない! 違うんだからね!」


「ドン引きだわ。私も、駒場さんもドン引きよ。男の人のジャケットの臭いに興奮して──」


「してないもん! 興奮なんてしてない! 小夜ち、ダメでしょ! 何でもかんでもえっちなことに結び付けないでよ!」


「あんた、この……暴力で解決しようったって無駄よ! 満足そうな顔ですんすんしてたじゃない! 変態! 変態朝希!」


一瞬で押さえ込まれながら口で抵抗している小夜さんのことを、朝希さんが容赦なくチョークスリーパーの体勢に持っていく。……俺は大人しくテレビ台を作ろう。こんなのどう突いたって藪蛇だろうし。


「変態じゃないもん! 駒場さんのジャケット、良い匂いがしたから! それだけだよ!」


「いいえ、あんたは駒場さんの汗の臭いに興奮してたのよ! それが匂いフェチの……あっ、待って。しま、絞まる。ギブ、朝希。ギブ。」


「撤回しなさい、よわよわ小夜ち! 私、そんな変な人じゃないんだからね!」


「するから、する。撤回する。」


うーん、香月社長と同レベルで弱いな。タップしながら敗北宣言をした小夜さんは、暫くぜえぜえと荒い息を漏らした後で……えぇ、諦めないのか。ササッと俺を盾にするように背後に回り込んだかと思えば、そこから朝希さんをからかい始めた。完全に悪役の行動だぞ。しかも、すぐやられるタイプの。


「嘘よ、バーカ! 撤回なんかするわけないでしょ! 認めなさい、朝希! あんたは匂いフェチなの! ド変態なの!」


「……じゃあ聞くけどさ、小夜ちこそそうなんじゃないの? 本当は駒場さんのジャケットの匂い、嗅ぎたいんでしょ? 前に小夜ちも良い匂いって言ってたじゃん。」


「な、何でいきなり冷静になるのよ。違うに決まってるじゃない。私は……あれよ、普通よ。ノーマルな人間なの。」


「ふーん。……ならいいよ、私は匂いフェチで。駒場さん、ジャケットちょーだい!」


おお、開き直ったぞ。堂々と俺からジャケットを再度回収した朝希さんは、小夜さんにべーっと舌を出して発言を放つ。


「駒場さんのジャケット、これからずーっと私のだから。……駒場さん、小夜ちには嗅がせちゃダメだよ? 私だけね。」


「……私としては、誰にも嗅がせたくないんですが。」


「それは無理です。」


無理なのか。真顔で即答してきた朝希さんを見て、困惑しつつどうすべきかと迷っていると……小夜さんがごくりと唾を飲み込んで声を上げた。ひくひくと口の端を震わせながらだ。


「あ、あんた変態でいいの? ダメでしょ? ちゃんと否定しなさいよ。今なら許してあげるから。」


「別にいいもん、匂いフェチで。けど小夜ちは違うんだもんね? 匂いフェチじゃないんでしょ?」


「……違うわよ。」


「じゃあ黙っててよ。無関係じゃん。私と駒場さんで取り引きするから、小夜ちは大人しくしてて。」


つんとした態度で俺のジャケットに顔を擦り付けている朝希さんだが……いや、訳の分からない状況に行き着いてしまったな。急展開すぎてついて行けていないぞ。朝希さん、異性の汗の臭いが好きなのか。そういう嗜好は何度か耳に挟んだことがあるし、男女問わず一定数存在しているのかもしれないけど、ここまではっきり公言してしまう人は珍しそうだ。


匂いフェチであることを暴露してしまった朝希さんを見つめて困っている俺に、彼女はちょびっとだけもじもじしながら『取引内容』を告げてくる。


「私が駒場さんの匂いを嗅ぐ代わりに、駒場さんも私に何かしていいです。何がやりたいですか?」


「……特に希望は無いですね。」


「えー、そんなのつまんないです。何でもいいんですよ? して欲しいことを──」


「朝希! ……作るわよ。意味不明な話をしてないで、テレビ台を作らないとでしょ。駒場さんも手を動かしてください。」


朝希さんが喋っている途中で鋭く制止した小夜さんは、そのまま黙々と作業をし始めるが……助かったぞ。何かこう、社会的にそこそこ危ないやり取りだった気がするし。


「はい、やりましょう。」


「でもでも、駒場さんも何か受け取らないと公平じゃないよ。こういうのは最初にしっかり決めて──」


「いいから黙ってやりなさい。……ほら、ドライバー役やっていいから。四隅にこの金具を付けて頂戴。」


「いいの? じゃあやる!」


小夜さんの誘導にまんまと引っかかっている朝希さんだが……まあ、中学生となれば色々なことに興味を持ち始める時期だ。臭いを嗅がれるくらいならセーフだろうから、それで担当クリエイターの気分が向上するのであれば大人しく受け入れておこう。担当から奇妙な要求をされるのはこれが初めてではないぞ。


