第二話 反抗の犯行に共犯す

 三年前、真言が初めて出会った田字草は、カラスを口にくわえていた。手にはもう一羽、絞めたばかりと見える黒い体が、かすかに痙攣けいれんしている。


 夏休みの登校日を終えた真言は、近道をして帰ろうと中学校のプール裏手に回った時、血の匂いに気づいた。それは雑木林の中、ゴミ焼却場のさらに奥まった、生徒が滅多に入らない場所へ続く。その先で見つけたのは、幽鬼じみた少年の姿だった。

 暑い陽光をばらばらにちぎった木漏れ日と、絶え間ないセミの声の中、何の変哲もないTシャツとジーズン姿で相手はたたずんでいる。

 ただ握りしめた死にかけの鳥が、口にしっかりとくわえられた死骸が、捕食者の緊張をまとっていた。その彼から、同族つぐみの匂いがする。


(こいつ、僕が近づいてるって気づかなかったのか?)


 つぐみは犬のように嗅覚が鋭い。ヒトが寝静まった夜、闇にまぎれて襲う時には目の代わりに鼻を頼りにした、その名残だ。

 真言はカラスの血に誘われて、ついそれを確かめに来てしまった。ならば相手からも、こちらに近づく者の匂いをぎつけないはずがない。

 それなのに逃げようとしなかったのは、見つかってもかまわない意志の表れだろう。その神経が真言には理解できなかった。


 いったい何を考えているのか――黙って見つめても、表情からは何も読み取れず。ふと気づけば、見返す眼鏡の中の瞳が、あまりに暗い。

 そこだけ落ちこんで、深い深い穴になったような眼差しに、真言は観念した。このまま回れ右して、背を向けるのは危険な気がする。


「なに……してるんですか?」


 おそるおそる敬語で訊ねると、眼鏡の少年はおもむろに死骸から口を離した。

 か細い首に刺さっていた牙がすうっと抜けて、くるりと折りたたまれ口中に隠れる。牙はストローのように血を吸えるから、口の周りには何の汚れもなかった。


「見りゃわかるだろ、血を吸ってんだ」


 彼がしゃべると、口の中から、喉の奥から、死んだカラスの血がただよってくるのがわかる。残っていた体温、ねばつく感触、塩気と鉄の味が、生々しく嗅覚の中に立ち上がって、もう消えてしまった命の影が脳裏でビジョンを結んだ。

 もっとそれを味わいたい。ふらりと一歩前へ出た真言に、カラスの死骸が差し出された。さっきまで吸っていた方ではなく、ついに事切れたばかりのやつだ。


「これ、やるよ。口止め料な」

「……美味いんですか?」

「いや、別に。ツツジの蜜吸った方が、腹の足しになるかもな」


 ヒトの血でなければ、つぐみの栄養にならない。つぐみ同士の血でもダメだ。

 ましてやカラスなど、大人たちが聞けば汚いとか、アカスナに見られたらどうするんだとか怒られるだけだろう。しごくもっともな話だ。

 わざわざ生き物を捕まえて殺す、その行為に真言も嫌悪を感じないわけではない。だが、この血を飲んでいいのだと言われると、思わず喉が鳴る。

 この時点で、真言の警戒心はほとんど消えていた。


「……美味くもないのに、なんでそんなことしてんですか」

「ハングリー精神だよ。つぐみならつぐみらしく、吸いたい、噛みたいって衝動を発散させてもいいだろ。ヒトはまずいから、今日はカラスな」


 今日はということは、以前は別の何かを獲ったのだろうか。そういうことをしていると、早晩、嘗会じょうかいから注意されるだろう。そこまで考えて、真言は首をかしげた。同族のはずなのに、彼に見覚えも嗅ぎ覚えもない。

 同じ地域のつぐみは、基本的に顔見知りだ。

 地区によって集会場所が異なったりするので交流の差はあるが、中学や高校では市内のつぐみたちが集まってくるため、入学前に顔写真つきで回覧がまわってくる。

 その代わり、別の話を思い出した。


「もしかして、二学期から来るっていう転校生ですか」

「ああ、そのうちオレの顔も回覧に載るだろ。お前二年か?」

「いえ、一年です」


 そんな気がしていたが、年上だったらしい。一時的な進学は別として、転居するつぐみは少々珍しい存在だ。昔から住み着いた土地で助け合う方が暮らしやすく、そこを離れるのは嫁ぐか、嘗会の意向か、何か問題を起こしたか、だ。

 問題というのは、事件に巻き込まれた被害者などの例もある。真言の直感は、彼自身が転居を余儀なくされるような問題を起こしたのでは、とささやいていた。

 だが消えてしまった警戒心を、今や好奇心の方が穴埋めしている。


「じゃあオレが先輩だな。こいつは口止め料ついでに、あいさつ代わりってことで」


 再び差し出された死骸は、返すことを拒むようにぐいっと真言の胸元へ突きつけられた。例えるなら、喫煙が見つかった中学生が、これやるからと差し出す一本のタバコ。悪い誘い、悪い遊びだ。関わるべきではない。


