第4話

 俺はホストクラブにいた。

 いや、違う。別にそういうものに興味があるというわけではない。

 まして男が好きだというわけでもない。

 トシを聞かれて少し多めにごまかされ、まるでどこぞのアイドルグループのような、加工した感じのイケメンがじっと俺を……俺の体を見つめていた。

「あは、ボク、こういうところくるのはじめてなんですよー♪」

 俺の体はそんなことを口にする。

 こういう感じの客の相手も慣れているのか、ホストは俺の肩に手を回して俺のほうへと近寄ってきた。

 気持ち悪い、というのが正直な感想だったが、俺の体は逆にイケメンにちょっと近づいて。

 もはや息もかかってしまうような距離で、ホストが低く抑えた声で話し始めた。

 正直もう、帰りたい。

 料金もなんかすごいく高いし。なんだこのボッタクリの料金設定は。涙が出てくる。

 それでも嬉しそうにイケメンと会話をする俺の体。ほんのりと高い声を出しているのが、聞いていて本当に嫌になる。

 それでも仕方ないといえば仕方ない。

 これが、彼女のやりたかったこと。

 今までの人生でやったことないことをしたい。

 例えば? と、俺が聞いてみたところ、帰ってきたのは。


「ホストクラブ行きたい」


 そんな一言だったからだ。


 彼女の名前は、紀子さん。

 若くして不慮の事故で命を落としてしまった彼女には、やりたいことが色々あったようで。

 仕方なく俺の体を使わせてやったが、まさかこんなふうになるとは。

 おそらく一生にもう二度とない、ホストクラブをたっぷりと堪能しながら、俺は心の中で大きく息を吐いた。


「いえーい!」


 それから。

 俺は大きなショッピングモールに来ていた。

 俺の髪の色はいつのまにかシルバーに変わっていて、首から耳からシルバーのアクセサリーがじゃらじゃらとぶら下がっている。

 顔にもわずかにメイクがはいっていて、まつげなんか随分と強調されて長い。いつのまにか眉毛も少し剃り込まれているし。

 彼女のやりたいことの2つ目がこれだった。

 思いっきり着飾ってみたい。

 着飾るって服じゃないのかと思ったら服じゃなくアクセだというのでOKしたが、まさかここまで変わるとは。

 写真をプリントしてくれる機械に写っている俺の姿は、これ本当に俺なんだろうかと疑うのに充分な、チャラさと軽さと女っぽさが共存したよくわからないなにかだった。

「翔くん、顔立ち女のコっぽいから似合うよー」

 紀子さんがいって、ノリノリでポーズを取ってもう1枚カシャリと撮影する。

「嬉しくない」

 俺は心の中で答える。そのあいだにも彼女は、画面に指をさしてみたり膝と腰に手を当ててみたり、ちょっと首を傾げて腕を腰に回してみたりとポーズを決めている。

「女の子っぽいポーズはやめてくれ、吐きそうになる」

 俺がいうと、

「えー、プリントしてあるし」

 すでに何枚かあるプリントの一部をひらひらと揺らす。

「ぷくく、いいねいいね」

 その中の俺はまるでモデルかなにかのように腰をひねって頭の後ろで首を組んでいる姿だった。

「吐きそう……」

「えーなんでいいじゃんいいじゃん」

 紀子さんは笑ってプリントした写真と同じポーズを撮る。

「胸が足らんのう、ちょっとタオルかなんか詰め込んでみていい?」

「絶対にダメ」

 これ以上は俺の精神が持ちそうになかった。


 なんとかメイクは落としてアクセは外して帰りの道を歩く。

「どうすんだよこのアクセ……」

 銀色のジャラジャラが袋の中でうごめいている。安物でそこまでかからなかったとはいえ量がすごい。

「日替わりでつけちゃえよ」

 紀子さんは鼻歌交じりに俺の前を歩いている。

 どこかで聞いたことのある歌な気がしたが、よく耳を傾けると『翼をください』だった。わざわざ鼻歌で歌うような歌だろうか。俺は息を吐いた。

 ふと、彼女の足が止まった。彼女の向いている方向に視線を向ける。

 女の子だ。小さい女の子が、おそらく父親であろう人物と話をしている。

 なにか偉いことでもしたのだろうか。頭を撫でられ、くすぐったそうに目を細めた。そして手を繋いで、一緒に歩いていく。

「なあ、紀子さんはさ、」

 その光景をじっと見ていた、その後ろ姿が気になった。

