Ⅰ.さくどん ②



「あー……まあ、うん。ご覧の通りまだ片付いていないが、ここがホワイトノーツの事務所だよ。君のデスクはあれさ。」


香月社長が指差した先にある、各所にマスキングテープが貼られたままの新品のオフィスデスク。それを目にしながら軽く頷いた後、俺は部屋の中を見回して眉根を寄せていた。……『夜逃げ前の事務所』って感じの風景だな。ガラッガラじゃないか。


カフェで香月社長と話した結果、まさかのスピードで好条件の再就職を果たした俺は、その足でホワイトノーツの事務所にやって来たわけだ。社長曰く差し当たり小さなオフィスビルの三階に位置する部屋を借りたとのことで、道中『まだ片付いていない』という点を何度も強調していたのだが……これは『片付いていない』ではなく、『片付ける物すらない』と表現すべきじゃないか?


正に事務所といった広めのスペースに存在しているのは、四台のオフィスデスクと未開封の積み上がった段ボール箱だけだ。応接用のソファやテーブルも無ければホワイトボードも無いし、書類棚や観葉植物も、デスクの上にあるべきモニターやキーボードも無い。ペーパーカンパニーの事務所みたいだぞ。


「……電話すら無いんですね。」


それはさすがに必要じゃないかと思って尋ねてみれば、香月社長はバツが悪そうな顔で言い訳を述べてきた。


「手続きに手間取ってね。きちんとした会社名義の番号がまだ取得できていないんだ。固定電話自体はそこの段ボール箱の中にあるはずだよ。どの箱なのかは分からんが。」


「それでよく書類上『会社』として成立させられましたね。応接用のソファやテーブルは置く予定ですか?」


「……必要かな? 客はあまり来ないと思うんだが。」


「絶対に必要ですよ。会社である以上来客は必ずありますし、新たなタレントを受け入れる際にそれすらないようでは不安に思われます。将来的にスポンサーの獲得を目指すのであれば、応接をする機会は沢山あるはずです。」


所属を迷っている人物がこの事務所を訪れれば、間違いなく『あっ、騙されたんだ』と判断するだろう。何故なら今の俺もちょびっとだけそう感じてしまっているのだから。事前の説明があった上に連れてきたのが香月社長だから踵を返していないが、がっしりした体付きの強面の男性だったら既に逃亡しているぞ。


『フロント企業』という言葉を思い浮かべている俺に、香月社長は慌てた様子で説明を継続してくる。


「だが、駒場君。エアコンはあるぞ。」


「……見当たりませんが。」


「注文してあるという意味だよ。明日には業者が来て取り付けてくれるはずだ。ちなみにそこは給湯室だね。そっちにあるトイレは最新式だし、あと……ほらね、凄いだろう? ここには何かよく分からない小さな部屋もあるのさ。社長室にしようかと迷っているんだが、君はどう思う?」


事務所内に三つあるドアの正体が早くも判明したな。小さなシンクと二口のガスコンロ、それに冷蔵庫を置くためのスペースがある給湯室。やけに高そうな最新式の洋式便器が設置されてあるトイレ。そして……まあ、これは確かに『よく分からない小さな部屋』だ。事務所スペースに隣接する形で、八畳ほどの小さめの部屋が存在しているらしい。


「……これは、物置じゃありませんか? 書類なんかを仕舞っておくための。あるいはロッカールームなのかもしれませんね。」


「にしては広すぎないかい?」


「事務所スペース自体はそれなりの広さですから、物置や更衣室の大きさもこんなものだと思いますけど……何かに使えるかもしれませんし、社長室は諦めた方がいいんじゃないでしょうか?」


「……まあ、そうだね。社長室はもっと大きな事務所に移ってからにしようか。」


現在の事務所の体裁すら整っていないのに、もう移転を視野に入れているのか。恐れを知らない人だな。渋々という雰囲気で首肯した香月社長へと、とりあえず必要な物の場所を問いかけた。


「パソコン本体とモニターはどの箱ですか? 何をするにせよそれが無いと始まりません。……ネットは通っているんですよね?」


「通っているよ。電子機器系はそっちの……あーっと、どれだったかな? 入っている箱がこの辺にあるはずさ。無線用のルーターや、ケーブル類も一緒に注文したんだ。」


大量の段ボール箱が積み上がっている事務所の隅に移動して呟いた香月社長は、分かり易く困ったような顔付きになって肩を竦めてくる。


「まあ、何だ。……君に一任するよ、駒場君。私は初期設定の仕方がさっぱり分からないからね。こう、パパッとやってくれたまえ。」


「……ホワイトノーツはインターネットを『縄張り』にする会社なんですよね? そもそも香月社長、スマートフォン関係で起業資金を稼いだんじゃないんですか?」


「それはそれ、これはこれさ。私が得意としているのは投資関係……つまり、ソフトウェアの方なんだ。ハードウェアは全然分からんよ。」


「投資関係が『ソフトウェア』かは微妙なところですが……分かりました、やってみます。もし無理そうなら素直に業者を呼びましょう。」


スタートする前の段階で障害にぶち当たったな。パソコンに詳しくないのか、香月社長。……駐車場やカフェでは頼もしく見えたのに、急にぽんこつに思えてきたぞ。本当に大丈夫なんだろうか?


