Ⅰ.さくどん ④



「……なるほどね、事務所側が用意すべきものか。何とも貴重な意見を仕入れてきてくれたじゃないか、駒場君。」


そして月曜日の午前中。ホワイトノーツに出社した俺は、香月社長へと富山さんから得た意見を報告していた。……ちなみに今なお事務所の『幽霊会社』っぽさは残ったままだ。デスクの上にはパソコン本体やモニターが載っているし、細々とした物は揃ってきているのだが、どうにもがらんとした感じが抜けてくれないな。今週中に書類棚や応接セットが届く予定だから、それで多少マシになることを祈っておこう。


「昨日の夜に調べたんですが、フォントや編集用のソフト等は法人契約も出来るようです。……ただしライフストリームに投稿する動画の制作が法人利用の範囲内なのかは、先方に問い合わせる必要がありそうですね。」


隣のデスクの香月社長に返事をしてみると、重ねた段ボール箱に座っている彼女は唸りながら応答してくる。椅子も早く届いて欲しいぞ。先週注文したのだが、まだ到着していないのだ。


「その辺りのソフトや素材は必須に近いものだし、初期投資の一部として許容できるよ。想定より赤字が大きくなりそうだが、名前が広がる前は『所属する売り』を前面に押し出さないと誰も所属してくれないからね。夏目君みたいな『ラッキー所属』はそうそうあるものじゃないし、法人利用の範疇なら事務所側が契約しておくべきかな。」


「スタジオに関してはどうでしょう?」


「大前提として恒常的に借りるのは無理だ。それはもうイニシャルコストというかランニングコストだし、うちにはそんな余裕がない。現状だと単発の動画で費用を回収するのなんて夢のまた夢だから、小さなスタジオを数時間借りて何本か撮り溜めるという手段しか思い浮かばないが……まあ、それでも赤字になるだろうね。」


「ですよね。」


そりゃあそうだ。夏目さんの動画は商品紹介が平均五分、チャレンジものや料理が平均十分ほどだが、後者はカットが多いので撮影時間は遥かに長い。仮に平均的な再生数を出したとして、現時点での広告収益と照らし合わせると……そうだな、一時間に四、五本撮ってトントンになるかどうかってところか? となれば何をどうしたって赤字だろう。商品紹介の方ならどうにかなるかもしれないが、スタジオ撮影をしたいのはチャレンジものや料理なわけだし。


でも、あくまで現状ではだ。もっと視聴されるようになればスタジオ撮影だって可能になるぞと自分を励ましていると、香月社長が別室に続くドアを指差して提案してきた。


「……差し当たりあの部屋ではダメかな? 結局使い道がなくて放置しているわけだが。」


「……さすがに狭くないですか? 八畳ですよ?」


「それでも無いよりはマシだろう? 夏目君に相談してみようじゃないか。彼女が使いたいと言うなら喜んで貸し出すさ。そも何も置いていないんだから、映して困る物なんて皆無だしね。」


まあ、うん。夏目さん次第かな。社長室になり損ねた空室を横目に思案しつつ、手帳を開いて『事務所の空き部屋を使うかどうかの提案』と書き込む。水曜日に夏目さんの家に行く予定なので、そこで富山さんのアドバイスと一緒に伝えてみよう。


ボールペンを動かしながらスケジュールの確認をしている俺に、香月社長が思い出したように重要な知らせを寄越してきた。


「ああ、そうそう。次の所属タレント……というか、『所属ライフストリーマー』が決まるかもしれないよ。ネット経由で声をかけてみたところ、良い感触を得られたんだ。」


「香月社長? そういうことは声をかける前に報告してくださいよ。……『ライフストリーマー』というのは?」


「ライフストリームの投稿者のことを、昨今そう呼ぶようになってきたらしいよ。単にタレントと呼ぶのは何だかつまらないし、今後はライフストリーマーに統一しようじゃないか。」


「長いですよ。『当社の所属ライフストリーマーが云々』と毎回言っていたらテンポが悪いです。タレントでいいじゃないですか。」


手帳を仕舞いながら反論してやれば、香月社長はムスッとした顔で拒否してくる。接していて段々と分かってきたのだが、彼女は中身だけではなく『パッケージ』にも拘るタイプだ。呼び方一つにも妥協したくないのだろう。


「差別化は大事だよ、駒場君。『タレント』だと新鮮味が感じられなくて嫌なんだ。ライフストリーマーがダメなら他の呼び方を考案してくれ。」


「それなら、あー……『クリエイター』はどうですか? 『所属クリエイター』。そっちならまだ短いですし、動画制作をしているんだから合っているはずです。」


「おっ、いいじゃないか。そうしよう。響きも良いし、クリエイターに決定だ。」


どっちでも大して変わらないと思うんだけどな。……しかし、受け手の印象は確かに大切かもしれない。何でもかんでもそうすればいいわけではないが、『タレント』を『クリエイター』にするだけで目新しさを得られるなら変えるべきだろう。


俺では気付けない部分だなと密かに感心していると、香月社長は話を『新入り』の件に戻してきた。


「兎にも角にも、新しい所属クリエイター候補が見つかったのさ。交渉はこっちで進めておくから、頭にだけ入れておいてくれ。」


「所属までは社長がやるということですか?」


「マネジメントでは君に劣るが、交渉事では負けないよ。私は夏目君を落としたし、君も落とした。であればスカウトは私が行うべきだろう?」


「……まあ、そうですね。私は細かい話に脱線しがちなので、そこはお任せします。」


これもまた適材適所ってやつかな。『口の上手さ』では間違いなく香月社長が上だろうし、大人しく任せておくか。社長が大きな視点を話して、俺が細かい部分を詰める。その方がスムーズに進みそうなのは何となく分かるぞ。


食い下がらずに納得した俺を見て、香月社長はふふんと胸を張って首肯してきた。今の彼女はジャケットを脱いでいるのだが、大きな胸を反らせている所為でシャツのボタンが吹っ飛びそうだぞ。こっちに飛んできそうでちょっと怖いな。


「任せておきたまえ。どうも活動の幅を広げたくて、事務所に所属するか迷っているようなんだよ。……何にせよ今すぐにどうこうとはならないはずだから、暫くは夏目君のマネジメントに集中するように。」


「ホワイトノーツに所属することで、『活動の幅』が広がるかは微妙なところですけどね。」


「意地でも広げてみせるのさ。それが私たちの仕事なんだから。……ちなみに事務員の応募は未だ無しだよ。」


「そっちは気長に待ちましょう。今のところ私と社長だけで全然処理できているわけですし。」


『本業』の仕事がまだ少ないので、会社そのものの雑務は二人で処理できてしまっているのだ。物悲しい気分で相槌を打った俺に、香月社長は小さくため息を吐きながら応じてくる。


