Ⅱ.モノクロシスターズ ⑧



「こんにちはー!」


おっと、朝希さんらしい元気の良い挨拶だな。新たな週が始まった月曜日の午後五時ちょっと前。ホワイトノーツの事務所で夏目さんの動画をチェックしていた俺は、入室してきた二人に声を飛ばしていた。制服姿のモノクロシスターズの二人にだ。


「おはようございます、お二人とも。迷わず来られましたか?」


「小夜ちは迷ってましたけど、私は大丈夫でした。」


「おはようございます。……やめなさいよ、朝希。私は地下鉄の出口を間違えそうになっただけでしょ? 実際に間違えてはいないわ。だからつまり、迷ってないの。」


今日初めて二人は学校から直接事務所に来たわけだが、どうやら特に問題なく通えそうだな。学校と事務所の距離が近くて助かったと安心していると、書類の整理をしていた香月社長が話に参加してくる。ちなみに風見さんは今日も忙しく営業中だ。徒歩での営業は大変そうだし、注文した営業車の納車日が待ち遠しいぞ。


「おはよう、二人とも。地下鉄は混んでいたかい?」


「そんなに混んでませんでした。ちらほら席が空いてる感じです。……どうしてみんな『おはよう』なんですか? 夕方なのに。」


「慣習だよ。諸説あるから何とも言えないが、『おはようございます』は使い勝手が一番良いんだ。その日初めての挨拶にはおはようございますを使っている業界が多いんじゃないかな。」


「初めて知りました。」


応接用ソファに黒いスクールバッグを置きながら感心している朝希さんへと、香月社長が肩を竦めて話を続けた。お手本のような『へー』の顔付きだな。ころころと表情が変わる朝希さんは見ていて楽しいぞ。


「私は時刻で挨拶を変えた方が味があって面白いと思うんだけどね。例えば上司相手に『どうも、こんばんは』とは中々言い辛いだろうし、仕方のない部分なんじゃないかな。……それより、地下鉄が空いていたなら何よりだよ。混雑しているようなら移動手段を考え直そうと駒場君と話していたんだ。」


「でも、混んでても平気ですよ? すぐ着きますし。」


「今はまだ平気かもしれないが、君たちはどんどん有名になっていくはずだ。そうなったら別の移動方法にしてもらうことになりそうかな。タクシーか、駒場君かだね。」


「そのレベルになったら収入も相応の額になっているでしょうし、そもそも事務所で撮影する必要がなくなるかもしれませんけどね。」


俺が突っ込みを入れたところで、学校指定らしきお揃いのバッグから洋服を取り出した小夜さんが口を開く。『電車に乗れない』ほど有名になる頃には、防音環境が整った部屋に引っ越せているはずだ。そうでなければ報われないぞ。


「収益化の申請が通っていない今からだと、凄く遠い話に思えます。……着替え、あっちの部屋でして大丈夫ですか?」


「大丈夫ですが、一応カーテンは閉めてくださいね。三階とはいえ、周りのビルが高いですから。」


「了解です。……ほら、朝希。着替えるわよ。」


「待ってよ、小夜ち。」


さすがに制服姿で撮影するのはマズいので、着替えを持ってきてもらったのだ。服を手にしながら撮影部屋に移動する二人を見送っていると、香月社長が悪戯げな面持ちで注意をしてきた。


「覗いちゃダメだぞ? 駒場君。」


「あのですね、香月社長。二人は女性で、担当クリエイターで、何より中学生なんですよ? 覗くわけがありません。人を何だと思っているんですか。」


「だが、見てもいいなら見るだろう? 少しくらいの下心はないのかい?」


「見ませんし、ありません。私は道徳と良心と理性を持っているんです。」


見るわけないだろうが。訳の分からないことを言ってくる香月社長に半眼で応じてやれば、彼女はつまらなさそうに鼻を鳴らしてくる。何だその反応は。


「君は退屈な男だね。そりゃあ夏目君やあの二人は未成年だから『射程圏外』だろうが……芸能マネージャー時代に可愛らしいアイドルたちを見て、付き合いたいなとは思わなかったのかい? 成人している子だって居たはずだろう?」


「アイドルとマネージャーが恋愛関係になるのは、あらゆる方向への明確な裏切りですよ。それだけは決して有り得ません。その後の展開を想像するとゾッとしますね。私にはそういう想像力があったので、アイドルと付き合おうなどとは一切考えませんでした。」


「賢い発言じゃないか。その通り、想像力が人生の秘訣なんだ。……まあ、真面目な君らしい回答だったよ。事務所の社長としては安心だが、君の将来を思うとやや心配にもなってくるね。結婚願望とかは無いのかい?」