しかしもう後戻りは出来ないと覚悟を決めつつ、段ボール箱を一つ一つチェックしていく。いちいち開封する気にはなれない数だが、パソコン本体は大きめの重い箱であるはずだ。数個の箱に当たりを付けて、表面のデザインや伝票に記載されてある商品名を確認していくと──


「香月社長? 法人向けのパソコンではなく、個人向けの専門サイトで購入したんですか? 見慣れないメーカーなんですが。」


「二台しか買わないなら個人向けの方が安かったんだ。色々探していたらパソコンの専門店に行き着いたから、そこで評判とスペックが良さそうなのを適当に購入したよ。……ひょっとして、それだと何か問題があるのかい?」


「……多分これ、必要なソフトがインストールされていないパソコンですね。個人なら使わない人も居るでしょうが、企業だと必須のやつが。」


「……なるほど、要するに私は買い物に失敗したわけだ。」


失敗というほどではないが……これは所謂、『ゲーミングPC』というやつなんじゃないだろうか? 香月社長の苦々しい声を背に、何とも言えない気分で箱のテープを剥がしにかかった。オフィスソフトを追加で買うことになるかもしれないな。


「一応問題なく使えるとは思います。事務作業にはややオーバースペックかもしれませんけど、マネジメント業務の中で動画を弄ることになる可能性もありますし、そういう際には役に立つかも……社長、カッターはありますか?」


全然剥がせないのでカッターの場所を聞いてみると、香月社長は殺風景な事務所を示して答えてくる。パソコンが入っている段ボール箱の封印を守っているのは、茶色いガムテープではなく透明な剥がし難いテープなのだ。このテープは嫌いだぞ。いやまあ、剥がれ難いのは本来長所なのかもしれないが。


「無いよ、駒場君。まだ何も無いんだ。ハサミすら無いね。」


「……では、先ずそういった小物を買いに行ってきます。そしてパソコンを設置したら最低限の家具をネットで注文しましょう。」


「冷蔵庫は頼んであるよ。でっかいのをね。」


どうして冷蔵庫を優先してしまったんだ。他に必要な物が山ほどあるのに。少し自慢げに主張してきた香月社長は、俺があまり喜んでいないことに気付いて笑みを弱めると、恐る恐るという感じで疑問を呈してきた。


「良い冷蔵庫を見つけたつもりなんだが……あの、準備が雑すぎて怒っているかい?」


「怒ってはいません。『ゼロからやるんだ』という実感を噛み締めているだけです。」


「ちょっと怒っているじゃないか。……ちゃんと空気清浄機も買ったんだよ? 冷蔵庫と一緒に届くはずさ。」


「……念のため聞きますが、椅子は買いましたよね?」


新品のデスクはあるものの、ペアで存在すべき椅子はそこに無い。段ボール箱をざっと確認した限りではそれらしき箱が見当たらないので、まさかと思いながら質問してみれば……買っていないのか、椅子。机はあるのに。香月社長がひくりと口の端を動かして回答してくる。


「……駒場君、怒らないでくれたまえ。忘れていたんだ。買う気はあったんだよ。」


「つまり、買っていないんですね?」


「買おうじゃないか、すぐ買おう。いいやつを買っていいよ。常に座っている椅子は大切だからね。仕事の効率にも影響を与えるはずさ。」


「是非買いましょう。西日が入る角度なのでカーテン……というかブラインドも必要ですし、小物を収納する小さな棚も要りますね。プリンターも無いようですから、そうなると当然コピー用紙もありません。その辺も買うべきだと思います。」


要するに、さっき社長が言った通り何も無いわけか。なーんにも無いのだ。改めて現状を認識したところで、若干弱気な面持ちになっている香月社長へと声をかけた。それでも堂々と胸を張っているな。えへんと威張りながら目を逸らしているぞ。ここに来て謎の頼りなさが出てきたが、何にせよ独特な人だという第一印象は正しかったらしい。どういう心境なんだろう?


「細かいことは後で考えましょう。時間はあるわけですし、今日のところはパソコンの設置に集中します。まだこの事務所は社長と私しか使わないんですよね?」


「んーっとだね、駒場君。金曜日に例の子がここに来るんだ。だからその、君に担当してもらう予定の子が。契約の手続きとか、あとは今後に向けての簡単な打ち合わせをする予定なんだが……マズいかな? マズいね。うん、マズいな。」


俺の表情を目にして疑問から断定へと言い方を変えた香月社長に、今度はこっちが口の端を引きつらせながら応じる。金曜日? 今日は火曜日だぞ。


「……今まさに未知の業界に挑戦しようとしている十七歳の子は、この事務所を見てどんな感想を抱くと思いますか?」


「『ここから私の夢が始まるんだ』とは……まあ、思わないかもね。些か殺風景であることは認めるよ。しかしだ、駒場君。前に会った時はカフェで話したんだが、次の打ち合わせまでには事務所が借りられるはずだと言ってしまったのさ。『君が所属する予定の事務所なんだから、次の機会にきちんと見せるよ』と。」