「まあ、今週から君は本格的に夏目君と関わることになるからね。きっと忙しくなるはずさ。きっと。」


「そうなることを祈っておきます。」


「それじゃ、応接スペースに置く衝立を決めようじゃないか。日曜日にカッコいいのを見つけたんだよ。待っていたまえ、今出すから。」


言いながらキーボードを操作している香月社長を眺めつつ、眉根を寄せてこめかみを親指で揉む。早く忙しくなって欲しいぞ。事務所の内装を決めるのも楽しいっちゃ楽しいが、どうにも虚しい気持ちになってしまう。通販サイトの巡回はそろそろ卒業しなければ。


───


それから二日が経過した水曜日の午前十一時。スマートフォンの地図を頼りに夏目さんの自宅へとたどり着いた俺は、その場所にあった建物を見て首を傾げていた。入り口の看板に筆文字で書いてあるのは『定食屋・ナツメ』というシンプルな店名だ。……夏目さんの実家は定食屋だったのか。カフェでの話し合いでは話題に上らなかったし、全然知らなかったぞ。


香月社長がまたしても報連相を怠ったらしいなと呆れつつ、入り口から最も遠い場所に駐車した軽自動車を出て店に近付く。そのまま運転で乱れたスーツの皺を伸ばし、手土産をしっかりと持っていることを確かめた後、暖簾を潜って中に入ってみれば──


「お邪魔します。」


「はい、いらっしゃいませ! ……あっ、駒場さん。」


「どうも、夏目さん。」


スキニージーンズと長袖の白いTシャツ姿で迎えてきたのは、他ならぬ俺の担当クリエイターどのだ。布巾でテーブルを拭いていたようだし、店の手伝いをしているんだろうか? 今日のこの時間に訪問することはメールで連絡済みなのだが……うーむ、びっくりした顔で店内の時計を確認しているな。仕事に夢中で忘れていたのかもしれない。


「……都合が悪いなら出直しますが、大丈夫ですか?」


「だっ、大丈夫です。すみません、店の手伝いに夢中になっちゃってました。ちょっとだけ待っててください。……お母さーん! 私、家に戻るね!」


調理場がある店の奥に呼びかけた夏目さんを横目に、良い匂いがする店内を軽く見回す。座敷席が二つとテーブル席が六つある、正しく『町の定食屋』といった感じの内装だ。壁にはメニューが書かれた紙が大量に張り出されており、大きなテレビも置いてあるな。ちなみに今日の日替わりはサワラの西京焼き定食らしい。


店の雰囲気からして絶対美味いぞと確信していると、奥から出てきた四十代ほどの女性が声をかけてきた。母親かな? こちらは夏目さんと違って、古き良き割烹着姿だ。


「もう戻るの? まだお父さんが……あらどうも、いらっしゃいませ。桜、案内は?」


「違うの、お母さん。この人は……ほら、ホワイトノーツの。十一時に来るって言ったでしょ?」


「あら、そうなの! あらあら、どうぞどうぞ。娘がお世話になっております。」


「こちらこそお世話になっております。夏目さんの……桜さんのマネジメントを担当させていただくことになりました、ホワイトノーツの駒場です。よろしくお願いいたします。」


心の準備が出来ていなかったので若干動揺してしまったが、ご両親への挨拶は丁寧にやらなければ。名刺を差し出しながら自己紹介した俺に、『あらあら』を連発していた女性が返事を返してくる。


「あらー、ご丁寧にどうも。桜の母の富栄です。それであっちが……お父さん、お父さん! ホワイトノーツの駒場さんがいらっしゃったわよ!」


「……あー、どうも。桜の父の正隆です。すいませんね、汚い格好で。調理中だったもんですから。」


「駒場です、よろしくお願いいたします。」


続いて奥から顔を出した優しそうな顔立ちの父親……こっちは頭にバンダナを巻いており、普段着の上からエプロンを着けているな。にも頭を下げつつ、テンプレート的な返答を口にした。どちらも迷惑そうな口調ではないし、夏目さんの活動をある程度肯定的に捉えているらしい。両親の理解がない場合、未成年の活動がかなり厳しくなるのは江戸川芸能での経験で知っているので、そこは心からホッとしたぞ。


しかし、他にお客さんが居なくて良かったな。もし居たら店内でこんな私的な会話をするわけには……いやまあ、大丈夫か。随分と家庭的な雰囲気の食堂だから、このやり取りも許されるのかもしれない。


「こちら、つまらない物ですが──」


あまり関係がないことを考えながら、とりあえず持ってきた手土産を渡そうとしたところで、慌てた様子の夏目さんが割り込んでくる。


「わ、私が! 私が受け取ります。ありがとうございます。……じゃあ、私は家に戻るね。駒場さん、こっちです。どうぞ。」


「待ちなさい、桜。お礼はもっときちんとしないといけないし、折角だから何か食べて──」


「いっ、いいから! 駒場さん、お腹空いてないから! あんまり変な……あの、変な感じにしないでってば!」


別に食べられはするんだけどな。……まあでも、こういう状況が恥ずかしいのは何となく分かるぞ。手土産のクッキーの袋を受け取った後、俺のジャケットの袖口を握って奥へと引っ張ってくる夏目さんに心中で苦笑しつつ、ご両親へと話しかけた。


「そろそろ昼食時ですし、お忙しくなる時間帯かと思いますので……ちょうど良い時間にまたご挨拶させていただきます。」


グッドタイミングで別のお客さんが入ってきたのをちらりと見ながら言ってみれば、富栄さんが応答を寄越してくる。


「あら、お構いできなくてすみません。桜、お茶をお出ししてね? 場所は分かる?」


「分かるし、大丈夫だから。……あの、こっちです。」


「では、失礼します。」


俺の服を掴んでいることに今更気付いたらしい夏目さんが、パッと手を離しながら案内してくるのに従って、ご両親にもう一度目礼してから厨房の手前にあるドアを抜けると……なるほど、住居スペースに繋がっているのか。狭い通路の先にある、勝手口のような玄関が視界に映った。不思議な構造だな。


「スリッパが、えと……これです。」


「ありがとうございます。……ご実家は飲食店だったんですね。知らなかったので驚きました。」


「あっ、はい。そうなんです。五十年くらい前にお爺ちゃんが開いた店で、そこをお父さんが継いだらしくて。私が中学生になった頃に一回改装しましたけど、ずっとここで定食屋をやってます。」


