Ⅱ.モノクロシスターズ ⑦



「いい? 駒場さんの言うことをよく聞くこと。何かをする時は、先ず彼に相談してから行動しなさい。……それと、事務所から家に戻る時は真っ直ぐ帰ってくるように。もし私にも駒場さんにも無断で寄り道したら、その時点でやめさせるからね。」


四日後の土曜日の昼過ぎ。俺はエンジンをかけた状態の自分の軽自動車の横に立って、お姉さんから注意されているモノクロシスターズの二人を眺めていた。……まあ、何とかなったな。これでようやく正式にマネジメントを始められるぞ。


つまり、小夜さんと朝希さんが遂にお姉さんの説得を成功させたわけだ。説得というか、『根負けさせた』という表現の方が正しいようにも思えるが……兎にも角にも事務所に所属してクリエイター活動をする許可を得られたので、さっきまで彼女たちの家で担当マネージャーとしてお姉さんに諸々の説明を行っていたのである。


二階建ての同じデザインの建物が四棟あり、一棟につき四部屋があるアパート。そんな彼女たちの住まいを見ながら俺が突っ立っている間にも、朝希さんと小夜さんがそれぞれお姉さんに返事を投げた。2LDKのちょっと古めの部屋だったけど、少なくとも俺が住んでいるワンルームアパートよりは立派だったな。来客用の駐車スペースもあるし、家族向けの賃貸住宅といった感じだ。


「うん、分かった。駒場さんの言うこと、ちゃんと聞く。」


「……言われなくても大丈夫よ。毎日真っ直ぐ帰ってくるわ。」


「貴女たちは可愛いんだから、すぐ変な人に目を付けられるの。絶対に、ぜーったいに夜二人で出歩いちゃダメよ? それをやったら本気で怒るからね。」


「わ、分かってるってば。しないわよ。絶対しない。」


気圧されたようにこくこく頷く小夜さんを目にして、お姉さんは無言で心配そうな顔になった後……朝希さんへと追加の言葉を放つ。


「朝希、小夜のことを上手くコントロールしてね。普段冷静なのは小夜だけど、有事に冷静でいられるのは貴女の方なんだから。」


「うん、コントロールする。」


「ちょっと、お姉ちゃん? どういう意味?」


「そういう意味よ。小夜はすぐカッとなってパニックになるじゃない。いざという時は朝希に前を譲りなさいね。役割分担できるのが貴女たちの長所なんだから。」


肩を竦めて小夜さんに応じると、お姉さんは俺の方へと近付いてきた。ワイシャツにチノパン姿で肩までの茶色い髪を持つ彼女は、落ち着いた雰囲気がある背の高い女性だ。朝希さんと小夜さんが十三歳なので、年齢は二十八か九歳ということになるな。


「駒場さん、今日はお休みの日なのにわざわざありがとうございました。」


「いえいえ、これが私の仕事ですから。呼んでいただければいつでもご説明に参りますので、何か気になることがあれば遠慮なくご連絡ください。」


互いにペコペコしながらのやり取りを終えた後、朝希さんと小夜さんが車に乗り込むのを横目に別れの挨拶を繋げる。今日はこのまま事務所に行く予定なのだ。


「では、今日はこれで失礼させていただきますね。日々の送迎に関しては私の責任でしっかりと行っていきますので、これからもよろしくお願いいたします。」


「いやもう、本当に……負担じゃありませんか? 私だったら会社で働いた後で、毎日余所の子供を家に送るなんて考えられないんですけど。」


「まあその、私はマネージャーですから。私にとってのお二人は大切な担当クリエイターであって、『余所の子供』ではありませんよ。業務の一部と言えば一部なわけですし、そんなに気にしないでください。」


「すみません、本来なら保護者である私が送り迎えをすべきなのに。」


心底申し訳なさそうな面持ちのお姉さんへと、苦笑いでフォローを送った。俺は本心から何とも思っていないぞ。彼女は仕事の関係で帰りが遅くなったりもするらしいので、そこはもう仕方のない部分だろう。


「ホワイトノーツからすれば、お二人に『所属していただいている』という認識なんです。お二人の安全のためにも、事務所の存在意義のためにも、送迎くらいはさせてください。そういった部分を貴女に代わって補助していくのが、事務所やマネージャーの役割なんですから。」


真剣な顔で伝えてみれば、お姉さんは何とも言えない表情になった後……ポツリポツリと呟きを寄越してくる。姉ではなく『親』の顔付きだな。芸能マネージャー時代に何度か見た、娘を心配する両親のそれだ。


「実は、駒場さんから話を聞くまでは迷っていたんです。中高生となると色々楽しみたい年齢でしょうし、あの子たちにはあまり沢山のお小遣いをあげられていないので、働きたいと言うなら高校生からはアルバイトを許可すべきかと迷っていたんですけど……でも、世間に顔を出す仕事はリスクが高すぎますから。おまけにほら、あの子たちは信じられないくらいに可愛らしい二人組でしょう? ストーカーとか、そういう問題がどうしても頭をよぎってしまって。」


「……なるほど。」


家で話をしていた時にも感じたことだが、この人は……あれだな、ちょびっとだけ『姉バカ』が入っているな。小夜さんと朝希さんが整った容姿なのは事実だけど、『信じられないくらい可愛い』と大真面目な顔で語れるのは相当だと思うぞ。


