Ⅲ.雪丸 ⑤
「つまりだね、雪丸君はホワイトノーツ側に発言の機会を与えようとしたんだと思うよ。それが彼女なりの援護の方法だったんじゃないかな。」
フォーラムの日から二日が過ぎた、八月最初の日の午前中。俺はホワイトノーツの事務所で香月社長の話を聞きながら、雪丸スタジオの動画をチェックしていた。……まあ、どれも面白いな。一視聴者として見てもそうだし、作り手側の視点で見るとよく作り込まれていることが伝わってくるぞ。企画ものやチャレンジ系がチャンネル内の六、七割を占めていて、残りにキワモノ系の商品紹介やファッション系の動画があるといった具合だ。
「『発言の機会』ですか。」
書類作成中の風見さんの相槌に、香月社長が苦笑いで首肯を返す。現在の俺たちは一昨日の雪丸さんの『真意』についてを話しているのだ。ちなみにモノクロシスターズの二人も撮影に来ていて、今は撮影部屋でLoDの実況を撮っている。
「事務所への所属を歓迎する人間も居れば、よく思わない者も居るからね。動画のコメント欄やネット上の掲示板に、ちょこちょこそういう意見があったんだよ。『さくどんは金儲けに走った』だの、『事務所の存在は余計だ』だのといった否定的な意見が。……要するに、『嫌儲』ってやつさ。彼らは人が金儲けをするのがお嫌いなようだ。商は詐なりってわけだね。」
「貴穀賤金の思想ですか。そういう人が今なお存在しているのは、日本に未だ朱子学のイデオロギーが根付いている証左なんでしょうね。田沼意次と渋沢栄一が草葉の陰で泣いていそうです。……雪丸さんは、その人たちに反論する場を作ってくれたってことですか?」
「彼女は中々賢い人物のようだから、日本でライフストリームが拡大していくに当たって事務所が必要なことを理解しているんじゃないかな。必須ではないが、選択肢としては存在しているべきなんだ。それを自然な形で伝えるために、反対派の論者を演じてホワイトノーツ側の理念を引き出した……と私は予想しているよ。やけに素直に納得していたしね。本気で主張を押し通したいのであれば、あそこまですんなりとは引き下がらないはずだろう?」
「まあ、そうですね。もっと突ける部分はあったと思います。クリエイターの収入が増えていった時に取り分のバランスがおかしくならないかとか、事務所としてクリエイターの行動をどこまで制限していくつもりなのかとか、市場の独占による圧力とか。そもそも今のホワイトノーツは赤字塗れで健全に機能していませんし、その気になればいくらでも問題を指摘できたはずです。」
にっこり顔で怖いことを言う風見さんへと、香月社長が渋い顔で小さく鼻を鳴らす。今の俺たちは社長の私財で動いているようなものだもんな。徐々に上向いてはきているが、黒字になるのはまだ先の話だ。
「重箱の隅をほじくってくるじゃないか。君が『対戦相手』じゃなくて幸運だったよ。……何にせよ雪丸君の目的は、ホワイトノーツを叩くことではなかったわけだ。そこに関しては一定の自信を持って言い切れるかな。私が出てきたのは予想外だったはずだが。」
「もしかして雪丸さんは、社長がやった役割を夏目さんにやらせたかったんでしょうか?」
ふと思い付いた推理を口にしてみれば、香月社長は肩を竦めて肯定してきた。当初の雪丸さんは『さくどん』を論戦の相手役に据えていたものの、あの時の夏目さんは困惑気味で上手く主張できていなかったから、社長の乱入にこれ幸いと乗っかってターゲットを変えたわけか。夏目さん的にも、ホワイトノーツ的にも、そして雪丸さん的にも危ないところだったらしい。
「ん、そういう予定だったんじゃないかな。夏目君に議論を吹っかけて、動画としての華を出しつつ対決企画に持っていく。土曜日に雪丸君当人が言っていた通り、主目的はそれだったんだと思うよ。そのついでに事務所批判をしてこちらの本音を引き出し、あわよくば日本ライフストリーム界全体の利益も得ようとしたわけさ。」
「恐ろしい人ですね。」
