Ⅲ.雪丸 ⑥



「どうも、駒場さん。」


そうか、叶さんも夏休み中だったな。夏目家の玄関で迎えてくれた叶さんに応答しつつ、俺は靴を脱いでフローリングの廊下に上がっていた。今日は夏期講習が無い日らしい。まだ夏休みに入ったばかりだから、そもそも始まっていないのかもしれないが。塾とは無縁で生きてきた所為でシステムがよく分からないぞ。


「お久し振りです、叶さん。失礼します。……夏休みですか。」


「はい。」


俺の発言に端的な肯定を返してきたジーンズに黒いシャツ姿の叶さんは、続いて上を指差しながら夏目さんに関してを告げてくる。あさわんとさよにゃんが熾烈な戦いを繰り広げたその日の午後、担当クリエイターとの打ち合わせをするために夏目家を訪れているのだ。


「姉は自分の部屋です。インターホンの音は聞こえてないと思います。編集をしないといけないから、駒場さんが来たら出て欲しいと言われました。」


「なるほど。……では、上に行ってみますね。」


「はい。」


必要なことを必要なだけ言ってからキッチンの方へと歩き去る叶さんを見送った後、夏目さんの私室がある二階への階段を上っていく。相変わらず壁を感じるな。もう少し上手く接したいのだが、どうにも切っ掛けが掴めないぞ。


「駒場です。入ってもいいでしょうか?」


そんなことを考えながら到着した部屋のドアをノックしてみると、数秒置いた後で夏目さんが姿を現した。黒いハーフパンツと半袖の白いTシャツという、彼女にしてはラフな格好だ。部屋着なのかな?


「おはようございます、駒場さん。すみません、イヤホンをしててピンポンに気付きませんでした。……えっと、下で話しましょう。私の部屋、エアコンが無くて暑いので。」


「編集作業は大丈夫ですか? 切りが悪いなら待ちますよ。」


「いえいえ、平気です。ちょうど一段落させたところですから。」


話しながら部屋から出てきた夏目さんと一緒に、階段を下りて再び一階に戻る。暑すぎるのはパソコンにも体調にも悪いし、エアコンはそろそろ買った方が良いと思うぞ。今の彼女の収入であればそれくらいは買えなくもないはずだ。また機材を新調したんだろうか?


「エアコン、買わないんですか?」


一階の廊下を進みつつ尋ねてみれば、ポニーテールにしていた髪を解いている夏目さんが返答してきた。困ったように苦笑しながらだ。


「さすがに来年の夏までには引っ越せてるはずなので、今年は我慢して乗り切ることにしました。取り付け費用が勿体無いですし。」


「あー、そういうことですか。」


引っ越しを視野に入れた選択だったらしい。確かに今から一年後の夏目さんは、一人暮らしが余裕で可能な収入になっている……はずだ。というか、そうなってもらわないと困るぞ。国内二位の個人チャンネルがそれすら出来ないような状況だと、マネジメント業をやっているホワイトノーツはどうなってしまうんだという話だし。


リビング……じゃなくて、『茶の間』と呼ぶべきかな? とにかく広めの和室の座布団に腰を下ろしながら相槌を打った俺に、夏目さんは立派な座卓を挟んだ向かい側に座って話を続けてくる。夏目家は基本的に洋風なのだが、この部屋だけは畳敷きだな。小さな庭に面するガラス窓の外には縁側も見えているし、正に日本の居間といった雰囲気だぞ。


「まああの、このまま順調に行ければの話ですけどね。まだ半年近く残ってるわけですし、なるべく今年中に引っ越せるように頑張ってみます。……あと、ついさっき雪丸さんからメールが来ました。撮影の日程のこととかも書いてあるので、確認してもらえますか?」


「遂に来ましたか。拝見します。」


夏目さんが差し出してきたスマートフォンを受け取って、映っているメールの文面に目を走らせてみれば……うーむ、丁重な文章だな。雪丸さんは『お手紙』だと丁寧になるタイプらしい。


急に撮影を始めてしまった非礼を詫びて、対決動画の提案を受け入れてくれたことに感謝し、雪丸さん側のスケジュールの都合を伝えた上で、一緒に撮影できるのを楽しみにしていますという形で締めてあるぞ。大胆不敵だった彼女が書いたメールとは思えない内容と文体だな。本当に底が知れない人だ。