そんな内心を隠しつつ耳を傾けている俺に、お姉さんは神妙な面持ちで話を続けてきた。


「なので正直なところ、二人を諦めさせるための材料が欲しくて駒場さんを家にお呼びしたというのもあったんです。それなのに、貴方が想像以上に丁寧で真面目な説明をするものですから……何というか、調子が狂ってしまいました。」


「それは、あの……すみませんでした。」


どう返すべきかを迷って軽く頭を下げた俺へと、お姉さんはクスリと微笑んで首を横に振ってくる。大人な笑い方だな。担当の保護者に対してこういう感想を抱くのはあれだけど、何だかちょっぴり色っぽい笑みだぞ。


「褒めているんですよ。……一つだけ覚えておいてくださいね。私はホワイトノーツにあの子たちを預けるわけではなく、貴方に預けるんです。何かあった時は真っ先に貴方を責めますし、あの子たちが幸せになれたら心から貴方に感謝します。事務所や契約の内容は私にとってそれほど重要じゃありません。これは保護者たる私と、マネージャーたる貴方とのやり取りなんですから。」


「……はい、分かっています。立場や会社を言い訳にする気は毛頭ありません。貴女が私に預けてくださるのであれば、私は一人の人間として誠心誠意お二人を支えていくつもりです。」


目を逸らさずに約束した俺に、お姉さんはほんの少しだけ呆れたような、困ったような表情で返答してきた。


「そこでそうやって約束してしまうあたり、駒場さんは多分割り切れないで損をするタイプですね。いいんですか? そんな風に背負ってしまって。」


「既に損をしたことがありますし、周りからも同じことをよく言われますが……しかし、私はこういうやり方しか出来ない人間なんです。もう諦めました。こうなったらとことん貫こうと思っています。」


「……いいんだと思いますよ、それで。だから私はあの子たちを貴方に預ける気になったんです。改めて二人のことをよろしくお願いしますね。」


「長い、良い付き合いにしてみせますので、こちらこそこれからもよろしくお願いします。……それでは、今日はこれで。」


再度別れの台詞を口にした後、軽自動車の運転席に乗り込む。……自分でも余計なところまで背負っている自覚はあるさ。だけど俺は器用に割り切れる人間ではないのだ。ホワイトノーツではなく、マネージャーでもなく、駒場瑞稀を信頼して預けてくれた以上、駒場瑞稀個人として向き合ってみせるぞ。


職を失ってもやめられなかったやり方を、今更変えられるはずがない。香月社長はそんな俺を認めてくれたのだから、ホワイトノーツではこの姿勢を貫き通すまでだ。見送ってくれているお姉さんに目礼してから車を出して、そのままアパートの目の前の角を曲がったところで……助手席の朝希さんが話しかけてきた。


「駒場さん、駒場さん。今日、すぐに撮影できますか?」


「可能ですよ。機材の設置が終わったら試しにやってみますか?」


「やりたいです! ……小夜ち、出来るって。練習で何戦かやってみよっか。」


「落ち着きなさいよ、朝希。……駒場さん、大丈夫なんですか? 土曜日なのに。」


後部座席からおずおずと尋ねてくる小夜さんに、一つ首肯して返事を返す。ちなみに彼女の隣にはパソコン本体とモニターが二台ずつ置かれており、その上にはトランクルームから飛び出した机の天板が見えている。今日事務所に行くのは、二人の撮影機材を運び込むためなのだ。家を訪問するなら纏めてやってしまおうと考えたわけだが、ギリギリ積み込めて良かったぞ。


「休日勤務の手当をもらえることになっているので、何も問題ありませんよ。その辺は案外しっかりしているんです。」


「そうなんですか。……じゃあ、やりたいです。回線の速度とかも知りたいですし。」


「ネット回線の速度計測は風見さんが……あーっと、ホワイトノーツで事務や営業をやってくれている人です。その人がやっていましたよ。彼女によれば、かなり良い回線なんだとか。リーグ・オブ・デスティニーも快適にプレイできました。」


「……やったんですか? 事務所で。」


驚いたように問いかけてきた小夜さんへと、バックミラーにちらりと目をやりつつ肯定を投げた。


「マネージャーとして、お二人がやっているゲームのことを知っておく必要がありますからね。教えてもらいながら何戦かプレイしてみました。」


「……駒場さんって、本当に真面目な人なんですね。私たちの担当になるからってわざわざLoDをやったんですか。」


おっと、その表情はさっきのお姉さんと似ているな。顔立ちそのものはそこまで似ていなかったわけだが、やっぱり姉妹だけあって似通う部分もあるらしい。呆れと感心が綯い交ぜになった顔の小夜さんが言葉を漏らしたところで、満面の笑みになっている朝希さんが声を上げる。パタパタと足を動かしながらだ。


「面白かったですか? ランク、やりました? 好きなロールは?」


「まだランクマッチはやれていません。プレイヤーレベルがまだまだ足りていないので、ノーマルマッチを何戦かやった程度ですね。ロールのこともよく理解できていない段階です。」


「じゃあじゃあ、私が教えます! 先ず色んなキャラに触ってみて、それから好きなロールを決めるのが一番です。」


リーグ・オブ・デスティニー。通称『LoD』。簡単に言えば五対五の二チームに分かれて、それぞれのプレイヤーが選択した『デスティニー』と呼ばれるキャラクターを操り、広いフィールドの中でキャラを育成しつつ相手の陣地の攻略を目指す対人ゲームだ。基本的に一試合で全てが完結するシステムなので、プレイヤー当人の知識や技術が物を言いそうなゲームだったな。