「そういう話は親戚の集まりの時だけで充分ですよ。……なるようにしかならないでしょうし、今は目先のことに集中します。」


『結婚話』はやめて欲しいぞ。二十五歳はまあ、まだまだ若いと言える年齢だが……この言い訳、いつまで通用するんだろう? 三十になっても、三十五になっても同じ目の逸らし方をしていそうだ。何となく想像できてしまうあたりが恐ろしいな。


そんな俺を目にして、香月社長もどことなく気落ちしながらアドバイスを寄越してきた。社長は俺の一つ下だ。自分で言って自分でダメージを食らったらしい。


「……金を稼ぎたまえ、駒場君。それさえあれば年齢の差を埋められるぞ。世の中金だよ。」


「……物凄く悲しい結論ですね。」


「しかし真実ではあるのさ。美貌も、魅力も、美しい伴侶も。今は金で買える世の中になったんだ。美容技術の発展と資本主義の広まりに感謝しないとね。チャンスだけは平等なんだから、生まれで決まる大昔のシステムよりは遥かにマシだよ。」


虚しい現実を香月社長が語ったのと同時に、私服に着替え終えた朝希さんと小夜さんが部屋から出てくる。朝希さんはストリート系っぽいパンツルックで、小夜さんはお嬢様系……その表現で合っているのか自信がないが、とにかくロングスカートを基調とした服装だ。土曜日も似たような雰囲気の恰好だったし、基本的にそれが彼女たちの服の好みらしい。


「駒場さん、どうですか?」


「似合っていますよ。活動的な朝希さんらしい格好です。」


「嬉しいです!」


「小夜さんも似合っています。可愛らしくて落ち着いた服装です。」


にぱっと笑ってピースサインを示してきた朝希さんの返事を受け取ってから、小夜さんの格好にも言及してみれば……彼女はふいと視線を動かして小さく応答してきた。


「……どうも。」


「駒場君、今のは正解だよ。片方だけを褒めるのはダメだぞ。これからも気を付けたまえ。」


「そういうつもりで言ったわけではないんですけどね。……今日から本格的に事務所で撮影をすることになりますが、環境としては問題なさそうですか?」


「全然平気です! ……でも、ちょっとだけ音が漏れちゃうかもしれません。」


元気良く言い放った後で困ったように付け加えてきた朝希さんへと、苦笑しながら言葉を返す。


「大丈夫ですよ、多少賑やかな方が私たちとしても助かります。」


「ま、そうだね。静かすぎるから賑やかしのテレビでも置こうかと考えていたんだが、君たちの声の方が聞き応えがありそうだ。大いに騒いでくれたまえ。……内見の時の音のチェックからするに、他の階にも気を使わなくて平気だよ。」


そんなことまでやっていたのか。つくづく念入りなんだか抜けているんだか分からない人だな。俺たちからのゴーサインを耳にして、小夜さんがこっくり頷いて返答してきた。


「なら、朝希が眠くなっちゃう前に少し撮影をすることにします。この子、体育があった日は赤ちゃんみたいにすとんと寝ちゃうので。」


「……私、赤ちゃんじゃないよ。」


「夕食前になると、目がとろんとしてくるでしょうが。テンションが高いうちに撮っちゃうべきよ。」


「昨日はちゃんと寝たから大丈夫だもん。」


言い合いながらの二人が撮影部屋へと入っていったところで、モニターに向き直って動画のチェックを再開する。そういえば俺も学生時代は急激に眠くなることがあったな。帰宅した後、スイッチが切れたように短時間だけ寝ていた時期があったぞ。あれはどういう現象だったんだろう?


成長期の不思議を今更感じながら、新製品の飲むヨーグルトを紹介するさくどんチャンネルの動画の最終チェックを進めていると、香月社長がクスクス微笑みつつ話しかけてきた。


「お菓子とかを事務所に常備すべきかもね。あの年頃は兎にも角にもお腹が空くはずだ。」


「ですね、今度どこかで纏め買いしておきます。……何だか懐かしいです。自分が中学生だった頃を思い出しますよ。」


俺の場合は、部活動の帰りにいつもコンビニのコッペパンを買っていたっけ。今思えば他にも選択肢はあったはずなのだが、ジャムとピーナッツバターのやつを毎日交互に食べていたな。母親の帰りが少し遅めだったので、それで夕食までの空腹をやり過ごしていたのだ。


遠き中学生の日々を思い起こしながら相槌を打った俺に、香月社長も懐古の表情で乗っかってくる。


「私はあの子たちの匂いに懐かしさを感じたよ。体育があったからなんだろうが、少しだけ制汗スプレーの香りがしたね。青春の香りさ。」


「……社長、運動部だったんですか?」


「中学校では化学部だったよ。」


じゃあ何故『青春の香り』なんだ。同じように体育の後に使っていたということか? 微妙に腑に落ちない発言に首を捻っていると、香月社長が撮影部屋の方を見ながら会話を続けてきた。