「なら、トラブルで事務所の準備が遅れたことにしましょう。『ことにしましょう』というか、実際間に合っていないわけですし。」


「そっちの方が情けないじゃないか。……大丈夫だよ、大丈夫。事務所が出来たばかりだということは知っているんだから、そこまで大きな期待は持たないはずだ。単に『物が無い』と言ってしまえば聞こえが悪いが、『まだ何も描き込まれていない真っ白なカンバス』とも表現できるしね。」


事務所の中心で大仰に両手を広げながら強引な解釈を持ち出した香月社長へと、半眼で現実的な台詞を返す。


「経営側は真っ白な方が描き甲斐がありますが、買い手側は……つまり所属タレントは真っ白なカンバスでは満足しません。ただただ不安になるだけですよ。どこの誰が真っ白なカンバスに高値を付けるんですか。」


「……上手い言い方をするじゃないか、君。」


「カフェでの打ち合わせにしましょう、社長。そうすべきです。それまでには最低限の体裁を整えられるはずですし、事務所の紹介は次々回とかにしておくべきですよ。」


俺にはフォローしきれないぞ、こんな事務所。切実な思いを込めて進言してみれば、香月社長は腕を組んでむむむと悩んだ後で……不承不承頷いてきた。何故不承不承なんだ。


「約束を破るのは好きではないんだが……君がどうしてもと言うのであれば、事務所の紹介は次々回の打ち合わせの時にしようか。」


「私も約束を破るのは嫌いですが、これはあれです。サンタクロースが居るか居ないかみたいなものです。所属タレントの夢を壊すわけにはいきませんよ。」


隠すべき物事というのは確かにあるのだ。上司に倣って強引な解釈を持ち出しつつ、しぶといテープへの対処を諦めて出入り口へと向かう。兎にも角にもカッターが要るな。こういうのは綺麗に開けて綺麗に解体して、綺麗に纏めてゴミに出したい。力尽くでベリベリするのは趣味じゃないぞ。


「では、道具を買ってきます。」


「私も行くよ。残ったところでやることなど無いわけだしね。……椅子は買わないのかい?」


「どうせ買うならしっかり選んで買うべきですし、数日間は段ボール箱を椅子代わりにしましょう。」


無論そうしたいわけではないが、安物買いの銭失いを地で行くよりはマシだろう。焦って買うのは危険だし、それなら暫くは段ボール箱で我慢した方が余程に良いはず。考えながら社長と二人で事務所の外に出て、小さな片開きのエレベーターのボタンを押す。ここは階毎に一つの貸しスペースがあるタイプのオフィスビルなので、廊下と呼べるような空間が存在していないのだ。あるのは階段の踊り場とエレベーターだけ。まあ、よくある構造だな。


「……わくわくしているかい? 駒場君。」


エレベーターの到着を待っている間に問いかけてきた香月社長に、首を傾げて疑問を飛ばした。『わくわく』? 唐突な質問だな。


「何に対してですか?」


「『ゼロからやるんだ』に対してだよ。こういうの、秘密基地を作る時みたいでわくわくするだろう?」


「……私はそもそも、『秘密基地』を作った経験がありません。」


扉が開いたエレベーターに乗り込みつつ返事をすると、香月社長は目をパチパチと瞬かせて応答してくる。


「驚いたね、そんな人間が居るのか。……じゃあ、ホワイトノーツは君が作る最初の秘密基地になるわけだ。」


「……『秘密』では困ると思いますが。」


「ああ、それもそうだね。『基地』とだけ呼ぶべきかな。……ほら、そう考えるとわくわくしてくるだろう? 内装には出来る限り拘って、小さくとも立派な基地にしてあげようじゃないか。」


下降するエレベーターの中でうんうん首を振っている香月社長を横目に、呆れと感心が綯い交ぜになったような気持ちを自覚した。この人はあれだな、良くも悪くも子供っぽい部分があるらしい。危なっかしくも思えるし、一種の魅力も感じるぞ。


……もしかすると、こういうのを『カリスマ』と呼ぶのかもしれない。だって基地という表現に呆れる反面、むず痒いような楽しさも湧き上がってくるのだから。そういうことをあっけらかんと言えるような人物なればこそ、人を惹き付けてしまえるわけか。そして同時に一定数の人間から疎まれもするのだろう。


強く惹き、強く拒絶される人間。何にせよ香月社長はどちらかに突き抜けられる特別なタイプで、中間を彷徨う平凡な俺とは違うということだ。故に彼女は思い切った起業が出来てしまうのかもしれないな。……更に言うと、俺は香月社長に惹かれる側の人間らしい。何たって今の俺はやる気が出てきてしまっているのだから。


思考しつつエレベーターから降りてポリポリと首筋を掻いた後、ビルの出入り口へと足を進める。つまるところ、個性あるリーダーと没個性的な下っ端だ。ここは下っ端であることを嘆くのではなく、面白いリーダーに巡り会えたことを喜んでおくか。事実として香月社長の下なら退屈しなさそうだし。


「そういえば、何という名前なんですか? 金曜日に打ち合わせをする予定の投稿者さんは。時間がある時に動画をチェックしておこうと思います。」


益体も無い考えを頭から追い出して尋ねてみれば、香月社長は出入り口の自動ドアを抜けながら返答してきた。これまで明確な名前を口にしなかったのは個人情報保護のためだろうが、社員になることが決定した今なら聞いても問題ないはずだ。