選べるキャラクターの数がまず多かったし、持っているスキルも各々個性があるものだったし、戦場となるフィールドには沢山のギミックがあったし、試合の中でキャラを育てていく上での選択肢も豊富だった。今まで『eスポーツ』という言葉がピンと来なかったけど、やってみて何となく理解できたぞ。しっかりしたルールと、プレイヤーの技術が影響するシステムと、ゲーム全体のバランスと、観戦していて楽しめるような戦略性。それがあれば『競技』として成立するのだ。


とはいえまあ、今のところは全然把握し切れていない。LoDにも他のオンラインゲームと同じく一種の定石や暗黙のルール、独自のマナーや複雑な用語などが存在しているようで、それを覚えるのに一杯一杯という段階だ。しかも英語のゲームだから難易度が更に上がってくるぞ。風見さん曰く、日本人は大抵北米のサーバーでやっているらしいのだが……いやぁ、ゲーマーというのは凄いな。恐らくゲームに対する情熱が言語の壁を乗り越える動力になるのだろう。


たとえ慣れていない言語だとしても、やりたいからやる。そう思わせるゲームの方も、そう思えるゲーマーの方も大したもんだぞ。有志による日本語の情報サイトもあったし、都内各所のネットカフェではユーザー主催の小規模な大会まで開かれているらしい。物事というのはこうして成立していくんだろうな。いつの世も基礎を作るのは熱意ある人間たちなわけか。


未だ社会的な地位の低いeスポーツだが、ライフストリーム内においては一定の基盤を確保できているようだし……そういう方向に働きかけていくのもありかもしれない。俺には香月社長ほどの先見性はないけど、『競技としてのゲーム』がこの先どんどん拡大していくのは分かるぞ。波が大きくなることが見えていて、モノクロシスターズという『専門家』も抱えているのだから、事務所としてはその流れに乗れるように努力していくべきだ。


LoDはそういった動きの一歩目になるかもしれないし、やはりマネージャーとして一定の知識は持っておかなければ。だからまあ、風見さんや二人に教えてもらおうと決意していると……朝希さんの発言に小夜さんが突っ込みを入れた。


「違うでしょ、朝希。一人のデスティニーを上手く扱えるようになるのが先よ。それから徐々に他に手を出していくべきなの。先ずはトップで練習すべきね。レーンコントロールの方法が学べるし、ジャングルへの警戒とかも覚えられるから。」


「また始まった。……小夜ち、そうやっていつも強要するよね。最初に一通り触れてみないと、自分に合ってるか合ってないかが分かんないじゃん。」


「あんたはそうやって移り気だから、いつまで経ってもFPSが上達しないのよ。先にARの挙動をマスターして、次にSMGとかSRとかを使うべきでしょ? 順番は好きにすればいいけど、あれこれ忙しなく使うのは良くないわ。どのゲームでも『確実に使える一つ』を最初に練習するのが重要なの。」


「だって、色々使った方が楽しいじゃん。そういう風に押し付けてると、駒場さんがLoDのこと嫌いになっちゃうよ? ……小夜ちってゲームやる時、毎回そうだよね。やる前にWiki見て、テンプレのステ振りに従って、オススメの狩場でしかレベル上げしないタイプ。」


ムスッとした顔で文句を言う朝希さんに、ひくりと口の端を震わせた小夜さんが言い返す。用語が多くて会話の内容がいまいち分からないけど、小夜さんが『説明書』を読んでからプレイする人間だということは理解できたぞ。対して朝希さんは『先ずやってみよう』な人間らしい。


「いいでしょ、別に。それで実際上手くいくんだから。何の文句があるのよ。」


「……楽しいの? それ。」


「はい出た、その台詞。……あんたはいつもそう言うけど、私はそれが楽しいのよ! 効率的にレベリングして、最短ルートで強い職業に転職して、実績とかもきっちり回収していく。浮気癖があるあんたには分かんないのかもしれないけど、そういうのが私の楽しみ方なの!」


「私、浮気癖なんてないもん! ……小夜ちこそ、食わず嫌いじゃん。レビュー見てすぐ『このゲームはダメそう』とか言っちゃってさ。結局私がやってるのを見てやり始めるじゃんか。それで『あら、結構面白いじゃない』とかお澄まし顔で言ってるけど、あれってかなりバカっぽいからね。」


ぷいとそっぽを向いて指摘した朝希さんへと、後部座席の小夜さんが顔を赤くしながら反論する。ヒートアップしてきたな。


「バ、バカっぽい? 私が? ……バカっぽくないでしょうが! あんたが買うのなんて七割クソゲーじゃないの! アーリーアクセスの変なゲームばっかり買って、お金を無駄にするのはやめなさいよね!」


「でも、無難なのばっかり買ってたら発見がないでしょ? 小夜ちには冒険心ってものが足りてないんだよ。……駒場さんには私が教えるからね。小夜ちだとああしろこうしろって煩いもん。」


「いいえ、私が教えるからあんたはすっこんでなさい。……駒場さん、朝希の言うことを聞かないでくださいね。この子、適当ですから。何もかもが適当なんです。行き当たりばったりの適当人間なんですよ。」