雪丸さんの多面性に感心しつつ、『添付してある動画のチェックをお願いします』というのはどういう意味なのかと首を傾げていると、夏目さんがその答えを教えてくれた。


「土曜日に撮った動画が添付されてありました。たった二日しか経ってないのに、もうカットして編集してあるやつが。後で駒場さんにも転送しますね。」


「……一応、上げる前に確認させてはくれるんですね。」


正直、勝手に上げられると思っていたんだけどな。ちゃんと『出演者チェック』をさせてくれるのか。つくづく分からん人だと眉根を寄せている俺に、夏目さんがしょんぼりした顔で呟きを漏らしてくる。


「まだざっと見ただけなんですけど、雪丸スタジオらしい面白い動画になってました。私があんまり喋れなかったの、編集で上手くフォローしてくれてて。自分を引き立てるっていうよりも、むしろ香月さんや私を立ててくれる編集の仕方だったんです。……どこまでも負けてますね、私。張り合うどころか、情けをかけられてます。」


「……雪丸さんのこと、苦手に思っていますか?」


敵に塩を送ったわけか。夏目さんとしても、ホワイトノーツとしても雪丸さんには上を行かれたな。余裕ある『フェアプレー』に唸りながら問いかけてみれば、夏目さんは俯いた状態で回答してきた。


「……嫌ってはいませんし、ライフストリーマーとして尊敬もしてます。ただ、『得意』ではないかもしれません。駒場さんだから言いますけど、どうしても劣等感を抱いちゃうんです。憧れるほどには遠くないから、嫌でも差が気になっちゃって。」


「劣等感、ですか。……雪丸さん当人が言っていたように、『ライバル』という感じには捉えられませんか?」


「分かりません。そうなりたいと思う気持ちと、今の私じゃ相応しくないって気持ちが混ざってます。……私、ライフストリーム以外で何かに熱中したことがないんです。だからこういう悔しさは初めてで。」


そこで疲れたようにため息を吐いた夏目さんは、情けなさそうな半笑いで弱音を口にする。予想以上に参っているらしい。


「単純な嫉妬なのかもしれません。負けたくないのに、同時に敵いっこないって思っちゃうんです。雪丸さんのことを考えてると、凄くもやもやしてきます。そういう風に理不尽に妬んじゃう自分が嫌ですし、挑む前に諦めちゃってるのも情けないですし、こうしてうじうじ悩んでるのもバカみたいで……ダメダメですよ、私。何でこんなことになってるんでしょうね?」


夏目さんは気付いていないようだが、それこそが正に『ライバル』に対して抱く感情だぞ。憧れるほどには遠くない、少し先を歩いている勝ちたい相手。そのまんまじゃないか。……つまり彼女は初めて熱中したもので、初めて競い合う相手を見つけたのだろう。その感情を上手く処理できなくてマイナスの方向に傾いてしまっているらしい。


となればマネージャーたる俺の役目は、彼女を正常な方向へと向き直させることだな。夏目さんが木製の座卓に額をコツンと当てながら落ち込んでいるのに、どう切り出そうかと迷っていると……部屋にお盆を持った叶さんが入ってきた。お茶を用意してくれたようだ。


「駒場さん、どうぞ。お茶と羊羹です。」


「ありがとうございます、叶さん。いただきます。」


「……ほら、お姉も。」


「……ん。」


座卓に頭を置いたままで力なく応じた夏目さんに、座布団の一つに腰を下ろした叶さんが平坦な声を飛ばす。ミディアムの黒髪を手早く纏めて結びながらだ。


「そんなに落ち込むならやめれば? ライフストリーマー。」


「……やめないよ。私にはこれしかないんだから。」


「じゃあ、駒場さんに甘えてないでしゃんとしなよ。今のお姉、面倒くさいし鬱陶しいんだけど。」


おおう、手厳しいな。点けたテレビのチャンネルを変えながら無表情で言い放った叶さんへと、のろのろと頭を上げた夏目さんが渋い面持ちで文句を投げた。俺に対しては無口な子だけど、姉には結構喋るらしい。……そりゃあそうか。他人と家族では見せる顔が全然違うはずだ。


