Ⅰ.さくどん ⑦
『駒場さん! あのっ、えと……落ち着いて聞いてください!』
いやいや、そっちが落ち着いて欲しいぞ。過ごし易い気温の日曜日の昼、俺は自宅のベッドの上で夏目さんからの電話を取っていた。昨日は夜遅くまでライフストリームの動画を研究していたので、この時間まで寝てしまったのだが……あー、まだ頭が上手く働かないな。今何時だ?
机の上の置き時計が午後一時十二分を示していることを確認しつつ、『アフタヌーンコール』をしてくれた夏目さんへと電話越しの応答を送る。
「どうしました? 夏目さん。」
『ぁ……ひょっとして、寝てましたか?』
「寝ていましたが、むしろ助かりました。やらなければいけないことがあったのに、目覚ましをかけ忘れていたんです。」
半分嘘だが、半分は本当だ。今日は出掛けるつもりだったから、起こしてくれて助かったぞ。大した用事ではないので目覚ましは端からかけない予定だったものの、こう言った方が夏目さんは気にしないだろう。
ベッドから起き上がりつつ返事をしてみれば、夏目さんは何だか楽しそうな声で応じてきた。
『それなら良かったです。……寝起きの駒場さんの声、こんな感じなんですね。』
「あー……変ですか?」
『変ではないです。ただその、いつもよりちょっとだけ油断してる声なので……何かあの、いいなって思います。』
「……なるほど。」
何が良いんだろうか? 覚醒してきた頭で疑問に思っていると、夏目さんは慌てたような口調で話題を切り替えてくる。
『ああいや、深い意味はないんですよ? たまにはそういう声もいいなって思っただけで……じゃなくて、動画! 動画がすっごい伸びてるんです!』
「動画が? ……どの動画ですか?」
『デスソースのやつです。コメントを見るとですね、どうも外国の有名なライフストリーマーさんが話題にしてくれたみたいで。それが切っ掛けで伸びてるらしいんですよ。普段はそんなに見ない英語のコメントも結構あって、それでびっくりして……あの、電話しちゃいました。すみません、お休みの日なのに。』
段々と冷静さを取り戻してきたらしい夏目さんに返答しながら、パソコンの電源を入れてログインした。外国のライフストリーマーが『火種』になったということか。
「構いませんよ、俺としても……私としても重要な報告です。再生数は現時点でどのくらいなんですか?」
『えと、今で三十万くらいです。』
「三十万? ……待っていてくださいね、今開きます。」
それは多いな。とんでもなく多いぞ。デスソースの動画を投稿したのは水曜日なので、四日間でそれだけ再生されているということになる。ちなみに夏目さんの動画の平均的な再生数は商品紹介が一週間後に四、五万、料理動画やチャレンジものが六万から八万という数値だ。物によって十五万を超えたり二万を下回ったりもするものの、四日で三十万というのは相当伸びている動画と言えるはず。
驚きで一気に目が覚めたのを自覚しつつ、起動したパソコンでブラウザを開いてブックマークをクリックして、ライフストリームの夏目さんのチャンネルに移動してみれば……何とまあ、本当に三十万再生だ。ついでに自作パソコンの方も伸びているな。このまま行けば前編が二十万再生に届きそうじゃないか。
現状のライフストリームのシステムだと、再生数が急激に伸びた動画は不特定多数の個々人のメインページにも表示され易くなるはず。つまり、一度伸びれば更に伸びるということだ。動画を開いてコメントをチェックしながら、夏目さんへと声をかけた。
「おめでとうございます、夏目さん。編集に力を入れた甲斐がありましたね。切っ掛けには幸運が絡んでいるかもしれませんが、夏目さんの編集があればこその数字ですよ。」
『うぁ、はい。ありがとうございます。……ちなみになんですけど、一番上の英語のコメントって何て書いてあるか分かりますか? 何かこれ、凄い高評価みたいなんですけど。』
「あーっとですね、私の英語の知識が間違っていないのであれば……夏目さんがデスソースを舐めた時の顔が、父の足の臭いを嗅いだうちの犬とそっくりだ的なことが書いてあります。英語だともう少しウィットに富んだ表現になりますけど、単純な意味としてはそんな感じですね。」
『あっ、なるほど。……まあ、楽しんでくれてるなら何よりです。』