助手席を指差しながら適当を連発する小夜さんに、朝希さんがつんとした態度で反撃を加えた。一人っ子の俺には確たる判断が付かないが……多分これは、『じゃれ合い』の延長線上にある姉妹喧嘩だな。賑やかで良いと思うぞ。


「駒場さん、聞いちゃダメです。小夜ちはうるっさいから、きっと嫌になっちゃいます。……小夜ちさんは黙ってなさい。運転してる駒場さんに迷惑ですよ。」


「なーにが『小夜ちさん』よ! やめなさいよね、そのわざとらしい敬語! お澄まし顔はあんたじゃないの!」


「小夜ちさん、野蛮ですよ。静かにしなさい。」


「……はい、怒った。怒ったわ、私。そんなに言うならLoDの1v1で決めましょうよ。事務所に行ったらやるからね。ボッコボコにしてあげるわ。」


怒りの笑みで宣戦布告した小夜さんへと、朝希さんが好戦的な笑顔で了承を飛ばす。打って、響いて、共鳴し合うような二人組だな。


「別にいいよ、私が勝つもん。ぽんこつ小夜ちに負けたりしないよ。勝った方が駒場さんの先生役ね。」


「それでいいわ、私がへなちょこ朝希に負けるわけないもの。」


そこで互いに鼻を鳴らして会話が終了したわけだが……うーむ、やはりこの二人は面白いな。朝希さんは相変わらず動画内そのままだけど、小夜さんは若干以上に『素』が出ている気がするぞ。そんなに『冷静で知的なタイプ』ではなかったらしい。撮影中はある程度キャラを作っているということか。


こっちの小夜さんも魅力的だと思うから、動画内でも出して欲しいんだけどな。……まあ、そこは続けていけば勝手に出てきてしまう部分なのかもしれない。『最初の頃とキャラが違う』というのはよくある現象だぞ。二人はまだ成長の途上にある時期なんだし、長くやっていけばそういった変化もチャンネルの魅力の一つになりそうだ。


数年経って見返した時、『うわぁ、最初の頃ってこんな感じだったっけ』と苦笑できるようなチャンネルになって欲しいな。二人が成長して、チャンネルが大きくなって、振り返ることが出来るような成果を積み上げられれば、きっとそういう日が訪れてくれるだろう。もしその日に自分も一緒に見られていたなら、それほどマネージャー冥利に尽きる話はないぞ。


───


そして事務所横の駐車場に到着した後、俺たち三人はそれぞれに荷物を抱えながらオフィスビルの裏手に回っていた。土曜日なので裏からしか入れないのだ。管理人さんも当然留守だし、戸締りはきちんとやらなければ。


「待っていてくださいね、今開けます。」


各々のパソコン本体を持っている二人に断りながら、運んでいた椅子を持ち上げたままでどうにか裏口の鍵を開けようと苦戦していると……小夜さんが苦笑いで声をかけてくる。鍵を予めポケットから出しておくべきだったな。


「駒場さん、地面に置いても大丈夫ですよ。別に気にしませんから。」


「……そうですか?」


「幾ら何でも気を使いすぎです。もっと雑でいいですよ。」


「では、一度置かせてもらいますね。」


普段使っている物だから、地べたに置かれるのは嫌かと思ったんだけどな。呼びかけに従って椅子を地面に下ろした後、鍵を取り出して裏口のドアを開いた。


「どうぞ、入ってください。」


「シーンとしてます。何だかわくわくしますね。」


「朝希、ちゃんと持ちなさい。なるべく揺らさないでよ? 椅子は雑に扱っても壊れないけど、パソコンはそうじゃないんだから。」


「小夜ち、神経質すぎるよ。平気だって。」


パソコン本体は事務所の台車で運ぼうと考えていたのだが、小夜さんが『振動はダメです』と言うので最初に手で持っていくことになったのだ。曰く、中古のパーツを使って安く組んだ自作のパソコンらしい。マイクやカメラ等の他の機材も殆どが中古の品で、そういった品々の入手や管理は小夜さんの『担当』なんだとか。


車内での会話を思い返しながらエレベーターに乗ると、朝希さんが小首を傾げて声を寄越してくる。


「自動ドアは開かないのに、エレベーターは動くんですね。」


「こっちは年中作動しているようですね。賃貸のオフィスビルだと間々ある管理方法なんだと思います。これからも土日に用事が入ることはありそうなので、休日は問答無用で利用不可というビルではなくて助かりました。」


というかまあ、香月社長はそういったことも見越してこのオフィスビルを選んだのかもしれないな。休日に正面入り口の自動ドアを停止させているのは、あくまで防犯のためなのだろう。夜間も裏口から出入りできるし、ある程度自由に利用できるのは色々と助かるぞ。


他愛もない会話をしている間に三階に着いたエレベーターから出て、再び椅子を置いて防犯装置とドアのロックを解除した。そのまま無人の事務所の中に入ると、小夜さんがパソコン本体を応接用テーブルの上に載せて話しかけてくる。


「不思議な感じですね。休日の学校とか、そういうところに入った時の気分になります。」


「言い得て妙ですね。何となく伝わってきます。……それでは、台車で残りを運びましょうか。」


残念なことに、『休日の会社』は『休日の学校』ほど楽しくないぞ。ただただ鬱々としてくるだけのシチュエーションだ。……けどまあ、ホワイトノーツの場合はそれほど嫌ではないかな。仕事に能動的に取り組めているということなのかもしれない。


