第四話 涙の海に、この鬼(ひと)を見よ

 秋は徐々に暮れ、季節は冬へと入っていった。学校の帰り道、真言まことを連れ歩きながら、田字草でんじそうは寒い寒いと元気いっぱいだ。

 中途半端だった髪はすっかり長く伸びて、肩にかかるようになってきた。


「冬と言えばクリスマスだな。オレたちもこういう記念日や年中行事を作って、信者が毎年祝うようにしよう。内輪の行事は結束、この場合は信仰を強めるからな」


 アスファルトの坂を下り、弱くなってきた陽光を眺めながら新しい思いつきを口にする。そうすると、真言が感心したような顔をしてメモを取った。


「記念日かあ。先輩の誕生日とかにします?」

「だからオレは教祖じゃねえって」


 真言と別れると、田字草はアルバイトへ出かける。ハンバーガー屋のキッチン担当。仕送りはたっぷりあるが、仮にも絶縁された身で甘えるワケにはいかない。

 将来の布教活動のためにも、東京での生活のためにも、カネはいくらでも欲しかった。学業に影響が出ないよう、ギリギリまでシフトを入れてある。


 夜になって田字草が帰ったアパートは、家賃を切りつめた手狭なものだった。洗濯機とトイレは共同、風呂は近くの銭湯を使う。典型的な安アパートだ。

 部屋の中央に小さなこたつがあり、それが食卓と勉強机になって、寝るときはどかして布団を敷くスペースになる。その周囲を本と紙束が雑然と埋めつくして、中身はすべて宗教がらみのものだった。置いてあるコミックスさえもだ。


 高校生の一人暮らしだとかろうじて判断できる要素は、ハンガーにかけられた学生服だけだろう。別に教科書や勉強道具が置いていないわけではないが、室内の書籍が多すぎた。ただ、その部屋で一つだけ異質なものがある。


 何もかも雑然とした室内の一角、日当たりの良い場所には写真立てと、白いアラセイトウを生けた花瓶があった。田字草はまっすぐそこに向かう。

 写真立てのホコリを払い、アラセイトウの様子をチェック。花瓶の水はまだ替えなくて良し。そして、写真の前で両手を合わせた。


「ただいま、思惟子しいこ


 額縁の中には、両親の姿を切り取って捨てた家族写真が収められてる。そこには十四歳の田字草と、七歳の少女が笑顔で写っていた。

 田字草思惟子。中学の時に交通事故で亡くなった、田字草見聞あきひろの妹だ。



 それは何もない春の日に起きた。すべてのことはそういう風に起こる。不吉な予兆も、虫の知らせも、本当に何もない。

 見聞はただ、学校の帰り道に出会った妹に、道を一本挟んで声をかけただけだ。通りの向こうからこちらまで、大した距離もない。だが少し見通しの悪い道だった。

 歳の離れた妹が見聞は可愛くて、時々反発しながらも、自分を甘やかす兄が思惟子も大好きで。『おーい、思惟子ー』と声をかけたら、『お兄ちゃん!』と満面の笑みで、駆け寄ろうとしたのだ。そこに乗用車が、狙い澄ましたようにやってきて。


 世界がいかに混沌として無造作なのかを、見聞は思い知った。残酷にも、つぐみのすぐれた嗅覚は、妹がこときれたことを理解させてくる。

 もう小さなあの子はいない。それを知ってなお、見聞は事故の現場に近寄ることは止められなかった。血まみれの死体を前に、ただ無力に膝を突いただけなのに。

 彼が衝動に襲われたのは、その瞬間だった。


――思惟子の、血が、吸いたい。


 そうしないと、妹が永遠にこの世界から去ってしまう。もう二度と会えない。ぬくもりがまだ体に残り、血が固まっていない今ならまだ間に合う。今! 今しかない!

 見聞は迷わず口を開き、牙を立て、妹の首筋に噛みついた。よく知った思惟子の匂いが全身にあふれ、初めて知る体内の匂いが口の中へ広がる。それが毒液と、唾液と、胃液と混ざり合って、妹の血が自分の中へ吸いこまれ。


 そこで誰かに殴り飛ばされて、見聞の両牙が折れた。牙は構造上もろく、折れやすいため、大して痛くはないしすぐ生えてくる。

 殴った相手を見ると、それは顔を憤怒と悲哀で真っ赤に染めた父親だった。いつの間にか、誰かが自分を羽交い締めにしていて、妹から引き剥がしていく。


「――この馬鹿が!」


 その時、やっと見聞は自分が公衆の面前で、つぐみの本性をあらわにしてしまったのだと気がついた。けれど、後悔の念は清々しいほど湧いてこない。彼らに邪魔される前に、少しでも血を吸えて良かったと、そう思ったほどだ。

 見聞はそれから嘗会じょうかいのあずかりとなり、家ではなく地域の代表者の離れで「再教育」を受けながら暮らすことになった。どうやら見聞の吸血行為は、突然の事故死におかしくなった兄の奇行ということにし、噂の火消しに回っているらしい。


 再教育中は軟禁状態で学校にも行かされず、怒鳴られも殴られもしたが、どうでも良かった。父がやってきて絶縁を宣告された時も、それから間もなく引っ越しと一人暮らしを命じられた時も、見聞の心は動かなかった。


 そして、中学二年の夏休み。転校の手続きが終わり、帰路につこうとしてカラスが鼻についた。外出が許されたのはずいぶんと久しぶりだったから、浮かれていたのだろうか。カラスの血を飲みたい、と思ってしまったのは。