「……老舗ですね。」


創業半世紀というのは凄いな。となるとこの家も築五十年なのかもしれない。にしては新しいから、店と同様にこっちもリフォームを挟んでいるのかな? 明るい茶色のフローリングの廊下を歩いていると、夏目さんが右手にあった手摺付きの階段を上り始める。途中で茶の間とキッチンらしき部屋がちらっと見えたし、反対側の突き当たりには別の玄関があるようだ。あっちが民家としての玄関なわけか。


「お店の駐車場に車を置いてしまったんですが、問題なかったでしょうか?」


心配になった部分を尋ねてみれば、夏目さんは到着した二階の一番奥のドアを開けつつ答えてきた。二階には三部屋あって、右手のドアには『叶の部屋』と書かれたピンク色のファンシーなプレートがかかっているな。男の子の部屋ではなさそうだし、夏目さんには妹か姉が居るようだ。


「平気だと思います。満車になることなんて滅多にありませんから。……えっと、ここが私の部屋です。」


「失礼します。」


ここまで来ておいてなんだが、いきなり自室に案内されるのは予想外だぞ。さほど躊躇いなく誘ってきた夏目さんの背を追って、彼女の私室へと足を踏み入れてみると……うーん、奇妙な部屋だな。『十七歳の女の子の私室』としてはやや特殊であろう室内の光景が目に入ってきた。


前提として、八畳ほどの洋室の半分は『撮影スペース』になっているようだ。『さくどんチャンネル』の動画でよく見る白い座卓とクッションがあり、その手前に三脚に固定されたビデオカメラと小型の設置型ライトが置いてある。直上の天井からは白い……レフ板か? 小さなレフ板が二枚吊るされているな。画鋲か何かで固定した紐で吊るしているらしい。力技じゃないか。


そして入り口側の半分にはパソコンが載った机と、段ボール箱の山が見えている。開封済みの物もあれば、未開封の箱もいくつか存在しているようだ。……テレビや棚なんかが無いのはギリギリ分かるけど、ベッドすら無いのはどういうことなんだ? 別の部屋で寝ているのかな?


動画の撮影に侵食されている部屋を目にして、何とも言えない気分になっていると……クッキーの袋を段ボール箱の上に置いた夏目さんが、おずおずと声をかけてきた。


「あの、ここで撮影して編集してます。……どうでしょうか?」


「何というかその、動画制作への拘りを感じる部屋ですね。別室で寝ているんですか?」


「いえ、こっちの……これで寝てます。」


「それは……なるほど、前に動画で紹介していましたね。」


夏目さんが段ボール箱の山の奥から取り出したのは、さくどんチャンネルで紹介済みの黒い寝袋だ。……この子、寝袋で寝ているのか? 毎日? 家の中なのに? どう反応すべきかが分からなくて困惑している俺へと、夏目さんはこっくり頷いて応じてくる。ちょびっとだけ嬉しそうな面持ちだな。


「見てくれたんですか? ……最初は一階の居間で寝てたんですけど、これを使えば編集した後にすぐ寝られるので、今はこっちを使ってます。ベッドは邪魔なので解体して外の物置に仕舞っちゃいました。」


「動画は全部見ましたが……そうですか、寝袋で寝ているんですか。」


「全部? 全部見てくれたんですか? ……あの、どうでした? 改善点とか、ありましたか?」


夏目さんは俺が動画を見たという点に注目しているようだが、こっちとしては寝袋が想定外すぎて混乱しているぞ。……凄まじいな。どうやら彼女にとっては動画こそが最優先事項であるらしい。ここはもう私室というか、撮影スペース兼編集室兼物置だ。そこに泊まり込んでいるような状態じゃないか。


「はい、意見は色々と持ってきました。カフェで会った際に言った通り、私の知人にも見せてみたんですが……座っても大丈夫ですか?」


内心の動揺を抑えながら聞いてみれば、夏目さんはハッとした表情で座卓を指して促してきた。彼女がいつも撮影に使っている白い座卓をだ。


「ぁ、すみません! どうぞ、ここに座ってください。ここしか座れる場所がないので。」


「……ここに座ると不思議な気持ちになりますね。動画の中に入り込んでいるような気分です。」


ちょうど動画内の『さくどん』が座っている位置。そこに腰を下ろして呟いた俺に、三脚を退かして対面に座った夏目さんが返事をしてくる。ヘアゴムを外して、一つに纏めていた黒髪を解きながらだ。


「ドアとか窓が映らないように、白い壁だけのそこで撮影してるんです。その方がいいかなと思ったので。」


「細かい点にも拘っているんですね。……それでは、先にいくつか報告させていただきます。」


そう切り出して富山さんのアドバイス、会社で効果音やフォントを負担するという提案、事務所の空きスペースのことなどを伝えてみれば……うーむ、分かり易いな。ふんふん頷きながら黙って耳を傾けていた夏目さんは、傍目にも喜んでいることが分かる顔付きで口を開く。


「私っ、あの……凄くありがたいです。そっか、テロップ。それは良いと思います。思い付きませんでした。」


「編集にかかる時間に関しては大丈夫でしょうか?」


「もちろん増えますけど、でもやる価値はあるはずです。絶対やります。……あとあの、フォント。フォントはサムネイル作りにも使うから、買おうか迷ってました。前までは高くて買えなかったんですけど、今は広告収入がちょっとだけ入るようになったので、新しいパソコンを組んだ後でお金を貯めて買おうと思ってたんです。」


そこまで言ってからバッと立ち上がると、夏目さんはパソコンが置いてある小さな机に歩み寄って続きを語る。えらく興奮しているな。動画内の彼女に近い雰囲気になっているぞ。やはりこっちが素のようだ。


「今はこのパソコンを使ってるんですけど、編集ソフトが重くて重くて限界なんです。だからその、パーツを買って新しいパソコンを組む動画を……そう、それを撮る時に駒場さんにカメラを持って欲しくて。パーツはもういくつか買ってあります。明日電車で少し遠くの専門店にも行ってみて、ネットより安そうならそこで買おうと──」


段ボール箱の山から数個の箱を取って、早口で説明していた夏目さんだったが……急に口を噤んだかと思えば、顔を赤くしながら俺の対面に戻ってきた。どうしたんだ?