「どういう未練があったの?」

 その背中に、思い切って聞いてみる。

 ホストクラブも、大量のアクセも。

 彼女が本当にやろうとしていたこととは思えない。

 彼女の、本当の目的は。

 彼女の、本当に抱えているものは。

 一体なんなのだろうか。

「え?」

 彼女が振り返る。首を傾げ、少しのあいだ俺の口にした言葉を彼女は考え、

「別に、未練なんてないよ」

 そう、軽い口調で口にした。

「いやいや」

 俺は転びそうになった体を支えていう。

「未練があったからまだ魂が残ってるんじゃないのかよ」

 俺は少し早口にいうと、

「やりたいことはまだまだあるよ」

 少し目を細めて彼女はいう。

「それはなに?」

 俺は彼女に向かって正面から口にする。

「えっとね、」

 彼女は微笑み、そして口にした。

「イケメンとえっちなことしたいな」

「絶対ダメ」

 俺は即答する。彼女は大きな声を上げて笑った。


 次の日は俺は大学に行った。

 いろいろ連れ回されるのが嫌だったことの言い訳でもあったのだが、むしろ彼女のほうも「大学いってみたい」とのことでついてきた。

 大きな講義室の後ろのほうでそれなりにノートを取る俺を、彼女はただじっと見つめ、授業に飽きたらふらりとどこかへ遊びに行って、気がつけばふらりと戻ってくる。

 そんなこんなで、午前中はあっというまに過ぎていった。

「ねえ」

 午前の授業が終わって大学を出ようとすると、彼女が俺に話しかけてきた。

「午前中で終わりなの?」

 後ろを振り返るようにしていう。

「いや、午後もあるよ」

 俺は歩きながら答えた。

「昼食べにいったん帰るんだよ」

 俺がそのように口にすると、

「学食」

 彼女の口からそんな単語が飛び出してきた。

「学食いってみたい」

 学食かあ、と俺は息を吐く。

 はっきりいって、あまり行きたくない。

 昼を過ぎてから多少はすいているらしいが、なにせ今は昼のただ中だ。

 授業が終わって飛び出した連中がどの方向へ向かっているかで、なんとなく予想はつく。かなり混んでいるはず。

 そんなところでぼっち飯するのは正直、いやだ。

「ねえ、学食ー」

 そんなふうに俺が思っているということを知ってか知らずか、彼女は俺の袖を引くような仕草を見せてそのように口にする。

「ボク、いったことないんだもん、大学の学食」

 彼女のそんな言い草に俺はまた息を吐く。

「さっき授業中に行けばよかっただろ」

「見にはいったよ。入って、実際にご飯を食べてみたいの」

「食べるの俺なんだけど」

「あはは、いいじゃん別に」

 彼女は笑っていう。

 俺は、彼女を始め多くの霊を成仏させようと努力していた。

 そうすれば、憑依されて突拍子もないことをされずにすむ。

 でもそれは、自分の生活に支障のない範囲でのことだ。大学に来るだけでも正直、体が重く感じるのに、この混んでいる時間にひとりで学食に行かなくてはいけない。

 考えただけで体が震える。

 そう考えると、ふっと体が軽くなった。

(あ、こら!)

 言葉にしたつもりが声にならなかった。

 いつのまにか、彼女が俺の体に憑依して大学へと足を向けていた。

「というわけでいっくよー、レッツ学食!」

 いって、スキップするように学食へと向かう。

 がくしょく、がくしょく〜♪ と歌いながら跳ねて歩く俺の姿を見て、周りからくすくす笑い声が聞こえる気がする。

 ……ああ。俺は心の中で頭を抱えた。

 明日から少し学校を休もうと思った。


 学食につくと、彼女はすっと俺の体から離れていった。

「お昼の経験も必要だよ」

 とは彼女の弁。

 スキップといい歌といい、なんかもうどうにでもなれという気分になってしまう。

 思っているよりすいていた学食に入ってゆき、メニューを眺める。慣れている人たちがいるようで、トレーを持って職員のおばちゃんに声をかけ、料理を持ってレジに向かって支払い、という流れはわかった。

 ふと視線を巡らせると、彼女は鼻歌交じりにメニューを見ていた。その中のひとつ、日替わり定食というものをじっと眺めている。「内容はお尋ねください」という手書きのメモが、その横に書き込まれていた。