女性としては何とも言えない評価だろうな。確かに凄い顔になっていたし、分からなくはないコメントだぞ。他の英語のコメントもチェックしながら、微妙な声色で答えてきた夏目さんへと話を続ける。
「登録者数はどうですか?」
『再生数ほど一気にって感じではないですけど、普段よりは間違いなく増えてます。……香月さんのお陰ですね。紹介してくれたライフストリーマーさんも、英語の字幕があったから見てくれたみたいですし。』
「ここまで伸びれば、国内の視聴者も増えるでしょうね。視聴してみようという気になるはずです。」
『なので、動画の順番を入れ替えることにしました。この機に面白いのを連続で上げようと思います。……日曜日に申し訳ないんですけど、良ければチェックしてくれませんか? いつもより急ぎになっちゃうので、不安な部分があるんです。』
おずおずと頼んできた夏目さんに、マウスを動かしながら回答した。出掛けるのは取り止めだな。こっちの方が遥かに重要だろう。
「勿論やりますよ。折角のチャンスを逃すわけにはいきません。……こうなると、ハーモニーランドの動画も急ぎたいですね。」
『私もそう思ってます。ハーモニー関係は外国の方も興味を持ってくれるでしょうし、もしかしたらチャンネル登録してくれるかもしれません。明日と明後日で気合を入れて撮って、編集も急いでみる予定です。』
うーむ、アドバイスをくれた富山さんにも感謝しないといけないな。国外のライフストリーマーが火付け役になってくれることもあるわけか。無論基本的な編集や内容が整っていてこそだが、今回は英語字幕が大きく役に立ったらしい。
今度お礼を言いに行こうと思案しながら、夏目さんへと発言を返す。
「とにかく、正念場です。ここで視聴者を定着させられれば、一気に登録者が増えるかもしれません。私も可能な限りにフォローするので、何かあれば遠慮なく言ってください。」
『はい、頑張ってみます。……それであの、タイミング的にちょっとおかしいかもですけど、気になったことを聞いてもいいでしょうか?』
「何でしょう?」
『駒場さんって、プライベートでは自分のことを俺呼びなんですか?』
本当に関係がないな。さっき寝起きでぼんやりしていた所為で、『私』ではなく『俺』と言ってしまったからか? 謎の質問に困惑しつつ、夏目さんへと肯定を飛ばす。
「そうですね、プライベートではそうなります。それがどうかしましたか?」
『じゃあ、あの……嫌ならいいんですけど、二人っきりの時だけは私に対してもそうしてくれませんか? 良ければでいいんです。ダメなら諦めます。』
「いや、それは……嫌というわけではありませんが、失礼じゃないでしょうか?」
そんなことを頼まれるのは初めてだな。夏目さんの心境を読めなくて戸惑っている俺に、担当クリエイターどのは小さな声で理由を語ってきた。
『全然失礼じゃないです。そっちの方がその、距離が近い感じがします。何かこう、特別な感じが。……あのでも、私呼びでも別に大丈夫ですよ? よく考えたら変なお願いしてますね、私。忘れてください。』
「そちらの方が夏目さんがやり易いのであれば、言い方を変えるくらい何でもありませんよ。『俺』にしましょうか?」
『……はい、お願いします。』
むう、分からん。『私』の方が丁寧な感じがして好きなんだけどな。とはいえわざわざ頼んでくるのであれば、変えることに否などないぞ。正直なところ、俺にとっては『どっちでも良い』にカテゴライズされる物事だし。
「それでは、今後二人だけで話す時は『俺』にします。……他に何かありますか?」
『い、いえ! 無いです! ……じゃあえっと、すぐに動画を送りますね。チェックよろしくお願いします。』
「了解です。」
ちんぷんかんぷんな会話を終えた後、スマートフォンをベッド脇の充電器に戻して考える。一人称の件は一先ず置いておくとして、動画が伸びてくれたのは心から嬉しいぞ。後で火付け役のライフストリーマーのチャンネルに登録しておこう。せめてものお礼だ。
さて、それじゃあ……香月社長にも一応メールで報告を入れておくか。そしたらシャワーを浴びて、動画の確認をしなければ。休日に仕事をするのは歓迎すべき事態ではないが、今回ばかりは能動的に取り組もうという気分になれるぞ。俺もちょっとは制作に関わっているからかもしれない。