「雪丸君としても夏目君が『さくどん』になり切れないほど動揺してしまったことや、私のカッコいい登場や、対決内容がゲームになったことや、モノクロシスターズの乱入は想定外だったようだが……まあ、見事にリカバリーしてみせたね。結果的には概ね彼女の計画通りになったんじゃないかな? ホワイトノーツはきちんと反論してきたし、対決企画も押し通せたんだから。」
くつくつと喉を鳴らしてそこまで話した香月社長は、ぺちぺちと拍手をしながら纏めてくる。雪丸さんは一つの石で、様々なものを得ようとしたわけか。そういう強かさも社長と似ているな。
「無論こんなものは私の推察に過ぎないわけだが、もしそうだとしたら大したショーマンだよ。……あー、欲しかったね。私が持っている餌では釣れないと分かっていても、目の前を横切られると涎が出るぞ。網か何かで強引に捕獲できないかな?」
「無理でしょうね。雪丸さんは事務所に求めるものが無いはずです。……あの主張が本音であればの話ですけど。」
「あそこは多分本音だよ。彼女の求める面白さは、私たちが目指しているものとは少し異なっているんだろうさ。対軸として認めはすれど、受け容れはしないってところかな。……まあいい、そのうち捕獲してみせるよ。今は大海で大きく育ってもらって、肥え太った頃に改めて狙おうじゃないか。いつかは彼女が求める餌も用意できるようになるさ。私が目指しているのはそういう事務所なんだから。」
香月社長が遠い目で将来の目標を語ったところで、風見さんがかっくり首を傾げて問いを放った。ちょっとズレた問いをだ。
「でも雪丸さん、何歳なんでしょう? 動画で見るより若く見えましたね。十代後半だとは思うんですけど。」
「にしては大人びていませんか? 二十代前半の可能性もありそうです。」
「風見君が正解だよ。十八か十九だね。」
「……何故分かるんですか?」
自信満々の口調で断定した香月社長に疑問を呈してみれば、彼女はふふんと胸を張って答えてくる。
「私は人の年齢を当てるのが得意なんだ。三割で十八歳、七割で十九歳だね。」
「……根拠がいまいちですね。」
「君ね、社長の目利きを信じたまえよ。……というか、気になるなら本人に直接聞けばいいじゃないか。対決企画の時に君も会うわけだろう?」
「そりゃあ会いますが、プライベートなことを尋ねるのは失礼ですよ。雪丸さんはうちのクリエイターじゃないんですから、個人的な質問は避けるべきです。女性に歳を聞くというのがもうダメですし、社長の予想が当たっていて未成年だったら更にマズいじゃないですか。」
俺と雪丸さんはまだ一言も話していないんだぞ。顔を合わせただけだ。もちろん俺の方は動画越しに人柄を知っているけど、向こうからすればほぼ初対面の成人男性であるはず。そんな相手からいきなり『貴女は何歳ですか?』と問われたら普通に怖いだろう。
至極真っ当な返事を飛ばした俺に、香月社長が呆れた面持ちで突っ込んできた。
「前から思っていたんだが、君は年下の……特に未成年の女性を怖がりすぎだぞ。風見君に対してもやけに慎重だし、あまりにも気を使いすぎだよ。歳を聞かれたくらいじゃ誰も怒らないさ。」
「……社長は怒ったじゃないですか。」
「あれは君が年上だの何だのと言ったからだよ。『今何歳ですか?』という聞き方だったら素直に答えていたさ。……風見君、君も言ってやりたまえ。君がお茶を淹れようとする度に、毎回毎回『私がやりますよ』と制止してくるのは鬱陶しいと注意するんだ。」
鬱陶しくはないだろうが。風見さんだけにお茶汲みをさせるのは、男女差別っぽい気がして何となく怖いのだ。俺はそういうデリケートな問題を恐れているだけだぞ。大体風見さんは暑い中営業を頑張っているんだから、お茶を淹れるべきはどう考えても俺だろう。
自分の正しさを確信している俺へと、風見さんが困ったような顔付きで声を寄越してくる。バレッタでお洒落に纏めてある黒髪を触りながらだ。
「んー……鬱陶しくはありませんけど、駒場先輩にはもっと遠慮なく接して欲しいです。女性として扱うんじゃなくて、同僚としての砕けた態度で応対してくれませんか?」
「……ひょっとして、迷惑でしたか?」