「すいません、日替わりの内容ってなんですか?」


 それは、無意識の彼女の言葉だったのだと思う。

 彼女の言葉は職員の人には届いていない。届くわけがない。

 彼女はそこにはいないのだから。彼女はもう、この世界の住人ではないのだから。

 魂だけになってしまった彼女を、俺のように発見できる人がどのくらいいるのだろう。

 少なくとも、学食で学生たちの相手をしているおばちゃんは、彼女の存在には気づいていない。

 あ、と、彼女もその事実に気づいた。

 思わず口にしてしまった言葉。そして、改めてその、認めたくなかった事実に向かい合う。

 彼女の正面、すぐそこにいるはずの学食のおばちゃんに、声は届いていない。届かない。

 その事実に改めて気づくと、彼女の目にわずかに光るものが見えた。


「あの、すいません、」

 少しだけ涙声になり、それでも言葉を続ける。

「今日の、日替わり……」

 悲痛な声が、絞り出すような声が俺の耳には届く。

 それでもその、俺のよりも近くにいるはずの人の耳にはその声が届かない。


「あの!」


 彼女が大きく声をあげそうになったとき、俺は。

 それ以上の大きな声を上げていた。


「今日の、日替わり、なんですか!」

 少し離れた位置にいるおばちゃんに、必要以上の大声で俺は尋ねる。

 彼女の近くにいたおばちゃんは顔を上げ、

「今日はたっぷりタルタルの鮭フライ定食だよ」

 少し笑うような、柔らかい口調で口にした。

「それください!」

 いって、俺は彼女の隣に立ってトレーを置く。

「はーい」

 そういっておばちゃんは俺のトレーに用意されていた大きなお皿をトレーへと置いた。

 そんな様子を、彼女はじっと見ていた。俺は彼女のほうを向くことなく、定食が揃ったら急ぎ足でレジへ向かう。

「お兄ちゃん、はしはそこだよ」

 おばちゃんが俺の背に声をかけた。慌てて俺は振り返ってはしをひったくる。

「ぷ。ふふふ」

 彼女がその慌てた様子の俺を見ていた。

 レジで支払いを済ませ、できるだけすみっこの、目立たない場所にトレーを置く。

 近くにあった機械からお茶を入れて席につく……前に、正面の席の椅子を少しだけ引いておいた。

 彼女は少し遅れてやってきて、俺が引いておいた席につく……ように正面へと回った。

「ありがと」

 彼女はこちらを向いていう。

「なにがだよ」

 俺は少しぶっきらぼうに答えた。彼女のほうは見ない。なんとなく恥ずかしいから。

 はしでタルタルソースを鮭のフライにたっぷりと絡めて、口へと運ぶ。なかなか美味い。

 そんな様子を、彼女は満足そうに眺めていた。


 ほぼ無言で食事を済ませ、落ち着いて茶を飲んでいると、彼女が俺に話しかけてきた。

「翔くんはなにになりたいの?」

 彼女の言葉に俺のはしがぴたりと止まる。

「なにに、って?」

 俺が顔をあげると、頬杖をついて俺を見つめていた彼女と目があった。

「将来なりたい職業とか。夢とか。こういうふうになりたい、とか」

 彼女は淡々と口にする。

 俺ははしを皿へと置いた。

「……いや、特になにも」

 そして、正直に口にする。

「ふうん」

 聞いてきた割には、彼女は興味なさそうにそのように返した。

「ま、この程度のレベルの大学ならそれが普通なのかな」

 彼女は真顔で失礼なことをいう。とはいえそれもそれで事実なので、俺は言葉を返さずにそのまま小さく息だけを吐いた。

「紀子さんはなにになりたかったのさ」

 俺はそれこそ彼女の未練だと思った。なのでその質問を遠慮なく口にする。

「ん? 医者」

 彼女は即答した。

「なりたかった、というか。ならざるを得なかったというか」

 彼女はこちらを向いていない。

 どこか、遠くを見つめてそのように口にした。

「お医者さんか……よほど頭よかったとか?」

「フツーだよ」

 俺の言葉に彼女は一言で返す。

「別に。フツーだよ」

 そして、その言葉は2度も発せられた。