……よし、豪勢にお湯を溜めてしまおう。祝いの昼風呂だ。それで気合を入れた後、すっきりした頭でチェックに取り掛かるとするか。そして一段落した頃にコンビニに買い物に行って、夕食のデザートに三百円くらいのカップケーキを買うのだ。我ながらささやか過ぎる『ご褒美』だけど、分相応な良い休日になりそうだな。
───
「いやぁ、伸びているね。最高の気分だよ。さすがはうちのクリエイターだ。」
そして一夜明けた月曜日の早朝。満足げな面持ちで『世界一辛いデスソースにチャレンジ!』というタイトルの夏目さんの動画を見ている香月社長へと、俺はため息を吐きながら注意を投げかけていた。そんなことより早く準備を進めて欲しいぞ。あと少しで事務所を出る時間になるんだから、悦に入っている場合じゃないだろうに。
「香月社長、準備はどうしたんですか? 六時には出ますよ。」
「大丈夫だよ、駒場君。荷物は家で纏めてきたし、ビデオカメラの予備バッテリーも充電し終えた。私は既にハーモニーランドに行ける状態さ。言わば『ハーモニーモード』だ。」
「……存外楽しみにしているみたいですね。」
「ずっと行きたかったからね。両親が厳しくて学生時代は行けなかったし、社会に出てからは忙しくて暇が無かったんだ。それにほら、一人で行くのは何だか寂しいだろう? 実際良い機会なんだよ、今回の撮影は。」
つまるところ、俺たちはこれからハーモニーランドに向かう予定なのだ。途中で夏目さんを拾って、開園に間に合う時間に到着するつもりでいる。そのために早朝から事務所に集まったわけだが……うーん、香月社長はウキウキだな。俺はちょっと眠いぞ。
ちなみに今現在のデスソース動画の再生数は三十五万を超えており、『自作パソコンに初挑戦!』の前編後編はそれぞれ十八万弱と十三万強で、事務所所属の報告動画である『さくどんからの重要なお知らせ』は十二万ほどであるようだ。どれも予想より多いが、やはりぶっちぎりでデスソースが伸びたらしい。
ここからも多少伸びるであろうことを加味すると、デスソースと自作パソコンを合わせて百万再生も狙えそうだな。……その点に関しては手放しで喜んでいるものの、俺としては自作パソコン動画の前編と後編の差が気になるぞ。五万弱の差があるわけなのだから、前編を見た段階でそれだけの視聴者が『離れた』という意味であるはず。
『第一話』の再生数が突出するのは往々にしてあることだし、半数以上が残っている時点でかなり凄いとは思うのだが、更に上を目指すならこの『取りこぼし』にも目を向けなければなるまい。若干のマイナス要素が含まれる部分だから、そういったことを思案するのはマネージャーたる俺の役目だろう。
いやまあ、これ以上の『定着』を望むのは欲張りすぎかもしれないが……先を見ておいて悪いことなどないはず。夏目さんにはモチベーション向上のために大いに喜んでもらって、俺はその間に足元の細かい改善点を調べるべきだ。いつの日か彼女が気にし始めた時に、的確な助言を送れるようにしておかなければ。
そのためにもライフストリームの調査、調査、調査だな。さくどんチャンネルのトップページを見つめながら思考している俺に、香月社長が報告を寄越してきた。
「そうだ、駒場君。二人目のクリエイターの所属が正式に決まったよ。近いうちに私と君で名古屋に会いに行くから、そのつもりでいてくれ。多分新幹線で日帰りになるだろうけどね。」
「名古屋に? 契約をしに行くということですか?」
「メインはむしろ『顔合わせ』だよ。必要な時はこちらに来てもらうが、名古屋に住んでいる以上は電話やメールでのやり取りが主になる。直接話す機会は貴重だから、有意義に使ってくれたまえ。」
「私はまだどんな動画を投稿しているのかも、年齢や性別も知らないんですから、『有意義』に使いようがありませんよ。きちんと報告してください。」
愛知県か。『遠い』というほどではないが、気軽に行き来できる距離でもないな。いきなりすぎる内容を受けて苦言を呈してみれば、香月社長は毎度お馴染みの『ドヤ顔』で詳細を言い放ってくる。何故そういう顔が出てくるんだ。心境がさっぱり分からんぞ。
「『ロータリーマン』という名前で活動している男性だよ。本名は
「家庭を持っているとなると、プレッシャーが一気に増しますね。投稿しているのはどんなジャンルですか?」