「叶、ひどいよ。」


「ひどくない。昨日も縁側に座り込んで延々うじうじ悩んでたよね。相談に乗って欲しそうにこっちをちらちら見てきて、無視してたら一方的に雪丸さんがどうこうって話しかけてきて……本当にうんざりなんだけど。そんなことしてて何か変わるの? 変わらないでしょ? 負けたんだったら次に勝つための努力をすれば?」


「……叶のバカ。正論お化け。」


「本気で挑むんだったら、これからもまだまだ負けるよ。負けた時にへらへら笑って仕方ないねって言ってるようじゃ、そこが限界の人間にしかなれないと思うけど。一回負けた程度でダメになるならもうやめたら? 意地でも見返してやるって気持ちになれる人じゃないと、この先やっていけるわけないんだから。」


淡々と喝を入れる叶さんを見て、夏目さんは泣きそうな顔付きで押し黙った後……ムスッとしながら返事を返す。平時の彼女よりも少し子供っぽいな。こっちもこっちで家族への態度ということか。


「やるよ! やるもん! 私、ライフストリーマーだけは諦めない。」


「へぇ? 珍しく拘るんだ。なら、さっさとやりなよ。悩んで、決めて、実行する。それだけなんだから。お姉に残ってるものがライフストリーマーだけなら、どんなに難しくても挑むしかないでしょ? わざわざ来てくれた駒場さん相手に愚痴ってる暇があるの? お姉が最初に動き始めないと駒場さんも動けないよ? 先ずどこが問題なのかを把握して、次に改善のためには何をすればいいのか──」


「分かったってば! もうどっか行ってよ。駒場さんと打ち合わせするから。」


「嫌。私はニュースを見たいの。」


この子、本当に中学生か? やけに達観しているな。素っ気無く突っ撥ねてニュースを見始めた叶さんの横顔を、夏目さんは暫くむむむと睨んでいたかと思えば、やがて俺の方へと促しを寄越してきた。


「駒場さん、叶は無視して打ち合わせをしましょう。どのゲームにするかを決めないと。」


「あーっと……はい、分かりました。実はモノクロシスターズの二人が、既に候補を出してくれていまして──」


そのまま企画内容の説明をしつつ、ちらりと叶さんに目を向ける。俺には出来ないことをやってくれたな。感謝するぞ。こういうやり方で担当に発破をかけるのは、俺が苦手としている分野なのだ。


叶さんの発言は家族相手にしたってかなり強めのものだったから、そういうやり取りに耐性がない俺はちょびっとだけヒヤッとしたけど……結果的に夏目さんは前を見始めたわけだし、どうやら良い方向に転んでくれたようだ。これが夏目家の姉妹の形なのかもしれない。モノクロシスターズのそれとは大違いなのが面白いぞ。


しかしまあ、雪丸さんには色々と引っ掻き回されているな。かといって悪い影響ではないあたりが何とも判断しかねる部分だ。ホワイトノーツは理念を示せたし、夏目さんは越えるべき壁に出会えたし、モノクロシスターズは名前を広められたから……全体的に見れば、むしろ良い影響を齎してくれていると言えそうじゃないか?


いやはや、参った。物語の道化役のような人だな。急に現れて、戯けて、混乱させて、しかしきちんと場面を進めたり、教訓を与えたりもするわけか。雪丸さんの介入が幸運とは言い切れないが、反面不運とも思えない。戦隊もので途中参加する『敵か、味方か』のキャラクターみたいだ。


ただまあ、悪い人ではなさそう……かな? 善人か悪人かはまだ分からないものの、フェアに動いてくれている印象はあるぞ。そして何よりライフストリーマーとして『動画の出来』を重んじている。土曜日の行動を分析するに、そこは間違いなさそうだ。であればコラボをするに当たって一定の信頼を置いても大丈夫だろう。


「──というわけで雪丸さんの方から指定がないのであれば、カウントフューチャーの対決動画を撮影しようと考えています。」


思考を回しながら説明を終えた俺に、夏目さんは眉間に皺を寄せて返答してきた。ちなみに叶さんは我関せずとニュースを視聴中だ。私室にテレビが無いのかもしれない。あるいは夏目さんの部屋のようにエアコンが無いから、涼しいこっちで見ているのかな?