「放課後にここでクリエイター活動をするのは、一種の部活動みたいなものなのかもね。彼女たちにはそのくらいの気持ちで楽しんでもらえるように、面倒事はこっちで処理していこうじゃないか。青春を謳歌させるのは『顧問』の役目さ。」


「やる気が出てくる比喩じゃないですか。」


うーん、顧問か。良い考え方だと思うぞ。だったら頑張ってサポートしていかねば。二人が結果を出せるようにフォローしつつ、日々の『部活動』を楽しんでやってもらう。中々やり甲斐がありそうな立場だな。


───


『じゃあ私、トップ行くね。フロストナイフ積みのグォールでやってみる。』


『なら私はボットで……あー、取られちゃったからミッドにするわ。ジャングルがアーバレストだと序盤がキツいでしょうし、私が一回そっちに寄ることになるかも。』


『うん、レーン下げ気味にしとくよ。』


「こんな感じでするっと始まることが多いですね。マッチングした直後の使用デスティニーを選ぶ画面から始まって、勝敗が決した時点でスパッと終わるってやり方です。連続で何試合分も撮って面白い試合だけを使うので、切り出すとこういう始まり方になっちゃうんですけど……きちんと区切った方が良いですか?」


二時間後。撮影部屋で編集前の今日撮った動画を流しながら尋ねてくる小夜さんに、俺は悩ましい気分で回答していた。なるほど、連続で撮っていることが影響していたのか。夏目さんや豊田さんと異なっているのは、『場面』ではなく『試合』で取捨選択をしているという点だな。使う試合は全部使うが、ボツになった試合は一切使わない。それもそれでシビアな話に感じられるぞ。


「始まり方はこのままでも良い……というか、『あり』だと思いますよ。明確にスタートさせた方が締まりは出ますが、今のやり方も自然な雰囲気があって魅力的ですから。どちらが良いと断定できるような部分ではなく、動画のスタイルの範疇なんじゃないでしょうか。」


「終わり方はどうですか?」


「そこは……そうですね、短く締めた方が良いかもしれません。毎回毎回長々と感想を語るのは蛇足でしょうが、決まり文句を組み込んだ十秒程度の締めは入れるべきだと思います。」


物事は頭よりも尾の方が印象に残るのだ。どちらかと言えば竜頭にすることに拘るよりも、蛇尾になることを避けるべきだろう。朝希さんが撮影に使っている椅子に腰掛けながら意見した俺へと、自分の椅子に座ってモニターを眺めている小夜さんが首肯してくる。


「分かりました、試してみることにします。他に何かありますか?」


「本当に重要な場面だけにテロップを入れるのはどうでしょう? 盛り上げたい瞬間や、ピンチの時なんかに。」


「重要な場面だけ、ですか。」


「これはさくどんさんからの受け売りなんですが、必要な編集を入れるメリットよりも、不必要な編集を入れてしまうデメリットの方が大きいらしいんです。『良い編集』はむしろ視聴者に意識させないものであって、引っ掛かりを与えるのは常に『くどい編集』なんだとか。テロップを入れることで場面を盛り上げるのは良案だと思うんですが……しかしお二人の動画は素材の時点で完成度が高いものなので、探り探り慎重に要素を付け足していくべきだと私は判断しています。」


動画を構成するにおいて、ゲームという素材の割合が大きすぎるのだ。例えば夏目さんの動画はシンプルな状態から様々な要素を付け足していくやり方なので、編集を入れるべき場面も相応に多くなるのだが、モノクロシスターズの場合はそうではない。あまり凝りすぎると却って邪魔になってしまうだろう。


無論やるゲーム次第ではあるものの、LoDは控え目の編集で動画にするのが一番だと思うぞ。……いやはや、難解だな。多分カットを多用する動画の作り方だとまた違ってくるんだろうし、ゲームではなく『やっている人間』に焦点を当てたい時も変わってきそうだ。編集のベストな割合は素材と目的次第ってことか。


編集をどこまで凝るかというのは、結局のところ経験が物を言う点なんだろうな。そこはクリエイターを通して学んでいこうと思案していると、小夜さんがダークグレーのロングヘアを弄りながら応じてきた。彼女は考え事をする際、自分の髪を指に巻き付ける癖があるようだ。