「車だよ。車を弄って改造して、サーキットや公道で走らせたり、部品や工具の紹介をする。そういう動画が六割かな。そして残る四割は夏目君とは方向性が違う商品紹介さ。洗濯機とか、ウォーターサーバーとか、炊飯器とか……まあ、『生活家電系』ってやつだ。奥さんから意見をもらってやっているらしいよ。『珍しい』よりも、『実用性』を重視した紹介の仕方だったね。」
ふむ、車か。個人的にも興味があるジャンルだな。家電の紹介というのも需要がありそうだ。……しかし、家庭持ちのマネジメントは緊張するぞ。クリエイター以外の人生も背負うことになるのだから、気負わない方がおかしいだろう。
内心で尻込みしながら、香月社長への質問を続けた。
「動画は後で確認しておきます。……豊田さんは他にも仕事をしている方なんですか? 今のところ広告収入だけだと生活していけませんよね?」
「実家が車の整備工場だから、そこで働きながら投稿しているらしいね。とりあえずはそのスタイルを……要するに、『動画は副業』という姿勢を継続していくそうだ。工場自体は数年前に亡くなった父親から兄が継いだみたいだよ。撮影の手伝いもしてくれているようだし、兄弟仲は特に悪くないんじゃないかな。」
「現状に不満があって、ライフストリーマーをやっているわけではないということですね?」
「ん、どちらかと言えば『趣味の延長』というタイプだね。……ただし、本気で打ち込む意志があることは確認済みだよ。事務所に所属しようと思った切っ掛けも、スポンサー契約の煩雑さに苦しんでのことらしい。オイル関係の宣伝を頼まれて一度受けてみたものの、諸々の手続きが面倒で個人でやることに限界を感じたんだそうだ。」
もうスポンサーが付いたことがあるわけか。それは凄いなと感心しつつ、ライフストリームの検索窓に『ロータリーマン』と打ち込む。おー、結構出てくるな。十分前後の動画を週に二、三本ほどのペースで投稿しているらしい。
「今後もスポンサー契約を受けていきたいということですか。」
「何せ車は金がかかるからね。家族も協力的ではあるんだが、第二子が生まれて不安を感じ始めたらしいよ。動画投稿は続けていきたいものの、趣味の範疇に収めるのが難しくなってきたわけさ。ライフストリームでも収入を得ないとキツいみたいだ。」
「なるほど、継続的な投稿をするための決断ですか。……この動画は面白そうですね。オオカワのNE300をレストアするやつ。オオカワ自動車の名車の一台なんですよ? これ。オオカワはこの一台を最後にロータリーエンジンから手を引いてしまったんです。ロータリーエンジンと言えばミネザキですけど、NE300だけはその評判を覆す車だと──」
「そこまでだ、駒場君。その話は名古屋に行った後で豊田さんとやってくれ。私は車に詳しくないんでね。正直、私が期待しているのは家電紹介の方さ。……まあ、相性が良さそうで何よりだよ。マネジメントも順調にいきそうじゃないか。」
チャンネルの登録者数は十万人強か。現時点での日本ライフストリーム界では上位と言える数だな。……むう、NE300のレストアはまだ始まっていないようだ。昨日投稿された動画は、購入した中古車の状態確認で終わっている。これはもう普通にプライベートで続きが見たいぞ。
こういうジャンルは万人が見るタイプではないが、代わりに根深いファンが定着してくれそうだな。投稿された中にはエンジンを降ろしているサムネイルもあるし、DIYレベルではなく本格的に『弄っている』らしい。
車自体は非常に身近な物なのだから、見せ方さえ工夫すればライト層も視聴してくれるかもしれないぞ。……うーむ、名古屋に行く前に研究しておくべきだな。確か海外で人気の車専門チャンネルがあったはずだ。そういったチャンネルの動画も参考にしてみよう。
『フェンダーカットの方法と解説』というややディープめなタイトルを見ながら、手帳に『車関係の動画チェック』と書き込んでいると、香月社長がモニターを横目にしつつ豊田さんに関する会話を続けてきた。社長も自分のパソコンで彼のチャンネルを開いているらしい。
「電話で話した限りだと、柔らかくて気弱な性格って印象だったね。撮影は兄に手伝ってもらっていて、編集の方は奥さんが手伝っているらしい。……ちなみにだが、公道での運転は尋常じゃないほどに丁寧だよ。そこも事務所としては好印象かな。イメージ的にもクリエイターの安全的にも、事故は怖いしね。」