香月社長は付き合い易い上司だし、人間関係がストレスフリーだというのも影響していそうだ。江戸川芸能に居た頃と比較して新たな発見をしつつ、隅に放置されてあった折り畳み式の台車を持って再度駐車場へと向かう。そして三人で全ての機材を事務所に運び込んだ後、トランクに積むために分解した机や椅子を応接スペースの近くで組み立て始めた。


「……朝希? あんた、何でネジを纏めておかなかったのよ。注意したでしょうが。」


「纏めたじゃん。失くしてないよ。」


「そうじゃなくて、椅子のネジだか机のネジだか分かんなくなってるってこと。こうなるのを防ぐために、袋に小分けにしなさいって言ったんじゃない。」


「……全部一緒にしておけって意味かと思ったんだもん。」


まあ、『どこ出身』のネジなのかを分かるようにしておくのは分解の基本だな。その辺小夜さんは慣れているのに対して、朝希さんは不慣れなようだ。俺も机の組み立てを手伝いながら、近くに置いてある二台のパソコン本体を指して小夜さんへと質問を投げる。……スペース的には結構な余裕を持って作業できているし、こういう時だけは事務所の『無駄空間』が便利に感じられてしまうぞ。


「このパソコンは二台とも小夜さんが作ったんですよね? 詳しいんですか?」


「詳しいってほどではないですけど……朝希と比べるとまあ、多少マシですね。」


「小夜ちはオタクなんです。パソコンとか、プラモデルとか、アイドルとか、漫画とかが好きですから。」


「その『オタク』って括り方、かなり無礼なんだからね。カチンと来た誰かに叩かれかねないし、動画では言わないようにしなさい。現に今私はイラッとしてるわ。」


椅子……というか、『ゲーミングチェア』と呼ぶべきかな? 知識が浅い俺にはよく分からないが、レース用の車のシートに肘掛けとキャスター付きの脚を追加したような見た目だ。とにかくその椅子の片方に脚を取り付けながらジト目で警告した小夜さんへと、机の金具を弄っている朝希さんが疑問を送った。『オタク』と括られるとイラッとするのか。俺も気を付けよう。


「悪い意味で言ったんじゃないよ。……『秋葉系』って呼ぶべき?」


「そうやって大雑把に表されるのが嫌なのよ。趣味にレッテルを貼られてるみたいでもやもやするの。」


「……それ、小夜ちの性格が捻くれてるから悪い意味に受け取ってるだけじゃなくて?」


「はい、またイラッとしたわ。私の性格は捻くれてないし、もっと表現をオブラートに包みなさい。あんたはストレートすぎるのよ。」


怖い笑顔で注意した小夜さんに、朝希さんが不満げな表情で反論する。雲行きが怪しくなってきたな。この二人の間の天気は、山の天気なんか目じゃないくらいに変わり易いらしい。


「小夜ちは深読みしすぎなんだよ。素直に受け止めればいいのに、変に捻じ曲げるからダメなんだって。……ね? 駒場さん。ね?」


「……私にはちょっと、分かりませんね。」


「あんた、駒場さんを巻き込むのはやめなさいよね。困ってるでしょうが。」


「困ってないもん。……駒場さん、駒場さん。小夜ちと私、どっちが正しいですか? 中立の立場からジャッジしてください。」


ああ、一番恐れていた展開になったな。自分が選ばれることを微塵も疑っていない様子の朝希さんと、『言ってやってくれ』という目付きでこちらを見てくる小夜さん。その二人に挟まれて短く黙考した後、絞り出した無難な発言を場に放った。こんなの何を言っても泥沼じゃないか。


「……まあその、悪意が無くても人を傷付けることはありますし、言われた側が嫌なのであれば無理に呼ばない方がいいんじゃないでしょうか。」


「ほら、私の勝ち。黙って手を動かしなさい、負け朝希。」


「……駒場さん、ひどいです。」


頬を膨らませて責めてくる朝希さんから目を逸らしつつ、空気を変えるために別の話題を口にする。二人はこういう『軽めの論戦』を頻繁にしているようだし、担当になった以上は間に挟まれることが増えそうだな。気が重いぞ。早いうちに対処法を模索すべきかもしれない。


「朝希さんの趣味は何なんですか? 小夜さんが好きなことは分かったので、朝希さんの好みも知っておきたいです。」


「私ですか? 私は服と、音楽と、映画と、動物と……あとスポーツが好きです。やるのも、観るのも。」


「やはり全然違っているんですね。」


両極端とまでは言えないが、趣味嗜好が大きく異なっているのは間違いなさそうだ。そのことに謎の感心を覚えていると、小夜さんがフッと笑ってポツリと呟く。悪い顔だな。悪役のそれだぞ。


「朝希はバカだから、単純なものが好きなんですよ。」


「そうだよ、私はシンプルなものが好きなの。そして小夜ちはえっちな漫画とかが好きなんだよね。カバー変えてるけど、丸分かり──」


「朝希!」


素早い反撃を食らった小夜さんが、バッと朝希さんに飛び付いて物理的に口を塞ごうとするが……おー、完璧に力負けしているな。体付きは同じなのに、腕力は朝希さんの方が明確に上らしい。ぐぐぐと押し返されて、更なる口撃を受け始めた。


