ライフストリーム!
白月リタ
一年目
さくどん
Ⅰ.さくどん ①
「じゃあ、あの……また連絡しますね。お疲れ様でした、駒場先輩。」
何とも気まずそうに声をかけてきた同僚……ではなく『元』同僚に首肯することで応じてから、
まあ、自業自得だ。俺はこうなることを覚悟した上で自身の行動を選択したわけだし、会社としてはこんな人間を残しておけないだろう。昼下がりの陽光を浴びながら五年間働いたビル……『江戸川芸能事務所』の自社ビルを一度見上げた後、自嘲の苦笑いを浮かべて駐車場へと歩き出す。
煌びやかで、そして同時に薄暗い芸能界。もうこの業界に残るのは無理だろうな。噂が広まるのが早い世界だし、俺が何をやったのかは他事務所にも伝わっているはずだ。おまけに俺を雇えば江戸川芸能との関係が悪くなる。となればどう考えても別事務所への再就職は不可能だろうから、全く別の仕事を探すしかないわけか。
あー、キツい。二十五歳でまたしても就職活動? 悪夢のような話じゃないか。先ず失業保険を申請して、即座に動き始めなければ。新卒の頃だって妥協に妥協を重ねていたわけだが、今回はあの時以上に手を広げる必要がありそうだな。もはや文句など言っていられる状況じゃないぞ。
しかも、今は春だ。中途採用に時期が関係あるのかはよく知らないものの、タイミングとして宜しくないのは確かなはず。ピカピカの新卒が入ってきて社内の体制を整えるべき時期に、いきなり中途採用をしようとは考えないだろう。これは苦戦しそうだな。失業保険って何ヶ月貰えるんだっけ? そもそも俺のケースでも貰えるのか?
泣きたい気分でビルに隣接する駐車場を歩いていると、自分の黒い軽自動車の近くに人影が立っているのが目に入ってきた。パンツスーツ姿の背が低い女性だ。……高いスーツだな、あれは。俺が今着ている物より遥かに上のランクのやつ。
「すみません、いいですか?」
女性が立っている後部座席のドア付近まで歩み寄った後、『ドアを開けたいので退いてください』という言外のニュアンスを込めて話しかけてみれば、背を向けていたスーツ姿の女性はぴくりと肩を震わせてから振り返って……おっと、美人だな。一応『アイドル』と呼ばれる人たちのマネジメントをやっていたので、整った顔立ちの男女はそれなりに見慣れているつもりだが、それでも『美人だ』と思えるような容姿だぞ。二十代前半ほどの美しい女性が反応してくる。
「ああ、失礼。君がこの車の持ち主なのかな?」
「そうですが、何か御用でしょうか?」
まさか、横に駐車して擦ったとかじゃないよな? リースなんだぞ、この車。ちらりと軽自動車の状態をチェックしながら尋ねてみると、肩上までの黒髪の女性は薄い笑みで応答してきた。珍しい色の瞳だな。榛色というやつか?
「であれば、君が駒場瑞稀君か。」
「……失礼ですが、貴女は?」
「おや、これは失礼。先ず私が名乗るべきだったね。……ちょっと待ってくれ、名刺があるはずだから。作ったんだよ。どこに仕舞ったかな。」
うーむ……独特というか、堂々としているというか、見た目の年齢に見合わぬ威風ある口調と態度だな。平凡な容姿の俺がやればただただ生意気なだけだろうが、この女性がやると何だか似合ってしまうぞ。女優に劣らぬ美貌と高価なスーツもそう思わせる要素の一つだけど、何より彼女は『偉い人』特有の雰囲気を醸し出している。他者に譲らせるような重い雰囲気をだ。
とはいえ、名刺を使い慣れてはいなさそうだな。首を傾げながらジャケットやスラックスのポケットを漁っていた女性は、とうとう内ポケットで見つけたらしい一枚の名刺を……端が折れている裸の名刺を片手で差し出してきた。
「私はこういう者だよ、駒場君。」
「頂戴します。……返せなくて申し訳ございません。」
「いいさ、君が江戸川芸能をクビになったことは知っているからね。……それと、むず痒いから必要以上の敬語も結構だ。多少砕いて話してくれ。」
皮肉げな笑みでそう語る女性が渡してきた名刺には、社名らしき片仮名と一つの人名だけが印刷されてあるわけだが……どちらも知らない名だな。会社名は『ホワイトノーツ』で、そして目の前の女性の名前は『香月玲』であるらしい。ご丁寧に『かづきれい』という振り仮名まで振ってあるのに、役職名が書かれていないぞ。
「……初めまして、ですよね?」
記憶の中にヒットする情報が無くて困惑しながら問いかけてみれば、女性は……香月さんは肩を竦めて答えてくる。
「そうだね、初めましてだ。出来たばかりだから社名にも聞き覚えがないと思うよ。今は社長たる私だけが所属している、小さな小さな合同会社さ。今はね。」
「なるほど。……それでその、私に何の御用でしょうか?」
「そんなもの決まっているじゃないか。スカウトだよ。うちの社員になって欲しいんだ。」
「……スカウト?」
意味が分からないな。いやまあ、言わんとしている意味自体はそりゃあ分かるが……理由が分からんぞ。俺は『スカウト』なんてされるほど大した人間じゃないはずだ。ぽかんとしながら聞き返した俺に、香月さんはクスクス微笑んで話を続けてきた。
「私はまあ、芸能界にちょっとした知り合いが数名居てね。その知人たちから君の噂を聞き付けたのさ。……契約更新の隙を突いて、担当するアイドルグループを強引に他事務所に移籍させたんだって? 凄まじいことをやるじゃないか。法的には何ら問題ないかもしれないが、それは芸能界の暗黙の掟に反する行為だよ?」
「……そうですね、理解した上でやりました。」