「本名は夏目桜なつめ さくらだよ。夏目が名字で、桜が名前。夏なんだか春なんだか分からない名前で面白いだろう? そしてライフストリームの登録名は平仮名で『さくどん』さ。」


「……なるほど。」


うーん、何とも判断しかねるな。要するに『ハンドルネーム』なわけだし、そこまで変ではないのかもしれないが……さくどんか。覚え易くはあるぞ。そこはまあ、良い点かもしれない。


ビルの横の駐車場に向かいながら唸っていると、香月社長が追加の情報を寄越してくる。


「本人曰く『さく』は自分の名前から取って、『どん』は擬音から取ったらしいよ。単純かつ記憶し易い名前にしたんだそうだ。」


「悪くない決め方だと思います。耳に残り易い名前ですし、四文字はちょうど良い長さです。平仮名という点も垣根が無くていいですね。」


「結構そういうことを考える子なんだよ。動画の構成や長さを変えて視聴者の反応を探ったり、ターゲットとなる世代を意識したり。広告の話が出る前からそういった部分を気にしていたようだね。」


「天然ではなく、計算でやっているわけですか。」


結局のところ後者が出来なければ長続きしないので、『天然』はあくまで切っ掛けとなる材料に過ぎないわけだが……ちょっと安心したぞ。現時点で既にそういう点を意識している人なら、アドバイスもし易そうだ。


軽自動車のロックを解除しつつホッとしている俺に、香月社長がざっくりした纏めを送ってきた。


「何れにせよ、会えば分かるさ。……あとはまあ、動画内とプライベートではキャラが若干違うということも把握しておいてくれ。」


「キャラを『作っている』んですか?」


「いいや、そういうわけでもないんだよ。人付き合いが苦手な子なんだが、カメラ越しだと緊張しないから堂々と出来るらしくてね。プライベートでは常に遠慮の仮面を被っているだけで、『素』はむしろ動画内の彼女なんじゃないかな。」


あー、そっちか。『逆転』していると。俺からすると珍しく思えてしまうが、ライフストリームでは間々ある話なのかもしれない。匿名の世界と現実の狭間にあるわけだもんな。『カメラの前ではキャラを演じる』というタレントは抱えたことがあるけど、『カメラの前でしか素が出せない』人物を担当するのは初めてだぞ。


とにかく、今日家に帰ったら早速動画を見てみよう。担当マネージャーですと挨拶してきたヤツが、自分の動画をよく知らないというのは物凄い不安要素になってしまうはず。向こうから振られたら答えられる程度になっておかないと話にならないし、金曜日に会うのであれば急いで頭に詰め込まなければ。


───


そして三日後である、四月一日の金曜日。左腕の腕時計が午後一時十五分を示していることを確認しつつ、俺は香月社長と二人で三日前にも使ったカフェのテーブルを囲んで……はいないな。カフェのテーブル席の片側に並んで座っていた。約束の時間は午後一時だ。つまり、現時点で十五分も過ぎていることになる。


「……社長、時間はちゃんと知らせたんですよね?」


「メールで知らせたし、意味もなく遅刻するような性格の子ではないから、何かトラブルがあったのかもね。電話すべきかな?」


「三十分までは待ちましょう。それでも来ないなら電話してみてください。」


『催促の電話』は最終手段だ。常習犯なら注意すべきだが、今回の場合は『いや、気にしていませんよ』の方が良いだろう。第一印象で躓くことだけは避けたいし、ここは慎重にいかなければ。


要するに、現在の俺たちは『さくどん』こと夏目桜さんの到着を待っているのだ。この三日間はパソコンの設定をしたり、社長の知り合いの弁護士さんに手伝ってもらって俺の雇用契約を済ませたり、百円ショップで雑貨を揃えたり、家具屋に行ったり、エアコンの取り付けを見守ったりと、本来の業務とは一切関係のない物事に使っていたわけだが……しかし『さくどんチャンネル』の動画はきちんとチェックしたぞ。数が多かったのでまだ全部は視聴できていないものの、大半は見たと主張できるはず。


率直な感想としては、『まあまあ面白い』という動画だったな。一喜一憂しながら熱中するほどではないが、暇な時に何となく見てしまうような面白さがあったぞ。そして時折『これは面白い』と唸らせるような動画があり、反対に『今回はいまいち』と思わせるような動画もちょこちょこと存在していた。


何というかこう、息が長い民放の番組のような印象だ。突出してはいないものの、一定ラインの安定感があり、かつ更新の頻度も高い。ドキドキしながら今か今かと更新を待つのではなく、ライフストリームを開いた後で『とりあえず見るか』といった具合に視聴されていそうな雰囲気があったな。


故に俺としては、『想像よりずっと良い』と判断している。色物ではなくスタンダード、一瞬の特別ではなく持続的な『日常の一部』、急上昇や急下降ではなく緩やかで安定した微上昇。その状態を保つのは非常に難しいことであるはずなのに、夏目さんはライフストリーム内で既にそういった立場を確立できているわけだ。