「全然迷惑ではありませんよ。丁寧に扱ってくれるのも嬉しいと言えば嬉しいんですけど、ちょっと距離を感じちゃって寂しくなるんです。もう少し寄り掛かってください。……それとも私って、そんなに頼りなさそうに見えますかね?」
「いやいや、そうではないんですが……はい、今後は気を付けます。同僚として風見さんのことを頼りにしていますし、私も仲良くなりたいとは思っているんです。ただその、どうにも慣れていないものですから。」
気遣わなくてもダメで、気遣いすぎてもダメなのか。難しすぎるぞ。異性で年下の後輩というのは、正直どう接すれば正解なのかが分からないのだ。江戸川芸能に居た頃に教育を任された新人は全員同性だったし、当然ながら皆マネージャー志望だったので、仕事を教えるついでに簡単に距離を詰められたのだが……風見さんは営業だもんな。
思い悩みながら内心を打ち明けてみれば、風見さんは顎に人差し指を当てて短く黙考した後で……パッと明るい顔になって謎の提案を送ってきた。
「だったら、いっそのことぐっと縮めてみましょうか。名前で呼び合いましょう。瑞稀先輩って呼びますから、
「……急すぎませんか?」
「迂遠なのは面倒じゃないですか。……呼んだり呼ばれたりするのが嫌ならやめておきますけど。」
「いやまあ、嫌ってわけではないんですが……せめて『由香利さん』にさせてください。『ちゃん』はハードルが高すぎます。」
ちゃんは無理だぞ。もう色々と無理だ。俺の懇願を受けた風見さん……由香利さんは、微笑みながらこっくり頷いてくる。案外強引だな。だから営業職が務まっているのかもしれない。
「じゃあ『由香利さん』で。……ほら、呼んでみてください。」
「……由香利さん。」
「わぁ、何だか照れますね。大学の頃に『お疲れ、由香利ちゃん』って気安く呼ばれた時はイラッとしましたけど、瑞稀先輩の場合はむしろ嬉しいかもしれません。やっぱり人の名前は丁寧に呼んだ方が印象が良いみたいです。」
「……そうですか。」
気安く呼ばれてイラッとしたのか。和やかな笑みで語られると少し怖いぞ。これからも由香利さんの名前はなるべく丁寧に呼ぼうと自分を戒めていると、事態を見守っていた香月社長が不満げな表情で口を開いた。
「君たち、社長を放ってイチャつくのはやめたまえよ。仲間外れにされたみたいで非常に悲しいぞ。」
「だけど香月さんは名前で呼ばれるのが嫌なんでしょう? 私が昔『
そうだったのか。大学時代のことらしき逸話を持ち出された香月社長は、ムスッとした顔でその理由を述べ始める。
「……他人から名前で呼ばれるのは何となく嫌なんだよ。『先輩』という言葉も好きじゃないね。小学校時代に仲が良かった一つ上の友人が、中学に入学した途端に『ちゃんと先輩って呼んでね』と注意してきたんだ。当時の私は何だか急に突き放された気分になって、それがトラウマで嫌っているのさ。」
「ありますね、そういうのは。序列を意識するようになるというか何というか、中学高校は上下意識が強い気がします。短大や大学でそれが一度薄れて、社会に出るとまた別の形で復活するイメージです。」
「要するに私は、中学に入ったところで儒教思想に打ちのめされたわけさ。別に思想そのものを嫌ってはいないが、度が過ぎた『尊敬』を居丈高に要求されるのは気に食わん。それで歴史上何度も何度も社会を腐らせてきたというのに、全く学習できていないじゃないか。」
おおっと、批判のスケールが大きくなってきたな。『先輩呼び』の話題から、儒教思想だの社会腐敗だのに繋がるのは予想外だぞ。香月社長の話が段々と脱線してきたところで……ああ、助かった。撮影部屋からモノクロシスターズの二人が出てくる。一試合終えたらしい。グッドタイミングじゃないか。
「でも、小夜ちのミスじゃん。バックドアしてたら勝ててたよ。一人で止められるわけないのに、何で戻っちゃったの?」
「バックドアなんて間に合うわけないでしょうが。戻った方がまだ可能性があると判断したのよ。味方のリスポンまであと少しだったんだから、そう悪い選択じゃなかったはずだわ。」
「負けたけどね。だからつまり、悪い選択だったんだと思うよ。」