「つまり、『くどい編集』にならないラインを見極めるってことですか?」


「その通りです。いきなりテロップや効果音、エフェクトなどを大量に入れるのではなく、段階的に加減していくべきだと考えています。大きな変化は視聴者に違和感を生じさせますし、違和感は否定的な感情に繋がりますからね。お二人の場合は焦らず長期的な目線を持って、徐々に自分たちの編集スタイルを確立していくべきではないでしょうか。」


「じゃあ、テロップも慎重に試してみます。明日編集する時に教えてもらえますか?」


「了解しました、準備しておきます。……とりあえず今日はこの辺にしておきましょうか。そろそろ七時になりますし、帰る準備をしましょう。」


椅子から立ち上がって促してやれば、小夜さんも一つ頷いて席を立つ。ちなみに現在のこの部屋の内装は、壁際にモニター、カメラ、マイク、キーボード、マウスが二つずつ載っている机が設置されており、その前に二脚のゲーミングチェアが置かれているといった状態だ。机の下の床には一昨日運び込んだ二台のパソコン本体の姿もあるな。


溝が青く光るテンキー無しの朝希さんのキーボードと、キーが薄いテンキー付きの小夜さんのキーボード。ラジオ番組で使われるような四角い形状の朝希さんのマイクと、カラオケ用のそれが台にくっ付いた形の小夜さんのマイク。沢山のサイドボタンが付いている朝希さんの無線マウスと、二つのサイドボタンが付いた有線の小夜さんのマウス。


うーむ、改めて比較するとどう見ても朝希さんの方が『良い機材』を使っているな。パソコン本体もそうだし、椅子も、モニターも恐らくそうだぞ。そんな差に小さな笑みを浮かべている俺に、事務所スペースへと戻ろうとしている小夜さんが疑問を呈してきた。


「駒場さん? どうして笑ってるんですか?」


「いや、小夜さんは優しい人なんだなと思いまして。」


「へ? ……な、何ですかそれ。いきなりすぎます。」


「朝希さんの方に良い機材を回しているんでしょう?」


機材担当は小夜さんなのだから、そういうことであるはずだ。この前の朝希さんの『優しい』という人物評は的確なものであったらしい。机を指して指摘してやると、彼女は少し赤い顔で俯きながら否定を放つ。照れているのかな?


「ちっ、違います。偶然です。マウスは有線の方がレスポンスが良いからですし、キーボードはキーストロークが浅い方が私の好みだからですし、マイクは……マイクは、形がそっちの方が扱い易いからってだけの話ですよ。」


「そういうことにしておきましょうか。」


「実際そうなんです!」


慌てている様子で主張してきた小夜さんの声を背に、事務所スペースに移動してみれば……おー、よく寝ているな。応接用ソファの上で猫のように丸くなって眠っている朝希さんと、仕事中の香月社長と風見さんの姿が目に入ってきた。二十分ほど前に風見さんが帰社したタイミングで、朝希さんが眠気に負けてダウンしてしまったのだ。


だから余った時間で小夜さんとの打ち合わせをしていたわけだが……むう、熟睡じゃないか。ブランケットに包まっている朝希さんは、何とも気持ちの良さそうな寝顔で眠っている。そんな彼女を見て穏やかな気分になっている俺に、小夜さんが反論を続けてきた。


「それに椅子はアームレストが私好みだからあれを使ってるだけですし、モニターは……えっと、発色が私に向いてたんです! 駒場さん、聞いてますか? 変な勘違いしないでください!」


「分かっていますよ。」


「分かってない感じの言い方じゃないですか、それ! ……そしてあんたはいつまでぐーすか寝てるのよ! 起きなさい、ねぼすけ朝希!」


頬を染めたままでツカツカとソファに歩み寄って朝希さんを起こす小夜さんへと、熟睡していた彼女はゆっくりと目を開いた後……一言だけ発してからまた目蓋を閉じてしまう。


「……ぅ。」


「『ぅ』じゃない! もう帰る時間だから起きなさい!」


「ぅ。」


「こら、潜らないの!」


ブランケットに潜り込んで睡眠を継続しようとする朝希さんだったが、小夜さんは……おお、強引だな。彼女の髪をわしゃわしゃと掻き乱して、物理的に起こし始めた。


「あぅ……小夜ち、やめてよ。私、まだ眠い。」


「帰るんだって言ってるでしょうが。ご飯食べて、お風呂に入って、家で寝なさい。」


「……分かったよ、起きるから。」


そう言ってもぞもぞと身を起こすと、朝希さんはソファの上にぺたんと座って大きく伸びをする。これでもかというほどの大欠伸をしながらだ。髪がぼっさぼさになっているぞ。


「くぁ……ふ。おはよ、小夜ち。」


「はいはい、おはよう。さっさと出る準備をしなさい。」


「うん、する。」


とろんとした目付きで自分のバッグを探し始めた朝希さんを横目に、俺もブリーフケースを回収しながら香月社長と風見さんに断りを入れた。


「お二人を送ったら、私もそのまま帰宅しますね。」


「ん、了解だ。お疲れ様。」


「お疲れ様でした、駒場先輩。二人もまた明日ね。」


香月社長と風見さんの挨拶に三人で応答しながら事務所を後にして、エレベーターで一階に降りて屋外に出る。夏至が近いのでまだまだ明るい時間帯だが、今日はちょっと暗めな気がするな。曇っているからか。雨上がりの香りがするし、気付かないうちに小雨も降ったらしい。