「はい、了解です。朝希ちゃんと小夜ちゃんが決めてくれたなら、私はそれで問題ありません。雪丸さんには私から連絡しておきます。……二人には迷惑かけちゃいましたね。雪丸さんとの対決企画でカウントフューチャーをやるとなると、コラボ動画ではちょっと使い辛くなっちゃいますし。」


「モノクロシスターズとのコラボ案については改めて話し合いましょう。みんなで考えれば良い代替案が浮かびますよ。……機材の都合上場所は事務所の撮影部屋として、日にちはどうしますか? 朝希さんと小夜さんは、夏休み中であればいつでも大丈夫だと言っていました。ホワイトノーツとしても特に指定はありません。」


「私も大した予定はないので、撮影日は雪丸さんに選んでもらうことにします。……うあー、緊張しますね。どんな顔で会えばいいんでしょう?」


「今度こそ『さくどん』で応対していきましょう。雪丸さんもきっとそれを望んでいるはずです。」


答えてからお茶を一口飲んだ俺へと、夏目さんは決意の表情で頷いてくる。


「……やってみます。雪丸さんを相手にする時だけじゃなく、いつもそれが出来るようにならないとですもんね。人前だと緊張する癖、何とか直していかないと。」


「ゆっくり慣れていきましょう。基本的には『夏目さん』と『さくどん』に大きな差なんて無いんですから、場慣れさえすればスムーズに喋れるようになりますよ。」


「頑張ってみます。……そういえば、スカウトはどうなったんですか? 香月さん、会場でやってましたよね?」


話題を変えてきた夏目さんに、一つ首肯してから応答した。終了直後と合間の休憩時間にやっていたな。キネマリード社の人たちにも声をかけていたみたいだし、香月社長は宣言通りフォーラムを余す所なく利用し尽くしたようだ。


「計三名に声をかけたと言っていました。もちろん所属してくれるかどうかは未知数なので、誰一人として連絡をくれないということも有り得ますが……まあ、社長曰く手応えは感じたらしいですよ。今は連絡を待っているところです。」


「……駒場さん、そんなに担当できるんですか? 万が一全員がオッケーしてきたら、六つのチャンネルを一人で受け持つってことですよね?」


「ちょっと厳しそうなので、オーケーして欲しい反面不安も感じています。……何れにせよ、やれと言われたらやるだけですよ。個々のマネジメントの質は意地でも落としませんから、夏目さんは心配しないでください。」


仮に全員事務所入りしても、現状ならギリギリいけるはずだ。本当にギリギリだけど。……まあうん、無理そうだったら素直に人員の補充を進言しよう。雑な仕事になることだけは許されないのだから、引き際はしっかり見定めなければ。


ただ、六人抱えたところで全然赤字なんだよな。ここはもう数の問題ではなく、マネジメント料の割合の問題でもなく、単純にクリエイターたちの収入が成長途上だからだろう。時代はまだまだ香月社長に追いついてくれないらしい。


黒字の遠さを嘆きながら応じた俺へと、夏目さんがおずおずと声を送ってくる。


「無理はしないでくださいね?」


「ええ、そこは承知しています。マネージャーに負荷がかかりすぎると、担当に皺寄せがいきますからね。もし無理だと思ったら、そうなる前にきちんと社長に意見します。香月社長なら聞き入れてくれるはずですし、私が無理をするという展開にはなりませんよ。」


「そうですか? なら、いいんですけど。」


若干不安げに夏目さんが呟いたタイミングで、羊羹を食べ切って言葉を放った。不安を取り除くべき立場のマネージャーが、担当に心配されているようではダメだな。もっと気を付けなければ。


「それでは、撮影をしましょうか。スイカのゼリーを作るんですよね?」


「あっ、はい。中身は丸ごとゼリーにして、皮を器として使うつもりです。それで種はタピオカで再現しようと思ってて。知ってますか?」


「数年前にほんのり流行ったやつですよね? ミルクティーとかに入れる黒い粒でしょう? 前の仕事をしていた時に接した覚えがあります。」


「そうです、それです。今日駒場さんに撮ってもらいながら作って冷蔵庫で固めて、明日一人で実食のシーンを撮ります。ゼリーは簡単に作れるんですけど、タピオカは普通にやろうとすると沈んじゃうので……段階的に固めて層にして入れるバージョンと、最後に埋め込むバージョンの両方を作ってみますね。層にするのは強度的に心配ですし、念のため二個作るって感じです。一応、タピオカがダメだった時用にチョコチップも買ってあります。」