「顔は普通に出しているんですね。」
「初期の動画ではマスクをしていたが、本気でやると決めた時点で出したんだそうだ。兄は現在もマスクをしているものの、それほど『顔出し』を嫌がってはいないらしい。しかし奥さんと子供はNGだから、そこは頭に入れておいてくれ。」
「了解しました、注意します。……こうなると、いよいよ営業担当が必要になってきますね。ジャンルが絞れているのであれば、こちらから積極的にアクションをかけるべきです。カスタムパーツやオイルの製造元だけではなく、パーツショップや板金屋、洗車専門店やタイヤショップ、カーナビや内装関係の小物、工具や塗装用のスプレー。『車関係』となると選択肢が山ほどありますから、数を撃てばこの段階でも当たると思いますよ。」
自動車メーカーそのものまで行くと高望みしすぎだろうが、日本には小規模な車関係の店が大量にあるのだ。民放で広告を打つよりは遥かに安い値段で引き受けられるだろうし、目敏い人ならスポンサーを引き受けてくれるかもしれない。
悩みながら放った俺の発言に、香月社長は難しい表情で応じてくる。
「一本だけの動画のスポンサーか、継続的なスポンサーか。そういった点も詰めていく必要がありそうだね。ゴテゴテの『スポンサー賛美動画』は反感を買うだろうし、バランスも調整しないといけない。そこは豊田さんも交えて話し合おう。骨子にするのは私たちの都合ではなく、あくまで彼のビジョンであるべきさ。」
「その理念には賛成しますが、営業担当についてはどうします?」
「そりゃあ探すが……君、営業も出来たりしないかい?」
「……気乗りはしませんし、ノウハウも持っていませんが、やれと言うならやります。企業によってはマネージャーが直接営業を行うケースもありますしね。」
『命じられればやるが、やりたくはない』という気持ちを前面に押し出して答えてみれば、香月社長は目を逸らしながら曖昧に締めてきた。
「……まあ、じっくり考えてみようか。営業車も買わないといけないしね。赤字だけは急成長さ。」
「自車でやれと言うのは滅茶苦茶ですし、そこは仕方がないですよ。私が自分の車を使っている現状がおかしいんです。」
「余裕が出てきたらマネージャー用の車も買ってあげるよ。その時は君に選ばせてあげるから、暫くは我慢してくれたまえ。」
それはまあ、ちょびっとだけ嬉しいな。まだまだ先になりそうだが、その時は自分の贔屓のメーカーの自動車を頼もう。俺は好きなメーカーがあるのだ。リース中の軽自動車もそこのやつだし。
そんなことで我慢できてしまう自分に苦笑しながら、事務所の時計に目をやって香月社長を促す。
「なら、楽しみに待っておきます。……そろそろ出ましょうか。」
「ん、もう時間か。」
呟くと香月社長はパソコンの電源を落としてデスクを離れて、事務所の隅に置いてあるキャリーバッグを手に取る。俺も私物が入っているブリーフケースとビデオカメラ用のバッグを持った後、中にきちんと複数の予備バッテリーが仕舞われていることを確認してから……よし、行くか。二人で事務所を出て鍵を閉め、ビル側が契約している警備会社の警報装置を作動させた。
「……駒場君は指差し確認をする人間なんだね。」
「意識的に癖にしています。お陰で忘れ物は滅多にしません。」
「頼もしくて何よりだよ。」
俺の確認方法に呆れと感心が綯い交ぜになった口調で突っ込んできた香月社長と、エレベーターで一階に降りて駐車場まで移動して、トランクに荷物を入れた後で軽自動車へと乗り込む。社長は助手席に乗るのか。……まあ、そりゃあそうだな。この場合、後部座席は夏目さんだろう。
「ナビは必要かい?」
「夏目さんの家までは平気です。そこからはお願いすることになるかもしれません。」
「では、スマートフォンで調べておこう。」
そのままいつものように車を発進させて、雑談しながら二十分ほどかけて定食屋・ナツメの駐車場に到着してみれば……今日も外で待っていたらしい。小さめのボストンバッグを持った夏目さんの姿が目に入ってきた。
「夏目さん、おはようございます。乗ってください。」
「やあ、夏目君。おはよう。」
あの大きさの荷物なら、後部座席で大丈夫そうだな。窓を開けて二人で呼びかけてみると、夏目さんは軽く頭を下げてから車に乗り込んでくる。ちなみに彼女はスキニーパンツに長袖のTシャツ、そして薄手のパーカーという恰好だ。俺が選んだ方の服装にしたらしい。夏目さん……というか『さくどん』はパーカーをよく着ているイメージがあるので、やっぱりこっちの方がしっくり来るぞ。