日に何十回も電話をかけてきたり、いつも持ち歩いているぬいぐるみを『個人』として扱って欲しいと頼まれたり、撮影前と撮影後は毎回ひたすら褒めまくってくれと言われたり。いまいち分からない独特な要求をしてくるタレントというのは、実は結構存在しているのだ。人間の複雑さを実感するな。他人から見れば『何それ?』と思うような行動が、当人にとってはとても大切なことだったりするらしい。


だからまあ、『においを嗅ぎたい』というのもそこまでおかしいとは感じないぞ。人は人が思うほど『まとも』ではないのだ。俺はそういった欲求もサポートできるマネジメントを目指しているし、特殊な要望にも可能な限り譲歩していくつもりでいる。外には見せられない部分を手助けできてこそのマネージャーだろう。


これはもしかしたら、人間を扱う仕事ならではの感覚なのかもしれないな。思案しながらせっせとドライバーを動かしていると、小夜さんが俺に呼びかけを投げてきた。


「駒場さん、それが終わったらこっちのと組み合わせますよ。そしたら最後に扉を付けて完成です。……あと、さっきの朝希に対しての態度は甘やかし法違反ですから。五回分のカウントになるので、そのつもりでいてください。」


「……はい。」


匂いフェチと、甘やかし警察か。何とも独特なコンビだなと内心で苦笑しつつ、分担して作ったテレビ台を組み合わせる。……うん、綺麗に出来たんじゃないかな。組み立て式は面倒だけど、完成の達成感を味わえるのは悪くない点だぞ。


「ん、良い感じですね。扉は私が付けちゃいますから、駒場さんは朝希と二人でテレビを出しておいてください。」


「オーケーです。私が中身を持つので、朝希さんは箱を引っ張ってくれますか?」


「はーい。……今思ったんですけど、これってさくどんさんなら動画を撮ってますよね?」


発泡スチロールに包まれたテレビを何とか引っこ抜いたところで、朝希さんがふと思い至ったという声色で呟くが……言われてみればそうかもしれない。一応最新式の売れ筋テレビだし、夏目さんなら間違いなくカメラを回していたはずだ。


「……そうですね。動画にするかはともかくとして、とりあえず撮るだけ撮ったと思います。」


しまったという顔付きの俺が返答したのに、同じ表情の小夜さんが同意を飛ばしてきた。彼女も失敗したと考えているようだ。


「そういうところが差なんでしょうね。さくどんさんならテレビの開封シーンを撮って、実際の映りとかをレビューしてたはずです。……テレビの性能はゲームに関係する要素ですし、モノクロシスターズとしては撮るべきだったのかもしれません。『事務所のテレビ』っていう先入観があったから、朝希が言うまで思い付きもしませんでした。」


「……箱に入れ直す? それか設置した後からスタートさせるとか?」


「まあ、今回は諦めましょう。……ゲーム実況以外にも手を出していくなら、『すぐ回す、とりあえず回す』っていうのを習慣付けるべきかもね。多分それがライフストリーマーにとって大事な『癖』なのよ。」


参ったと言わんばかりの苦い笑みを浮かべる小夜さんへと、朝希さんと俺が頷きを返す。……夏目さんは雪丸さんの背を見ているようだが、俺やモノクロシスターズはまだ『さくどん』の背を追うので精一杯だぞ。何かあった時にパッとカメラを出すというのは、確かにライフストリーマーにとって重要な癖でありそうだな。


「そういう部分は先達から学んでいきましょう。夏目さんと雪丸さんの対決企画の撮影を間近で見られるのは、私にとってもお二人にとっても良い機会であるはずです。ライフストリーマーとして得られるものがあるかもしれませんよ。」


「はい、盗める部分は盗んでみます。あの二人がゲーム実況をどういう動画にするのか興味がありますし、どっちが編集するにしろ楽しみです。……そのためにも、録画環境はちゃんと作らないとですね。」


「じゃあほら、早くテストしようよ。明後日にはもう撮影なんだし、私たちでテストプレイしておかないとでしょ? ……あっ、そうだ。駒場さんと香月さんも一緒にやってください! カウントフューチャー、みんなでやりましょう! だってだって、四人でやった方がリアルなテストになるはずです!」


「えーっと……では、後で香月社長に聞いてみましょう。接続の時点で問題が発生するかもしれませんし、先ず環境を構築してみてからです。」


俺の手を取って満面の笑みで提案してきた朝希さんに、テレビを発泡スチロールの中から出しつつ応じてみれば、彼女はぴょんと一度跳ねてから電気屋の袋を漁り始めた。朝希さんが居ると雰囲気が明るくなっていいな。撮影当日もそういう役割を担って欲しいぞ。


「じゃあ私、配線やります!」


「ちょっと、変な風に繋がないでよ?」


「大丈夫だよ、出来るもん。キャプボのドライバとソフト、小夜ちのパソコンにもう入れたんだよね?」


「ちょちょ、待ちなさいってば。配線は私がやるから、あんたは駒場さんを手伝いなさい。テレビ側の初期設定とかもあるでしょ。」


まあ、実際に四人でやってみるのは名案かもしれないな。夏目さんと雪丸さんが快適に撮影できるように、出来る限りの入念なチェックをしておかなければ。二人の会話を背にしつつ、脳内で下準備の大切さを再確認するのだった。

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