「雨が降ったようですね。」


どんよりした薄明の空を見上げつつ呟いてみると、朝希さんの手を引いている小夜さんが反応してきた。眠いからなのか、朝希さんがずっとふらふらしているな。半分寝ているような雰囲気だ。


「みたいですね。気付きませんでした。……雨上がりのこの匂い、結構好きです。」


「分かります。私はどちらかと言えば降っている途中の香りの方が好きですが、上がった後の匂いも捨て難いですね。」


「雨上がりと降ってる最中だと違う匂いなんですか? 意識したことありませんでした。……こら朝希、ちゃんと歩きなさい。バッグ持ってあげるから。いつまで『ねむねむモード』なのよ、あんたは。」


「ぅ。」


『ねむねむモード』の朝希さんからバッグを受け取っている小夜さんに、駐車場目指して歩を進めながら返答する。何だかちょっぴり危なっかしいし、ゆっくりめに歩いておこう。


「どう違うかを言葉にするのは難しいですが、意識してみると別の香りがしますよ。昔担当タレントから教えてもらったんです。別々の名前も付いているんだとか。」


「雨の匂いにですか?」


「ええ、そうらしいです。」


「面白いですね。今度違いを確かめてみることにします。……朝希、着いたわよ。しゃきっとしなさい。」


小夜さんの呼びかけを耳にしながら軽自動車のロックを解除すると、朝希さんはふにゃふにゃな口調でポツリと宣言してきた。


「……助手席、私ね。助手席がいい。」


「好きにしなさいよ、もう。……宿題、あるんだからね。帰ったらやるわよ。」


「……やりたくない。」


「私だってやりたくないけど、やるの。数学は明日の朝一だから、やらないと間に合わなくなるわよ。」


後部座席に乗り込みながら注意した小夜さんに、俺も運転席に腰を下ろして質問を送る。数学か。俺は苦手だったな。数学と国語が苦手で、理科と英語が得意という訳の分からない中学生だったぞ。高校の時もそんな具合だったから、文系理系の選択で大いに迷ったっけ。


「二人は同じクラスなんですか? 双子はこう、あえて分けられるようなイメージがあったんですが。」


「一年生の時は別のクラスでしたけど、今年から一緒になったんです。中二から始まる特進クラスは一クラスだけですから。」


「……特進クラスなんですか。」


「うちの学校は中高一貫なので、あんまり意味ないんですけどね。別の高校を受験しようとしてる子とか、大学受験を見越して今から基礎固めをしたい子とか、あとは私たちみたいに授業料の一部免除を狙ってる子が居るクラスです。……エスカレーターで上がった後の高等部の授業料、中学時代の成績が良いと一定額免除されるんですよ。堅い言い方をすると、給付奨学金制度ってやつですね。」


やっぱり俺が通っていた公立中学校とは全然違うらしい。授業料の免除を視野に入れている小夜さんたちも凄いが、『大学受験のための基礎固め』というのも相当だぞ。中二の時点で大学受験を意識しているのか。継続は力なりを地で行っているな。


うーん、どうなんだろう。中学高校時代を勉強に使ってしまうのは勿体無いと感じる反面、社会に出た後で良いスタートを切れると思えば……とんとんどころかむしろ得かもしれないな。何に価値を見出すか次第だろうが、俺はそうしておけば良かったと後悔しているぞ。学生時代にしこたま遊ぶか、あるいは二十代を金持ちで過ごすか。自由度が高い分、後者の方が色々と楽しめそうだ。


とはいえまあ、どっちにしろ無いものねだりだな。俺は華やかな青春を過ごしたわけではなく、また現時点で金持ちでもないのだから。両方取りこぼすとは情けない限りだぞ。こういうのが『ダメな典型例』なのかもしれない。


虚しくなってくる考えを頭から追い出しつつ、車を発進させて小夜さんに相槌を打つ。ちなみに助手席の朝希さんは……これ、寝ているのか? シートベルトをした直後、再び夢の世界へと旅立ったようだ。すぐ寝るな。寝付きが良いのは羨ましいぞ。