「……あの、すみません。変な話をしちゃって。」


「いやいや、『変な話』ではないですよ。自作パソコンというやつですよね? 私は詳しくありませんが、面白い動画になると思います。興味を持ってくれる視聴者は居るはずです。」


「でも、えっと……引いてませんか? こんな話で興奮しちゃって、何かちょっと気持ち悪いですよね。」


「何を引くことがあるんですか。私は夏目さんの担当マネージャーなんですから、そういう話を真剣にするための存在なんです。」


そういうことか。恐らく今まで彼女の周囲には、こういった内容を真面目に話し合う相手が居なかったのだろう。その辺の事情を汲み取った上で、夏目さんへと言葉を繋ぐ。


「夏目さん、私の仕事は貴女の動画をより良いものにすることなんです。そのために制作環境を整えたり、貴女自身の生活の手助けをしたり、時にはカメラを持つことになるでしょう。だから恥ずかしいなどとは思わないで、どんどん相談してきてください。……私は絶対にバカバカしいと思ったり、どうでも良いと感じたりはしません。いついかなる時も夏目さんと、そして夏目さんの動画と真剣に向き合うことを確約します。そこは信じていただけないでしょうか?」


信頼。それがマネジメントの全てなのだ。それが無ければ何をやったところで無駄だし、それさえあれば仮に失敗しても持ち直せる。故にここは重要な部分だぞと真っ直ぐ夏目さんを見つめながら言い切ると、彼女は上目遣いでちらちらとこちらに目をやりつつ、躊躇いがちにか細い声を返してきた。


「あの……私、今までずっと『無駄なことをしてる』って言われてきました。お金にならないし、必死に動画なんか作ってても無駄だって。お父さんはあんまり言ってこないんですけど、お母さんと妹からは結構強めに……その、『そんなんで将来どうするの』って言われてたんです。」


「……そうなんですか。」


「でも広告収入が出てくるまでは実際そうだったから、反論できなくて謝ってばっかりでした。自分でも時々何やってるんだろうと思ったけど、それでもやめられなくて。ライフストリームの動画投稿は私が初めて熱中できたことで、初めて本気で頑張れたものなんです。……他のことをやってる時もどうすれば面白くなるかを考えてましたし、店の手伝い以外の時間は全部注ぎ込みましたし、カメラのこととか編集のこととかも勉強しました。お金にはならないかもしれないけど、見てくれる人が少しずつでも増えていって、その人たちが楽しんでくれるなら無駄じゃないって自分に言い聞かせて。それで二年間も……『さくどんチャンネル』でやり始める前の投稿期間も合わせると、四年間も続けてこられたんです。」


そこで俺と目を合わせた夏目さんは、ほんの少しの不安を覗かせながら話を続けてくる。


「だから広告収益の仕組みが発表された時、これに賭けてみようって決心しました。そしたら香月さんが声をかけてくれて、とんとん拍子で事務所に所属できて、駒場さんが担当になってくれて……私、本当は凄く怖いんです。これがダメだったら、私にはもう何も残らないから。毎日寝袋の中で寝る時に目を瞑ると、将来どうなるのかが不安になってきちゃって。……私、駒場さんのことを信じていいんでしょうか? 何かあっても見捨てないでいてくれますか?」


「絶対に見捨てません。そこはマネージャーとしてではなく、駒場瑞稀個人として約束します。」


「私、今まで誰にも相談できなくて。変な方向に動画が進んじゃってるかもと思うと、ずっとずっと怖かったんです。でも動画のことを話せる友達なんて居ないし、お父さんはライフストリームを見ないし、お母さんと妹はもうやめろって言ってくるし……細かいところをいちいち聞いたりしても嫌になりませんか? ひょっとしたら、物凄く変なことを尋ねたりするかもしれません。それでも聞いてくれますか?」


「嫌になんてなるはずがありませんし、相談してくれない方が困ります。躊躇わずに頼ってください。マネージャー如きが言うのはおこがましいかもしれませんが、私のことは一緒に動画を作るパートナーだと思って欲しいんです。……良い動画を作れた時に一緒に喜んで、失敗した時は一緒に反省して、壁にぶつかった時は一緒に乗り越える。私は夏目さんにとってのそんな存在になりたいと考えています。貴女の悩みは一緒に背負ってみせますから、どうか預けてくれませんか?」


ここが正念場だ。僅かにでも引けば信頼は得られないぞ。目を逸らさずに言い放った俺へと、夏目さんは一瞬だけ押し黙った後で……小さく首肯して小指を差し出してきた。


「じゃあ、あの……約束、です。私は駒場さんを信じて、頼ります。だから駒場さんは私のことを見捨てないでください。」


「なら、改めて約束しましょう。私は貴女を絶対に見捨てません。マネージャーとして、個人として夏目さんのことを支えます。」


「約束ですよ? 絶対の約束。守ってくれるなら、私も駒場さんを一番に信じます。」


絡めた小指にキュッと力を込めた夏目さんは、数秒間そうしていたかと思えば……ふにゃりと笑って指を離す。やっと自然な笑みが見られたな。一歩前進だ。


「えへへ、何かちょっとだけ恥ずかしいですね。」


「これは大事なことですよ、夏目さん。私は頼ってくれないと動けない存在なので、貴女が迷わず頼ってくれることが何より重要なんです。」


「分かりました、頑張って頼ってみます。……あっ、飲み物。すみません、忘れてました。今持ってきますね。」


緊張が解れた所為で座卓の上に何もないことに気付いたようで、夏目さんは大慌てで部屋の外に出て行くが……これでいい、よな? 間違いなく距離は縮められたはずだし、さっきの言葉に嘘偽りは無いぞ。マネジメントをやる以上、全身全霊で向き合うつもりだ。裏方の俺は失敗しても簡単にやり直せるが、表舞台に立つ彼女はそうもいかない。ならば彼女の人生を背負う覚悟で臨むべきだろう。


だけど……むう、二年前に他事務所の先輩から言われた苦言が頭に浮かぶな。呆れと心配が入り交じった表情で、『駒場はタレントとの距離を近付けすぎだ』と注意されたのだ。『支えるのと依存させるのは違うよ』とも忠告されてしまったっけ。


うーん、どうなんだろう? 俺は今の『約束』を信頼を築くための第一歩と捉えているが、あの人はもしかすると良く思わないかもしれない。……ああ、難しいな。俺はマネジメントの線引きがプライベート側に寄りすぎで、あの人の場合はビジネス側に寄せているのだと解釈しているが、どちらが正解なのかは未だに判断できないぞ。


何れにせよ、俺はこういうやり方しか知らないし出来ない。そもそも夏目さんに関しては『近い距離』で行こうと決めているのだ。この期に及んで方針転換するのは愚策だろうし、このまま突き進んでみよう。大丈夫だ、上手く行くはず。多分。