「だろうね。故に私は君をスカウトしようと決めたのさ。」
そこまで言った香月さんは、何とも愉快そうな顔で声を潜めて言葉を繋げる。本当に『内緒話』をしたいわけではなく、大仰でからかうような声の潜め方だ。
「……担当の子たちを枕営業から逃がそうとしたんだって? 驚いたよ。このご時世に『枕営業』なんてものが存在しているとは思わなかったからね。時代錯誤にも程があるぞ。」
「よくご存知のようですね。」
「調べたからね。『枕』を望んできたプロデューサーが非常に大きな力を持った人物で、キー局との繋がりを強化したい江戸川芸能もそれに乗り気だったのに、君が勝手な行動で全てをぶち壊したって内情も知っているさ。……業界の権力者の顔を潰し、ついでに江戸川芸能の面子も潰し、あまつさえ上り調子のアイドルグループを丸ごと他事務所に引き渡してしまった。クビになるのも当然だ。芸能界では今後暫くの間『指名手配』されると思うよ。」
「おっしゃる通りです。『今後暫く』どころか、二度と芸能界では働けないでしょうね。……そんな私をスカウトする理由がさっぱり分からないんですが。」
そう、俺はそういうことをやってしまったわけだ。担当していたアイドルグループのメンバーは皆良い子ばかりで、日々の仕事に必死に向き合っていた。だから『枕』の話を受けて上司に思いっきり食ってかかり、撤回されないと知るや数少ない人脈を駆使して根回しをして、こっそり彼女たちを真っ当な他事務所に移籍させたのである。
結果として解雇されたことは残念に思っているものの、自分のやったことを後悔してはいないぞ。神奈川のご当地アイドルだった頃から見てきた子たちが、努力の甲斐あってようやく民放の常連になり始めた矢先に枕営業? そんなもの認められるはずがない。彼女たちは報われて然るべきだと考えたし、故に俺は担当マネージャーとして、良識ある大人として、年長の友人としてすべきことをした。そこだけは一切後悔していないさ。
ただまあ、虚しくはあるな。この業界でも、他の世界でも、正しいだけではやっていけないわけか。俺は一瞬にして業界内の居場所を失ったし、江戸川芸能の社長からは解雇を伝えられるのと同時に『芸能界に二度と顔を出せると思うなよ?』とのありがたいお言葉を頂戴したし、適当な理由をでっち上げられて懲戒解雇されたので退職金もゼロだ。訴えればチャンスがあるかもしれないが、もはやそんな気力もない。会社や株主に迷惑をかけたという点は事実なので、心中では『そりゃあ懲戒解雇だな』と納得してしまっているし。
後に残ったのはこの小さなダンボール一箱分の私物と、使い道がなくなった芸能界でのマネジメント経験と、申し訳程度の貯金と、経歴に刻まれた『懲戒解雇』の四文字だけ。非常に虚しい気分で鼻を鳴らした俺に対して、香月さんは身長にそぐわぬ大きな胸を張って会話を進めてくる。どこまでも真っ直ぐな自信満々の表情をこちらに向けながらだ。
「何故分からないんだい? 正しいことをしたんだから、評価されるのは当たり前だろう? 君は身を挺して担当していたタレントを守った。そういう人間だから雇いたいんだよ。」
「……誰もそんなことは言ってくれませんでしたし、私もそういった反応が当然だと思っています。香月さんの会社は芸能関係ですか?」
「大きく分類すればそうなるね。」
「なら、私を雇うのはやめておくべきです。そういう風に言ってくれる人には、尚のこと迷惑をかけたくありません。私を雇えば間違いなく事務所ごと干されますよ。」
多分この人は、良い人だ。まだきちんとした印象は固まっていないが、芸能界のルールを知った上でこう断定してくれる人なんてそう居ないはず。であれば俺はこの人の会社に行くわけにはいかない。彼女の会社が芸能関係であるならば、俺が所属することで絶対に迷惑をかけてしまうのだから。
車の鍵を開けて忠告した俺に、香月さんはニヤリと笑って一つの名前を提示してきた。挑戦的な笑みだ。強気な性格が窺えるような顔付きだぞ。
「安心したまえ、君の指名手配書は私の会社にまでは届かないさ。……『ライフストリーム』。芸能界と言っても芸能界ではなく、一般と言っても一般ではない。そこがホワイトノーツの縄張りなんだ。」
「ライフストリーム? ……動画サイトですか?」
ライフストリーム。それは数年前に設立された、世界的に有名な動画共有サイトの名前だ。創設された直後に全世界での流行になり、すぐさまアメリカの大手企業が買収して急成長したサイトだったはず。俺もたまにホームページに埋め込まれている動画を目にするし、同僚がタレントのプロモーションに使っているのを見たことがあるぞ。
だが、それと香月さんの会社がどう関係してくるんだ? 後部座席に段ボール箱を載せながら疑問を感じていると、ホワイトノーツの社長どのがピンと人差し指を立てて解説してくる。
「ライフストリームの運営元であるキネマリード社が、最近面白い仕組みを始めてね。ユーザーが自分の投稿した動画内に、キネマリード社が用意した広告を挟めるようになったんだ。そして広告収益の一部はユーザーに還元される。……どうかな? 興味深いシステムだと思わないかい?」
「面白いとは思いますけど、それがどうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、ホワイトノーツはそういった投稿者に対するプロデュースやマネジメントを主目的とした会社なんだよ。」