 それ以上の言葉を彼女は口にしなかった。そして、彼女の表情が、それ以上の質問を拒否していた。

 俺は結局それについて聞くタイミングを逃してしまい、はしを手にとって残りの定食に手をつける。

 昼が過ぎ、午後の授業が始まると彼女はどこかへふらふらとでかけていって、そのまま、帰ってこなかった。

 夕方になっても、夜になっても彼女は俺の前へと姿を見せなかった。


 次の日の大学で、さすがに心配になった俺は休み時間のあいだに彼女を探してみた。

 彼女の表情や、言葉。医者になりたかったという、その事実。

 彼女の未練がそこにあるのは明白だと思った。昨日はタイミングを逃したが、今日こそはそれを聞かなくてはいけない。

 でないと俺はイケメンとえっちなことをする羽目になるかもしれない。それはさすがに嫌だ。

 そこで、そういえば彼女は俺の体にあの日から憑依をしていないということに気づく。気を使っているのか、それとも、なにか思うところもあるのか。

 それも合わせて聞いてみようと思う。ともあれ、彼女を見つけないと、なにも聞くことはできない。

 まさか成仏したんじゃ、とは思わなかった。

 彼女に未練があるのはなんとなくわかる。あの、最大限やったことないことを楽しもうとした彼女の姿からそれは予想できた。

 彼女は、自分の人生をまったく楽しめなかったのではないだろうか。

 そんな予想が、俺の中に少しずつ芽生えてきていた。

 だからこそ、もしかしたらまた、どこかに遊びに行っているのではないかとの予想もあるにはあったが。

 なんとなく。彼女は大学にいる気がした。

 大学の、6号館。いちばん新しい建物の、最上階。

 大学の敷地が見下ろせるガラス張りの休憩室に足を運ぶと、彼女は。

 そこにいた。

 俺は安心して、彼女の横に並んで彼女と同じく大学の敷地内を見下ろす。

 学食ではしゃぐ人たち、並んで歩いて笑っている人たち。遅刻したのか約束があるのか、一生懸命走っている人たち。

 そんな、賑やかな光景を、彼女はガラスに静かに手を当てて見下ろしていた。

「翔くんは、」

 彼女が口を開く。

「ともだち、少ないでしょ」

 こちらを見ずに彼女はいう。

「まあ」

 俺も彼女のことを見ることなくうなずいた。

 眼前に広がる、青春の1ページと、確かに俺は無縁だ。

 友人がいないというわけではないが、この大学に親しい人物はいない。

「ま、今は紀子さんがいるし」

 俺は少しおどけたような口調でそんなことをいう。

 彼女の視線がこちらへと向いたような気がした。それでも俺は気づかないふりをして、ずっと眼前に広がる光景を見つめいていた。

「ボクも、友達は少なかったな」

 彼女はいう。

「ずっと勉強ばっかりしていたから」

 その言葉は虚勢を含んでいるような気がした。俺は彼女のほうへと視線を向ける。

 こちらを向いていたと思ったが、そうではなかった。彼女はまだ、下を見ている。

「ボクの両親が医者でね。ボクはお父さんが作った病院を継ぐために育てられたんだ」

 下にいる、笑顔の学生たちを見て彼女はなにを思っているのだろう。彼女はなにを、感じているんだろう。

「だから、ボクには今の目の前にある景色とは無縁の生活をしていた。友達もいなかったし、放課後にどこかに遊びに行ったりもしない。でも、でもね」

 少しだけ、彼女の言葉に力が入る。

「ボクは、それでもよかった。よかったんだよ」

 それでも、力が入ったのは一瞬だった。力が抜けたような、大きく息を吐くような言葉が俺の耳には届く。

「事故にあうまでは、ね」

 俺はふと、視線を感じて彼女のほうを向いた。

 彼女はこちらを向いていて、そして、俺のほうへと向かってきていた。

 憑依される感覚。

 それは、いつものことだ。よく感じることだ。

 でも、そのときの感覚はいつもと違った。

 彼女は俺の体に憑依し、そして、俺の脳裏に、ある光景を植え付けていった。