「あんまり意地悪すると、変な漫画のことお姉ちゃんに言うからね! 裸の女の子が出てくるやつ、沢山持ってるでしょ!」


「だ、黙りなさいよ! ここには駒場さんが居るでしょうが!」


「駒場さん、小夜ちったらえっちな漫画ばっかり読んでて──」


「少年誌だから! 少年誌だからいいの! ……思い出したわ。あんたこそ紐みたいなパンツを買ってたわね。えろ朝希!」


これはもう、本当にやめて欲しいぞ。俺はどういう顔をしてこの場に居ればいいんだ。小夜さんが繰り出したカウンターを食らって真っ赤になった朝希さんは、ぺちぺちとダークグレーの頭を叩きながら『言い訳』を飛ばす。


「はっ、穿いてないもん! 買ったけど、外では穿いてないよ! どんな感じなのかなって気になって買ってみただけじゃん!」


「高すぎるからって諦めてたけど、あんたガーターベルトのやつも買おうとして……やめっ、やめなさいよ! 力で解決するのは卑怯じゃないの! 卑怯者! 野蛮人! STR極振り女!」


「まだ言うつもりなら絞めるからね、よわよわ小夜ち!」


見事なヘッドロックをかけている朝希さんに対して、タップアウトした小夜さんが荒い息を漏らしつつ『停戦』を宣言した。無益な争いであることに気付いたようだ。


「……終わりよ、朝希。もう終わり。暴露合戦をしたって無意味でしょうが。共倒れになるだけよ。」


「そっちが仕掛けてきたんじゃん。……小夜ち、弱すぎない? 何でそんなに力ないの?」


「私は繊細なのよ。頭脳派なの。」


香月社長と仲良くなれそうな台詞だな。疲れ果てた顔付きで組み立て中の椅子の近くに戻った小夜さんは、俺の方を向きながら謎の念押しをしてくる。


「少年誌ですからね。全然あの、あれなやつです。セーフなやつですから。私が持ってる単行本のごく一部がそうなだけであって、大半は違います。そもそもそういうのを目当てに買ってるわけじゃないですし。」


「……はい。」


「駒場さん、駒場さん。私も好奇心で買ってみただけですから。普段はもっと普通の、ボーイレッグのショーツを穿いてます。分かりますか? ボックスショーツっていうか、ボクサーっていうか、あれのローライズのやつが好きなんです。」


「……はい。」


そこまで言う必要があったんだろうか? 小夜さんも突っ込みたさそうな顔になっているが、もはやそんな気力すら無いらしい。気まずい気分になりつつ短い返事で聞き流した後、完成した机を撮影用の小部屋に運び入れた。今の会話は無かったことにしてしまおう。それが二人のためにも、俺のためにもなるはずだ。


「設置は部屋の中央がいいですか?」


「壁際でお願いします。そっちの方が集中できるので。……朝希、椅子は私がやるから他の物を運んじゃって。」


「うん、分かった。」


となると……むう、窓がある壁はやめておいた方がいいな。ドアの反対側にしておこう。二枚の黒い無骨なマウスパッドが貼られてある机を壁際に設置して、朝希さんが持ってきた二台のモニターをその上に載せる。半々で使うと各々のスペースは七十センチほどか。それなりに大きな机ではあるのだが、二人で使用する場合はギリギリになってしまいそうだ。


「こっちが小夜ちので、こっちが私のです。」


二十三インチ……かな? それとも二十四? 規格に詳しくないので判別が難しいが、事務所で俺が使っている物よりもやや小さめのモニターの位置調整をしている朝希さんに、軽く頷きながら声を返した。


「机の右側を朝希さんが使っているんですね。」


「小夜ちは両利きなので、WASDで移動するゲームだと右手でキーボードを操作するんです。そっちの方がやり易いらしくて。しかも超ローセンシでやってるから、FPSとかだとマウスを大きく動かすんですよ。そうなると机の中央でお互いの……っていうか小夜ちの肘が私の手に激突してきて邪魔だってことで、殆ど動かさないキーボードが真ん中になる今の配置になりました。」


うーむ、ポジションにもちゃんとした理由があるわけか。『WASD』とか『ローセンシ』の意味はいまいち分からなかったけど、外側にマウスがある方が干渉しないのは理解できるぞ。……それにしても、ゲームのジャンルによって右手左手を入れ替えるというのは中々面白い話だな。動画だと手元が映らないので気付けなかったが、小夜さんは独特なプレイスタイルを持っているらしい。


「なるほど、お互いが快適にプレイできるように考えているんですね。」


「小夜ちって、変な癖が多いんです。集中してくると椅子の上で正座したり、キーボードを物凄く斜めにして使ったり、急にRDFGのキー設定に変えたり。双子だけど、そういうところはよく分かりません。」


眉根を寄せて首を捻っている朝希さんへと、事務所スペースに移動しながら応答を投げる。キーボードの角度とキー設定のことはピンと来ないが、集中している時に椅子の座り方を変えるのはちょっと分かるぞ。


「癖は人それぞれですからね。大抵の場合、他人から見ると変に映ってしまうものですよ。……では、パソコン本体も運んできます。」


「それなら私、配線をやります。……小夜ち、まだ椅子やってるの? 配線繋いじゃっていい?」


「あんたが無意味にキャスターまで外しちゃうから手間取るんでしょうが。ケーブルはそっちのビニール袋に入ってるから持っていきなさい。……綺麗にやってよ?」


「はーい。」


しかし、機材が一つとして『お揃い』ではないのも興味深い点だな。モニターも、キーボードも、マウスも、マイクも、カメラも、そしてパソコン本体の形や大きさも違っているぞ。双子で揃ってしまうことを嫌がっている様子はないし、全てを中古で入手したからなのだろう。