それは……むう、どうなんだ? 『広告収益』と言えば聞こえは良いが、所謂アフィリエイトと同程度の規模の『広告』であるはず。となれば微々たる収入にしかならないだろうし、それのマネジメントなんて需要があるとは思えないぞ。
何たって民放の『コマーシャル』とは訳が違うのだ。あれは制作の段階で凄まじい数の人間が絡み、そしてそれを遥かに凌ぐ数の視聴者に対して影響を与えているのだから。新人の頃に十五秒コマーシャルの制作費と、キー局でたった一回流すための費用を聞いて驚愕した覚えがあるぞ。あれと比べてしまえば、動画サイトの広告など雀の涙程度の利益しか生み出さないだろう。……無論『雀の涙』なのは個々のユーザー側が受け取る金額の話であって、広告主やキネマリード社の間ではそれなりの金額が動いているはずだが。
そういった『現実』を伝えるべきか否かを悩んでいる俺に、香月さんはスラックスのポケットから抜き取ったスマートフォンを突き出してきた。
「分かるよ、駒場君。君は疑っているね? 『そんなもので食っていけるはずがないし、プロデュースやマネジメントなど成立しない』と。……時に君、これが最初に現れた際にどう思った? ディスプレイだけの使い難そうな板が、これほど急速に普及すると思ったかい?」
「……思いませんでした。」
「私は思ったよ。四年前にかの有名な大手企業がスタンダードとなる商品を発表した際、絶対に流行ると確信した。古い携帯は駆逐されて、今後はこれが主役になるとね。……たった四年だよ、駒場君。僅か四年でこの機械は絶対的な地位を手に入れたのさ。それと同時に個々人の情報発信と取得の敷居も一気に低くなったわけだ。」
名刺の渡し方は下手だが、プレゼンテーションの才能は俺よりあるらしいな。大仰な身振りを交えながらそこまで語った香月さんは、俺をびしりと指差して『主張』を続けてくる。
「鋭い連中は徐々に気付き始めているぞ。動画投稿サイトは、その中でも最大手のライフストリームは『デカい』市場になると。今はまだ日本での地位を確立できていないが、五年後には間違いなく『動画投稿者』が職業の一つになっているさ。……インターネット、アフィリエイトという形態、スマートフォン。それらが登場した時と同じく、ライフストリームの広告掲載も大きな波になるんだよ。何ならそれ以上のどデカい金脈になるかもしれないほどだ。信じられないかい? 私は事実としてスマートフォンの普及に乗る形で金を稼ぎ、それを資本にしてホワイトノーツを設立したんだよ? である以上、少なくとも先を見据える力はあると主張できないかな?」
「……私には何とも言えません。私は起業者ではありませんし、そういう能力は備わっていませんから。」
「いいさ、君はそれでいい。先を見て舵を切るのは経営者たる私の役目だからね。私が確信を持っているという点だけを覚えておいてくれ。……しかしだ、私は展開を読めるだけでプロデュースの経験もマネジメントの経験も所有していない。よって君をスカウトしに来たわけさ。」
「私は芸能業界で五年働いただけのペーペーですよ? 期待に沿えるとは思えません。」
未来の展開云々は一先ず置いておくとして、ここに関しては厳然たる事実だ。もっと経験豊富な人間が山ほど居るだろう。冷静な返事を返してやれば、香月さんは何を今更という面持ちで応答してきた。
「自分の担当に枕営業をさせるベテランよりも、己が身を顧みず必死に守ろうとする『ペーペー』の方が遥かにマシさ。事務所とは即ち所属タレントたちの庇護者であり、ホワイトノーツでは既存の芸能事務所よりも強くその性質が求められるんだ。……何せ動画投稿者たちはほぼ全員が『素人さん』だからね。そういった人間が急に謂れのない悪意に晒されたり、慣れていない所為で失敗するのを私たちは防がなくてはならない。ここまで話せばもう理解できただろう? 私が君を選んだ理由が。」
「……知識や経験ではなく、担当に対する姿勢を重視したということですか?」
「如何にも、その通り。そうあるべきだし、私はそういった人材を望んでいる。綺麗事と言う者も居るだろうがね、そこを見失ってしまえば企業は終わりなのさ。……私が考えるに、江戸川芸能事務所は終わっているよ。何たって外部の私が詳細を掴めたほどだ。そうなると、どれだけ箝口令を敷こうが話は広まるわけだろう? そんな事務所に所属していたいタレントが居るとは思えないね。」
「そう簡単な話ではないんです。江戸川芸能は業界人との深い繋がりを持っていますし、タレントたちも仕事がなければ食べていけません。内心どう感じているにせよ、このまま存続していくと思いますよ。」
所詮そんなものなのだ。正直者がバカを見る。それこそがあらゆる職種に通じる真実なのだから。苦い笑みで現実を口にすると、香月さんは口の端を吊り上げながら返答してきた。
「では、私が作る業界はそうじゃないものにしよう。真っ当な連中が成功して、ふざけたことをするヤツは落ちていく。そんな業界にしてみせるよ。……ホワイトノーツは先駆者なのさ。まだ誰も手を付けていない分野に踏み出そうとしているんだ。であれば基礎となるルールを定められるのは、苦労して道を拓く私たちのささやかな特権だろう? 誰もが憧れるような業界を一緒に作ろうじゃないか、駒場君。」
「……夢物語に思えますね。」
「正しくそうさ。夢物語、無謀な挑戦、リスキーな選択。最初に始める者は皆そうなんだよ。……正直なところ、今の私は不安で一杯だ。ホワイトノーツには全財産を注ぎ込むつもりだし、数年は軌道に乗らず赤字続きになるだろう。そしてもし最終的に失敗すれば、私は何もかもを失って借金だけを背負うことになるわけだね。本来ならもっと状況が進んだ後、利益が出る想定が整ってから手を出すべきだと理性は判断しているさ。」