 火事場のバカ力という言葉があるが、つぐみはある程度これを意識的に出すことができる。決して長時間使えるものではないが、祖先がこれを活用してヒトを狩っていたのは間違いない。木に登って、跳んで。カラスを捕まえるのは楽勝だ。

 首筋に牙を突き立てると、ちゃんと毒が効いたのか、すぐおとなしくなった。吸える血の量はたかが知れているが、今までにない充実感がある。


(やっぱり、つぐみはこうでなくっちゃ)


 自分たちの存在を秘密にしなくてはならないのは、分かる。だが、妹の血を飲んだことを、周りの大人たちは頭がおかしい、信じられないと一方的に責めたのが、見聞にはずっと納得がいかなかった。


 吸血鬼であることを、なぜそうも躍起になって否定するのか。

 人間は口からものを食べられなくなって、点滴だけで栄養を取るようになると、たちまち弱って死ぬらしい。つぐみも同じではないか?

 血液製剤でいくら腹を満たしても、獲物に牙を突き立てる本当の食事をしないと、何かが弱って死んでいくのでは?


 そんなことを思いながらカラスを味わっていると、同族が近づいてくるのが分かった。自分を連れてきた嘗会の者とは違う、おそらく地元の、歳の近いつぐみだ。

 何ヶ月も死んでいて、やっと息を吹き返した心は、その相手に興味を持った。きっと向こうはカラスの血に気づいているだろう。もう一羽差し出して、飲めと言ったらどんな反応をするだろう? と。


(それで血を飲むようなやつなら、友だちになれるかもしれないな)


 こうして、田字草見聞は梔子真言に出会ったのだ。



 冬休み初日、真言が朝一番にアパートを訪ねてきた。

 打ち合わせの約束はしていたが、それにしても早すぎる。田字草が首をかしげながら玄関を開けると、思いつめた顔で真言が立っていた。


「……先輩。デンジ先輩の、引っ越す前の話を聞きました」


 へえ、という声が漏れた。「誰から?」と続ける。


「うちの母からです」

「うん。で、それ、どんな話?」


 どんなって……と、言いよどむ真言の声は、虫が鳴くようにか細い。そのままモゴモゴと口に出せずにいるので、田字草はとりあえず家に入るよううながした。

 こたつを勧めながら、自ら核心を口にする。


「七つ下の妹が車に轢かれて、おかしくなったオレが人目もはばからず死体の血を吸ったから、親父に殴り倒されて勘当された。って話なら、事実だけど」

「僕は、最初にそれをあなたから聞きたかった」


 やっと舌をしゃっきりさせた真言は、屈辱感と怒りで目がちかちか光っていた。


「先輩が何か抱えているなってのは、ずっと思ってました。でも、いつか話してくれるだろうって、そのぐらい気を許してもらえるまで待とうって。なのに、あのくそばばあ、よくも人の、そんな大事な話を勝手に! 聞かせて!」


 こたつの天板を殴ろうとしたのか、真言は拳を振り上げかけて、やめた。「落ち着けよ」と言いながら、田字草は人血入りインスタントコーヒーをいれる。

 インターバルをもうけたことで、真言は冷静さを取り戻したようだった。


「足、崩せよ。おばさんが聞いてきたってことは、大人の間じゃそこそこ広まってんだろ。まあしゃあない」

「でも、知ってて黙っておくのが大人ってものじゃないですか。母さんが先輩を嫌がっていたのは知っていたけど、卑怯だ」


 コーヒーカップを受け取りながら、真言の声音には涙がにじんでいた。声以上に、彼自身の体臭が雄弁に泣き出したい気持ちを伝えてくる。

 つぐみの嗅覚は、相手の健康状態から感情までお見通しだ。それが互いにわかっているから、真言は遠慮なく大粒の涙をこぼした。


「僕、明日にも家を出ます。この街も両親も捨てて、先輩と一緒に東京で教団にすべてを捧げます。絶対に母さんには僕たちの邪魔はさせません」

「おいおいおい、待てや。そう早まるなよ。二、三日ならうちに泊めてやるけど、ずっとはいかんだろ。こっちの集会所も、お前に血は売ってくれねえぞ」


 つぐみの引っ越しは、基本的に嘗会を通して、誰がどの地区へ移動するか把握されている。そして地区の正式な住民にだけ、血液製剤が売られるようになっていた。

 だから、家出した未成年のつぐみは正規の手段で血を手に入れられない。親元へ戻るか、血液製剤を扱うヤクザの元へ身を寄せるかの二択だ。

 愚かにも人間アカスナを襲って血を吸った場合、嘗会がようする〝自警団〟によってされることになっていた。


「とにかく、落ち着いたら家に帰って、卒業するまで我慢しろ。捨てるのは上京してからでも遅くない。それじゃ嫌か? 困ったな」


 真言の体からは、しばらく消える気配のない悲しみと興奮の匂いがふき出し続ける。田字草は泣き止まない後輩の後ろに座り、しばらく肩や背中をさすった。

 涙のひと粒ひと粒が、田字草の鼻には霧のように細かく広がって、しかし決して薄まることはない。淡くしょっぱい滴には真言の体温と匂いがついていて、目を閉じれば、部屋中が涙の海に沈んでいた。二人きりの悲しさの深海で、こいつはこんなに自分のことで悔し泣きしてくれるのか、と田字草は不思議に思う。


 やがて海の潮が引き、世界が陸地に戻ってきたころ。田字草は決め台詞を言ってやるつもりで、人さし指をぴんと立てた。


「お前の母さん、オレが信者第一号に勧誘していいか?」

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