 それは、彼女の見た光景。彼女の見てきた光景だ。

 俺は、まるで誰もいない映画館にひとりで座って上映を待っているような錯覚に陥る。

 スクリーンから流れているのは流行りのアニメでも、スターの登場する洋画でもない。

 俺の心の中に流れてきた景色。それは。

 彼女の思い出だった。


 ボクは小さい頃は男と子とばかり遊んでいた。

 だから、一人称は「ボク」。小学校に入るまでは本当に男の子みたいで、泥だらけになって遊ぶのが大好きだった。

 でも、ボクが小学校へ行って、勉強もそこそこにできて。

 あるときから。

 ボクは英才教育を受けていた。

 小学校は、まだいい。

 それなりに勉強した。テストはいつも、満点だった。

 満点じゃないときは怒られたけど、それは、満点じゃなかったから。ボクが悪いからだと思った。

 受験して中学に入って、勉強のレベルが上がると。

 ボクは勉強漬けの日々になった。

 このくらいだったかなあ。

 「ボク」っていうと、両親に怒られるようになった。

 女の子なんだから、「ボク」なんて使っちゃいけない。

 ボクは、無理やり「わたし」という一人称を使うことになった。

 でも、仲のいい友達の前とかでは、密かに「ボク」って使ってたけど。

 せめてもの抵抗、だったのかな、とか、いまさら思う。

 ボクにも反抗期があったんだ。と、ちょっと意外に感じたりもする。


 ボクが中学のときのお父さんは、ずっと忙しかったイメージしかない。

 お父さんが作った病院は大盛況で、たくさんの人がお父さんの治療を求めていろんなところからやってきていた。

 休みもなく、運動会にも、授業参観にも来ない。

 お母さんはお父さんのサポート役だったから、仕方のないことだと思った。

 そして、ボクは、お父さんのお手伝いをするために育てられていたのだ。

 いつか、お父さんの跡を継ぐために。

 不幸にも子供はボクしかいなかった。だから、ボクがその役割をせざるを得なかったのだ。

 でもボクは、お父さんが誇りだった。

 お父さんの経営していた病院はやがて、大きな病院になった。

 たくさんの人がお父さんの下で働いて、たくさんの人をお父さんたちは救っていた。

 笑顔で頭を下げる、病気の治った患者さんに。

 お父さんは笑顔を向けていた。

 徹夜明けで、大変だっていうのに。それでもお父さんは笑顔だった。

 決してボクには向けない笑顔。ボクがあまり見ることのない笑顔。

 でも、お父さんがやったことはわかる。

 お父さんは、人の命を救ったのだ。

 すごい、と思った。

 ボクも勉強を続ければ、お父さんのようになれるだろうか。

 笑顔を浮かべることが。

 笑顔でいられることが。

 ありがとう、といわれることが。

 ボクは、そういうふうになりたかった。

 お父さんみたいな、立派な人になりたかった。

 小学校から仲の良かった人たちは、スポーツをしたり、恋愛をしたり、アイドルに夢中になったりしていたけど、そんなものに興味はわかなかった。

 正直、見下していた。

 そんなふうに無駄な時間を過ごして、彼らはなにが楽しいんだろうか。

 あんな下卑た笑いを浮かべて、くだらないことをして。

 なんのために生きているのだろうか。

 ボクは、お父さんみたいな高貴な人間になるんだ。

 そう、信じていた。


 近所ではでたことのない名門校への進学が決まって、ボクはますます勉強漬けの日々を過ごしていた。

 進学校とはいえ普通に高校だから、クラスメイトは息抜きにカラオケに行ったり、クレープを食べに行ったり、休み時間には芸能人や俳優の話で盛り上がっていた。

 興味すらないボクは彼らと話そうともしなかった。

 今を楽しむなんていうのは間違っている。

 今のボクは、たくさんの人の笑顔のために。

 たくさんの人の感謝の言葉のために。

 たくさんの人を救って、胸を張って歩いてゆくために。

 ボクは楽しそうなこととか、そういうものは一切、関わらないようにしていた。