「おはようございます、駒場さん、香月さん。……照明、持って行かなくて大丈夫ですよね? ホテルの部屋での撮影に使うかもと思ってギリギリまで迷ったんですけど、さすがに邪魔になりそうなので置いてきちゃいました。」
「問題ないと思いますよ。『部屋紹介』であれば移動しながら撮るでしょうし。」
「ですよね。……ああ、緊張します。色々調べてはきたんですけど、現地に行ってみないと分からないこともいくつかあったので。」
何を調べてきたんだろう? 車を運転しながら考えていると、夏目さんはハッとしたように今回の撮影の『スポンサー』へとお礼を送った。つまり、助手席に座っている香月社長にだ。
「あのっ、香月さん。ホテルの件、本当にありがとうございます。助かりました。」
「いいよ、駒場君経由でお礼は何度も聞いているさ。気にしないでくれたまえ。……アトラクションのことを調べてきたのかい?」
返答ついでに俺の疑問を代弁してくれた香月社長に、バックミラーに映る夏目さんは曖昧に頷きながら返事を投げる。
「それもありますけど、入念に調べたのはお土産のことなんです。お土産の紹介も後日動画にしようと思ってて。だけど高くて沢山は買えないので、良さそうなのを予め厳選してきました。」
「余す所なく動画にするわけだ。素晴らしいじゃないか、夏目君。その意気だよ。……隣接するショッピングモールの動画も撮るのかい?」
「撮影は可能みたいですし、撮ります。パーク動画の後編か、ホテル紹介のどっちかの一部として使うつもりです。短くなっちゃいそうな方に付け足す感じですね。今日撮るパーク紹介の前編は多分、長く出来ると思うので。」
夏目さんもちょっとテンションが高いな。平時よりハキハキ喋っているぞ。ハーモニーランドが楽しみだという点だけではなく、動画が伸びたことも影響しているのかもしれない。やる気が漲っているといった雰囲気だ。
そして香月社長も呼応する形でテンションが上がってきたようで、ご機嫌の面持ちで夏目さんに声を飛ばす。
「よしよし、夏目君。この移動時間を使って『作戦会議』をしよう。二日あればアトラクションは全部回れるはずだ。ホテルでの撮影は閉園後で問題ないかい?」
「あの、昼間のベランダ……バルコニー? からの風景も欲しいです。あと、朝食とルームサービスの食べ物も撮ろうと思ってます。メニューがですね、独特らしいんですよ。パーク内には無いスペシャルメニューが、ルームサービスだと頼めるってサイトに載ってました。」
「なるほどね、それは逃せないかな。」
「それとその、建設中の『ハーモニーガーデン』の映像も可能なら欲しいです。工事中なので中が映せるかは微妙ですけど、チラッとでも見られれば興味を惹けるかなと思いまして。」
あー、あれか。ハーモニーランドに隣接する形で建設中の、『拡張パークスペース』。完成は二年後らしいが、大規模な拡張なので期待している人は多いはずだ。撮れるなら撮るべきだな。遊園地の建造というのは面白そうだぞ。
「では、現地でスタッフさんに撮影が可能かを聞いてみます。……それと社長、ナビをしてください。」
「おっと、そうだったね。……一度コンビニに寄ってくれるかい? 飲み物が欲しいし、私は後部座席に移るよ。夏目君と情報を共有して、『攻略ルート』を決めないとだからね。たった二日間しかないのであれば、一秒だって無駄にするわけにはいかないだろう?」
「分かりました、次見つけたら寄りましょう。」
別に男性だって好きな人は好きなんだろうけど、やはりこういうことは女性の方が関心を持ちがちなのかな? どこまでも真剣な顔付きで『ブリーフィング』の重要性を語った香月社長に応答しつつ、ちょうど良く見つかったコンビニの駐車場に車を入れる。
「飲み物を買ってきます。何がいいですか?」
「私はお茶を頼むよ。小さいペットボトルのやつ。……いや、どうしようか。ペットボトル飲料は持ち込み可なんだよ。パーク内だと高いだろうし、ここで大きいのを買っておくべきかな?」
「けど、飲み物も面白いのがあるみたいですよ? 私は紹介したいので持ち込まないことにします。食べたり飲んだり出来る量には限界があるので、制限していかないと。」
