第3話 行かないでっ

 善之と叔母が、雪彦の家に訪問して数日が経つ頃、秋月は従兄弟に電話をしていた。


「すみれ姉さん、聞いて……! 銀行の融資がもしかしたら受けられるかもしれないんだ」


「それは良かった……あなたの事業を認めてもらえそうなのね」


 優秀で姉のように自分を慕ってくる従兄弟の言葉に、秋月は大きく頷いた。しかし急な話でもあった。


「九川善之さんって知ってる? すみれ姉さんが働いてる九川の家の人なんだけど」


 すっと顔から血の気がひいた。善之の名前が従兄弟から直接聞くと思わなかったのだ。今日、自分に送られてきた手紙の件を考えると、善之が業を煮やしていると容易に想像ついた。


「俺の事業を応援するために、支援を考えてくれるんだって。あの九川家だよ!」


「そ、そうね……」


「ん?……姉さんはどうしたの。急に声が」


「いえ、なんでもないの。私のコトより、自分のやりたいことを進めなさい。あなたはもっとずっと先に行ける」


「う、うん……どこまでいけるかわからないけど、全力をつくすよ」


「がんばってね……応援してるわ」


 秋月はそう言うと、静かに電話を切った。善之の行動の速さに驚いていたが、自分をいよいよもって決断しなければいけないだろう。

 今日秋月の元に善之から手紙が届いた。自分が善之の家に行くかどうかの決断を迫る手紙だった。いつでもいいと言ってたのに、急な発言の変化に戸惑うところはある。けれど彼の中で、仕掛けようとする何かがあったのだろう。善之が何もなく、従兄弟に声をかけるとは思えない……秋月への圧力だろうか。そこまでして雪彦を傷つけたいのだろうか。


 従兄弟の嬉しそうな声を聞くと、とても裏側にある事情を悟らすわけにいけない。何より、従兄弟の夢を叶えさせたい。

 落ちぶれた秋月から離れたひとはたくさん居るが、従兄弟は、そんな事情があってもかまわず、自分と仲良くしてくれるのだから。


 ずっと悩んでいてもしかたがない……中休みの時間も終わり、雪彦の明日の支度や就寝準備する時刻になった。

 明日の予定を確認し、スーツ等を用意しないといけない。


「失礼致します、雪彦様」


「ああ、秋月……お疲れ様」


 雪彦は秋月をなんだか悲しそうな顔で見ていた。

どうしたのだろうと思ったが、かまわずウォークインクローゼットへ向かう。数畳の部屋に入り、いつも通りにスーツをとろうとしたとき、手が止まった。

 見覚えのないスーツがあったのだ。普段だったら購入したスーツは使用人たちに一度渡され、洗い方などの確認をしてから収納をされる手はずになっていた。

 いつもの手はずを通らなかったスーツに疑念を持ち、手に取ると、秋月は雪彦へ聞きに行った。


「雪彦様……こちらのスーツはどうされたのでしょう。とても素敵なモノなのですが、私たちの確認がなかったような」


 雪彦は重く息をついた。


「ああ……確認ね、したくなかったんだ、それ……」


「何故……とても仕立てがいいですし、なにか扱いに間違っては大変ではありませんか」


 雪彦はそうだね、と一言、言うと。


「それ、今度の見合い用に叔母さんが用意したモノなんだ」と言った。


 雪彦の声から感情が見られなかった。

だが秋月にはそんなことよりも、聞きたいことがあった。

 声が震えていた。


「お見合いをされるのですか……雪彦様」


 秋月の言葉に雪彦は静かに頷いた。


「ああ……しないといけないようだ」


 顔を横に背けながら、秋月は言葉を紡ぐ。


「それはまた、急ですね……知りませんでした」


「叔母さんがこの見合いだけ、受けなければって……まあ、なんていうか脅された」


 雪彦の言葉の歯切れ悪く、全てを語ろうとしなかった。雪彦になにかつけ込まれるような隙があったとは思えない……会社がらみで何かいわれたのだろうか。そう考えるとやり口がつくづく似ている親子だ。雪彦の叔母と、善之は。


 心が信じられないほど動揺している。お見合いなんてしてほしくないと激しく思う自分がいて、心にさざ波が立つ。

 雪彦の事が、好きだと分かっていた。けれどその感情の強さを改めて自覚して、秋月の自制心がぐらぐらと揺れた。

 普段は使用人としての立場を理解し、陰日向の花であれと自分に言い聞かせている。だけど、だけど……。

 秋月は腕から力が抜けて、スーツを床に落とした。普段だったら絶対あり得ないミスだ。けれど落ちたスーツを拾えない……いや、触れない……。


 雪彦が怪訝な顔をしてこちらを見る。


「どうしたんだ、すみれ……」


 心配を隠せないような声で名前を呼ばれると、秋月は肩をびくっと震わせた。涙が静かに出た。心をいつでも縛っていた、秋月の理性が切れた。


「行かないでっ、雪君……お見合いに、行かないで」


 昔呼んだ呼び方で、自然と彼を呼んでいた。


「すみれ……」


 雪彦は座っていた椅子から立ち上がり、驚きを隠せない顔で近づいてくる。もし腕でも掴まれたら、完全に自分が保てなくなる。何より、こんな自分が情けなくてしょうがない。

 彼を支える陰日向の花であろうと思ってたのに。お見合いだって、むしろ進めていた側だったのに。

 恥ずかしい。恥ずかしい……!

 なんて身勝手なエゴをぶつけているのだ。


 秋月は逃げるように、雪彦の部屋を出ていった。

この状態で、雪彦のそばに居られない……そう思った。

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