「そうなると、勉強の時間もきちんと確保していかないといけませんね。」


「パソコンを事務所に持ってきちゃいましたから、自然と勉強の時間が増えますよ。……お金を貯めてもう二台組まないといけませんね。土日はさすがに暇になるはずです。」


「……やはり困りますよね。」


「ゲームの練習が出来ないのと、編集を家でやれないのが少しだけ厳しいです。でも今は撮影環境を優先したいので、我慢することにします。」


助手席に手を伸ばして朝希さんの髪を整えながら、小夜さんは悩ましそうな表情で話しているが……どうにかしてあげたいな。スマートフォンがあるとはいえ、ゲームが好きな彼女たちにとって『パソコン禁止』は中々キツいはずだぞ。ヘッドライトに照らされた薄暗い車道を見つつ思考を回して、思い付いた提案を小夜さんに投げた。


「良いスペックではないので動画の編集は無理かもしれませんが、私の家に一台ノートパソコンが余っていますよ。使いますか?」


「……駒場さん、際限なく私たちを甘やかさないでください。事務所の部屋を貸してくれたり、送り迎えをしてくれたり、収益化のために頑張って動いてくれてるだけでも充分なのに、その上私物のパソコンを貸そうとするのは幾ら何でもやり過ぎです。」


「……そうでしょうか?」


「私たち、まだホワイトノーツにも駒場さんにもびた一文渡せてないんですからね? そこまでされたら申し訳なさすぎて参っちゃいます。……今でさえ凄いプレッシャーなんです。ここまでやってもらっておいて、いつまでも収益化できなかったらと思うと吐きそうになりますよ。」


後部座席の窓から外を眺めつつ弱音を口にした小夜さんに、車のエンジン音を背景にして返事を返す。気付かぬうちにプレッシャーを感じさせてしまっていたらしい。反省だな。


「いつまでも収益化できなかったら、それはお二人ではなく私たちの責任ですよ。専門事務所の名折れです。……万が一時間がかかったとしても、お二人が諦めない限りは私も諦めません。そこは覚えておいてください。」


「ほら、また甘やかす。……そういうことやってると、私たちダメダメになっちゃいますよ? つい頼っちゃいそうになるじゃないですか。」


「ダメダメになってしまうのはまあ、少し困りますね。ですが、私としては遠慮なく頼ってくれた方がやり易いんです。もしダメダメになっても支えてみせるので、全力で寄りかかってきてください。こちらから手を離すことは決してありませんから。」


「駒場さんって、あれです。ダメ女製造マシーンですね。……朝希に気を付けてください。この子、物凄い甘え上手ですから。今はまだ遠慮して猫被ってますけど、親しくなるとぐいぐい甘え始めるんですよ。それはもうベタベタに。」


睡眠中の双子の片割れを指差して警告してきた小夜さんへと、苦笑いで声を放った。『ダメ女製造マシーン』か。結構な評価が飛び出してきたな。


「猫を被っているんですか? 朝希さんは自然体で接してくれていると思っていました。」


「計算じゃなくて天然だから分かり難いだけです。……朝希の髪、私が毎日洗ってるんですからね。『小夜ちに洗ってもらった方が気持ち良いから』っておねだりしてくるんですよ。全力で無防備に甘えてくるから、どうにも突っ撥ねられなくて。」


「あー、なるほど。そういう意味ですか。」


「多分ですけど、朝希と駒場さんは凄く相性が良い……じゃなくて、悪いと思います。良すぎて悪いんです。朝希が甘え始めたら、どこかでストップをかけてくださいね。甘やかしがちな駒場さんと、甘え上手な朝希が噛み合っちゃうのは危険すぎますよ。」


割と真剣な顔付きで言う小夜さんに首肯しながら、赤信号でブレーキを踏んで話題を変える。まあでも、大丈夫だと思うぞ。朝希さんが甘え上手かはともかくとして、俺はそんなに誰かを甘やかすようなタイプではない……はずだ。


「覚えておきます。……そういえば、小夜さんたちはどうしてライフストリームを選んだんですか? ゲーム実況なら他のプラットフォームも人気だと思うんですが。」


「第一に、録画した動画じゃないといけなかったんです。……収益化のための確認をしてくれたってことは、初期の頃の朝希の『踊ってみた動画』も見ましたよね? この子、あれを短いスカートでやった動画を上げようとしてたんですよ。アップロードする前に私が止めて、ハーフパンツで撮り直させましたけど。」