ストイックすぎるぞ。夏目さんはそんなことまで心配しているのか。香月社長の提案に珍妙な答えを返した担当クリエイターどのに、シートベルトを外しながら意見を放った。
「開園まで少し待つことになるはずですから、何れにせよここで小さな飲み物を買っておきましょう。」
「じゃあ、あの……一番小さいミネラルウォーターをお願いします。」
「了解です。香月社長はお茶だけでいいんですか?」
「ん、お茶だけ頼むよ。夏目君が一口飲んだり食べたりして感想を言って、残りを私たちが飲食するという方法もあるしね。それなら節約になるし、量もこなせる。だったらこっちも余裕を残しておくべきさ。」
サバイバルをしに行くわけでも、大食いチャレンジに行くわけでもないんだぞ。奇妙なことをやっているなとため息を吐きつつ、しかし納得して自分も小さめのスポーツドリンクだけを購入することに決める。俺たちは夏目さんの『外部胃袋』になるわけか。いよいよ意味不明になってきたな。
ライフストリームの動画撮影は複雑怪奇。そのことを学びながらコンビニで飲み物を買い終えて、軽自動車の車内に戻ってみれば……今度は何をしているんだ? 後部座席でカメラを構えている香月社長が、それを夏目さんに向けているのが視界に映った。まさか撮影しているのか?
「お帰り、駒場君。まだ録画はしていないから喋っていいよ。」
「それは安心ですけど、何故カメラを出したんですか?」
「短いオープニングを車内で撮るのはどうかという話になったんだよ。『何と私は、今まさにハーモニーランドに向かっています』といった感じで。面白いと思わないかい?」
「まあ、はい。そういう構成もありだとは思いますけど。」
助手席に飲み物が入ったビニール袋を置きつつ反応すると、夏目さんが補足を付け加えてくる。
「ここで走行中に短いオープニングを撮って、パークの入り口に到着したところでも並びながらちょこっと撮影したいと思います。ハーモニーランドに向かってる最中のドキドキとか、もう少しで入れる時のわくわくとか。そういうのも大事かなって考えたので。……いっそのこと駐車場でも撮りましょうか。使えそうになかったらカットすればいいだけですし、何パターンか撮っておいて損はないはずです。」
「駒場君、安全運転にしてくれたまえよ? ブレたら台無しだからね。」
「私はいつだって安全運転をしています。……少し先に橋があるので、そこは良い景色になると思いますよ。」
「おや、いいね。窓が小さいから大した影響はないだろうが、海だの川だのをバックにするのは悪くなさそうだ。そこで回し始めようか。……そうなると私が右側に座った方がいいかな。夏目君、位置を交換しよう。そして駒場君はマスクを装着しておくように。恐らく映らないと思うが、念のためさ。」
悪かったな、窓が小さくて。軽自動車なんだから仕方がないじゃないか。……いやはや、休まる暇がないぞ。ライフストリームでは何もかもが動画の一部だな。カメラ一台あれば撮影はスタートしてしまうわけだ。
ナビの話はどこに行ったんだと苦笑いでマスクを着けて、セレクターをドライブに入れて車をコンビニの駐車場から出す。面白い仕事だし、やり甲斐もあるし、達成感だってあるわけだが……相応の苦労もありそうだな。正しく未知の世界だ。触っていない部分も、新たな発見も、まだまだ無数に転がっていそうだぞ。
まあいいさ、俺はここからも誠心誠意クリエイターを支えていくだけだ。最初の一歩目は踏み出せたのだから、次は更に先を目指せばいい。そうやって一歩ずつ進んでいこう。となれば、先ずはハーモニーランドでの撮影に集中すべきだな。
「そろそろだね。回すよ? 夏目君。」
「はい、お願いします。」
考えている間に橋が目前に迫ってきて、後部座席で短いやり取りが行われた後……『さくどん』が動画をスタートさせる声が耳に届く。
「どうも、さくどんです! 今回は多分さくどんチャンネルでは初の、移動中の車内からのスタートになります。何故かと言えば……そう、ハーモニーランド! なんとなんと、あのハーモニーランドで撮影できることに──」
次なる動画も伸びてくれることを祈りつつ、駒場瑞稀はマスクの下で笑みを浮かべるのだった。
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