「結果論はやめなさい。卑怯よ。そもそも『負け確』だったってことでしょ。ああなった時点で結末は決まってたの。」
負け試合だったのか。口論しながら応接用ソファにぽすんと腰を下ろした二人の方に目をやって、香月社長に断りを投げた。何にせよ、逃げ出す口実にさせてもらおう。
「二人と打ち合わせがありますので、私はちょっと失礼しますね。」
「……駒場君? 今君、社長の面倒な話が始まったから逃げちゃおうとか考えているだろう。礼の心が足りていないぞ。」
「香月さん、一瞬前に何を批判していたのかを忘れていますよ。」
「手のひらを返すのは私の得意技でね。常に都合良く生きろという英才教育を受けてきたんだ。一瞬前の主張などもう忘れたよ。私は今を生きる女なのさ。」
もうそれ、健忘症じゃないか。無茶苦茶なことを由香利さんに喋っている香月社長を背に、デスクを離れてモノクロシスターズの対面のソファに移動してみれば、朝希さんが眉根を寄せながら話しかけてくる。逃げてきたはいいものの、こっちも別に穏やかなわけではないらしい。
「駒場さん、小夜ちが言い訳してきます。叱ってやってください。」
「あんた、しつこいわよ。自分だって変な死に方した癖に。」
「あれは挑戦の結果だもん。前向きな失敗だよ。前向きデッド。」
「……動画には出来なさそうな試合でしたか?」
言い合っている二人に聞いてみると、小夜さんと朝希さんは揃って首を横に振ってきた。するのか。
「します。面白い試合ではありましたから。」
「負けたけど、接戦だったんです。トークも上手くできたから動画にはします。」
「それはまあ、何よりです。」
「それよりそれより、さくどんさんたちの対決企画はいつ撮るんですか? やるゲームのこと、考えないと。」
朝希さんが飛ばしてきた質問に、脳内で思考を回しながら回答する。
「日程に関しては雪丸さんからの連絡待ちですね。昨日夏目さんから一度メールを送ったそうなので、今はその返信を待っている段階です。……ちなみに、タイトルの候補は決まっていますか?」
「小夜ちと話し合って、カウントフューチャーの案をそのまま流用しちゃうのはどうかなって結論になりました。あんまり難しいゲームだとくだくだになるかなって。」
「二人ともゲーム自体に慣れてないみたいなので、咄嗟に操作しなきゃいけない格ゲーやSTG、前提の知識が要るTBSとかFPSなんかは最初に除外しました。それで操作が簡単で、盛り上がれて、なるべく公平に競えるゲームとなると……やっぱりパーティー系が一番ですよ。私たちとのコラボ案についてはまた考え直します。」
「では、夏目さんにはその方向で提案しておきますね。」
うーむ、ほのぼのした対決になってしまいそうだな。俺はまあ、それもありだと思うのだが……夏目さんや雪丸さん的にはどうなんだろう? 手帳にメモしながら思案していると、白いビニール袋を持った由香利さんが俺の隣に腰掛けた。彼女も香月社長の話から避難してきたらしい。
「朝希ちゃん、小夜ちゃん、これ見てください。土曜日の帰りに香月さんと買い物に行って、その時見つけたんです。」
「何ですか? それ。」
由香利さんが差し出した袋を、興味津々の様子で漁った朝希さんが取り出したのは……おー、パーティーグッズか。犬の耳が付いているカチューシャだ。白い垂れ耳のやつ。
「こういう小道具を事務所に置いておけば、撮影の時に使えるかもしれないと思いまして。ちゃんと尻尾もありますよ。」
「朝希、折角だから着けてみなさいよ。」
「……何で私なの?」
「白で、犬だからよ。白はあんたの色だし、私は猫派だもの。」
小夜さんのそこそこ強引な促しを耳にして、朝希さんは若干納得していない面持ちながらも耳と尻尾を身に付け始める。ふさふさの尻尾はクリップで腰に引っ掛ける仕組みなようだ。先っぽだけが黒い毛になっているな。質感が結構リアルだし、よく出来ているじゃないか。
「……どう?」
犬耳と犬尻尾が付いた状態の朝希さんが尋ねてくるのに、俺、由香利さん、小夜さんの順で三者三様の感想を返す。