そこで一度区切った後、香月さんはくつくつと喉を鳴らしながら続きを話す。自信と、渇望と、執念。それを感じる表情でだ。
「それでも『最初』が良かったんだよ。失敗すれば大間抜けの仲間入りだが、成功すればそれは最大の武器になる。私はどうしても『先駆者』になりたいんだ。未知の世界に一番最初に挑みかかり、そして一番最初に成功する人間でありたいのさ。……そんな私が最初に選んだ同行者が君だよ、駒場君。聞かせてくれないか? 今の君はこの話を魅力的に感じているかい? 実際に入社するかは後でいいから、続きを聞く意思があるかどうかだけを教えてくれたまえ。」
言う香月さんの顔には、これまでは決して浮かばなかった色……ほんの僅かな不安の色が滲んでいる。そんな彼女のことを見返しつつ、数秒だけ黙考した後で口を開いた。慎重に言葉を選びながらだ。
「今の私には判断の基準すらありません。私はライフストリームをよく利用する人間ではないので、広告の形が具体的にどんなものなのか以前に、動画投稿というシステム自体すら理解し切れていないんです。……けど、貴女が私を選んでくれたことは嬉しく感じています。だから続きを聞かせてください、香月さん。先ず詳しく知ってみて、それから答えるのが礼儀だと判断しました。」
実際問題として、俺はそういう業態が成り立つとは思わない。安定的な収益が見込めない気がしてならないのだ。貧困な想像力を振り絞って考えるに、ライフストリームが始めた『広告収益』はあくまで個人向けのシステムであるはず。成功した個人すら出てきていない段階で、そのマネジメント業を開始するのは幾ら何でも時期尚早だぞ。
つまりホワイトノーツは、成功した個人が複数名出てきた後に設立すべき会社なのだ。マネジメントの対象が現れる前に設立したって仕方がないだろう。香月さん自身が言っていた『本来ならもっと状況が進んだ後』というのは、恐らくそういう意味であるはず。
それを理解した上で何故『続き』を聞こうとしているのかと言えば……まあ、うん。単純に絆されたわけだな。所属していた会社から冷たく追い出された直後に、誰かから必要とされるというのはかなり効くぞ。こういうのが『社長の人柄に惹かれて』ってやつなのかもしれない。少なくともしっかり話を聞こうという気にはさせられてしまったんだから、とりあえずはそうしてみよう。実際にどうするかは聞いてから考えればいいさ。
わざわざ俺個人を目的に来てくれた以上、最後まで話を聞くべき。そんな結論を脳内で弾き出した俺の回答を受けて、香月さんは分かり易く顔を明るくして応じてきた。
「そうか、そうか。素晴らしいね、ホッとしたよ。……それでは、車に乗せてくれるかい? 駐車場で立ち話というのも何だし、適当なカフェかどこかで話そう。説明すべきことはまだまだ沢山あるんだ。」
「それは構いませんが……香月さん、徒歩で来たんですか?」
「私は免許を持っていないからね。本当はビルの玄関でカッコよく声をかけたかったんだが、万が一すれ違ったら連絡を取れなくなると思ってここで待っていたんだ。知り合いから君が乗っている車を聞き出したのさ。」
「……そうなんですか。」
誰なんだろう? その『知り合い』というのは。乗っている車を知っているということは、そこそこ付き合いがある人のはず。その辺を疑問に思いながら運転席に座ると、回り込んで助手席に乗り込んできた香月さんが会話を続けてくる。
「君は知らないかもしれないが、君のことを心配している人間は一定数存在しているようだよ? もちろん公然と口には出さないだろうさ。君がやったことを肯定するのは芸能界におけるタブーだからね。……しかし、私が話を聞いた数名は言葉を濁しながらも君を肯定していたよ。『大声では言えないけど、大したもんだ』だとか、『ここだけの話、スカッとしたよ』だったり、『頑張ってた子だからさ、良くしてやってよ』といった反応があったんだ。そこも君に拘った理由の一つと言えそうかな。あれだけのことをやっても擁護が出てくるというのは、君の人柄が好ましいものである証左になるはずさ。」
「……知りませんでした。」
「誰も真正面からは言ってくれないだろうが、皆君は『正しいことをした』と思っているんだよ。芸能界だって汚い部分だけじゃないんだ。……尤も、そこにある『終わっている事務所』はそうじゃないようだがね。」
江戸川芸能事務所のビルを横目に吐き捨てるように呟いた香月さんは、シートベルトを締めて行き先を伝えてきた。
「君に『お気に入りのカフェ』がないなら、少し離れた場所にある私がよく行くカフェにしよう。構わないかな? クビになった会社の近くは落ち着かないだろう? それは何となく分かるよ。元同僚とかにばったり会ったら気まずいにも程があるしね。」
「おっしゃる通りなので、そこでお願いします。」
「結構、結構。ここだよ。駐車場もあったはずだ。」
香月さんが差し出してきたスマートフォンに表示されている地図を見て、大体の位置を把握してからセレクターをドライブに入れる。……助手席に美人の女性が乗っている状況というのは地味に緊張するな。担当アイドルの送迎とかもしていたけど、あれは混じりっ気なしの仕事だったわけだし。
───