内容の方は商品をレビューする短い動画が全体の半分以上を占めており、所謂『チャレンジもの』と真面目な料理動画がそれぞれ四分の一弱ずつで、ごくごく稀にトークのみの動画があるという割合だったが……そこは研究の成果が見て取れたな。どうも夏目さんはレビュー動画を減らして、企画系と料理の動画を増やそうとしているようだ。


さくどんチャンネルの最初期の動画……つまり二年前に投稿された動画を見ると、簡単に手に入る身近な品物をレビューする動画が殆どだったのだが、最近は『普通は買わないような珍しい商品』のみを取り上げているらしい。そうなると当然レビュー動画を撮影できるチャンスは減ってしまうので、空いた穴に企画系や料理を当てているということなのだろう。


レビュー動画の質を高めることが先にあったのか、企画系と料理の割合を増やしたいという思いが先行していたのかは分からないが、何にせよ平均的な面白さはじりじりと向上していたぞ。他にもコスメ系の動画が何本か出た時期があったり、時たま何の脈絡もなくファッション関係の動画が投稿されたりもしていたな。何も考えずに見ると特に気にならないけど、あれは間違いなく試行錯誤の痕跡だろう。ちょっとズレたジャンルに触ることで、視聴者の反応を確認していたのかな?


とにかく、俺は夏目さんの動画から『慎重な向上心』を感じ取ったわけだ。土台作りを怠らないのは好印象だし、あくまで上を目指している姿勢も感心できる。『一人目』としては期待できそうな人物だと言えるだろう。動画内では鼻に付かない程度にだけ奇を衒いつつ、基本的なスタイルとしては丁寧で堅実。良いモデルケースになってくれそうだな。


ちなみに日本国内や、他国の人気投稿者の動画もチェック済みだ。ジャンルの差が大きかったので一概に『どれが良かった』とは断定できないものの、現時点トップのアメリカの投稿者はさすがに凄かったぞ。撮影の規模がそもそも違っていたな。キネマリード社が広告システムを出す以前から複数の企業がスポンサーになっていたようで、動画の撮影にも相応の資金を使用できるらしい。


それと、ライフストリームの視聴者が何を望んでいるのかもぼんやりとだけ掴むことが出来た。無論それは『俺なりの解釈』であって、絶対的な模範解答からは程遠いのだろうが、自分の意見も持たずにプロデュースやマネジメントを行えるはずはない。この仕事は他人の人生を背負う職業なのだから、せめて自分の視点くらいはしっかりと整えておかなければ。


ずっと動画を見続けていた所為で寝不足の頭にカフェインを与えつつ、夏目さんとの会話のシミュレーションをしていると……おや、到着したらしい。動画で見た『さくどん』がカフェに入店してきたのが視界に映る。特に変装のようなことはしていないのか。サングラスもマスクも無しで、大人しめの柄が入ったグレーのシャツ、黒のスキニーパンツ、フラットのショートブーツという落ち着いた格好だ。小さなリュックも背負っているな。


「来たようですね。」


「みたいだね。……まあ、あの様子を見れば真面目な子だというのは分かるだろう?」


「一目で分かりましたし、『無理をする子』だということも伝わってきます。」


肩下までのふわっとした黒髪と、同世代と比較するとやや低めの身長と、僅かな幼さが見え隠れする整った顔立ち。初めて動画で目にした時にも思ったことだが、バランスの良い見た目だな。可愛いに寄り過ぎず、綺麗に寄り過ぎず、柔らかい愛嬌も感じる容姿だ。


俺が元居た業界で言うと、『センター向きの子』という評価になるだろう。『好かれる』よりも『嫌われ難い』が先行している感じ。あるいは癖が無いと表現すべきかな? 浮き沈みが激しいタイプではなく、真ん中で安定して生き残るタイプだ。まあ、容姿に限った場合の話だが。


そしてそんな夏目さんは店内をきょろきょろと見回しながら、傍目にも明らかなほどに息を切らしているわけだが……長い距離を走ってきたのか? ゴール地点のマラソンランナーもかくやという状態だぞ。髪が若干乱れているし、小さく咳き込んでいるし、端正な顔は疲労で残念なことになっているな。


恐らく約束の時間に遅れないようにと走ってきたのだろう。事実として遅れている以上褒められたことではないが、あの様子を見て怒れる人間なんて存在しないぞ。むしろこっちが謎の申し訳なさを覚えるほどだ。『そこまで頑張らなくても別によかったのに』的なやつを。


あまりの疲弊っぷりにちょびっとだけ引いていると、こちらの姿を……というか、面識がある香月社長を発見したらしい夏目さんが早足で近付いてきて──


「あの、遅れてすみません! 私、バスを降りる場所を間違えちゃって。それで、えっと……すみませんでした!」


短い発言の中で二度も頭を下げたな。しかも深々とだ。青い顔で……単純に疲れているから青いのか、精神的な理由で青いのかは不明だが、兎にも角にも青い顔で荒い息を漏らしながら謝罪した夏目さんへと、香月社長が苦笑いで対面の席を勧めた。