「似合っていますよ。とても可愛らしいです。」
「凄く可愛いですよ、朝希ちゃん。キュートなわんちゃんです。」
「あさわんね、あさわん。スマホで撮ってあげるから、『あさわんだわん!』って言いなさい。さあほら、言いなさいよ。こんなもんお姉ちゃんにも見せないと勿体無いわ。」
「……小夜ち、何で調子に乗ってんの?」
心底愉快そうな双子の片割れへと、『あさわん』がジト目で冷たい声をかけるが……それを意に介することなく、小夜さんはニヤニヤしながらスマートフォンを構えて囃し立てた。どうやら気に入ったようだ。
「バカっぽくて面白いわ。バカ可愛いわよ、朝希。……はい、キュー。ほらほら、あさわん? どうしちゃったの? ご挨拶は?」
「……あさわんだわん。」
「あらー、元気がないわね。ご飯? ご飯が欲しいの? それともお散歩に行く? お手してみなさい。あさわん、お手。」
「小夜ち、ぶつよ?」
小夜さんが差し出した手をぺちんと叩いた朝希さんは、ちらりと俺を見て何かを思い付いたような顔になったかと思えば……こちらに歩み寄って笑顔で要求を送ってくる。
「駒場さん、駒場さん。お手って。お手って言ってください。」
「私がですか? ……じゃあその、お手。」
「はい、お手! ……よく出来ましたは?」
俺が出した手に右手を置くと、朝希さんは犬耳が付いた自分の頭をずいと突き出してきた。撫でろということかな? しかし、女子中学生の頭を撫でるのは犯罪にならないんだろうか? 怖いぞ。仮に民事の裁判になったらギリギリで負けそうな気がするし。
「えーっと……はい、よく出来ました。」
そんな恐怖を抱えながら、恐る恐るホワイトアッシュのさらさらの髪を撫でてみれば……朝希さんは顔を上げてにぱっと笑ってくる。良かった、俺は弁護士を雇わなくて済みそうだ。
「んへへー、そうでしょ? お利口さんでしょ? ……風見さんも。風見さんもお手ってして。」
「朝希ちゃん、お手です。」
「はい! お手したよ。私、お手した! ちゃんと出来た!」
「あらあら、何て可愛いんでしょう。よく出来ました。」
これ、俺たちは何をやっているんだろう? 朝希さんは由香利さん相手にも同様の流れを繰り返した後、続いて小夜さんの前でおねだりし始めた。
「小夜ちは? 小夜ちもやってよ。」
「な、何よあんた。何でそんなにノリノリなの? 不気味なんだけど。」
「いいから。いいからやってよ。お手って。」
「……じゃあ、お手。」
怪訝そうな小夜さんが差し出した右手に、朝希さんは何故か手ではなく顔を近付けて──
「がうっ!」
「ひっ。……あんた、何で噛むのよ! 信じられないわ。狂犬じゃないの! 狂犬あさわん!」
うーん、見事なトラップだな。俺や由香利さんへのあれは油断させるための『前フリ』だったのか。小夜さんの右手にがぶりと噛み付いた朝希さんは、自分の手を押さえて驚愕している双子の片割れへと声を放つ。ふんすと鼻を鳴らしながらだ。
「ふんだ、小夜ちは意地悪だからやってあげません。反省しなさい。」
「ふざけんじゃないわよ、凶暴犬! 噛むことないでしょ、噛むこと!」
「あさわんは強い犬なんだわん。」
えへんと胸を張った朝希さんが逆襲を遂げたところで、由香利さんが袋から新たな品物を取り出した。黒い猫耳と細い猫尻尾のセットをだ。まだあったのか。こっちは尻尾の先だけが白くなっているな。
「じゃーん、猫もあります。小夜ちゃん、どうですか?」
「えっ。……いえ、私は大丈夫です。キャラじゃないので。」
「ちょっと小夜ち? 私にやらせたのに自分だけやらないのは変じゃん! さよにゃんになりなさい!」
「……嫌。」
猫バージョンがあるとは思っていなかったらしい小夜さんは、目を逸らして拒絶しているが……そんな彼女へと、今度は朝希さんがスマートフォンのカメラを向ける。形勢逆転だな。
「こら、やりなさい! ……『さよにゃんだにゃん』って言うまで諦めないからね。絶対絶対仕返しするから。悪いことばっかりやってるからそうなるんだわん!」
「……やだ、やらない。やりたくない。恥ずかしいもの。」