そして香月さんの案内で到着したカフェの……一人だと入るのを躊躇ってしまいそうなお洒落なカフェの店内で注文を済ませた俺は、ホワイトノーツの社長どのとテーブルを挟んで相対していた。チェーンではないカフェに入ったのは久し振りかもしれない。最近少なくなってきたな。あるいはまあ、探そうとしていないから目に付かないだけかもしれないが。
「それでだ、駒場君。質問はあるかな? 移動中の『シンキングタイム』でいくつか頭に浮かんだだろう? 私から追加の説明をする前に、君の疑問を解消しておこうじゃないか。」
「あります。……大前提として、今現在ホワイトノーツに所属しているタレントは存在していないんですよね? 目処は付いているんですか?」
「おっと、最初の質問がそれか。先ずは給料や待遇の話をされると思っていたよ。」
……そういえばそうだな。社会人として最初に聞くべきはそこだったかもしれない。運転中に考えておいた問いを投げかけた後でバツが悪くなっている俺へと、脱いだジャケットを隣の椅子にかけた香月さんが答えてくる。
「まあ、私としては悪くない質問だよ。自分の給料よりそこを心配されるのは嬉しいさ。……目処は付いているし、一人は既に所属が決定しているんだ。うちに入社した場合、君に最初に担当してもらうのはその子になるだろうね。」
「どんな方なんですか?」
「現時点でチャンネルの登録者数が……君、ライフストリームにおける『チャンネル』の知識はあるかい?」
「……ありません。」
今の言い方からするに、かなり初歩の知識なのだろう。『知っていて当然』という喋り方だったぞ。それすら知らないことに不安を感じている俺に対して、香月さんは特にバカにせずに丁寧な解説をしてくれた。
「つまりだね、チャンネルというのは……んー、難しいな。ライフストリームという大きなプラットフォーム内に存在する、ユーザー毎の固有スペースさ。そのユーザーが投稿した動画だけが並ぶ、投稿者側に提供される『拠点ページ』だよ。そしてチャンネルに視聴者が登録すると、新たな動画を投稿した際に通知が行くようになるんだ。メインページにも表示され易くなるしね。」
「よく視聴する人が登録するということですか?」
「その認識で概ね合っているよ。故にチャンネル登録者の数がライフストリーム内では一種のステータス……というか、判断基準になってくるんだ。実際どうあれ登録者が多ければ面白い投稿者で、少なければつまらないと判断されるだろうね。投稿の形態によっては例外もあるようだが。」
「ぼんやりとは掴めました。」
独特な判断基準だな。膨大な量の動画が存在しているライフストリームで、特定の投稿者をピックアップする機能なわけだ。頭の中で理解を進めていると、香月さんは話を一つ前に戻してくる。
「そしてうちに所属する予定のタレントは、現時点で一定の登録者数を確保できている投稿者なのさ。チャンネル登録者数十三万人。この数をどう思う? 駒場君。」
「多く感じられますね。」
一般的な解釈をするのであれば、物凄い数の人間が登録していると言えるだろう。東京ドームの収容数の二倍以上だ。直感で返答した俺に、香月さんは苦笑いで『比較対象』を提示してきた。
「ちなみにだが、個人でやっている最大手は北アメリカの投稿者で、そのチャンネルの登録者数は約三百万人だ。国内個人で最も大きいチャンネルは十六万人だね。……どうかな? マネジメントが現実的に思えてくる数字じゃないか?」
「確かに凄い数ではありますが、最大で三百万人でしょう? 日本の最大手の登録者数から考えると、そのチャンネルだけが頭一つ抜けているようにも思えてしまいます。」
「件の北アメリカのチャンネルの登録者数は、一年前は百七十万人に満たなかったらしいよ。うちに所属する予定の子も去年の今頃は六万人を超えていなかったと口にしていたしね。何が言いたいか分かるかな?」
「……急成長している市場ということですか。」
倍か。それはまあ、結構な成長率だな。まさか単純に倍々計算で増えていくわけではないだろうが、低めに見積もっても一定の余地を残しているように思えるぞ。唸っている俺へと、香月さんは運ばれてきた飲み物を店員から受け取りつつ首肯してくる。
「そういうことだね。特に日本はようやく広まり始めたという段階だから、ここからぐんぐん伸びていくと思うよ。五年すれば十万人規模のチャンネルなんてざらになり、十年すれば三百万を超すチャンネルだって珍しくなくなるだろうさ。……ライフストリームはね、民放とは競争の質が違うんだ。『裏番組』が存在しないんだよ。だから民放と比較すると視聴回数を稼ぎ易いわけだね。尤も、『ライブ配信』というシステムが登場すればその限りではなくなるかもしれないが。」
「香月さんは登場すると考えているんですか?」
「するはずだ。既にライフストリームとは別のプラットフォームがライブ配信という形態を選択しているし、そういったサイトはキネマリード社の選択を受けて、ライブ配信におけるユーザーへの直接的な支援方法を模索し始めたからね。遠からずライフストリームもライブ配信をシステムに組み込むと思うよ。そこから少しすれば、その形態でも収入を得られるようになるんじゃないかな。……プラットフォーム側にとっては投稿者も視聴者も等しく『客』なのさ。投稿者側にメリットを提示することでプラットフォーム内の『売り手』の質を上げて、より多くの『買い手』からのアクセスを確保する。そういった大きな指針がこれからは一般的になっていくはずだ。言わば仲介業者だね。ある程度投稿者側にも収益を分配した方が、プラットフォーム側の結果的な利益に繋がるわけだよ。」