「大丈夫だよ、夏目君。怒っていないさ。だからとりあえず座って落ち着きたまえ。今にも倒れそうだぞ、君。」


「私、あの……走ってきたので。全然違うところで降りちゃったんです。本当にすみませんでした。」


小さな声でそこまで言った夏目さんは、ちらちらと俺の方に目を向けながら席に着く。うーむ、宜しくない。状況が特殊すぎて自己紹介のタイミングを失ったな。香月社長が上手く振ってくれればいいのだが……彼女は俺のアイコンタクトに『ん?』というきょとんとした視線を返しているし、ここは強引に切り出そう。社長がたまにぽんこつになることはこの三日間で学習済みだ。基本的には頼りになるのに、こういう場面でそれを出さないで欲しいぞ。


「初めまして、夏目さん。ホワイトノーツでマネジメントを担当することになりました、駒場瑞稀と申します。よろしくお願いいたします。」


「あっ……はい、夏目桜です。よろしくお願いします。お待たせしちゃってすみませんでした。」


「堅いよ、駒場君。もっとフランクに行きたまえ。」


香月社長の野次を無視しつつ立ち上がって、夏目さんへとギリギリで間に合わせた名刺を渡す。……また頭を下げてきたな。状況次第ではあるのだろうが、謝ったり『すみません』と言うのが癖になっているのかもしれない。そして発言の最初に『あっ』や『あの』を挟みがちだということも分かったぞ。自信が無いのか、話し慣れていないのか、声が小さい所為でよく聞き返されるのか。何れにせよ大人しい性格のようだし、快活な口調でガツガツいくべきではなさそうだ。当初のシミュレーション通り、穏やかかつ丁寧な態度でいってみよう。


動画では感情豊かにハキハキと喋る子だったわけだが、『キャラが違う』という点は事前に香月社長から知らされている。その意味を理解しつつ腰を下ろしたところで、俺に合わせて席を立った夏目さんも再度椅子に座った。遠慮する性格なのは確定と見て良さそうだな。


マネジメントをする以上、相手の性格を知らなければならない。そんなわけでそれとなく分析している俺を他所に、隣の香月社長が対面の夏目さんへとメニュー表を差し出す。


「好きな物を頼んでくれ。喉が渇いているだろう? どう見てもそんな様子だしね。」


「ぁ、はい。あの……えっと、ご馳走になります。」


固辞するのはむしろ失礼に当たると判断したのかな? ……生き難い性格だとは思うが、少なくとも悪い子ではなさそうだ。礼儀を示そうという意思は感じるし、相手のことを慮れる人物ではあるらしい。とはいえ必要以上に悩みを抱え込みそうなタイプでもあるぞ。


まあ、『特殊な性格』と呼べるほどには逸脱していないな。合わせるのに苦労しそうな奇妙な価値観は抱えていなさそうだし、常識もちゃんと備えている。『不思議ちゃん』のマネジメントは世界観を共有するまでが難しいので、ある程度一般的な人物のようで何よりだ。


黙考しながらそこにホッとしていると、店員への注文を済ませた夏目さんに香月社長が話しかけた。


「さて、夏目君。前に話した通り、プロデューサー兼マネージャーをスカウトしてきたんだ。それがこの駒場君なのさ。元々芸能事務所でマネジメントをやっていた人物だから、頼りになると思うよ。」


「はい、あの……よろしくお願いします。」


「こちらこそよろしくお願いします、夏目さん。」


『よろしくお願いします』の応酬は二度目だぞ。会話がループしていることに内心で苦笑しつつ、今度は俺が話題を投げる。探り探り慎重に行こう。ここで好感を与えておかないと、後々辛くなることを俺はよく知っているのだ。


「動画、拝見しました。面白かったです。」


「うぁ、あの……ありがとうございます。直接言われるとその、恥ずかしいですね。」


「ファンの方から声をかけられたりはしないんですか?」


「私、あまり家から出ないんです。それにその、そこまで有名なわけでもないですし。」


顔が僅かにだけ赤くなったし、本心から照れているらしい。そうか、声をかけられたりはしないのか。そこを少し意外に思いながら、夏目さんへと話を続けた。活動のフィールドが特殊な所為で、社会的な認知度がいまいち判然としないな。


「ホワイトノーツに所属すると、私が夏目さんのマネージャーになるわけですが……何と言うか、基本的には『助手』程度の存在だと思ってください。動画制作における『そこには口出しされたくない』という部分に対して、何かを強制することは決してありません。そこだけは最初に約束しておきます。」


「は、はい。」


「もちろん誠心誠意考えた上でのフォローやアドバイスはさせていただきますが、方針の決定権は常に貴女にあるわけです。だから……そうですね、暫くは便利屋として遠慮なく使ってください。貴女のサポートが私の仕事なんですから、言ってもらえれば何でもやりますよ。」


『便利屋宣言』をした俺へと、夏目さんは迷っているように目を泳がせた後で……おずおずと質問を寄越してくる。


「あの……カメラを持ってもらうのって、可能でしょうか?」


「カメラ、ですか?」


「いやあの、ダメならいいんです。ただ私、両手を空けた状態でカメラを動かしたくなることが何度もあって。それでひょっとしたら、事務所に所属するとそういうことも頼めるかなと思ったんですけど……。」


「大丈夫ですよ、当然可能です。扱いに慣れている方ではありませんが、練習しておきます。」


真っ先にカメラマン役を頼まれるのは予想外だったが……なるほど、カメラか。考えてみれば一人で撮影しているんだもんな。三脚に固定するか、あるいは片手に持って撮るしかなかったわけだ。結構不便に感じていたのかもしれない。