胸中に若干の迷いが渦巻いていることを自覚しつつ、それを強引に押し殺していると……コップが載ったお盆を持った夏目さんが部屋に戻ってきた。


「冷たい緑茶で大丈夫ですか?」


「大丈夫です、ありがとうございます。……そういえば、明日車を出しましょうか? パーツを買いに行くんですよね?」


「へ? ……いいんですか?」


座卓にコップを置きながら驚いたように問い返してきた夏目さんに、首を縦に振ってから返答を送る。送迎はマネージャーの主な仕事の一つだぞ。


「もちろん構いませんよ。動画に使う品を買いに行くわけですからね。そういう時に車を出すのもマネージャーの役目です。」


「……じゃあ、お願いしたいです。色々調べてはみたんですけど、一人だと少し不安だったので。」


「では、ここに迎えに来ますね。それと、先程説明した英語の字幕に関してなんですが……どうも香月社長は英語が出来るようなので、彼女に任せるのはどうでしょう?」


「香月さんに? ……けど、社長さんなんですよね? そんなことを頼んで大丈夫なんでしょうか?」


普通はまあ、やらないだろうな。とはいえ現時点だと香月社長は結構暇なのだ。お茶を一口飲んでから尋ねてきた夏目さんへと、社長の反応を思い出しつつ答えを投げた。


「当人も乗り気でしたから、特に問題ありませんよ。夏目さんが許可してくれるならやると言っていました。」


「それなら、お任せしたいです。」


「あとは、効果音。効果音は専門の業者に制作を依頼することになりますから、多少時間がかかりそうです。私や社長はどういった効果音をよく使うかを掴み切れていないので、夏目さんから意見をいただくことになるかもしれません。その時はよろしくお願いします。」


「はい、意識しておきます。でも……あの、そんなに沢山準備しちゃっていいんですか? 自分で言うのもなんですけど、私のマネジメント料じゃ駒場さんのお給料すら払えませんよね? 全然足りないはずです。」


それはそうだ。全く足りていないし、現状だと尋常ではないレベルの赤字になっているぞ。心配そうに聞いてきた夏目さんに、苦笑しながら応答する。


「まだ立ち上がりの段階ですからね。初期投資のこともありますし、それなりの期間赤字が続くのは覚悟の上なんです。……香月社長は数ではなく質を高めていくことを方針として掲げているので、ここで出し惜しみするとむしろ後々辛くなるでしょう。そのうち夏目さん一人のマネジメント料で私の給料が軽く払えるようになりますよ。」


俺は未だに半信半疑だが、香月社長はそうなることを確信しているようだし……一社員としては信じる他ないぞ。疑念を胸の奥に隠しながら言ってやれば、夏目さんはパチパチと目を瞬かせて応じてきた。


「ひょっとして、そしたら駒場さんは私だけのマネージャーさんになるんですか? 一人で沢山の人を担当すると思ってました。」


「割り振りは香月社長次第ですが、将来的にはそうなるかもしれませんね。私がホワイトノーツに来る前に居た芸能事務所では、大きく稼ぐタレントには数名のマネージャーが付くこともありました。仕事が増えると相応にやることも増えるので、専属が必要になってくるんです。」


今の状況からだと遠い未来に思えるが、もしかするとそういうこともあるかもしれない。問題はそうなった時、払うマネジメント料に見合う利益を齎せるかだな。余裕があるうちにシステムを整えておくべきだろうか?


我ながら気が早いなとは思うものの、そういった点の改善を怠ればピークを迎えた後で一気に落ちる可能性があるし、香月社長に相談してみた方がいいかもしれない。思考を回しつつ心の中のメモ帳に書き込んでいると、夏目さんがポツリと呟きを寄越してきた。


「そっか、私だけの専属になることもあるんですね。……私だけの。」


「まあ、まだまだ先の話です。今は頑丈な土台を作っていきましょう。香月社長も私もそこにケチケチすべきではないと判断したので、揃えられる物は揃えておこうと考えています。」


「分かりました、私も期待に応えられるように頑張ってみます。それで……えっとですね、事務所所属のお知らせ動画を上げたいんですけど、大丈夫でしょうか?」


「『お知らせ動画』ですか?」


意味を掴みかねて聞き返した俺に、夏目さんは頷きながら詳細を説明してくる。


「ホワイトノーツに所属したことと、その理由と、これからどうしていくのか……みたいなことを短い動画にしたいんです。やっぱりそういうことはちゃんとリスナーさんに発表すべきですし、きちんと話せば正しく伝わると思うので。ダメでしょうか?」


「ダメではありませんよ。良い考えだと思います。」


「それじゃあ、撮りましょう。コップはこっちに置いておいてください。」


今? 今撮るのか? 言うとコップを持ってパソコンがある机に置いた夏目さんは、段ボール箱の裏にあったクローゼットを開けて、そこから取り出したグレーのフルジップパーカーを羽織った。俺もコップを移動させながらぽかんとしていると、担当クリエイターどのは照明の電源を入れてカメラの位置を整え始める。


「駒場さんはカメラの後ろに居てくださいね。」


「……はい、分かりました。」


俺が三脚の背後に立つのと同時にレフ板の角度を少し調整して、カメラのモニターを使って髪を軽く整えた夏目さんは……さっきまで俺が座っていた位置に腰を下ろすと、唐突に『さくどん』の雰囲気で話し始めた。


「どうも、さくどんです! んんっ、ダメですね。もう一回……どうも、さくどんです! 今日はタイトルにもある通り、重要なお知らせをしたいと思います。色々迷って決めたことなんですけど……この度私さくどんは、ライフストリームの投稿者専門の事務所に所属することになりました。」


いや、これは……えぇ? もうこれ、撮っているのか? あまりにも急すぎるぞ。俺が困惑している間にも、夏目さんはカメラを見つめながら続きを話す。『タイトルにもある通り』? もう彼女の頭の中では動画のタイトルが決定しているわけか。


「事務所の名前は『ホワイトノーツ』です。今もマネージャーさんがカメラの後ろで見てくれてるんですけど、これからはマネージャーさんがカメラを持ってくれることもあるかもしれません。」


それも言うのか。民放業界では有り得なかった撮影方法に面食らっていると、夏目さんは事務所所属の理由についてを語り始めた。


「実はですね、そういう部分が所属を決めた理由なんです。私はこれからもライフストリームに投稿していきたいし、もっともっと面白い動画を作りたいと思ってます。そのために撮影許可をいただいたりとか、カメラを持ってもらったりとか、撮影に使える物を増やしたりとか。そういった面で自分以外の人の手助けが必要だと考えたので、今回こうして事務所に所属する決意をしました。……けど、基本的なスタイルはこれからも変わりません。動画の編集はきっちり自分でやりますし、今まで通り楽しんでいただけるように努力していくつもりです。」


そこでパンと手を叩いた夏目さんは、笑顔でカメラに向かって口を開く。


「だから、前向きな変化だと受け取って欲しいんです。良かった部分はそのままにして、悪かったところは良くしていって、やりたくても出来なかったことにチャレンジしていく。そのために私はこういう決断を下しました。……今、ライフストリームが少しずつ変わってきてるじゃないですか。その中で私はこれまで通り、リスナーさんたちに楽しんでもらえるような動画を投稿していきたいと思ってます。それをずーっと続けるためにはどうすべきかを考え抜いた結果、事務所に所属するって結論に行き着いたんです。」