「……頭がこんがらがってきました。民放畑で得た知識を通すことで、ライフストリームの形態を理解しようとするのは間違っているみたいですね。」
近いようで致命的に異なっているな。一度頭をリセットしている俺の言葉を耳にして、香月さんはアイスコーヒーを一口飲んでから頷いてきた。
「参考にすべき部分は多々あるが、基礎を民放に据えて考えるべきではないだろうね。……とにかく、ライフストリームは今まさに急成長中の市場なんだよ。だからこそ私はリスクが大きいことを承知した上で、急いでそこに踏み込もうとしているわけさ。」
「しかしですね、先程も言ったように私には『配信業界』の知識がありません。プロデュースどころかマネジメントもギリギリこなせるかどうかだと思います。」
「それでいいんだ。……いやまあ、『今は』それでいいと言うべきかな。差し当たり君に求めるのはマネジメントの方なんだよ。ライフストリームにおける投稿者は放送作家であり、演出であり、演者であり、カメラマンであり、編集でもある。たった一人で動画を作っている彼らを支えつつ、君にも成長していって欲しいわけだね。」
そう考えると凄まじいな。ホワイトノーツに所属予定の投稿者は一人で全てを行い、十三万人もの視聴者を手に入れたのか。自分で企画して、自分で撮影して、自分で編集する。それがどれだけ大変な作業なのかを、芸能界に居た俺はよく知っているぞ。普通なら相当な人数で分担すべき物事なのだから。
「……そんな凄い方の担当を私がやれますかね?」
自信を失っている俺の返事に、香月さんは……奇妙な反応だな。目をぱっちり開いた後、クスクス微笑んで応答してきた。
「うちに所属する予定の子はね、まだ十七歳の女の子だよ。」
「……十七歳? 高校生ですか。」
「ん、今年の冬で十八歳になる高校三年生……『高校三年生に当たる年齢』の女の子だ。学校には通っていないらしいね。諸事情で自主退学したそうだよ。」
「諸事情というのは、聞くべきではない事情ですか?」
そういう話は芸能界ではよくあるものだ。俺は中々にヘビーな事情を抱えた未成年を何人か知っているし、好奇心で掘り下げていい部分ではないことを経験として学習している。だから予防線を張りつつ尋ねてみれば、香月さんは予想通りの回答を寄越してきた。
「『聞くべきではない』かは捉え方次第だが……まあ、本人の許可も無しに軽々に話すのは趣味じゃない。担当になった後でその子から直接聞くか、あるいは聞かないことを選択してくれ。私からは教えられないよ。」
「分かりました、二度と尋ねません。……どんな方なんでしょう?」
「礼儀正しい良い子だよ。努力家で、何事も真摯に受け止めようとして、故に落ち込み易いタイプかな。自分の将来を不安視した結果、今回うちに所属することを決意したようだ。……既に二度ほど顔を合わせているんだが、『もう私にはこの道しかないので、死ぬ気で努力します』と大真面目な顔で語っていたね。動画投稿で食っていく覚悟はあると判断したから、私は最初の一人として彼女を選んだのさ。」
「まだ十七歳なら、選択肢は他にもあるように思えますが。」
芸能界は茨の道だぞ。俺は知り合いにその道を勧めたりしないし、業界関係者なら誰もがそうだろう。何をやっても一定数の人間からは必ず叩かれてしまうのだから。そこを受け流したり無視できる性格なら向いていると言えるのかもしれないが、『何事も真摯に受け止めようとする』のは間違いなく芸能界向きの性格ではない。
まだ見ぬその子のことが心配になってきた俺に、香月さんは難しい顔付きで相槌を打ってくる。
「高校を退学することになったのが効いているみたいでね。自分の行く先をかなり不安に思っているようなんだ。その子にとっては、ライフストリームこそが唯一自分を認めてくれた場所なのさ。今回それが『職業』になるかもしれないと知って、勇気を振り絞って所属を決めたわけだよ。」
「個人でやろうとは考えなかったんですね。」
「動画制作には一定の自信があるものの、マネジメントは他者に任せるべきだと判断したようだ。……私は市場が成長していけば、特定の投稿者に対してのピンポイントなスポンサーというシステムが出てくると予想しているんだよ。そういった場合に企業側と投稿者の橋渡しをする存在が必要になってくるだろう? 利益もデカいが、法務関係の複雑な作業や打ち合わせ等々の雑務も増える。更に上を目指そうというのなら、マネジメントを委託するのは正解に思えるね。」
「……その方は随分と先の物事に保険をかけましたね。」
香月さんといい、その子といい、未来に目を向けすぎだぞ。先を目指すのは悪いことではないが、そこばかりを気にしていると足元が疎かにならないか? 些か以上の懸念を感じていると、香月さんが肩を竦めて応じてきた。
「暫く先の話になるかもしれないことは伝えたんだが、後戻りする気はないらしい。大した決断だと思うよ。……心配かい?」
「当然、心配です。誰だってそう感じます。」
「だろうね、私も心配だ。ホワイトノーツを選んでくれたからには、意地でも成功させてあげたい。故に君が支えてやってくれ。その年頃の女性の扱いは私より上のはずだろう?」
「……私が担当していたアイドルたちは皆、私より遥かに『大人』でしたよ。自分が情けなくなるほどに。だから『扱いに慣れている』とは言えませんね。『扱われるのに慣れている』とは言えるかもしれませんが。」