「風見さん、貸してください。……小夜ち、我儘言ってると無理やり付けるからね。」
「や、やめなさいよ。謝るから。」
由香利さんから猫セットを受け取った朝希さんが迫るのに、小夜さんはひくりと口の端を震わせながらソファの端へと逃げていくが……まあ、そうなるだろうな。身体能力は朝希さんの方が上なのだから。バッと飛び付いたあさわんに対応できずに身動きを封じられた後、無理やり耳と尻尾を付けられていく。
「観念しなさい、さよにゃん!」
「何なのよ、あんたは! 後でほねっこ買ってあげるからやめな……ちょちょちょっ、脱げる! スカート脱げるから! 一回やめて! 本当に!」
「動くから付けられないんでしょ! ここに引っ掛け──」
「あああ、本当に脱げるってば! ちょっとあんた、バカじゃないの? バカ犬! 本気でパンツが……こらこらこら、やめなさいっつの!」
スッと目を背けた俺の視界の外で、暫く双子の攻防が続くが……見ないぞ、俺は。何たって後で気まずくなること間違いなしなのだから。完全に後ろに身体を向けて、見えていませんよという事実を明確に示す。理性ある行動こそが円滑なマネジメントの秘訣なのだ。
「分かったから! 自分で付けるから! だからやめ……あっ、あんた! 何でパンツまで下ろそうとしてんのよ! お尻が見えちゃうでしょうが!」
「小夜ちのスカート、上手く付かないんだもん。クリップが……んぅ、やっぱりダメそう。ショーツに挟むよ。」
「何冷静に言ってんのよ! 駒場さん、見たら怒りますからね! マジギレしますから! お姉ちゃんにも言い付けます!」
「一切見ていません。後ろを向いて目を瞑って、その上で顔を手で覆っています。」
パーフェクトなポーズ……これでダメならもうダメだというポーズで自身の状態を告げると、由香利さんの呆れたような声が耳に届く。裁判になったら彼女に証言を頼もう。俺は見ていなかったという証言を。なった時点で社会的には負けだが。
「瑞稀先輩、そこまでやらなくてもいいと思いますけど。」
「早速私の話から逃げた罰を受けているようだね。冤罪の恐怖に苦しみたまえ、駒場君。私は助けてあげないぞ。」
そっちだって管理責任を追及されるんだからな。デスクの方向からの香月社長の野次を背に受けつつ、真っ暗闇の中でひたすらジッとしていると……小夜さんが振り向く許可を寄越してきた。荒い息を漏らしながらだ。
「……もういいですよ、駒場さん。見てませんよね?」
「見ていません。天地神明に誓います。」
「……いいでしょう、信じてあげます。」
疲れ果てた様子でぜえぜえと息を吐きながら言ってきた『さよにゃん』こと小夜さんに、全然疲れていない『あさわん』こと朝希さんが指示を出す。怖かったぞ。
「ほら、さよにゃんだにゃんは? 言いなさい! 言わないと終わらないよ!」
「……さよにゃんだにゃん。」
「元気ないじゃん、さよにゃん。猫缶欲しいの? カリカリの方が好き? それとも爪研ぎしたいとか? ソファでやってもいいよ。お尻上げて、ばりばりーって。」
「……あんた、覚えてなさいよ。必ず復讐するからね。」
復讐の連鎖だな。由香利さんはどうしてこんな恐ろしい物を買ってきてしまったんだ。尻尾付きの二人を見て満足げにうんうん首肯している彼女に戦慄していると、あさわんがさよにゃんに文句を投げた。
「あれ、語尾は? 語尾はどうしたんだわん?」
「やればやるだけしっぺ返しがくるんだからね。そのことをよく覚えておくんだにゃん。」
「それはこっちの台詞だわん。」
語尾にそぐわぬ殺伐としたやり取りじゃないか。世界観が謎すぎるぞ。……まあでも、確かに動画で使ってみるのは面白いかもしれないな。二人の反応からするに『罰ゲーム』として成立しそうだし、費用対効果は高いと言えそうだ。
しかし……あの袋、まだ何か入っているっぽいぞ。由香利さんの目の前にある『パンドラのビニール袋』に恐怖しつつ、せめて底には希望が残されていることを願うのだった。
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