「……それは危険ですね。」


「いっそ清々しいくらいにパンツが丸見えでした。三分の間に二十回は見えてましたね。私がしつこく注意したので今はもう警戒心が出てきてますけど、活動し始めた中一の頃は本当に無防備な子だったんです。……そんな朝希に生配信なんて絶対無理だと判断したので、ライブじゃなくて動画のサイトっていうのが条件にあったんですよ。その上でお金を稼ぎたいとなれば、当時日本での広告掲載が持ち上がり始めてたライフストリームしか選択肢がありませんでした。」


どうやら双子の間では、小夜さんが一足先に警戒心を身に付けたらしい。……この場合小夜さんが早いというか、朝希さんが若干遅かったのかもしれないな。世に出る前に動画を消してくれて良かったぞ。


何とも言えない心境で唸っていると、小夜さんが微妙な面持ちで続きを語ってきた。


「私たちが動画内で普通に名前を出してるのも、初期の朝希が私を『小夜ち』って呼んじゃうのを止め切れなかったからなんです。あまりにも多すぎたので、カットで対処するのは諦めて下の名前を出すことに決めました。」


「そんな事情があったんですか。」


「おバカなんですよ、この子は。……けど、そこが朝希の魅力なんです。この子の素直さは人を惹き付けますから。そういう部分を制御するために、私がセットで生まれたのかもしれません。」


「……朝希さんのこと、評価しているんですね。」


眠っている朝希さんを見つめて柔らかい表情になっている小夜さんに、ハンドルを握りつつ呟いてみれば……バックミラーに映る彼女は小さく息を吐いた後、複雑な笑みで答えてくる。諦観と、憧れと、思慕が入り混じったような切ない笑みだ。


「羨んでるんですよ。この子は私が欲しいものを全部持ってますから。真っ直ぐに喜んだり、感謝したり、愛情を表現したり。私がやりたくても出来ないことを、平然とやってのけるんです。……朝希は私がなりたい私ってわけですね。なまじ見た目が同じだから、尚のことそう思えちゃいます。」


「目標、ということですか?」


「じゃなくて、隣の芝生ですよ。私は朝希を羨んでますけど、目指してはいません。どう考えても私は朝希にはなれませんから。……いちいち深読みする所為で素直に喜べなくて、変に強がるから真っ直ぐ感謝できなくて、恥ずかしくなっちゃって愛情を表現できない。それが私なんです。ここはもう一生変わらないでしょうし、とっくの昔に諦めてます。」


そこで今度は大きなため息を吐いた小夜さんは、窓の向こうの風景に目をやりつつ話を締めてきた。外に広がっているのは暗くもなければ明るくもない、夜になりかけの黄昏時の街だ。何となく心細くなる風景だな。


「参っちゃいます、本当に。『良いバージョンの私』が生まれた時から隣に居るわけですからね。これで嫌いになれたらまだ救いがあったんでしょうけど、私は朝希のことが好きなんです。だからどうにもなりません。お手上げですよ。」


うーむ、一昨日の朝希さんの話を思い出すな。朝希さんが小夜さんに憧れているように、小夜さんも朝希さんのことを羨ましく思っているわけか。『隣の芝生』というのは言い得て妙なのかもしれない。誰より近くに居る相手だからこそ、どうしようもなく気になってしまうのだろう。


双子という存在についてを思案しながら、小夜さんに対して言葉を送る。本心からの言葉を、ストレートにだ。


「私の意見なんて気休めにもならないでしょうが……私は小夜さんのことを、魅力的な人だと思っていますよ。」


「……きゅ、急に何を言い出すんですか。」


「素直に表現できないのかもしれませんけど、でもそうしたいとは考えているわけでしょう? それは小夜さんが優しい人である何よりの証拠ですよ。朝希さんのことを話している時の小夜さんは、非常に柔らかい表情になっていました。とても魅力的な表情に。……朝希さんに真っ直ぐな魅力があるという点は否定しませんが、しかし小夜さんにも小夜さんの魅力があるはずです。私はそれをいくつか見つけることが出来ましたし、もっと知りたいと感じています。」


「なっ、何を……何の、何ですかそれ。」


忙しなく視線を彷徨わせている小夜さんに、車を左折させてから残りを伝えた。朝希さんの魅力が素直で純粋なそれだとすれば、小夜さんが持っているのは情味ある親近の魅力だ。より身近で、共感できる人間性。小夜さんにはそういう温かな魅力があるぞ。


「つまりですね、私からすれば小夜さんの不器用さは好ましいものに思えるということです。仮に同世代で出会っていたら、私は小夜さんに惹かれていたかもしれません。そう感じる人間も確かに居るんですよ。朝希さんの良さに目を奪われて、自分の良さを無視してしまうのは勿体無いことなんじゃないでしょうか? 小夜さんにも朝希さんと同じくらい、魅力的な部分が沢山あると──」