別段引っ掛かることなく納得している俺に、夏目さんは慌てた様子で謎のフォローを送ってきた。


「えと、そんなことをお願いするのは迷惑かなとも思ったんです。だけど料理動画を撮る時とかは手が汚れたりするし、アップで映す前にいちいち手を洗ってカメラを持つのはテンポが悪いし、かといってカットを細かく挟むと全体の流れが悪く……あの、すみません。こんな話、興味ないですよね。」


「興味はありますし、私はそういった問題を夏目さんと二人で解決するために居るんです。どんどん話してください。他の人がどういう反応を示すにせよ、私はきちんと聞きますから。」


「ぁ……はい。」


「ちなみにですが、今まではずっと一人で撮影していたんですか?」


女性店員がオレンジジュースをテーブルに置くのを横目に問いかけてみれば、夏目さんはお礼と共にそれを受け取ってから応答してくる。


「あっ、ありがとうございます。……はい、一人で撮ってました。手伝ってくれるような友達は居ませんし、家族に頼むのはちょっと恥ずかしいので。」


「であれば、今後は私を頼ってください。」


家族に言及したということは、実家暮らしか。……いやまあ、そりゃあそうだ。十七歳なんだから一人暮らしをしている方が少数派だろう。動画内では家族について全く触れていなかったから、何となく驚いてしまったぞ。よくよく考えたらキッチンの映像が明らかに実家のそれだったし、意外でも何でもないな。


我ながら意味不明な驚きを隠しつつ、『真摯に向き合いますよ』という姿勢を前面に押し出してみると、夏目さんはこくこく頷いて返事をしてきた。未だ『打ち解けた』とは言えないが、初っ端のやり取りとしてはそう悪くないはず。良い会話の進み方だぞ。


「あの、はい。お願いすることがあるかもしれません。」


「遠慮しないで頼みたまえ、夏目君。駒場君には何より君を優先させるさ。……私と違って車も運転できるから、外での撮影も可能だよ。成人している人物が一緒だと色々と捗るだろうしね。面倒くさそうな交渉や手続きは全部彼に任せるといい。」


「社長が言うと何か癪ですが……まあ、その通りですね。夏目さん、店や施設からの撮影許可を取ったりするのも私の役目です。そういった雑務も任せてください。」


「それは……はい、ありがたいです。私は人と話すのがあんまり得意じゃないですし、個人で交渉すると不審に思われそうかなっていうのもありましたから。」


ややぎこちない笑顔ではあるものの、今日一番の嬉しそうな表情が出たな。そういう部分も撮影の障害になっていたわけか。……うーん、分からなくもない話だ。撮影許可を取る際、会社名を出せるか出せないかではかなり違うだろう。その会社名がどんなものであれ、相手側の反応は間違いなく変わってくると思うぞ。


然もありなんと感じていると、夏目さんがオレンジジュースを一口飲んだ後で声を場に放つ。


「……私、事務所に所属すると制限が多くなると思ってました。そこだけがちょっと不安だったんです。だからその、少し安心してます。」


「過度に乱暴な口調だったり、内容が危険だったりするのであれば制限をかけたかもしれませんが、夏目さんの場合はそもそもが安定した動画ですからね。現時点で注意すべきことは何もありません。仮にスポンサーが付けば、気を付けなければならない点も出てくるでしょうが。」


「……えと、どういうことが起こるんでしょうか? 一応その、著作権とかには気を使ってるつもりなんですけど。」


「分かり易い例で言うと、『競合他社の商品を映さない』といった特殊なマナーがいくつかあるんです。そこは助言させていただくことになるかもしれません。……ただ、著作権に関して気を使っているのは動画から伝わってきましたよ。素晴らしい警戒心だと思います。慣れていると当然のことですが、普通は気が回り難い部分でしょうし。」


ここはおべっか抜きの称賛だ。そういうことを気にしがちな芸能界に居たわけでもないのに、大したもんだと感心するぞ。手放しで褒めた俺に対して、夏目さんは首を横に振りながら説明してきた。


「私が一人で気付いたわけじゃなくて、親切なリスナーさんにコメントで教えてもらったんです。広告掲載に伴ってライフストリームの規約が変わるから、もし掲載の申請を通したいならそういう部分にも注意すべきだよって。それから気を付けるようになりましたし、お陰で申請もすんなり通りました。」


「コメントは細かくチェックしているんですか?」


「昔の動画に最近書かれたコメントは見逃してるかもですけど……えっと、基本的には全部読んでます。」


視聴者が動画ページに書き込めるコメント。俺もさらっとだけ確認したが、中には結構キツめのやつもあったぞ。ほぼほぼ肯定的な応援や感想だったものの、短文での辛辣な評価や長々とした文句もごくごく僅かにだけ存在していたのだ。


その辺が心配になってドキッとしている俺に、夏目さんは俯きながら言葉を繋げてくる。迷っているような、困っているような声色だな。


「落ち込むコメントもあるんですけど、これからもなるべく読んでいくつもりです。折角書いてくれたわけですし。」


「……個々人で対応が異なる部分なので正解はありませんが、私が知るタレントの中には『視聴者の意見を一切見ない』という方も居ましたよ。あるいは裏方の人間があからさまな悪意だけを取り除いたり、プラスの意見だけを拾い上げるというケースもありました。」


