第3話「回想:相沢芽衣」

「ねぇ、お兄さん」


 少女と出会った夜は雲一つない満月の夜だった。

川のせせらぎの音がやけに綺麗だった。

鈴虫の鳴く音も綺麗だった。

雲と言う遮断物がなく、無限に広がる星空も綺麗だった。


「今、幸せ?」


 そう問いかけた名も知らぬ少女は転んだら折れて死んでしまいそうな細い身体、熱を持たないかのような青白い肌、美人であることを全て台無しにしてしまうほど虚な、そんな瞳をしていた。彼女だけがこの空間の中で明らかに異物。


 だが、俺の目には何よりも美しい物のように思えた。



 ふと我に帰る。

 二人で河原に腰を降ろし、素性も知らない少女に身の上話をしてしまっていることにようやく気づいた。


「お兄さん?」


 話を止めてしまったせいか、彼女は心配そうな声で訪ねてくる。警察官でありながら明らかに未成年であろう少女とこんな夜遅くに、それも身の上話をした。後悔と自責の念が押し寄せ、思考が一気に加速する。


「ご、ごめんな。変なこと聞かせて。ほら、もうこんな時間だ、補導される前に家に帰るんだ」


 一方的にそう言って、足早にこの場を立ち去ろうと立ち上がり、彼女に背を向ける。

 すると、彼女は短く「お兄さん」と俺を呼び止めた。

 何故か惹かれるその声色に、俺は一歩踏み出した足を戻す。


「久しぶりに楽しかった。私、今、幸せかもしれない」


 いつ振りだろう、氷の様に冷え切った心に陽が差した気がした。

 忘れていた感情が芽生えるような、そんな感覚に陥る。


「私、いつもここにいるから。だから、ね?」


 振り返ることも、頷くこともしなかった。

 それをしてしまえば、もう戻れない気がしたからだ。


 少女と別れて重い足取りを引き摺って家に戻る。

 中は暗く、静まりかえっていた。作られた料理は鍋やボールの中に放置され、乱雑にラップがかけてある。

 妻、愛依はとっくに寝てしまったのだろう。

 新婚の頃は俺が仕事から帰ってくるまで寝ずにご飯を用意して待ってくれていた。

 常に俺に向けて話題を振ってくれていた。

 愛依は俺を愛してくれようと頑張ってくれていた。

 だけど、俺にその気がなかった……愛依の事は都合の良い家政婦としか思っていなかった。そんな俺の気持ちが伝わったのか、徐々に俺と愛依の距離は離れて行った。

 俺は、それでもいいと思った。俺が求めた存在とはそんな者だ。


 そんな考え事をしながら、最低限の灯りの中で夕飯の準備をし、手を合わせる。


「いただきます」


 今日の夕飯はカレーとポテトサラダ。どちらも俺の好物。


「不味い」


 味は美味しいのに、この言葉が出てきてしまったことに自分でも困惑する。この組み合わせを一人で食べたことは以前にもあるが、こんなことは思わなかった。一体何がいつもと違うというのか。きっと疲れているだけだ。さっさと食べてゆっくり休もう。明日もみんなに望まれる明るく熱血な警部補、川村正義でいられるように。



「また来てくれたんだ」

「たまたま帰り道でここを通るんだよ」


 ぶっきらぼうに言い訳にもならないような強がりを返し、俺は彼女の隣に腰を降ろす。前に会ってから三日も経っていないというのに、随分と久しぶりな気がした。


「それから奥さんとはどうなの?」


 他人から滅多に指摘されないようなことを堂々と聞かれてしまうと羞恥心が湧きそうなものだが、純粋に投げかけた少女の好奇心だからなのだろうか、そんな事は全く感じなかった。