うん、良いんじゃないかな。費用もそこまでかからないし、スイカゼリーとなれば季節感も出せそうだ。バックアッププランまである夏目さんの企画に、俺が笑顔で賛成しようとしたところで……ニュースを視聴していた叶さんがポツリと報告を口にする。


「お母さん、昼にお客さんにスイカ出してたよ。家にあったからサービスだって。」


「……それ、私のスイカだった? 二玉買ったんだけど。」


「そこまでは知らないけど、自分で買ったスイカなら家に『あった』って言い方はしないんじゃない?」


「……駒場さん、少し待っててください。店の方に行ってきますから。」


一言断った夏目さんは怒っている様子で立ち上がると、素早い歩調で廊下へと消えていくが……うーん、どうも使われちゃったらしい。今の季節ならスイカくらいスーパーにいくらでも売っているはずだし、俺が車でひとっ走りして買ってくるべきかな?


『母親が勝手に使う』という実家ならではの逸話に苦笑している俺に、叶さんがテレビを見つめながら小さな声で話しかけてきた。


「……姉は、随分と熱中してるんですね。」


「ライフストリームにですか? そうですね、真剣に取り組んでいると思います。私からすれば頼もしい限りです。」


「今まで何をやっても中途半端だったのに、いきなりああなられると困ります。……始めた頃はすぐ飽きると思ってたので、それが仕事にまでなったのは予想外です。」


「……叶さんは、お姉さんがライフストリーマーをしているのに反対ですか?」


どちらかと言えばマイナスの感情を読み取って恐る恐る尋ねてみれば、叶さんは一瞬だけ沈黙した後で回答してくる。


「別に反対はしてませんけど、出来るわけがないとは考えていました。父は甘いのでともかくとして、母もそうだったはずです。今の姉は平均以下の人間ですから。」


「……中々厳しい評価ですね。」


「能力が無いわけではないんですけどね。やろうとすれば出来るのに、すぐ譲ったり諦めたりする人になっちゃったんですよ。誰かとぶつかりそうになると愛想笑いで身を引いて、自分を過小評価してやる前から諦め半分で……今の姉のそういうところ、本当に嫌いです。そんなことをしても自分が損するだけなのに。」


正座から所謂『体育座り』に姿勢を変えながら語る叶さんは、ほんの僅かにだけ苛々している雰囲気で続きを話す。『嫌い』か。単純なそれではなく、複雑な感情が込められた『嫌い』に聞こえたな。


「だから、正直驚いているんです。最近の姉は寝ても覚めてもライフストリームのことばかりですから。前よりも更に熱中してる気がします。壁にぶつかった時も食い下がろうとしてますし、生意気にも本気で上を目指してるみたいでした。どうして急にあんなに努力できるようになったのかが、私からすれば不思議でなりません。」


「……好きだからじゃないでしょうか? 夏目さんは全力で打ち込める物事を見つけられたんですよ。叶さんがいつか自分にとってのそれに出会えた時、今のお姉さんの気持ちが分かると思います。」


「駒場さん、学校の先生みたいなことを言いますね。『好きな物事を見つけて、将来の仕事にしましょう』ってやつですか? ……私にはさっぱり理解できません。集会とかでよく先生が話してますけど、単なる綺麗事に聞こえます。」


「まあ、そうかもしれませんね。私も中学生の頃は全く理解できませんでしたから。これといってなりたい職業が無くて、進路希望には公務員と書いていました。」


しっかりとした目標として定めているなら、公務員が夢でも全然悪くはないのだろうが……俺の場合は公務員試験の難易度や種別や職務内容なんて一切考えずに、ただ漠然とした『安定していそう』というイメージから選んでいたっけ。ぽんこつ中学生だったな、俺は。社会を知らないのではなく、知ろうとしていなかった子供だったぞ。


苦く笑っている俺の方を向いた叶さんへと、ポリポリと首筋を掻きながら発言を繋げる。けどまあ、大抵はそんな感じだろう。中学生の時点で明確な『人生設計』を持っている人間なんて、ほんの一握りだけのはずだ。