 正直なところ、クレープは食べてみたかった。

 カラオケも行ってみたいと思ったが、音楽なんて学校の授業で習うもの以外ほとんど知らない。

 売れているアーティストの話は教室の中で同級生がしていたが、耳に入れないようにしていた。

 辛い、なんて思わなかった。

 友達がいなくても。

 楽しいと思わなくても。

 今、誰よりも頑張って勉強すれば、きっと、輝かしい未来が待っている。

 学生の本分は勉強なのだから。

 遊ぶ必要なんかない。

 早く大人になりたい。

 胸を張って歩ける人間になりたい。

 たくさんの人に感謝される、そんな存在になりたい。

 そう、思っていた。

 あの日、事故に遭うまでは。


 試験も近くなって、ボクは単語帳を片手に歩いていた。

 信号は普通に青だった。だから、ボクは歩を進めた。

 つっこんできたトラックの運転手は、ずっと仕事続きの過労状態で、半ば眠りかけていたらしい。

 だから仕方ない、なんて、いうつもりはないけど。

 ボクは、スピードを弱めもしなかったトラックに、思い切り撥ねられた。

 一瞬で意識はなくなり、それだけ。

 それで、ボクの物語は幕を閉じたんだ。


 でも、ボクは目が覚めた。

 目が覚めると、そこにはボクの写真が飾ってあって。

 みんな黒い服を着ていた。

 ボクの足は、地についてなくて。

 ああ、と、ボクは思った。

 ボクは、死んでしまったんだ、って。


 クラスメイトに、仲のいい子はほとんどいなかった。

 だから、泣いている子も確かにいたけど、でも、普通に話をしている子もいた。

 芸能人の話。アイドルの話。俳優の話。

 このあとどこに行くかの話。クレープの話。新しく買ったアクセの話。

 おかしいな、と思った。

 ボクは、大人になりたかった。

 大人になったら、たくさんの人をボクは笑顔にするはずだった。

 たくさんの人にボクは感謝されるはずだった。

 たくさんの命を、ボクは、救える。そんなふうになるはずだった。

 なんで? どうして?

 ボクがなにか悪いことをした?

 両親に内緒でまだ「ボク」って一人称をときどき使っていたから?

 クラスメイトの話にぜんぜん入っていかず、無視をしていたから?

 周りにいる、下卑た笑いをする人たちをずっと見下していたから?

 なんで? なんで? なんで? なんで?

 わからない。

 なにも、わからなかった。

 ボクの生きてきた意味は?

 ボクの生きていた理由は?

 ボクはなんのために、今日まで頑張ってきたの?

 音楽も聴かない。

 放課後も、遊びに行ったりしない。

 休みの日は、じゃらじゃらした格好で出歩いたりしない。

 なんで? なんで? なんで? なんで?

 ボクがなにか悪いことしたの?

 ボクは悪い子だったの?

 答えを聞きたかった。

 答えを知りたかった。

 だからボクは、お父さんのところへ行った。

 黒い服で、たくさんの人に囲まれていたお父さんの声が、一言だけ、ボクの耳に届いた。


 これで、跡取りがいなくなった。


 ――ああ。

 それが、ボクの人生。

 お父さんのため。

 本当は、たくさんの人のための人生のはずだったんだけど。

 そのための努力を、ずっとするつもりだったんだけど。

 なにも残らなかった。

 ボクには好きだったものも、自慢できるようなものもなく。

 医者を目指していた。

 違う、そうじゃないんだ。

 ボクは立派な医者になりたかったんだ。

 お父さんみたいに、たくさんの人を救って感謝されるような、そんな立派な人になりたかったんだ。

 どんなに疲れていても、どんなに大変でも、感謝の気持ちを伝えられると笑顔を向けられる。

 そんな人になりたかったんだ。

 でも、ボクは、彼らに笑顔を向けられた?

 クラスメイトにすら笑顔を向けられなかったボクが、他人に対して笑顔を向けられるのか?