「広告収益が入るようになったら、機材をもっと良い物に買い替えたいですか?」


運び込んだパソコン本体の設置作業を手伝いつつ尋ねてみれば、朝希さんは悩んでいる面持ちで返答してきた。


「出来れば全部お姉ちゃんのための貯金にしたいんですけど、小夜ちは『最初は機材に投資するわよ』って言ってました。その方が最終的にお金を稼げるからって。」


「長い目で見ればそれが正解だと思いますよ。区切りをどこにするかが難しいところですが、ある程度は機材にお金をかけるべきです。その方が快適に面白い動画を作っていけますしね。」


「さくどんさんもそうしてるんですか?」


「さくどんさんですか? ……そうですね、現時点の彼女は動画で使う物に広告収益のほぼ全てを使っているようです。機材や、紹介する商品の購入費用に。」


どうして夏目さんが出てきたのかと疑問に思いながら答えると、朝希さんは納得したようにこっくり首肯して応じてくる。


「じゃあ、私たちもそうします。……小夜ちー、モニターとケーブルの端子が合わない!」


「どっかに変換コネクタがあるでしょ? それを付けないと挿せないわよ!」


「これじゃないでしょうか? ……さくどんさんのこと、参考にしているんですね。」


ふむ、ドアが閉まっていると結構音が聞こえ難くなるんだな。未だ事務所スペースで椅子を組み立て中の小夜さんの声を耳にして、ケーブル類が入った袋から変換コネクタらしき物を見つけ出しつつ言った俺に、朝希さんは曇りのない笑顔で肯定してきた。


「一番好きなライフストリーマーだから、一番参考にしてます。上手く言えないんですけど、さくどんさんは話し方がふわっとしてるんです。曖昧って意味じゃなくて、嫌な感じがしないっていうか、弱くはないけど強くないっていうか……分かりますか?」


「何となく分かりますよ。表現や口調が柔らかいということですよね?」


「そうです、柔らかい話し方。そこが好きなんです。動画の外側でもああいう人なんですか?」


「さくどんさんはプライベートでも動画そのままですね。多少人見知りするタイプなので、初めて会うと他人行儀に思えるかもしれませんが、慣れている相手と接する時は動画内と同じ雰囲気ですよ。」


もちろん相応に砕けた口調ではあったが、家族に対する態度にも別段違いはないわけだし……うん、やっぱり『動画そのままの性格』だな。良いことなのか悪いことなのかはともかくとして、何だか安心する部分ではあるぞ。


朝希さんとしてもそうだったのか、ホッとしたような声色で会話を続けてくる。


「良かったです。……ホワイトノーツに所属できたのもさくどんさんのお陰なので、会ったらお礼を言おうと思ってます。」


「さくどんさんの事務所所属の動画を見て、ホワイトノーツの存在を知ったんですよね?」


「はい、それで私が小夜ちに教えました。少し不安だったんですけど、さくどんさんが入ってる事務所なら大丈夫かなって。」


そうか、そういう効果もあるのか。単に事務所の名前を広めるだけではなく、安心感も生み出してくれていたらしい。『さくどんが所属しているなら』と考える人も居るわけだ。つくづく夏目さんには助けられているな。


心中で改めて夏目さんに感謝している俺に、朝希さんが配線作業を進めながら発言を寄越してきた。ほんの少しだけ情けなさそうな顔付きでだ。


「でも、私がやったのはそれだけです。香月さんへの連絡とか、契約について調べたりとかは小夜ちがやってくれました。お姉ちゃんの説得も、結局殆ど小夜ち任せになっちゃいましたし。」


「そうなんですか。」


「いつもそうなんです。私は最初にやりたいって言うだけで、全然小夜ちの役に立てなくて。……だから、ちょっと落ち込みます。今回こそは『半分こ』して頑張ろうと思ってたのに、やっぱり小夜ちには追い付けませんでした。」


「……凄い人なんですね、小夜さんは。」


しょんぼりしている朝希さんに相槌を打ってみれば、彼女は嬉しそうな、誇らしそうな顔で首を縦に振ってくる。


「抜けてるところもあるけど、小夜ちは頭が良くてすっごく優しいんです。私が困ってるとすぐ近付いてきて、『貸してみなさい』って言ってパパッとやってくれて。子供の頃からずっとそうでした。髪も私のために染めてくれましたし。」


「髪?」


「私、白髪がちょこちょこ生えちゃうんです。別に病気ってわけじゃなく、そういう体質なだけみたいなんですけど……小学生の時にそれで周りから『白髪女』ってバカにされちゃって。そしたら小夜ちがいきなりグレーに髪を染めて、『お揃いだったら怖くないでしょ?』って私の髪も染めてくれました。」


「……そうだったんですか。」


朝希さんだけが目立たないように、自分の髪も染めたわけか。小学生の頃の小夜さんの気遣いと行動力に唸っている俺へと、朝希さんは過去を懐かしんでいるような表情で続きを語ってきた。


「学校の先生からはちょっと怒られたんですけど、お姉ちゃんはちっとも怒りませんでした。変な染め方になってたので、『次からは私が染めてあげる』って言ってくれて。それでライフストリームを始める時、どうせなら個性を出そうってことで白寄りのグレーと黒寄りのグレーに分けたんです。」