「相変わらずだよ、ここ数日は顏すら合わせていない」

「へぇ……結婚ってもっと幸せになれるものだと思ってた」


 残念そうでもなく、ただ受け入れるように少女は零す。


「夢みたいなもんだよ、覚めたら現実しか残らない」

「じゃあさ、お兄さん──」


 覆い被さるように、少女は俺に身体に跨る。

 そして――


「私と夢を見ようよ」


 有無を言わさず唇を塞がれる。

 すぐさま理性が働くが、俺の本能の前では欠片も残らなかった。少女から流れ落ちる液体が毒のように心を痺れさせ、身体から力が抜けていく。


「ねぇ、私の事好き?」


 長いキスを終え、少女は俺にそう問いかける。

 一刑事として、一大人として首を横に振るのが当然だが、毒に侵され、心が痺れた俺は思考までも支配されたかのように、選択肢を得る事ができなかった。


「じゃあ、しよ」


 そして、少女と身体を重ねた。

 名前も知らない、歳も知らない、出会って三日しか経っていない少女を。

 だが、その事実全てが更に快楽を掻き立てていた。


 それから、俺達は毎晩会うようになった。

 そして、その日の出来事について語った。だが、少女は俺の話を聞くだけで自分の話はしなかった。聞こうとする度に彼女は決まって「そんなの良いから、早く」と返すため、俺もそれ以上聞くことができなかった。

 だが、それに安堵している自分もいた。彼女から感じる闇の部分に触れたくなかった。夢を見ていたかった。


 そして、会う度に俺は少女を求めた。

流石に河原では色々と都合が悪いと思い、申し訳ない程度に人の目を避けられる近くの橋の下で少女を抱いた。


「ありがと、お兄さん。私ね、今、幸せ」


 一連の情事が終わると、決まって少女はそう言った。少女が求めるなら応じる、願うなら叶える。名前も年齢も知らない少女に惚れているなんて、自分が壊れていることぐらいとっくに承知の上だ。


 承知の上だが……それでも、良かった。


 それから半年ほど経ったある日のことだった。


「デート?」


 いつもの様に少女を交わり、いつものように決まった言葉を言われ、あとは帰るだけだと着崩れた服を直していると、予想外の提案を投げられた。デートなんて呼ばれる行為は久しぶりで、照れるというか、嬉しい限りだが、二人で歩くとパパ活とでも思われそうで不安に駆られる。少女の年齢は知らないが、俺よりも圧倒的に若いことだけは分かる。恐らく未成年だという事も。


「うん、明日おやすみでしょ?」

「まぁ……そうだけど」

「平日だから人も少なそうだし、少し遠いところに行けばきっと大丈夫だよ。だから、ね?」

 小悪魔のような声でそうねだる少女の申し出を断れるわけもなく、俺は了承する。あまり感情を表面に出さない少女は、いつになく嬉しそうに微笑んでいた。


 翌日のお昼過ぎ、俺と少女は地元から30分程離れた繁華街の駅で待ち合わせた。


 浮気の痕跡を残さないように連絡先を交換していなかったため、無事会えるか不安だったが、俺が待ち合わせ場所に着くと、少女は既に到着して、俺の事を待ってくれていた。


「ごめん、遅くなって」

「まだ、待ち合わせ時間じゃないから謝らなくて良いのに。お兄さんのそんな律儀なところ、好きだよ」


 初めて少女の口から告げられる純粋な好意に自然と顔が綻びてしまいそうになるが、なんとか耐える。 

 行為中に言われることは何度もあるが、面と向かって言われると破壊力も増す。


「さて、提案が……ううん、決定事項を発表します」

「うん? 何だ急に」

「私と今日は恋人みたいに過ごすこと」


 そう言って、少女は俺の腕に抱きついた、かと思いきや、すぐさま俺の腕を引っ張り、勝手知ったかの様にズンズンと道を進む。

 どうやら自分の行きたい店はチェック済みの様だ。

 流石は都会というべきか、次から次へとお洒落な店が現れては過ぎていき、現れては過ぎていく、そんな情景の中、売られている小物の話や、街頭モニターに映っているアイドルの話、俺に対する質問、そんなごくありふれた会話を交えながらデートはつつがなく進んでいく。


「お兄さん、こっち来て」


 少女に誘導されるようにベンチに座らされると、少女は自然な仕草でスマホを構える。だが、俺はというといつもの癖で顔を背けてしまう。


「写真嫌いなの?」

「嫌いってわけじゃないんだが……滅多に撮らないから小っ恥ずかしくてな」

「それじゃあ、我慢して。今日のことを一生の思い出にするから」

「大袈裟だな……」


 そう言うと、少女はわかりやすくムッとした表情を見せる。


「わかった、ほらちゃんと一緒に撮るから」

「分かればよろしい」


 こうして、俺は初めて少女とのツーショット写真を収めた。

 写真に満足した少女は、次に「お兄さん、あの店行きた」と指を差す。


 そこは、洋食店の様なつくりで近づいてメニューを確認すると、どうやら看板メニューはオムライスのようだった。


 俺の好きなカレーもあるので、断る必要もなく言われるまま入店し、席に着く。

 メニューを注文した後、俺は目の前に座っている少女を改めて観察する。

 明るい場所でこうして向かいに座ると、少女は改めて美人なのだと認識する。

 確かに幽霊のような青白さと人を近寄らせないという威圧感はあるが、それを差し引いても美人であることに変わりはない。いや、それが逆に少女の魅力を際立たせているのかもしれない。