 ――ああ、そうか。

 間違っていたんだ、ボクは。

 楽しいこと。

 心がワクワクすること。

 ドキドキすること。

 泥んこになって遊ぶのが大好きだった。

 お母さんに怒られても、舌を出してごまかしてた。

 ボクは。

 そういう、子供だった。

 楽しいことも、ワクワクすることも、ドキドキすることも。

 そのすべてを捨ててきたボクは、きっと、立派な人にはなれなかったんだ。

 ただ黙々と仕事をこなす人間なんて、世の中には必要なかった。

 あのお父さんだって、笑っていたんだ。

 ボクは、一切。

 笑って、いなかったんだから。

 間違っていたんだ、ボクは。

 この際だから笑えばよかった。

 もっともっと、笑って過ごしていけばよかった。

 友達と、クレープを食べて、カラオケに行って、アクセサリーで着飾って。

 そんなふうに、楽しめばよかったんだ。

 ボクの人生は。

 まったくの。

 無駄、だったんだ。


 トンネルをものすごいスピードで飛び出した感覚で、俺は正気に戻った。

 横を向く。

 彼女は窓の下の、笑顔の学生たちを見つめていた。

「ボクはさ、」

 そんな彼女が、口を開いた。

「それが正しい、って、思ってたんだ」

 重々しい口調の中に、少し嘲笑が含まれるような、そんな口ぶり。

「本当は興味あったよ。芸能人も、アイドルも、音楽も、クレープも、アクセも、なにもかも」

 それでも彼女は淡々と、ただ、口を開いて感情をぶつける。

「それをなにもかも我慢することが、正しいことだと思ってたんだ」

 でも、その感情をぶつける相手は、

「結果論、ではあるけどねー」

 俺しか、いない。

 その事実を確認するかのように、こちらを向いて笑顔を浮かべ、彼女はいう。

「ボクがあのまま医者になって、硬い表情で診療して、それでもま、よかったとは思うけど」

 今度は笑うように、くだけるようにいう。

「きっと、お父さんみたいにはなれなかっただろうね」

 少しだけ、上を見た。

「だからこれはきっと、当然のことだったんだよ」

 俺も空を見る。

 真っ青な空に、白い雲がいくつか浮かんでいる。いい天気だ。

「あのままボクが医者になっていたとしても、きっと、違和感をぬぐえなかった。そして、その理由ですら、ボクはきっと、気づかなかった」

 その、真っ青な空の雲の流れに、俺たちはいつの間にか取り残されていて。

「我慢したまま大人になって、ずっと我慢して生きていたって、きっと、ボクの望んだ立派な人にはなれなかった」

 一瞬だけ隠れる太陽が、わずかな影を作る。

 俺たちは、きっとその中心にいるのだ。

「ボクは、きっと」

 わずかな影が消え、光が突き刺さる。

 そんな、白い光に飲み込まれ、彼女は。

「間違っていたんだ」

 そんなふうに、呟いた。

「でも、日常をただ面白おかしく生きていたって、それはそれでどうしようもないもんね」

 急に明るい声を響かせる。

 先ほどまでの暗い表情とは違う、明るい表情で彼女は両手を上にあげた。

「ほどほどに勉強もして。ほどほどに楽しいこともして。なんだろ、バランス? なのかな」

 あはは、と笑いながらいう。

「間違ってたんだ、ボクは」

 先ほどと同じ言葉。それでも、先ほどとは違う、明るい声がそこに響く。

「ね、翔くんはなにになりたいの?」

 彼女は突然、こちらを向いてそう口にした。

 ずっと、彼女の語りを聞いていただけの俺はいきなり言葉を振られて少したじろぐ。

「どんな大人に。どんな職業に。どんな人間に」

 言葉は続いていた。窓の下へと視線を再びおろして、口にする。

「翔くんは、どんなふうになりたいのかな」

 その言葉は窓の外へと、笑顔で道を歩く、多くの学生たちへと向けられている。

 俺だけへの、言葉じゃない。

 それでも、俺は答えないといけなかった。

 彼女の言葉に答えられるのは、自分だけだから。

「……わかんない」

 でも、俺はそう答えるしかなかった。

 なりたい職業も、目標とする人物も、目指すべき道もない。

 俺は、きっと、俺たちは。

 まだ、なにもかも早すぎた。

「だよね!」

 それでも彼女は、それがさも当然のように口を開く。

「小さいころから医者を目指してますー、なんて猛勉強してる人なんて、つまんないよね」

 それは間違いなく俺が発した言葉だ。それでも彼女は彼女なりにそう解釈して、彼女らしい言葉を紡ぐ。

「きっと、笑顔を向けられたところで、笑顔になんかなれないよね」

 彼女は笑っている。

 人懐っこい笑顔で。

 かわいらしい笑顔で。

 それはきっと、彼女が本来、持っているものだ。

 その笑顔を持ってさえいれば、彼女は立派な人間になれた。なれたはずだ。

 それでも、彼女は、それを。

 否定した。

「だから、もっかいやり直します」

 窓の下を眺め、彼女は口にする。

「本当に立派な人間になる。勉強もするし、興味あることもする。いっぱい笑う。いっぱい楽しむ。そんな人生を、次は歩む」