真剣な面持ちでそこまで話すと、夏目さんは座ったままでピンと背筋を伸ばして動画を締めた。


「ちょっと短い動画になっちゃいますけど、リスナーさんたちにはしっかり報告したいなと思ったから……はい、こういう動画になりました。この先も沢山沢山面白い動画を上げられるように努力していくので、引き続きさくどんチャンネルを見ていただけたら嬉しいです。これからもどうぞよろしくお願いします!」


言い切った後にも数秒間頭を下げていた夏目さんは……パッと顔を上げると、小首を傾げてこちらに質問を放つ。


「……どうでしたか? 短すぎますかね? 雑談とかを入れるのは真剣味が薄れますし、リスナーさんたちに失礼かなと思ったので、あくまで報告のための動画って感じにしてみたんですけど。」


「いえ、あの……問題なかったように思えます。」


「社名は出して大丈夫でしたか? もしダメなら撮り直します。」


「そこは大丈夫です。……これを編集して、動画にするんですね。」


スピーディーにも程がある撮影だったな。カメラの録画を止めている夏目さんに声をかけてみれば、彼女は三脚からビデオカメラを取り外しつつ解説してきた。


「今回は短いのでそこまでかかりませんけど、いつもの動画は何回も編集を挟みます。時間を置いて見ないと客観的になれませんし、後から間違いに気付くことも多いですから。最初に大雑把なカットをして、次に細かい編集をして、数日置いた後で見直して……っていうのの繰り返しですね。編集してる段階で気に入らなかったら撮り直すこともありますし。」


「やはり編集には時間がかかるんですか。……しかし、よくあんなにスムーズに喋れますね。改めて感心します。」


「いやあの、このお知らせのことはずっと考えてたんです。どう話せばいいかとか、どこを話すかとかを。なのでパッと思い浮かんだわけではなくて、シミュレーションを重ねてただけですよ。」


にしたって大したもんだぞ。カメラからデータが入ったSDカードを抜いている夏目さんを眺めつつ、初めて見た『ライフストリーマーの撮影』に唸っていると……新たなカードをカメラに入れた夏目さんが、上目遣いで疑問を送ってくる。


「あの、駒場さん。そろそろお昼なんですけど、お腹とか空いてますか?」


「そうですね、少しだけ。」


「良かった。じゃあ、料理動画も撮っていいですか? デスソースの動画を撮りたかったんです。駒場さんも味見してみてください。」


「……『デスソース』?」


てっきり定食屋で何か食べますかと聞かれると思っていたので、意表を突かれて戸惑っている俺に……夏目さんは小さな段ボール箱を手にして返事をしてきた。何なんだその不吉な名称のソースは。初めて聞く名前だぞ。


「これなんです。外国のライフストリーマーさんがレビューしてて、私もやりたいと思って買っちゃいました。喋れなくなるくらい辛いソースらしくて。」


「……まさか、それを料理に使うんですか? 『喋れなくなるくらい辛いソース』を?」


「ただチャレンジしてみるのも面白そうなんですけど、折角だから炒飯に使ってみたいんです。最初にそのまま舐めてみて、その後炒飯を作るって感じで。どうでしょう?」


「どうでしょうと言われても……それは、大丈夫なんですよね? だからつまり、食べられる物ではあるわけでしょう?」


タバスコのような物なんだろうか? 『喋れなくなるくらい辛い』を想像できなくて一応確認してみれば、夏目さんは何故か一拍置いた後で回答してくる。今、迷ったな。答えに迷うような問いではないはずだぞ。仮にもソースと名の付く物を指して、『それは食べられるんですか?』と尋ねているだけなんだから。


「えと、多分大丈夫だと思います。食品……ではあるはずなので。」


「多分ですか。」


「でもあの、死にはしません。試した海外のライフストリーマーさん、生きてましたから。」


そりゃあ死んでいたらマズいだろう。そんな動画はそもそも投稿されていないはずだ。あまり大丈夫な感じがしない曖昧な返答をした夏目さんは、カメラを持って廊下に続くドアへと歩き出す。


「駒場さん、カメラをお願いしますね。キッチンでの撮影はいつも大変だったんですけど、駒場さんが持ってくれるなら大分楽になりそうです。」


「……はい、任せてください。」


余所の家のキッチンに行くという点も中々に気後れするが、今の俺はそれ以上に『デスソース』なる謎ソースへの不安で胸が一杯だぞ。……本当に危険はないんだろうか? 夏目さんが舐める前に、先ず俺が試してみるべきかもしれない。苦手なんだけどな、辛い物。


───


「えほっ、げほっ……ゔぇ。これ、あっ、痛い。痛っ、痛いです。喋れ、ふぁ、ひっく! しゃっくりが、ひっく!」


これはまた、凄まじいリアクションだな。『お知らせ動画』の撮影を終えた後、現在の俺と夏目さんは夏目家のキッチンでデスソースの動画を撮っているわけだが……一体全体どれだけ辛いんだ? 美人が台無しの顔になっているぞ。


「辛くて、ひっく! 私、昔から辛い物を食べるとしゃっくりが、ひっく! しゃっくりが止まらなくなるんですけど……あ、痛い。ひっく! 喉がこれ、凄く痛いです。ひっく!」


見たこともないレベルの盛大なしゃっくりを連発している夏目さんは、俺が持っているカメラに向けて涙目で懸命にデスソースの辛さを……というか『痛さ』を伝えようとしている。恐らく味なんてしないんだろうな。とにかく辛くて痛いわけか。そこだけはしっかりと伝わってくるぞ。


やはり最初に自分が『人柱』になるべきだったと考えている俺を他所に、『開封から一連で撮りたいので、私がそのまま試します』と言っていた夏目さんが、事前に用意しておいた牛乳へと手を伸ばす。曰く、水より辛さが和らぐらしい。今日のために調べたんだとか。


「牛乳を、ん゛ふっ。すみま、すみません。零しちゃった。ひっく! ちょっと、げほっ。ちょっと一旦落ち着きますね。ひっく!」


鼻から牛乳が出ているぞ。カメラ目線でそう断ってから右手をくるくると回した夏目さんは、牛乳の追加をコップに注ぎ……あっ、直で飲むのか。コップには注がずに、一リットルの紙パックから直接飲みつつ話しかけてきた。


