第2話 首筋の痕
他の使用人と協力して洗濯や掃除を進めていると、雪彦が声をかけてきた。
「どうされましたか、雪彦様」
「ああ、秋月……ちょっと応接室を、用意してもらいたいんだ」
雪彦は困ったように眉を寄せていた。それだけで秋月は、雪彦の苦手な人物が来訪すると予想した。あの部屋は本当に特別なのだ。
かつて雪彦の父が使用していた部屋を改装した応接室は、この屋敷では親族を通す部屋になっていたのだ。
心臓がどくんどくんと鳴り響くのを感じながら、秋月は言った。
「お客様がいらっしゃるんですね……」
「そうだな、叔母さんなんだが、もう一時間以内にくるとか言いだしてて」
「……わかりました、すぐにご用意します」
雪彦の叔母がやってくる……その言葉だけで、ゾクゾクする自分がいた。薄ら寒い気分になる。
きっと、彼も……同行してくるだろう……予想や予測を通り越して、それは確信だった。
「っ……」
「秋月さん……どうしてボクを避けようとするの?」
雪彦の叔母を、応接室に案内して、キッチンで待機しようと踵を返そうとしたところで、声をかけられた。
振り向きたくはないが、そうもいかないだろう……
秋月は出来るだけ感情を悟られないよう、気を引き締めながら、声をかけてきた善之を見た。
雪彦の叔母の息子である善之はにやにやとこちらを見ている。高級仕立てのスーツを見事に着こなし、さらりと流している髪の毛も綺麗だが、顔から感じるどこか欠落した何かに、秋月は嫌悪をした。
雪彦の叔母も豪腕を振りかざし、いささか品のないものを感じさせる。何より人を見ないのだ、あいさつをしてもまるでいないように通り過ぎていく。自分にとって得のないものを人として扱ってないようだ。
「いえ、善之様……けしてそんなことは」
秋月は楚々とした態度でお辞儀をする。いくら相手に不快さを感じても、礼を失する態度をとるわけに行かなかった。落ちぶれたとはいえ、秋月の家でたたき込まれてきた教えを、ここで実践しないわけにいかない。
切り返しといわんばかりに笑みを少しだけ浮かべる。
「すぐに善之様のお茶もご用意しま……」
言葉が途中で切れた。善之に顎を掴まれ、ぐいっと持ち上げられる。
さすがの秋月も顔をしかめた。
く、苦しい……
「そうやって殊勝な態度をとって……さすが華族出身の社長令嬢だっただけあるよな……秋月さん」
さんづけされているが、声には侮辱したい意志が強く宿っていた。善之・雪彦は親族間で年が近く、いわゆるライバル関係だった。だが善之は雪彦に一度だって買ったことがない。彼自身も優秀であったが、圧倒的な能力の差に、性格がゆがんでいってしまった。
「やめてください……私の生まれのことは」
善之は気色ばんだ秋月の顔を見て嬉しそうになった。昏い喜びだった。秋月は唇をぎゅっと引き結ぶ。
「母親の旧姓を名乗ってるから……母さんは気づいてないみたいだけど、雪彦を助けたあの家の人間と知ったら、どんな顔するかな……
あそこで潰せたら、結婚で懐柔なんて面倒なことにならなかったんだしな……
秋月はぐっと拳をにぎった。気持ちが悪い……善之に腿をなで回され、顎を掴まれ好色な目で見られて。けれど耐えないといけない。善之は秋月にダメージを与えられると思ったら喜んでくる。彼は雪彦の秋月に対する感情を知っていた。知っているからこそ、秋月を虐げてくる。
歪んでる……
「はやく頭を縦に振れよ……ウチの家にくるって。そうしたらあんたの従兄弟、面倒見てもいいんだ」
「従兄弟のことまで把握してるんですか」
善之は下卑た笑みを浮かべた。
「お金が要るらしいな、事業をはじめたいんだって? ……でも銀行に相手にしてもらえないみたいだな」
秋月は何も答えなかった。いや、言えなかった。
「まあ、返答はいつでもいいけど……雪彦の迷惑とか、従兄弟の事とか、よく考えたほういいんじゃないの」
「お話は以上でしょうか、失礼します……」
秋月は泥濘を進むような体の重さを感じつつも、ぐっと善之を睨む。善之は秋月の視線の意図を感じ取ったのか露骨に、苛立たしげな顔をした。
「そのすました顔を、必ずくずしてやるよっ……」
善之は秋月の首筋を強く吸った。服の襟で見えるか見えないかの瀬戸際の位置だった。ぞっとして、血の気が引くのが分かる。秋月は善之の手が体から離れると、すぐにその場から逃げるように離れた
なんとなく背後から執拗な視線を感じたが、そんなことはどうでもよかった。
はやく、キスの痕を隠さなければいけない……すぐに着替えて、それから、それから……考えるだけで涙が出そうになった。惨めで、悲しくて、でも秋月はとにかく澄ました顔をしようとした。辛い顔をしたら、すぐにばれてしまう。雪彦に見せられない……心配をかけたくない……
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