「高校に上がっても同じでしたよ。テストのために一応勉強するくらいで、特に入りたい大学もなりたい職業も決められず、色々な偶然が重なった結果惰性で短大に進学しました。『念のため短大は出ておこう』という程度の考えでしたね。今思えば周囲より子供だったのかもしれません。」


「……マネージャーになったのも惰性ですか? 前は芸能事務所で働いていたんですよね? 姉がそう言ってました。」


「ええ、情けないことにそこもまた惰性です。短大に入った時点で段々と危機感が募ってきて、奨学金の返済もあるしとにかく就職しようという気持ちから芸能マネージャーになりました。芸能系の短大だったので、そっち方面の就職に比較的強かったんですよ。今の仕事を選んだのはそれだけの理由に過ぎません。」


「……後悔してますか? 中学生とか高校生のうちに、将来の夢を決められなかったことを。」


叶さんの質問に、肩を竦めて返答した。それが後悔していないのだ。


「いいえ、むしろ中学や高校の時点で決められなくて良かったとすら思っています。もしかしたらマネージャーは私の適職ではないのかもしれませんが、天職だとは感じていますから。……私はこの仕事が好きなんです。前の事務所に勤め始めて二年後に、当時担当していたタレントさんから嬉しい言葉をいただきまして。その時ようやく自分の夢に気付けました。つまりですね、私が夢を持てたのは二十二歳の頃なんですよ。」


「間に合うんですね、それでも。」


「まあその、スポーツとかだと遅すぎるかもしれませんし、資格が必須の専門職の場合は大学に入り直す必要が出てくるかもしれませんが……私のように社会に出てから夢を持つというケースは結構あると思いますよ。結局のところ早めに見つけておくのが一番なので、胸を張って推奨できる人生設計ではありませんけど、行き当たりばったりでも出会える時は出会えるみたいです。」


ここまで話しておいて何だが、未来ある中学生に聞かせる内容ではなかったかもしれない。要するにこれは、幸運によって『滑り込みセーフ』になったってパターンだもんな。教師とかなら絶対にしない話だろう。生徒たちの将来を思って、もっと危機感を煽るはずだ。


余計なことを言ったかと心配になっている俺へと、叶さんが小首を傾げて応じてくる。もう顔だけではなく、身体もこちらに向けているな。何度かこの子と接してきて、今初めて興味を持たれている気がするぞ。無表情なのはそのままだが。


「つまり、焦らなくてもいいってことですか?」


「いや、えーっと……中学生の時点で決められるに越したことはないけど、一応巻き返せはするという意味です。私のような『ラッキーヒット』に頼るのはやや危険かもしれませんが、中学で見つからなければ高校があります。そして高校でも見つからなかったら、大学に進んでみればいいんじゃないでしょうか? それでもダメなら社会に出てからですね。」


「……先延ばしですね。」


「まあ、はい。正にその通りだと思いますし、あまり参考にしない方がいいかもしれません。自分でも良くないことを喋っているなと後悔し始めています。」


正直に告白した俺に対して、叶さんは……笑うところを見るのも初だな。薄っすらと笑みを浮かべて返事をしてきた。好意の笑みというか、面白がっているような笑い方だ。捉え方次第では嗜虐的な笑みにも見えてしまうぞ。


「変な人ですね、駒場さんは。やっぱり学校の先生とは似てませんでした。少し情けないあたりが全然違います。」


「あー……そうですね、情けない人生だという自覚はあります。だからまあ、先生方の意見に従っておくのが一番ですよ。」


「でも、情けない駒場さんを知れてちょっと安心しました。みんながみんな目標を持って行動してるわけじゃないんですね。……姉はそれを見つけられたってことですか。」


「好きだから続くんですよ。そうじゃないものをやっていると、どこかで無理が生じるんです。無収入の頃からライフストリームと真剣に向き合っていたお姉さんは、そうそう折れることがないと思います。先にあったのはライフストリームで、それが仕事になっているのは結果……というか過程ですからね。」


夏目さんのような人を、ライフストリーマーにおける『逸材』と呼ぶのかもしれないな。これもまた才能の一つだろう。好きだから興味を持ち、興味があるから熱中し、熱中するから詳しくなり、詳しいから人より上の結果を出せるのだ。労を労と思うのは誰もが同じだけど、嫌々やるか能動的に取り組むかでは全く違う結果になるはず。