「ここ、ひっく! ここはカットします。え゛ほっ、んゔ。ひっく! ちょっと落ち着かないと……ふぁ、ひっく! 落ち着かないと話せないので。」


「了解です。録画は止めますか?」


「そのまま、ひっく! そのままで。何かに使うかも……げほっ、んんゔ。使うかもしれないので。ひっく!」


この期に及んで『大丈夫ですか?』とは聞かないぞ。だってどう見ても大丈夫ではないのだから。涙を流し、汗を額に滲ませて、鼻から牛乳を垂らし、咳き込みながらしゃっくりを繰り返している夏目さん。頑張っている彼女に対してこんな感想を抱くのは甚だ失礼だが……まあうん、『百年の恋も一時に冷めるような』という表現がぴったりの状態だな。


滅多に見られない『マジなリアクション』を目にして若干焦っている俺に、夏目さんは牛乳パックをひしと掴んだままで声をかけてくる。多分今の彼女にとっては、あの牛乳パックこそが世界で一番大切な物なのだろう。


「ふっ、ふっ、あー……辛い。ひっく! 辛すぎます。んゔゔん。げほっ、えほっ、ひっく! 汚い映像になってませんよね?」


「……どこをボーダーラインにするかによりますね。」


「吐き出しては、ひっく! 吐き出してはいないので、ライフストリームの、ひっく! ライフストリームの規約的にはセーフ……ん゛んん。セーフだと思うんですけど。ひっく!」


「あーっと……鼻から出すのはセーフなんでしょうか?」


ライフストリーム側としてもそんな規約は作っていないだろうけど、鼻からだったらギリギリセーフかなと判断している俺の返事を受けて……夏目さんは素早い動きで自分の鼻に手をやった後、頬を真っ赤に染めて顔を逸らしてきた。気付いていなかったのか。にしたって恥ずかしがるのは今更だと思うぞ。


「ぅぁ、私……ひっく! どこでですか? どこで出てました? ひっく!」


「最初に牛乳を飲んで、咳き込んだ時ですね。」


「……なら、カットするのは無理ですね。規約違反でないことを、ひっく! 祈ります。」


カットは無理なのか。……まあ、無理だな。あそこだけ切るのは勿体無さすぎるし、何より不自然だろう。背を向けながら顔を隠すようにしゃがみ込んで、近くにあったキッチンペーパーを一枚取って鼻をかんだ夏目さんは、未だ涙目の羞恥が滲んだ表情で俺に一言放ってくる。ようやくしゃっくりが止まったらしい。


「……あの、鼻から出したことは忘れてください。」


「……素晴らしいリアクションだったと思いますよ? 民放のバラエティ番組の現場などにも行きましたが、ここまでのものは見たことがありませんし。」


「面白くなるのは嬉しいですけど、恥ずかしいものは恥ずかしいんです。……んんっ、それじゃあ再開しますね。んんんっ。」


言いながら立ち上がって喉の調子を整えると、夏目さんは俺が持っているビデオカメラを見て話し始めた。もう再開してしまうのか。長く休憩することで、『臨場感』を消したくないのかもしれない。


「えー、少し落ち着きました。これはあれです、絶対に真似しないでくださいね。私の人生で一番辛い物でしたし、舌と喉がまだ痛いです。……というわけで、これを何とかして美味しく食べられるレベルに調理してみようと思います!」


そんなことが可能なのか? 口には出さずにそう思っている俺を尻目に、夏目さんはハキハキした口調で炒飯を作ることを説明していき、それが一段落したところでまた右手をくるくる回す。……あー、なるほど。あれは編集点の合図なのか。後で編集する際に分かり易いように合図を入れているらしい。


「──なので、デスソースの存在感はきちんと残しつつも、美味しいピリ辛炒飯に生まれ変わらせてみせます! ……ここで一度切って材料を並べた状態で再開しますね。カメラは一旦止めちゃって大丈夫です。」


「分かりました。」


「あと、動画の方針を変えます。料理をメインにしようと思ってたんですけど、やっぱりデスソースにチャレンジする動画として上げた方が良さそうです。普段料理動画を見てくれてるリスナーさんたちが、さっきの私の顔を見たら……あの、引くでしょうし。」


「各ジャンルに独立した視聴者が存在しているんですか?」


引くかどうかには触れずに尋ねてみれば、夏目さんは冷蔵庫から材料を取り出しつつ首肯してくる。


「コメントとか再生数で判断するしかないんですけど、料理の動画にだけ書き込んでくれてるリスナーさんは結構居ます。商品紹介とチャレンジものは被ってるみたいなんですけどね。」


「何となく頷ける違いですね。……料理動画の方向性についてはどう考えていますか?」


料理動画に関する富山さんからのアドバイスは報告済みだ。ビデオカメラを置いて作業を手伝いながら問いかけると、夏目さんは悩ましそうな面持ちで応答してきた。そういえば、会話が幾分スムーズになっている気がするな。自然に話してくれるようになってきているぞ。二階で交わした『約束』には確かに意味があったらしい。


「んー……本来は『綺麗な料理動画』を目指してたんです。そういう動画をライフストリームで見て、私も料理動画をやってみようって考えた結果として始めたので。けど、このキッチンだとどうしても家庭的になっちゃうんですよね。最新の器具を買うお金がありませんし、キッチン自体をどうにかするのはもっと難しいですから。」


「ちなみにですが、今まで動画制作の資金はどうやって賄っていたんですか?」


「えと、店で働く代わりにお金を貰ってました。ずっと働いてくれてた人が結婚して辞めちゃったので、時給二百五十円なら出してあげるってお母さんに言われて。そのお金で商品紹介の品物を買ったり、料理の材料を買ったりしてたんです。」


うーむ、時給二百五十円か。『住み込みのアルバイト』として考えると安すぎるが、『家業の手伝いのお小遣い』と考えれば……どうなんだろう? 俺なら嫌だけどな。普通に外でバイトを探すぞ。まだ昼勤しか出来ない歳とはいえ、外部のアルバイトだったら三倍以上貰えるだろうし。


高校時代はガソリンスタンドで働いていたなと思い出している俺に、夏目さんはちょびっとだけ情けなさそうな苦笑いで会話を続けてくる。


「私はあの、人付き合いが苦手なので正直助かりました。厨房でお父さんと料理をするのは楽しいですし、手伝い始めてからはお母さんが……えーっと、嫌味的なことを言わなくなったので。」


「今日は抜けてしまって平気なんですか?」


「駒場さんが来る前に仕込みを終わらせましたから、両親だけで何とかなるはずです。……家に毎月五万円入れれば店の手伝いは一切しなくていいって言われてるので、とりあえずはそれを目標にしてます。」