 そんな子が、なぜ俺なんかに身体を委ねているのだろうか。だが、それを聞いてしまえば少女はそのまま俺の前から消えてしまいそうで、聞けない。


「どうしたの? お兄さん?」

「いや、なんでもない。ただ……」

「ただ?」

「綺麗だなって」

「私……綺麗かな?」


 自信なさげに、恐る恐る少女は尋ねてくる。


「うん、俺には凄く綺麗に見えるよ」

「……そっか」


 静かにそう呟く少女の声には安堵ではない別の何かが含まれているような気がした。


 オムライスを平らげ、店を出る頃にはすっかり日が暮れていたが、時計を見るとまだ八時だった。


「どうする? まだ見たいところある? それとも帰る?」

「あと一ヶ所だけ、行きたいところがあるんだ」

「じゃあ、そこに行こうか」


 再び少女に腕を組まれ、少女の目的地へと歩みを進める。

 俺はあまりこの辺に来ないので、地理感がないため、少女に身体を委ね引っ張られる方にただ着いていく。


「行きたいところって、ここ?」


 そう尋ねると少女は無言で頷く。

 今日のデートの終着点はホテルだった。なんだか妙な気恥ずかしさを感じるのは、俺の目に映るのがただのホテルではなくラブホテルだからなのかもしれない。

 今日はとことん少女に付き合うと決めた俺は、「分かった、入ろう」と少女に返し、今度は俺が少女の腕を引っ張ってラブホテルの中へと入っていった。


 チェックインを済ませ、先に身体の汚れを流し、ベッドで少女がお風呂から上がって来るのを待つ。


「お待たせ、お兄さん」


 少女は素肌のままバスローブを纏っており、部屋の雰囲気と相まって漂う妖麗さに引っ張られ、無言のまま、口づけを交わす。いつもよりも長い口づけを終え、少女のバスローブを脱がせ、一糸纏わぬ姿のままベッドに押し倒し、少女の身体の至る所を愛でる。

 そして、頃合いを見て枕元にあるゴムを取ろうと手を伸ばすが、それを遮るように少女は俺の腕を掴む。


「今日は、大丈夫な日だから」

「いや、でも……」

「もう我慢できないから、お願い……そのままで」


 潤んだ瞳で懇願され、耐えきれなくなった俺はそのまま少女の中へと入っていく。


「おに、ううん。正義さん……もう一つお願いがあるの……」

「お願い……?」

「うん……名前で……芽依って呼んで欲しい」

「……芽衣」

 

 奇しくも妻と同じ名前だった……。

 初めて口にする少女の名前に、違和感を感じると思ったが、妻の名前と同じからなのか思いのほかしっくりきた。


「うん……正義さん……来て」


 その日の芽依は一際激しく俺を求めた。

 時間も忘れて、お互いの欲が枯れ果てるまで、何度も何度も俺と愛依は互いに求め合った。


「正義さん……私……すごく幸せ……」


 最後の一回を終え、俺の胸元に顔を埋めながら芽依は甘い声でそう呟く。

 いつも、口癖の様に聞かされていたその短い言葉が、やけに俺の心を満たしてくれた。

 とうに日付は変わっており、帰るどころか指先一つ動かす元気すらも残っていない。

 まぁ、もう終電もなくなっただろう。これからどうするかを考えるより、ただ、俺の胸元で感じる温もりをどうすれば離さずに済むかを考えてしまう。


「ありがとうね、正義さん。楽しかった」

「俺もだよ、芽衣」


 芽衣を離したくない。

 これからの俺の人生を芽衣に捧げよう。

 俺はそう誓い、芽衣を抱き寄せそのまま眠りについた。

 

  

 喪失感を感じ目が醒める。

 俺の隣に、芽依はいなかった。

 上半身だけを起こし、俺は辺りを見渡した。

 芽衣は見当たらない。人の気配一つしない。


「これは……」


 芽衣の代わりのように枕元に一通の手紙が置いてあった。

 嫌な予感がした俺は、恐る恐るそれを開いた。


『正義さんへ


 おはよう。良く寝れた?