「早くしろよ、血が冷える。それともお前、今さら牙がたねえとかイモ引くなよ」

「まさか」


 ニヤリと笑ってカラスを受けとる。やってはいけないことだって? その甘美な期待に、真言はとっくにヤる気満々だ。

 鼻先を羽毛にうずめると、カラスの体温と体臭が真言の全身に広がった。土っぽく、ホコリっぽく、墨汁やキュウリを混ぜたような、生乾きのタオルのような。

 多種多様の雑多な匂いがカラスのすべてを構成して、深々と生命の残り火を抱擁ほうようさせる。匂いは、つぐみのものにとって存在そのものだ。


(身近な鳥なのに、こんなにしっかりカラスを嗅いだのは初めてだな)


 頭の上を通るカラスたちのことは、日ごろよく嗅いでいた。姿を見なくても、匂いでトンビかスズメかカラスか区別がつくし、その羽根にくっついてきた遠くの空気、何かの花粉やあさった生ゴミ、フンをしそうだなということまで。

 人間アカスナにとっては何もない頭上の空間も、つぐみにとっては色とりどりの情報でいつも騒がしい。その一角を占めていた匂いの固まりが、今は己の口もとにある。

 殺したのは自分ではない。そんな風に罪悪感を押しのけて、真言の胸をくのはまぎれもない食欲だった。


「ああ……」


 大きく口を開けると、勝手に声が漏れてしまう。みっともなく思いながら、さらに、さらに、顎が外れそうになるまで口を開く。


「あぁぁあ……っ」


 するとついに、口内粘膜のひだに隠れていた牙が立ち上がった。上顎からは長いものが、下顎からはごく短いものが、それぞれ骨と筋肉の連動によって姿を表す。つぐみが口を閉じるのは、この牙を隠すためだ。


 くたりとした細い首に、ずぶずぶと透けた牙が沈んでいく。顎に力を入れているから、唾液腺の分泌が促され、生成された毒が牙からカラスの中に送り込まれた。

 それは冷えた血が固まり行くのを阻害し、ヒトのものではない血を、それでも消化できるよう助けてくれる。


 カラスの血液量は決して多くはないとすぐに気づいた。コップ一杯どころではない、その半分のまた半分、底に残った数口程度が喉の奥に消える。

 ヒトとカラスという差を置いても、いつも飲んでる血液製剤とはまったく違う味がした。クエン酸も添加されず、殺菌もされない、ナマのままの生き物の液体。

 美味いとは言えないが、生物に直接牙を立てて飲むという行為、それ自体に根源的な昂揚があった。こういうことを、真言もずっとしてみたかった。


(このカラスも噛まれていたら、あんまり苦しまずに死ねたのにな)


 つぐみの毒牙はヒトやそれに近い動物に対し、麻痺や麻酔の効果で抵抗力を奪う作用がある。絞め殺されるよりも、確実に苦しまない死に方だ。

 そこで真言はおかしいなと気づいた。なぜ、彼はもう一羽捕まえていたのだろう? 口にくわえていた方は、噛まれた毒が回ったもの特有の、百合のような香りがした。

 だが手元のやつは違う。まるで慌ててもう一匹用意したみたいだ。


(もしかして、つぐみが近づいてくるのに気づいていたから、口止め料にもう一羽捕まえたのか?)


 そんなことするぐらいなら、逃げてしまった方が良い気がする。でも名も知らぬ眼鏡の少年は、一緒にカラスの血を飲む誰かを待っていたのだ。

 それは、つまり。仲間が欲しかったということだろうか? 血液製剤が発明され、つぐみたちの間で流通し、ヒトを襲わなくても安心して血が飲める世界で。

 それでも、生き物を噛んで、血を吸いたいという本能を発散させる仲間が。


「お前、名前は?」


 真言がカラスから口を離し、牙をしまうと眼鏡の少年が問うた。


「オレは田字草でんじそう見聞あきひろ。東方見聞録、の見聞でアキヒロだ」

「僕は、梔子真言です。真実のシンと、言葉のコト、でマコト」


 すると田字草は軽く吹きだした。


「へえ? 〝沈黙は金〟って感じの名前だな」

「でもその言葉、雄弁は銀って続くんですよ」


 ムッとして反論した真言だが、「だからなんだ」と自分自身につっこんでしまい、しどろもどろに「この言葉ができた時代は、銀の方が金より価値が高かったとか」などと豆知識を続ける。田字草は聞き流したようだったが。


「名は体を表すか、たいが名に合わせるのか」


 田字草がカラスの死骸を置くと、真言は初めて横の地面にシャベルが二本、用意されていることに気づいた。田字草が一本取って地面に突き立てる。


「人間じゃないものが、人間のふりしてるのも、おかしな話だよなあ」

「手伝います」


 きっとこれはカラスたちを埋めるための穴だろう。放っておけば野良犬の餌にでもなるだろうが、自分たちが殺して飲んだからには、葬るのが礼儀の気がした。

 いつもなら、真言は自宅に帰ってそうめんでもすすっているところだ。血を混ぜた黒いつゆに白い麺をつけて、薬味と一緒にすすって。

 何かの生き血をすすったのは初めてだ。こんなにも、自分が人間アカスナではなく吸血鬼つぐみだと感じた食事も、こんなに大きな生き物の死体を埋めるのも。


 その時から、田字草と真言は共犯関係になったのだ。

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