第3話

 俺はため息をつきながら家路に付く。

 単位が危うい。流石に危機感を感じた。

 地元から離れた大学に通う俺。一人暮らしはしているけど、この歳になっても親のスネをかじるような奴だ。成績はそれほど。サークルにも入ってない。進路も考えてないのだ。


「そろそろ勉強せんとマズイな……」


 小さく呟き、自宅のアパートの鍵を開ける。


 片付けられてない部屋を一瞥し、部屋の中へと進んだ。散らかった机の上の、積み上げられた赤本を床に引きずり落とす。思えば大学受験からほぼ全くこの机には座ってない。


 俺は単語帳とノートを開き、ひたすらに単語を書きなぐる。


 数十分ほど経っただろうか。


「……あれ?」


 情けない声が口から漏れていた。

 さっきまで英単語をノートに書きなぐっていた俺の手は、確かにシアンのマーカーペンを握って単語帳をめくっていたはずなのに、今の俺の手はパソコンを打っている。


 パソコンには意味不明な文章が羅列していた。


「『わたし、ずっと追い求めていたの! あなたのこと!』『その瞬間、暖かい春風が吹いて……』ゲホンゲホン……」


 無理に裏声でその甘々な文章を読む。なんだよこのいかにも女子高生が好きそうな文章。俺はこんなラブコメよりも転生系異世界ファンタジーが好きだと言うのに。


 俺は走り続ける手を無理に止めようと力を入れるが、どうしても止められない。制御不能になった手を俺はひたすらに呆然と見つめた。


 と、思ったらその手はガクンと止まる。


「うーん、ここあんまり居心地良くないわね」


 呆れたような女の声が背後から聞こえた。

 もう察しがつく。


「やっ」

「……驚かねぇよ」


 室内だと言うのに白いヒールを履き、白のハイソックスにその細く長い脚は覆われる。程よい肉付きのその脚。


 ふんわりとした膝上のジャンパースカート。ジャンパースカートのコットンピンクによく馴染む純白のブラウス。茶髪を基調とした髪にはピンクゴールドのインナーカラーが入れてある。軽くカールした毛先から視線を上げると、耳付近にリボンが付いたピンクのカチューシャ。


 俺は女の手首をぎゅっと握った。


 体温を感じない。酷く冷えていて、脈も感じられない。


 その途端、俺は確信した。


「だってわたし、」


 そこで一旦言葉を切った女。俺は跳ねる心臓を抑えながら言葉の続きを待つ。


「幽霊だろ?」


「ええ」


 そいつが答えるより早く俺は言った。


「まぁ、そういう訳だからよろしく。さてとっと」

「おいおい」


 そいつは自身の形を崩し、俺の胸へと吸い込まれて行った。心臓から脳へ、重みが伝わる。少し息苦しかった。


 すると俺の体はデスクへと勝手に向いた。


『 彼への愛は蜂蜜を溶かしたかのようにドロドロで、甘ったるい。束縛してしまいたい、わたしだけのものにしたいとも思ったこともある。だが彼はいつもその硝子のように繊細な輝く瞳を伏せて、俯いてしまう。私のせいなの?』


 その女が書いたのであろう文章。酷く薄っぺらいラブコメだが、謎に表現が上手いのがムカつく。 文章力はそうでも無いが、ストーリーがとても面白い。小説賞の1次選考くらいなら簡単に通りそうだ。


 すると心臓から脳にかけての重みがすっと消えた。横を向くと、俺の赤本をパラパラと捲っている。


「……この大学、滑り止め?」

「いや、結構、頑張った」

「はぁ……?」


 呆れたため息を漏らす女。勝手に俺のノートに色々書いていた。


「いい? この文章はね……?」


 そこからはそいつの解説が延々と続いた。


「すげぇ……。わかりやすい……」


 偏差値もそこまで高くない学校の問題集だから、解けることは当然といえば当然なんだけど、まるで小一の先生のように簡潔に教えてくれる。

 

「全く、こんなのが分からないだなんて」

 

 そう言って彼女は何処から取り出したのか、分厚い本を持っていた。なんとそれは英語で書かれていて、表紙にはでかでかとした文字で「Harvard University」と書かれている。


「え? このくらい解けるけど? この少してこずらせてくる難易度が面白いの!」

「お、おう……そうか……」


 俺はドン引きだった。こいつは確かに頭はいい。でも、その分変人でもあるのだ。

 そしてそいつは今、英語だらけの書面に向かって、何やら難しそうな公式を解いたり、ロシア語を勉強したり、本当に高レベルな勉強をしている。


「……あー……単位取んなきゃなあ……」


 俺はボソッと呟く。さぼりまくっていたせいで、本当に危うい。

 授業ノートは白紙だ。パワポのデータを貰うとかスマホで撮るとか板書するとかそういう基礎中の基礎もできていない落ちこぼれ大学生の俺。


 おもむろに画面の割れたスマホを見る。


【母:就きたい企業は決まったの?】

【まだ決まってないよ、母さん】


 親のスネを齧りすぎだ。もう齧るところもなくなる。

 