日々の編集や撮影もキツいっちゃキツいだろうし、雪丸さんの登場がそうだったように沢山の壁があるのだろうが……それでも手を伸ばしてしまうもの。それが夏目さんにとってのライフストリームなんだと思うぞ。俺にとってはマネージャー業がそうなのだから。


今更ながらにこの職業に出会えた幸運を実感していると、叶さんがテレビに向き直って口を開く。また無表情に戻っているな。


「……『適職ではなく天職』という表現は良かったです。しっくり来ました。自分に向いていることよりも、自分がやりたいことを優先すべきって意味ですよね?」


「あくまで私の考えですけどね。たとえ得意でも、興味を抱けないものは長続きしませんから。『苦手だけど好きだからやってしまう』という対象の方が、最終的には熟達できるはずです。なのでまあ、それが職業になるのがベストなんだと思いますよ。」


「得意なものを職業にして、好きなことを趣味にするのはダメですか?」


「いえいえ、それも全然ありですよ。そこは単純に価値観の違いでしょうね。私の場合は好きなことを職業にする方が、ストレスなく生きていけると判断しているだけです。『好きなればこそ仕事にはしたくない』という考えを持つ人も居るはずですし、自分に合ったやり方を選ぶのが重要なんじゃないでしょうか。」


あとは『好きだけど仕事にはならない』というパターンもあるな。広告システムが出てくる以前の動画投稿が正にそれだ。そういう視点で考えていくと、社会に認められていない『仕事に出来る趣味』はまだまだ多そうだぞ。


けど、ライフストリームが一つの切っ掛けになってくれるかもしれない。動画という形で自らの趣味を職業にするのは可能なはずだ。好きが高じて得た技術を、沢山の人に広めたり楽しんでもらいながら収入を得る。……うーむ、改めて良い仕組みだぞ。


であればマネジメントを担う俺たちは、そういう可能性をしっかりと保護していかなければと気合を入れ直したところで、ちょっぴり怒っている顔付きの夏目さんが居間に帰ってきた。スイカはやはり使われていたらしい。


「お待たせしました、駒場さん。……スイカ、ダメでした。」


「では、私が買いに行ってきますよ。普通のスイカで大丈夫ですか?」


「あの、本当にすみません。私も行くので、運転だけお願いします。部屋で着替えてきますから、もう少しだけ待っててください。」


言いながら再度部屋を出ようとした夏目さんは、ぴたりと立ち止まって叶さんに疑問を投げる。探るような口調でだ。


「……叶、駒場さんに変なこと話してないよね?」


「変なことは話してないけど、深いことは話したよ。駒場さん、思ってたより面白い人だね。」


「……何話したの?」


「お姉には内緒。うじうじ悩んでて鬱陶しかったから教えてあげない。」


叶さんの容赦ない答えを耳にして、夏目さんはちらっと俺の方に視線を動かしたかと思えば……慌てた感じに断ってから廊下へと出ていく。


「す、すぐ戻りますから。これ以上あの、叶とは話さないように気を付けてください。」


「……へぇ? 姉が執着してるの、ライフストリームだけじゃないみたいですね。」


「どういう意味でしょう?」


夏目さんが去った後で呟いた叶さんに問いかけてみると、彼女は僅かにだけ口の端を吊り上げながら応答してくる。姉より赤が強いブラウンの瞳が、怪しげな興味の色に輝いているな。何だか不安になってくるぞ。


「まだ秘密です。……でも私、姉のことが嫌いですから。姉が欲しがるものとか、大事にしてるものを全部横取りしたくなるんですよ。ひょっとするとそれが私の『好きなこと』なのかもしれません。」


「……怖い発言ですね。」


「それでいつも我慢して、『いいよ、叶にあげる』って言うのが姉なんです。私はその時の姉の顔が大っ嫌いで大好きなので……まあ、今回も試してみることにします。作戦、考えないといけませんね。」


冗談、だよな? というか、何を試すんだ? 物騒な計画を聞かされて困惑している俺を尻目に、叶さんは話は終わったとばかりに黙り込んでしまうが……うーん、独特。さっきの会話で少し理解できた気分になっていたものの、またこの子のことがよく分からなくなってしまったな。


やっぱりちょっと苦手かもしれないと思ってしまいつつ、夏目さんが戻ってくるまでの沈黙をひたすらやり過ごすのだった。

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