「そっ、そこまでで! そこまででいいです! 分かりましたから! 充分伝わりました! ……よく言えますね、そういうの。駒場さんも朝希と似たタイプじゃないですか。」


「いやまあ、思っていることをそのまま言葉にしただけですよ。私は本心から小夜さんが魅力ある人だと──」


「あああ、分かりましたってば! もう大丈夫ですから! ……ちょっとあの、窓開けますね。」


自分の顔を広げた手で隠しながら断った小夜さんは、暫く無言で窓からの夜風を浴びていたかと思えば……窓を閉じて軽く咳払いした後、ジト目をこちらに向けつつ口を開く。


「……やっぱり甘やかしすぎですよ、駒場さんは。肯定しまくりじゃないですか。全肯定人間です。」


「それはまた、何とも独特な表現ですね。……ただ、今のは世辞や甘言ではありませんよ? マネージャーとしての贔屓目を抜いても、小夜さんは人並み以上の魅力を持っています。そこは胸を張って断言できますし、紛うことなき本音です。」


「分かってますって。駒場さんがその、本気だっていうのはしっかりと伝わってきました。……だからまあ、ありがとうございます。そこそこ嬉しかったです。」


「伝わったのであれば何よりです。……それにしても、小夜さんと朝希さんは本当に良い関係の双子なんですね。一人っ子の私としては少し羨ましく思えてしまいます。」


要するに、補完し合っているんだな。互いに想い合って、支え合っているわけか。実に特別な関係だなと感心していると、小夜さんが肩を竦めて応答してくる。


「そういう風に言われた時、姉妹が居る人だと『一人っ子の方がいいよ』って反応になりがちなのかもしれませんけど……私の場合はいつも自慢を返してます。朝希とお姉ちゃんが居てこその私ですから、一人っ子は嫌です。」


「ええ、私から見ても自慢に値する家族だと思いますよ。お姉さんも、朝希さんも、もちろん小夜さんも。とても立派な人たちです。」


「……はい、出ましたね。また肯定。そういうことやってると、そのうち変な女の人に引っ掛かっちゃいますから。賭けてもいいです。」


「……今のところ女性にはあまり縁がありませんが、気を付けることにします。」


信号待ちで停車しながら苦い笑みで応じてみれば、小夜さんは短く押し黙った後で小さめの声を寄越してきた。視線を窓の外に固定したままでだ。斜め前に停まっているタクシーのブレーキランプの所為で、顔が赤く染まっているな。


「まあ、あの……私に対してはやってもいいですけどね。つまりその、私だったら他意はないって理解できてますから。でも他の人にはあんまりやらないように注意してください。変な勘違い、されちゃいますよ。」


「……変な勘違い?」


「だから、要するにですね……ああもう、とにかく私以外には肯定禁止です。私が引き受けてあげますから、他の女の人には可能な限りしないでください。いいですね?」


「……はい、分かりました。」


小夜さんの迫力に気圧されて頷いてしまった俺へと、彼女は大きく鼻を鳴らしてから念押しを飛ばしてくる。何故だか知らないが、ちょびっとだけ満足そうにも見える顔付きだ。


「約束ですからね。駒場さんの全肯定の被害者は、私だけで充分なんです。じゃないと悪い女の人に目を付けられて、のし掛かられてぺしゃんこに潰されちゃいますよ。」


「……そんな展開は到底想像できないんですが。」


「私には出来るんです。私は『甘やかされ屋』の朝希が変な人に引っ掛からないように、これまでずっと目を光らせてきましたからね。今度からは『甘やかし屋』の駒場さんのことも、朝希のついでに見張ってあげます。朝希の甘え欲も駒場さんの甘やかし欲も私がきっちり背負ってあげますから、そのつもりでいてください。」


「あーっと……了解しました、お世話になります。」


ちょっとよく分からないままで首を傾げて返答しつつ、一ノ瀬家目指して車を走らせていく。……まあ、そこまで気にしなくても平気だろう。俺が関わる女性なんて現状だと担当か同僚だけで、その人たちと何かあるだなんて有り得ないのだから。我ながら悲しくなるほどに縁がないな。


十七歳の夏目さんと中学生のモノクロシスターズの二人は論外として、香月社長や風見さんは容姿が俺と釣り合わなさすぎる。平々凡々とした見た目の二十五歳では、あの美形二人に相応しくないだろう。よって『引っ掛かる』心配は皆無だ。杞憂にも程があるぞ。


暫くは仕事が恋人になりそうだなと苦笑しながら、だったらせめて仕事とだけは上手くやっていこうと前向きにため息を吐くのだった。

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