 窓に片方の手を当て、少し目を細めて口にする。

「ま、生まれ変わったところで、いまのボクのことなんて覚えてないだろうけど」

 そして最後には、ちょっとだけおどけるように首をかしげてそういった。

「それがいいよ」

 俺は自然と、そんな言葉が口に出ていた。

「紀子さんは、立派だよ」

 そして次の言葉も、俺の口からすっと自然に出てきた言葉だ。

「今の俺よりも年下のはずなのに、そんなふうにいろいろ考えれて。立派だと思うし、大人だと思う」

 だから、恥ずかしかったけどその言葉は最後まで口にした。

 それは、まぎれもなく俺の本心だったから。

「にゃはは、惚れた?」

「惚れたかも」

 だから彼女の冗談には笑って答えた。答えられた。

 笑い声が、誰もいないこの空間にわずかにこだまする。

「じゃ、忘れないで」

 でも、次の言葉の音色は真剣だった。

「ボクはもう行くけど」

 真剣すぎて、視線を向けるのがわずかに遅れた。

「後悔しないで」

 彼女のほうへと視線を向けると、

「キミは、とっても優しい人」

 そこに、彼女の姿はなくて。

「とっても素敵な人」

 俺の心の中に直接、声が響く。

「立派な人になれる」

 俺はとっさに、彼女を探した。

「信じてるよ」

 右を見て、左を見て。

 窓の外を見て、下を見て、空を見て。

「とっても、楽しかった。ここ数日は」

 それでも俺は彼女を見つけることはできずにいた。

「ありがとう」

 だから、その、彼女の最後の声に対して、俺は。

 答えることが、できなかった。

「本当に、ありがとう」

 ただ、彼女の優しい微笑んだ表情と、わずかに手を振る、その姿は。

 俺の頭の中で、容易に想像ができた。

 それは、彼女の本当の姿だったから。

 泥んこになってもまだ遊んでいる、そんな少年のような女の子がそのまま大きくなった、そんな姿。

 彼女がきっと、本来なりたかった姿。

 なにもかも我慢して、なにもかも拒否して、なにもかも目を背けた彼女が、本当はずっと憧れていたそんな姿。

 ――鼻歌が聞こえた。

 音楽の授業でもよく聞く、その歌は。

 『翼をください』

 彼女の願いは、叶うのだろうか。

 そうであってほしいと願う。

 だってそれは。

 彼女の人生から考えると、実に些細な願いだから。

 俺はそんな懐かしい歌を、空を見上げて、歌詞を紡いだ。


 いま わたしの 願いごとが 叶うならば 翼が ほしい


 その、へたくそな俺の口にした歌は真っ青な空へと吸い込まれるかのように。

 消えていった。


 少しの時間が流れた、とある日の休日。

 俺は、街の図書館へと出かけようとしていた。

「どうすんだよ、このアクセ」

 少しだけ山になっているシルバーを見て俺は息を吐く。

 まあ、気が向いたらつけてみるのもいいかと思う。そのひとつ、ブレスレットだけをつけて、俺は勢いよく外へと飛び出す。

 図書館に来たのは、ふと気になって、紀子さんの事故の記事を調べてみたくなったからだ。少し古い新聞に、その記事はあった。

 そして、彼女のご両親のことも調べてみることにした。

 いま、ご両親は病院をほかの人へと譲り、事故や病気で家族を亡くした人の、精神的なケアに力を注いでいるらしい。

 彼女の両親は決して冷たい人ではない。

 その期待に、全力で、紀子さんは答えようとした。

 自分自身を否定してまで。

 今、彼女のご両親は必死に自分の娘の事故から立ち直ろうとして、そして、同じく心に傷を負った人たちに寄り添っている。

 それがわかっただけで、俺は満足だった。

 図書館を出る。ちょうど、昼時だ。

 目の前を数羽の鳥が羽ばたいていった。

 まさか彼女は鳥になったのではないだろうか、なんて、考える。

 それはそれで彼女の望みはかなったのだから、いいと思うか。

 人として生まれ変わることができなかったのが、残念と感じるか。

 どちらも間違っていると思った。

 なにを考えているんだか。ちょっとだけ、俺は笑みを浮かべる。

 俺は、立派な大人になれるだろうか。

 これからどんなふうに道を歩めば、俺は胸を張って歩いていけるのだろうか。

 未来なんてわからない。

 どうなるかなんて、予想もつかない。

 それでも、俺は。

 俺の体に、翼はない。

 この大空に翼を広げて、飛んでゆくことなんてできない。

 だからこそ、この足がある。

 一歩一歩、俺は前へと進めるはずだ。

 そこに、彼女が夢見たような、立派な大人になる道があるのだろうか。

 わからない。

 わからないけど、俺は進む。

 翼がない代わりに。

 俺は一歩ずつ、足を踏みしめて前へと進むんだ。

 ちょうど、大学の近くを帰りに通る。

 今日の昼は学食で済ませようと思った。俺は休日の大学へと、足を向けた。

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