ファンレター等に対するそういった行為は、江戸川芸能事務所では『検閲』という捻りのない隠語で呼ばれていたっけ。そもそも気にしない者も居れば、そういう反応を分析して自身のスタイルを修正していたタレントも居たし、怖くて見られないと言って無視する人も居た。そこに関しては正解など無いのだ。事実として『完全無視』を貫いた末に大成功を掴んだ人物だって存在しているのだから。


『ファンの声』は諸刃の剣。俺はその真実を芸能界での経験から学び取ったぞ。人間という生き物は十の肯定的な声より、たった一つの否定的な声の方が気になってしまうものだ。そして否定的な意見が無くなることなど有り得ない。それがどれだけ素晴らしい動画だろうと、叩く人間は必ず出てくるはず。そこだけは百パーセントの確信を持って言い切れるさ。


慎重な態度で『別の道もあるよ』と伝えた俺へと、夏目さんはオレンジジュースのグラスを触りながら返答してくる。


「それは、分かります。たまに厳しいコメントとかもあって、そういうのを読んじゃうと何日も引き摺りますから。寝る前とかに思い出すと、もやもやして眠れなくなっちゃったりもするんです。」


そこで一度区切った夏目さんは、上目遣いでこちらを見つつ続きを語った。弱々しい笑みを浮かべながらだ。


「けど、嬉しいコメントもやっぱりあるんです。私の動画、結構沢山上げてるんですけど……最初の頃から毎回コメントしてくれてる人も居るんですよ? 料理動画に『参考にして作ります』ってコメントがあったり、チャレンジ動画に『面白かった』って感想があったり、商品レビューに『買おうか迷っていたので助かりました』って書かれてたり。そういうのを見る度、自分のやってることが無駄じゃないって言ってくれてるような気がして。」


「……無駄じゃない、ですか。」


「私、他に何にも無いんです。ずっとずっと居ても居なくてもいいような人間だったので、ほんの少しでも……その、誰かの役に立ててるなら嬉しいなって考えてます。だからあの、コメントはこれからもチェックさせてください。いつも見るのが怖いんですけど、それがあるから私はこれまで続けてこられたんだと思うので。」


『他に何にも無い』か。動画制作をやっている根本の理由が垣間見えるような台詞だな。……うーむ、若干の危うさを感じるぞ。動機が単純な承認欲求だったら話は早かったのだが、そういうわけでもなさそうだ。仕事は仕事として割り切れる性格でもないみたいだし、ここは今後ケアすべき部分だと記憶しておこう。


「分かりました、先程も言ったように方針を決めるのは夏目さんです。私は貴女の決定に従います。」


「ぁ、えと……ありがとうございます。」


「しかし、抱え込むのが辛いと思ったらすぐに相談してくださいね。今はまだ知り合ったばかりなのでやり難いでしょうが、私は夏目さんが相談できるような存在になれるように努力していくつもりです。『どんな相談でも、きちんと聞く意思がある』ということだけは心に留めておいてください。」


「……はい。」


よし、決めたぞ。ビジネスライクな距離を保った関係ではなく、どちらかと言えばベタベタにやっていこう。個人的にはマネージャーとタレントの関係は前者が最良だと考えているものの、この子に関しては後者で行くべきだ。あまりにも近すぎるのは問題だが、寄り掛かってくれる程度の距離までは多少強引にでも詰めていかねば。


マネジメントの大きな指針を定めたところで、香月社長が話を進めてくる。


「まあ、信頼は徐々に築いていけばいいさ。駒場君はこの三日間で私に遠慮なく意見してくるようになったからね。時間をかければ自然とやり易くなってくるよ。……それでは、この辺で面倒な契約の話に移ろうか。印鑑は持ってきてくれたかい?」


「あっ、持ってきました。」


言いながら書類をテーブルに出した香月社長に応じて、夏目さんもリュックの中から必要な物を取り出していく。……んー、想像していた以上に難しそうだぞ。芸能界との最も大きな違いは、根本的な主導権がタレント側にあるという点だな。ホワイトノーツが夏目さんを雇うわけではなく、あくまで夏目さんがマネジメントを俺たちに依頼しているだけなので、彼女が不必要だと感じてしまえばそれでお終いなわけか。


江戸川芸能では仕事を振る事務所側に主導権があったから、今まで培ってきたやり方をそのまま使えば間違いなく失敗してしまうだろう。こっちの業界では事務所がタレントを選ぶのではなく、タレントが事務所を選ぶのだから。


つまり、民放の芸能事務所とは上下関係が逆転しているわけだ。個人でも活動できるライフストリームの動画投稿者にとって、事務所への所属は別に必須ではない。……であれば、マネジメント料を払ってでも所属するだけのメリットを示せなければ生き残れないぞ。所属タレントは同僚であり、パートナーであり、何より『お客様』でもある。そこは頭に刻んでおくべきだな。


香月社長と夏目さんが契約を進めているのを眺めながら、難易度が高い仕事に就いてしまったことを改めて実感するのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る