 彼女は楽しそうだ。

 勉強も、ファッションも。幽霊だというのにすべてが楽しそう。


 ここで俺はいい案を思いついた。


「なあ」

「……ん?」

「試験の時だけ俺に憑依して、代わりに解いてくれないか?」

「やだ」

「……」

 

 この会話が終了するまで、十秒にも満たなかった。即答。


「……あんな低レベルな問題、解きたくない……」


 彼女は本当に呆れているようで、少し物悲し気にも思えた。


「やっちまったな……」


 俺は撃沈だった。そう、試験で。

 そんな俺を横目に、アイツは今日も参考書に向かって問題を解いている。でも、アイツの様子が最近おかしい。

 なんか、瞳が恨めし気なのだ。いや、幽霊だから当たり前といえば当たり前なんだろうけど。なんか聞き取れないくらいの独り言をぶつぶつと言ったり、本当におかしい。

「なんでわたし、生きてないの……?」

 聞き取れた独り言は、それだけだった。


「嫌い嫌い嫌い嫌い!」

 翌日。起きると彼女が大声を上げて、喚き散らかしていた。

 俺はこのまま部屋に突入するか迷い、じっとタンスの影に隠れてその様子を窺うことにした。緊張感が俺を襲ってくる。


「見てるんでしょ? わかってるよ?! さっさと出てきなさいよ!」

 どうやらバレていたようだ。素直に従い、俺は影から出る。


「わたし、生きていたかったの! 小説家にだってなりたかったし!」


 そこで俺は彼女の大切な夢の存在を知った。

 俺に憑依して無理やり小説を書かせたのは、そういうことだったのだ。なんだか、申し訳ない気持ちになった。


「……お前で恨みを晴らしてやる」


 急に声色を変えて、俺に近づいてきた。俺に憑依するつもりなのだろう。俺は狭い部屋を駆け回って、彼女から必死に逃げる。


「お前の初恋相手の女の居場所なら知ってる。そいつを殺せばお前も生きる気力は無くなり、お前の世界が壊れてお前がお前でいられなくなる」


 俺は体が凍り付いた。今でも恋している初恋相手は、小学生の時田舎に帰った時に偶然知り合った、麦わら帽子に白いワンピースを着た少女。とても美しくて儚げだったことだけしっかり覚えている。名前も住所も知らないが。


 あの娘が殺されるだなんて……。


 俺は家を飛び出した。何処までも、必死に、死ぬ気で走る。彼女に憑依されたら終わりだ。何処までも走る。絶対。見つかってはいけない。憑依されてはいけない。あの娘が殺されてはいけない。

 そう自分に言い聞かせながら黄昏の街を駆け抜けた。


 今の俺は所持金ゼロ、スマホもない、道具もない。服装だってだぼだぼのパーカにハーフパンツの部屋着。おまけに裸足である。

 

 すっかり日も落ちた。俺は気づいたら山の中に来ていた。ここなら絶対に見つからない。そう安心したのもつかの間。


「この山はその女が暮らしている村がある山だよ。残念でした」


 その恐ろしい声に振り向くと、彼女が狂気の笑みを浮かべて立っていた。

 震えが止まらない。気づけば、目前に彼女がいた。


「お疲れ様」


 そう彼女が呟いた途端、心がちくっと痛んだ。

 彼女の死因は知らないが、相当な恨みを彼女は持っている。彼女の夢は、彼女自身の死によって終わりを告げてしまい、結果俺に憑依し、無理やりにでもその夢を叶えたかったのだ。


「頑張ったな」

 次の瞬間、口から漏れていたのはその言葉だった。そして、彼女を抱きしめていた。

「えっ」

 きょとん、とした目でこちらを見る彼女を、じっと見つめる。

「お前だって叶えたいこと、あったんだろ? だからそれで、俺に憑依したり、恨んだりした。でもお前はもう疲れている。だからもう、一旦この世から離れてゆっくり休んだらどうだ?」

 彼女の目からは涙が溢れていた。俺の頬にも熱いものが伝う。彼女の涙を拭いながら、俺は言った。


「お前の分も、俺は頑張るから」


「……約束だよ」


 静かに微笑んだ彼女は、眩い光に包まれて、もうそこにはいなかった。

 彼女は、逝くべきところに逝ったのだ。だから、あれでもうゆっくり休める。


 俺は夜の山道を歩き出した。


 俺はギリギリの順位を見て、安堵のため息を漏らす。

 単位は何とか取れ、留年は免れた。努力……とまでは行かないが、少しは勉強し、やっとこの点数になった。


 俺はあの幽霊のことを未だに忘れていない。彼女は今、何をしているのだろうか。


 キャンパスをぐるりと見渡し、俺は大学を出た。

 女子高生の二人組が俺とすれ違う。その一人に、俺は無性に懐かしさを感じた。

 ふわふわとしたツインテールにピンクのカチューシャを付けた彼女は紛れもなく、彼女だった。


「頑張ってるみたい……じゃん?」


 その彼女の微笑みは、無駄に愛おしかった。

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