これは紛うことなき本音だ。周囲への気の使い方も、礼儀作法も、必要とされる警戒心や慎重さも。彼女たちは全てが俺より上だったぞ。要するにまあ、そうならざるを得ない人生を選んだということだろう。頼もしくもあり、自分が情けなくもあり、また業界が少し怖くなる部分でもあったな。
移籍先の事務所は彼女たちを守ると約束してくれた。社長も信頼のおける人物だし、間を取り持ってくれた人も頼りになる業界の大先輩だ。だから大丈夫なはずと祈りつつ、思考を切り替えて疑問を口にする。
「ちなみに、私の実際の業務はどういったものになるんでしょう?」
「最初のうちは撮影の手助けと、動画に対するアドバイスかな。動画制作を主導するのは基本的に彼女の方だが、別の人間ならまた違った意見を出せるかもしれない。君に期待するのはそういう部分さ。」
「あくまでも『補助』という意味ですね? 私が動画の骨子を作るのではなく、担当する人物が作る動画に些細な付け足しをするだけだと。」
「主導したいのかい?」
逆だぞ。興味深そうな面持ちで聞いてきた香月さんに、首を横に振って否定を返す。
「いいえ、むしろすべきではないと考えています。ライフストリームにおいて私は新参なわけですから、主導したところで良い結果を齎せるとは思えません。」
「今はね。今はそうだというだけの話だよ。担当を通して知識を蓄えた後、プロデュースの方もやってもらうつもりだ。……ここまで聞いてどうだい? 駒場君。興味が出てきたんじゃないか?」
「……出てきていないと言えば嘘になります。面白そうな世界ですし、やり甲斐もありそうに思えますから。」
そこで一度切ってから、うんうん頷いている香月さんに発言を繋げた。
「しかし、未だ採算の面には不安が残っています。香月さんはどの程度の期間、赤字が続くと考えているんですか?」
最初の一年が赤字になるのはもはや前提だろう。香月さん自身が駐車場でそんな感じのことを言っていたし、ここまで説明を受けた俺もそうなると予想している。『ボーダーライン』を知りたくて問いかけた俺に、香月さんは苦い苦い半笑いで答えてきた。
「痛い質問をしてくるね。……私はこれでも結構な金持ちなんだ。個人事業主ではなく合同会社という形を選んだわけだが、軌道に乗せるまでの運営資金はほぼ私の私財と判断してもらって構わない。そして単純計算でざっくりと予想するに、五年程度なら赤字が続いても社員に給料を払えるよ。借金をして追加の資金を調達できれば八年ってところかな。」
「……五年間も赤字が続くと?」
「そうじゃない、そうじゃないさ。情けない話、見切り発車だからいまいち予想が出来ないんだよ。初期の形として描いているのは社長たる私と、マネジメントとプロデュースを担当する君と、事務員が一人、営業担当が一人、そして所属する動画投稿者が三人から五人という状態だ。そこにライフストリームの成長率という要素を足せば、ギリギリで『存続できる程度の赤字』にまでは持っていける……かもしれない。最初の目標はそこだね。兎にも角にも、マネージャーの人件費をマネジメントの報酬が上回らないと話にならないだろう? 先ず君をモデルケースにしてその辺を調査できたら、そこからどんどん手を広げていくさ。」
「香月さん、それは……予想が甘すぎませんか? こちらも広告を打たなくてはならない可能性だってありますし、差別化するために動画制作に力を入れれば当然費用もかかります。人件費だけではないんです。加えて五人担当しろと言われればもちろん努力しますが、その場合何をどうしたって一人一人にかけられる時間は減ってしまいますよ?」
そこまで話した時点で『うっ』という顔をしている香月さんを目にしつつ、テーブルの上で手を組んで続きを語る。『薄利多売』そのものが悪いとは言わないが、こと新興のマネジメント業においては悪手だぞ。
「例えば江戸川芸能が一人のマネージャーにつき多数のタレントを……『まだ仕事が少ない多数のタレント』を抱えられるのは、社内にそれを補助する仕組みが確立しているからなんです。長年培ってきたものが土台にあって、だからそういう形式でのマネジメントが可能になっているんですよ。出来たばかりの事務所であるホワイトノーツで、ライフストリームの知識が乏しい私が五人を抱えるとなると、正直なところ十全にやっていける自信がありません。」
「……そうなのかい?」
「何よりタレントが不安に思いますよ。『他の子に時間をかけているのは、私が期待されていないからじゃないか?』と感じさせてしまえば終わりです。他の誰がどれだけ批判してきても、マネージャーだけは絶対的な味方。私たちはそういった精神的な支柱になる必要があるんですから。……ここは事務所や個々人によって姿勢が異なる部分ですが、未成年のマネジメントをする際はそれが重要だと私は考えています。困った時に躊躇わず頼れる。そういう信頼を得ることが大切なわけですね。」
親にも、友人にも相談できないことを話せる存在。未成年のマネジメントをする人間は、そういった『最後の砦』になるべきなのだ。誰にも話せなければ一人で抱え込み、悪意に慣れていない子は簡単に潰れてしまう。『このマネージャー、きちんと話を聞いてくれないんじゃないか?』と思われてしまったら絶望だぞ。それだけは是が非でも避けなければなるまい。
家庭に親が居るように、学校に友達が居るように、仕事の現場にはマネージャーが居る。江戸川芸能のことを思い出すと苦い気分になるが、新人の頃に先輩から受けたその教えは今でも金言だと思えるぞ。ペーペーなりの理念を語った俺へと、香月さんが困ったような面持ちで返事をしてきた。