 これから先、私が正義さんに会うことはないと思うので、ここに全てを書いておこうと思います。

 私の本名は相沢芽衣、歳はもうすぐ十八になります。父親は私がまだ小さい頃に余所に女を作って出て行きました。それからは母と二人で過ごしていたのですが、四年ほど前、母は相沢健二という男と再婚しました。ですが、程なくして母は失踪しました。後になって分かったのですが、母は闇金から借金をしていて、その返済のために再婚という形で娘である私を売ったんです。それから、私は義父である相沢健二の性欲処理の相手になりました。昼は学校に通い、夜は義父の相手をする。そんな狂った日常を送っていると、次第に人の目が怖くなりました。いつこのことがバレてしまうかを考えるだけで怖くてたまらなかった。

 誰にも相談できないまま、私は学校に行くことをやめました。

 日中は義父は仕事で家にいなかったため、家に籠って必要最低限の勉強はしていました。一応、自由になれた時のために準備だけはしていたかったんです。ですが、そんなことを義父は許さず、家で客を取る様になりました。一日中客に好き勝手弄ばれ、それが終わったら義父に……毎日のように死にたいって思った。

 だけど、それも怖くてできなかった。

 1年くらい前から、私はあの河原に行くようになりました。あそこはあんまり人がいなくて、静かで、私が唯一自由になれる場所だったんです。

 そんな中、正義さんに出会いました。スーツを着て、右手には指輪をしているのに、顔がどこか暗かった。普通の幸せをつかんでいるはずなのに、幸せそうには見えなかった。だから、声をかけました。思った通り、正義さんは幸せじゃなかった。この人も私と一緒で真っ暗な世界を生きてるんだと思いました。

 次にあった時には私を必要としてくれるんだって思って、嬉しかった。次第に正義さんを愛おしく思い、そんな愛しい人正義さんに抱かれる時は純粋に気持ち良かった。河原に来る前も、帰った後もそういう事をしていたけど、正義さんとの時だけが気持ち良かった……。

 それに、正義さんは私のことを何も聞かなかった。

 義理の娘でも、娼婦でもない……正義さんの前ではただ女の子でいられたことが救いでした。

 過去は真っ暗で、未来は不鮮明。だけど、正義さんと一緒の「今」だけは幸せでした。


 だけど、もう終わりです。


 一度だけ危険日に酔ったあの男に……、その子が私のお腹にいます。

 あんな最低な男の子を孕んだと考えるだけで、もう我慢できませんでした。だけど、最期に正義さんとデートに行きたい。ただの普通の女の子として、正義さんとデートがしたい。そう思って正義さんを誘ったんです。人生最期の一日、最高に幸せな思いを抱いたまま私は死にます。

 半年間でしたが、正義さんといた時間はとても楽しく、幸せでした。

 ありがとう、愛してる。

                                    

                                          芽衣より』


 手紙を読み終えた俺から、涙と共に様々な感情が溢れ出す。


 俺は、すぐさまホテルを出て芽衣の後を追いかけた。


「どこだ! どこに行ったんだ!」

 

 早く! 早く芽衣を止めないと!

 いくつもの曲がり角を曲がり、辿りついた先には不自然な人だかりが出来ていた。

 俺は、直ぐに感じ取った……あそこに芽衣がいる、と。


 案の定、俺の視線の先には、変わり果てた芽衣の姿が映し出される……。

 とめどなく流れる涙を止める事が出来ない。


 そして、俺は踵を返しその場から離れた。


 いつの間にか、昨日芽衣にねだられて撮った二人の写真が俺のスマホに送られていた。

 数時間前には、俺の隣にいたのに……。


 自然と「俺も……愛してる……」という言葉が口から洩れる。


 芽衣に向けて発した言葉と共に感情が一つに固まる。憎悪という感情に。

 この手紙を公表して、相沢を逮捕するという考えも浮かんだが、そんなものでは生温い……。


「俺が地獄の果てまで追い詰めて……殺してやる……!」

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