「ということは、一人暮らしはまだ視野に入れていないんですね。」


動画制作の経費抜きで五万円となると、現状ではまだちょっとだけ足りていないかな? 食費や光熱費については考慮しなくてもいいようだし、実家暮らしは貯金の味方だなと羨ましく思いながら相槌を打ってみれば……ネギを手にした夏目さんが目をまん丸にして口を開いた。


「……一人暮らしって、私の歳でも出来るんですか?」


「可能ですよ。多数派ではないでしょうが、夏目さんくらいの歳でもやっている人は沢山居ると思います。大学生になると更に増えますしね。私も高校卒業と同時にこっちに出てきて、そこからずっと一人暮らしです。……夏目さんの場合はまあ、実家が都内なのであまり転居するメリットが無いかもしれませんが。」


「……キッチンが綺麗なお部屋って、どのくらいの家賃なんでしょうか?」


「東京はかなり高いですよ。私が住んでいる世田谷のワンルームアパートは七万円です。キッチンはお世辞にも広いとは言えませんし、良いキッチンが付いている部屋だとそこそこの家賃になってしまいますね。安くても十五万とかじゃないでしょうか。」


キッチンだけ豪華なワンルームだなんて特殊すぎて見つからないだろうし、『綺麗な料理動画』を撮れるレベルのキッチンがある部屋となると、最低でも十五万は覚悟しておくべきだ。そして上を見るとキリが無い。俺の年収がひと月の家賃になるマンションだって存在しているのだから。


地元の家賃は安かったなと憂鬱な気分になっている俺に、がっくりしている夏目さんが声を返してくる。


「じゃあ、絶対無理ですね。」


「今は無理ですが、いつかは引っ越せるかもしれませんよ? そうなったら引っ越したいですか?」


「……はい、引っ越したいです。もっと広い場所で撮影したいですし、カメラの角度に気を使わなくて良くなるのには憧れます。」


『寝袋を卒業してベッドを置きたい』とは言わないんだな。あくまで動画が優先か。卵をパックから出しつつ呆れるべきか感心すべきかを迷っていると、小皿を並べている夏目さんが質問してきた。ちらちらと俺の方に視線を送りながらだ。


「でも、一人だと不安なので……駒場さん、呼んだら来てくれますか? 病気の時とか、困ってる時とかに。」


「ええ、もちろん。呼んでくれればすぐに行きますよ。」


「えへへ、それなら大丈夫そうです。」


むう、どうにも掴みかねる子だな。想像以上にしっかりしている部分と、何だか幼く感じられる部分が混在しているぞ。香月社長にも同じようなイメージがあるが、それとは方向性が異なっているし……分からん。これまで担当してきた子には居なかったタイプだ。


まあでも、十七歳だもんな。俺が高校生の頃はアホみたいなことばかりやっていたし、それと比べてしまえば随分と大人に思えるぞ。家に金を入れようとしている時点で俺より遥かにマシだろう。俺の場合はバイト代をバイクに注ぎ込んでいたっけ。


一生単車に乗っていこうと友人たちと語り合っていたのに、今やリースの軽自動車か。別に不満はないのだが、現実に負けたようでほんの少しだけ寂しくなってくるな。実家に置いてある単車のことを懐かしんでいると、材料を並べ終えた夏目さんが指示を出してきた。……余計なことを考えるのは後にしよう。今は撮影に集中しなければ。


「それじゃあ……私がここに立つので、駒場さんは材料と私が画角に入るように正面から撮ってください。それで材料の説明が終わったら、こっちに回ってきて横から手元を映す感じで。」


「手元だけですか?」


「えと、寄って欲しい時は目線で合図を送ります。基本的には手元と私の両方を映しておいてください。あんまり早く動かしたり、頻繁に動かしすぎると視聴し難い動画になるので、場面ごとにこう……『違った角度で固定する』ってイメージでお願いできますか?」


「……最大限努力してみます。」


撮影現場を見たことはあるが、カメラを回すのなんて当然今日が初めてだ。しかもこの一台だけで撮影しているので、俺がしくじれば動画がダメになってしまう。……思い出せ。俺は撮影の休憩中にカメラさんと話したことがあったはずだぞ。もちろん雑談程度の会話だったけど、上手く撮るコツのようなものをちょこっとだけ教えてくれたはず。


確か、『視聴者の目線で撮れ』だったかな? カメラ越しの映像を、そのままテレビで見ているものとして捉えろと言っていたのを覚えているぞ。撮ることだけに集中しすぎると、後で見た時に忙しない映像になってしまうのだとか。


あとはそう、『きちんと固定するのが最も大切』と口にしていたな。素人は顔の前にカメラを構えて撮影しがちだけど、それだと低い映像を撮る際に中腰になってぷるぷるしてしまうので、そういう時は立ったままでカメラ本体の位置を動かすのだとアドバイスしてくれたっけ。付属のモニターを見ればどんな映像が撮れているのかは確認できるんだから、腰の辺りに持ってモニターを斜め上に傾ければいいだけだと。


あれはあくまで『素人がホームビデオを撮る時のアドバイス』だったわけだが、撮影における基礎であることは間違いないはず。早く動かしすぎない、固定が大事、視聴者の目線で撮る、顔の前に構えることに拘りすぎない。頭に注意点を刻み込みつつカメラを構えた俺へと、夏目さんが追加の注文を寄越してきた。


「それとですね、テーブルの方は映さないでください。映すとお母さんが怒っちゃうので。」


「キッチンスペースのみということですね。」


「はい、そうなります。」


となると、更に難易度が上がりそうだ。そういえばそんなことを言っていたな。この部屋は所謂『キッチンダイニング』なのだが、ダイニングスペースは画角に入れないようにしなければならないらしい。……まあ、気持ちはちょっと分かるぞ。ダイニングは来客たる俺が足を踏み入れるのを躊躇うレベルで生活感があるし、夏目さんの母親は全世界に公開したくないのだろう。『キッチンを映していい』というだけでも相当な譲歩なのかもしれない。


「了解しました、注意します。……録画開始しました、どうぞ。」


頷いてから促した俺を見て、夏目さんは一度軽く深呼吸をした後で材料の説明をスタートさせる。……今後はこうやってカメラを持つ機会が増えるだろうし、帰ったら詳しく勉強しなければ。撮り方は面白さに影響する要素の一つであるはず。俺の技術が低すぎる所為で動画がつまらなくなるだなんて冗談にもならないぞ。


「はい、こちらが材料になります。想像以上の辛さだったので、それを活かしつつ上手く味に組み込めるように──」


とにかく、素人なりにでも頑張ってみよう。夏目さんが真剣に動画と向き合っているのだから、俺も然るべき努力をしなければ。カメラが揺れないように慎重に支えつつ、『撮る技術』を少しでも向上させようと決意するのだった。

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