「一人のマネージャーが沢山のタレントを抱えているイメージがあったから、そういうものなのかと思っていたよ。そこに関しては確かに甘い考えだったようだね。」
「心のケアも事務所の仕事なんです。そう考えた場合、未成年のタレントの扱いには慎重になるべきですよ。何も成人していれば雑に扱っていいというわけではありませんし、未成年でも成人顔負けの精神力を持っている子だって居ますが、ある程度割り切れる年齢になるまでは丁寧に担当すべきでしょうね。」
「ライフストリームは利用者の平均年齢が低いプラットフォームだし、未成年と接する機会は相応に多くなるだろうね。……三人なら可能かい?」
「具体的な人数は担当する人によるので何とも言えません。熱心に世話を焼かれるのはむしろ嫌だという方も居ますし、四六時中ベタベタに頼ってくるタイプの方も居ますからね。前者が多いならひょっとすると六、七人も可能かもしれませんが、後者だと一人を抱えた時点で限界になる可能性すらあります。まだマネジメントにおける作業量の予想が付きませんから、断定は出来なさそうです。」
率直な意見を送った俺に対して、香月さんは小さくため息を吐いて首肯してくる。……とはいえ個々の投稿者から上がってくる金額が少ないのであれば、一人のマネージャーが多数の担当を抱えるというシステムにせざるを得ないだろう。仮にマネージャーの給料が二十五万で、一人の投稿者から上がるマネジメント料の平均が十万だった場合、三人を抱えた段階でようやく五万の利益になるのだ。しかも会社は事務や営業、経理や法務といった人間も雇うことになるし、運営していく上でそれなりの経費がかかってしまうのだから、主な業務たるマネジメントで相応の利益を上げなければやっていけない。会社の規模が大きければ薄利のマネジメントを大量に行うことも出来るが、設立したばかりのホワイトノーツではそれも不可能だし。
「尤もな答えだね。……まあ、君とあの子のケースをモデルにして考えてみるさ。経費と収益の兼ね合いもあるし、その辺は慎重に調整していかなければならないようだ。何にせよ、貴重な意見だったよ。そういうのが欲しいから、私は君を雇いたいわけだね。」
「……このタイミングで言うのは何ですが、私の給与は幾らになるんでしょう?」
「江戸川芸能では幾ら貰っていたんだい?」
「年収で約三百五十万です。」
東京で働く二十五歳としては際立って高くもないが、かといって低くもないという金額。『まあまあ貰ってるじゃん』といった具合の給与額を耳にした香月さんは、事もなさげにホワイトノーツでの給料を提示してきた。
「では、うちは四百出そう。無論会社が大きくなっていけば昇給もあるし、『最初の社員』たる君には相応の立場も用意するよ。とにかく江戸川芸能よりは出してみせるさ。負けるのは癪だしね。」
「……期待されすぎているように思えますが。」
「私が考えるに、君は期待すればするほど努力するタイプだ。『見合うことをしなければ』と責任感に苛まれる性格とも言えそうかな。よって多少高めに設定した方が良いのさ。……人物鑑定には自信があるよ。私はそれだけを頼りに生きてきたからね。」
額面で五十万アップか。悪くない……どころか、『めちゃくちゃ良い話』だな。俺だって理念や主義主張だけで生きていけるわけではないのだ。霞を食っている仙人じゃあるまいし、そういうことをされると心が揺らぐぞ。
設立直後の会社だったら給料はかなり下がるだろうと想像していた所為で、それを覆されて戸惑っている俺へと、余裕を取り戻したらしい香月さんがニヤリと笑って会話を続けてくる。ホワイトノーツの現状を聞くに、四百万を提示するのは中々勇気が必要な決断のはずだ。俺は『当面ボーナス無しの月二十万』とかを提示されると考えていたんだけどな。そのくらいの金額が妥当に思えるし。
「給与を出し渋ると良くない影響を及ぼすのは、先人たちがとっくの昔に証明済みだしね。……駒場君、私は結構良い上司だぞ。足りないところは多々あるが、決断することと責任を取ること。その二つだけは必ず全うすると約束しよう。」
俺の目を真っ直ぐ見ながら確約した香月さんは、そのまま右手を差し出して質問を寄越してきた。
「その上で答えを聞かせてくれ。ホワイトノーツの最初の社員になってくれるかい?」
自分に対して差し出された、白い綺麗な手。香月さんの手を見つめつつ新たな分野への不安、ライフストリームという未知の世界への好奇心、重い期待がかかった給与、新興の会社であるが故の苦労等々についてを思案した後──
「よろしくお願いします、香月社長。」
『社長』の手を取って握手を交わす。……結局のところ、俺の心を最も動かしたのは『自分を選んでくれたこと』だ。この人は最初の一人として他の誰かではなく、俺を選んでくれた。それは別の会社では決して得られない貴重な評価だろう。
いやはや、我ながら度し難い決断の仕方だな。もっと別の判断材料が山ほどあるだろうに。……まあ、いいさ。江戸川芸能でやったことが間違っていないように、この判断も間違っていない。その理由なき確信が心の中にある以上、それに従っておくべきだ。元の職場であれほど『バカなこと』をやったんだから、今更何も怖くないぞ。
何はともあれ、これで地獄の再就職活動からは逃れることが出来そうだな。新しい上司が柔らかく手を握り返してくれるのを感じながら、ホッと小さく息を吐くのだった。
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