「それが『モノクロシスターズ』の名前の由来なんですね。」


中学生になってライフストリーマーを始める前は、お揃いのグレーの髪色だったのか。朝希さんのホワイトアッシュのボブヘアーを見ながら返事をすると、彼女は大きく頷いて応答してくる。グレーこそが彼女たちにとっての絆の色であるようだ。


「私たちに合ってて分かり易いし、響きがカッコいいからその名前にしました。……そんな感じで小夜ちは私に色んなことをしてくれてるのに、私は何にも返せてなくて。だからもっと頑張らないとって毎日思ってます。」


「……小夜さんも凄い人ですが、最初に踏み出せる朝希さんも大したものですよ。だって先ず作り始めなければ、完成させることなんて出来ないわけでしょう? 最初の一ピースを嵌め込める人間は、実はそんなに多くないんです。それをやれる朝希さんは充分に特別な人なんだと思います。」


深さは段違いだが、俺と香月社長の関係に通じる部分があるな。進路を決めて踏み出すのが香月社長や朝希さんの役目で、進むための道具や手段を整えるのが俺や小夜さんの役割なのだろう。リーダーの素質と言い換えられるのかもしれない。一番最初に『やろう』と言い出せる能力。それがどんなに貴重なものなのかを、凡人たる俺はよく知っているぞ。


ジッと朝希さんの瞳を見つめながら語りかけた俺に、彼女はきょとんとした面持ちで問い返してきた。今気付いたが、あまり見ない色の瞳だな。薄いグレーの虹彩だ。小夜さんもそうなんだろうか?


「けど、私がやるのは最初だけですよ? いつもそこからは小夜ちがやってます。」


「最初の一枚が無いと、残るピースをどこに嵌め込んだらいいのかが分からないんですよ。朝希さんが一番大切なピースを配置してくれるから、小夜さんは迷わずに残りを組み立てていけるんじゃないでしょうか?」


「……そんな風に言われたの、初めてです。」


「きっとそれぞれに役割があるんですよ。朝希さんは小夜さんの役をやれませんが、小夜さんだって朝希さんの役にはなれないんです。私は準備を万全に整えられる小夜さんと同じくらい、最初に手を伸ばせる朝希さんのことを尊敬します。」


微笑みながらの俺の言葉を聞いて、朝希さんは目をまん丸に見開いたかと思えば……にぱっと笑ってこちらの両手を取ってくる。指を絡ませる繋ぎ方でだ。


「……えーっと、朝希さん?」


「これは、お姉ちゃんから教えてもらった『ありがとうの握り方』です! ……駒場さんのこと、ちょっと好きになりました。思ってたよりもずっとずっと優しそうで、とっても嬉しくなってます。」


「それはその、光栄です。私も朝希さんと小夜さんのことが好きですよ。お二人の担当マネージャーになれて良かったと思っています。」


この『好き』は純粋な方の好きだな。つまり、Likeの好きだ。そんなわけで俺も同じ気持ちであることを伝えてみると、朝希さんはきゅっと繋いだ手に力を込めて口を開く。何とまあ、百点満点の笑顔じゃないか。


「なら、私と駒場さんは両想いですね!」


「ええ、そういうことになりそうです。」


「……よし、決めました。私、小夜ちに勝ちます。勝って駒場さんの先生役になって、沢山一緒に遊びたいです!」


「あー……はい、応援しています。」


そこに着地するのか。ふんすと鼻を鳴らしながら決意表明した朝希さんに、思わず応援の台詞を投げかけたところで……椅子を完成させたらしい小夜さんが、事務所スペースに繋がるドアを開いて撮影部屋に入ってきた。


「やっと出来たわ。あんたがネジをぐちゃぐちゃにするから、アームレストの取り付けが……朝希? あんた、何してるのよ。何でグッとしてるの? パソコンの設置は?」


「勝利宣言してたの。小夜ちに勝つぞって。」


「あのね、いいから作業をやりなさい。じゃないと勝負できないでしょうが。」


「言われなくてもやるよ。……小夜ち、これ何のケーブル? カメラのやつ?」


朝希さんの問いかけを受けている小夜さんを横目にしつつ、俺も作業を再開する。……少しだけ二人に歩み寄れた気がするな。天真爛漫な朝希さんと、しっかり者の小夜さん。そう言葉にするのは容易いけど、実際は複雑な思いを抱えているようだ。


だが、間違いなく悪い関係ではない。そこを自信を持って断定できるようになったのは、望外な成果であるはずだ。二人揃って一人前なのではなく、二人が揃えば三人以上の力を発揮できるわけか。何とも羨ましい関係だな。


「あんた、何でこんな繋ぎ方してるのよ。ちゃんと整理しないと絡まるでしょうが。ケーブル絡ませお化けの正体はあんたじゃない!」


「そんなの意味不明だよ。今絡まってないんだから大丈夫だって。」


「それがいつの間にか絡まるの。ケーブルっていうのはそういう物なのよ。……結束バンドは? 持ってきたはずでしょ?」


「待ってよ、こっちに……ほら、あった。ベリベリのやつとパッチンするやつとギュッてするやつがあるけど、どれ使うの?」


テンポの良いトークと共に作業を進めている二人を眺めながら、浮かんできた笑みをそのままに手を動かすのだった。

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