第4話 唇を通じて混じる熱

 動揺が止まらないまま、逃げてしまった。情けなさのあまり目を閉じる。暗がりの廊下の隅、壁にそって、ずるずると床に座り込んでしまった。

 浅い息のまま、どうしてあんなことを口に出したのかと思う。混乱は消えないまま、ただ波立つ心に翻弄されていた。


 私にとって、雪君は雪君のままだったんだ……


 昔両親が居た頃、家によく来ていた雪彦に、隙があれば秋月はよく声をかけていた。遊んでと手を引っ張っていたものだ。彼は勉強や相談のために自分の家へ来たのに、とても優しくて、彼とずっと一緒に居たいと秋月はよく願っていた。


「雪君が、家族になればいいのに……」


「それはすごく良い考えだね……僕もすみれと家族になりたいな」


「養子だったらなれるよ!」


「養子かー、養子よりは、キミと……」


「へっ……」


「なんてね……驚かせてごめんね……でも、僕はキミが大好きなんだ」


「そっか……私も、雪君が大好きだよ! 一緒だね」


 家族を失った彼の安住の地に、自分の家がなっている。秋月はそのことがとても嬉しかった。彼の好意には薄々気づいていて……その気持ちにどう応えればいいのかわからず、びっくりしてるフリをしていた。

 その気持ちに早く応えていたら、運命は変っていたのだろうか……IFのことを考えてもしょうがないというのに、秋月は迷ってしまうこともあった。


「もう、今更……遅いのに……」


 秋月は胸元をぎゅっと掴んで、絞り出すような声で呟いた。

そう、すでに時は遅しだ……自分の立場で好きと言って、九川の周囲は許すことはないだろう。自分より、雪彦の立場が苦しくなったらと思うと、体が震えそうになる。


「何が遅いんだ……すみれ」


 ビクリと肩が震えた。聞きなじみのある優しい声に胸がつまされながら、声の主である雪彦を立ち上がって見る。


「申し訳ありません……急に変なことを言ってしまって……すぐに業務へ戻ります」


「いや……業務なんていい、それよりも気になることはあるんだ」


 秋月は唇を固く引き結ぶ。


「すみれ、キミは何を考えているんだい……本当は僕のお見合いがイヤなんじゃ」


「そんなことありません……私は雪彦様の未来を」


 絞り出すような声で、いつもの体裁を取り繕うとする。我ながら、隠しきれるものではないと分かっている。けれど自分の感情に対し素直になるには、まだ壁は崩壊しきってなかった。

 雪彦は真剣な顔でこちらを見ている。自分の言葉の裏にある感情に向き合おうとしている。

 やめて……と秋月は言いそうになった。そんなことをしたら、自分は堪えきれなくなる……感情の震えを抑え込もうとして秋月は動けなくなった。そんな秋月を、雪彦は優しく抱きしめる。腕の中に包まれていると強く認識した時、秋月の口から堪えきれない感情がこぼれ出た。


「やめて……雪君。私たちは、もうあの頃の私たちじゃないんだよ……私の存在があなたの迷惑になったら」


 落ちぶれた社長令嬢だけじゃない、雪彦に敵対するモノにとっては、雪彦を助けた家の娘なのだ。

自分の存在があることで、余計な負担になりたくない……そう祈るような思いだった。

 しかし雪彦は秋月の言葉に対して、さらにぎゅっと腕に力を込めた。


「僕にとって大事なのは僕のことじゃない……キミのことなんだ……キミが笑顔じゃなきゃ、意味がないんだ……」


「雪君……」


「僕の気持ちは変らない。僕は君は好きで、家族になりたいくらいで……九川のことなんて本当どうだっていい」


「それがどんな苦難になると分かってても……?」


「僕にとって大事なのは、君の気持ちだ……君が嫌なことをやるわけにいかない……」


「馬鹿……私なんかのために、馬鹿……」


「頑固なんだよ……君に負けないくらいに」


 雪彦は秋月の額に自分の額を合わせた。それは昔、秋月が泣いたとき、雪彦が慰めるためにしてくれた仕草だった。

 懐かしくも、変らない仕草……

 自分の気持ちをとどめるために作った壁が、秋月の中で崩れる音がした。


「私も……あなたが好きなの……ずっとあの頃からっ……」


 雪彦が秋月のためにと生きるなら、秋月だって、雪彦のために生きたい。心も体も……共にと願う。


「僕と一緒に生きてくれませんか、すみれ……」


 雪彦の言葉に、秋月はこくりと頷いた。

そして晴れやかな顔で


「私と一緒に生きましょ、雪君……」と言った。


 お互いに「自分への愛」を確認した二人の心の壁は、もうない。互いを求め合うように抱きしめ合う。体の温もりが、二人の中の熱を更に高ぶらせようとする。


どちらが先というのはなかった。

自然に互いの顔の距離が近づく。熱っぽい視線が絡み合い、やがて秋月は目を閉じた。

唇が重なり、唇を通じて熱が混じり合う……あまりに甘い瞬間で、夢のようだった。

 二人の感情はもう押しとどまることはないだろう……廊下の暗がりが二人を守っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る