門の先は玄

惟神《かんながら》

「ねぇ、死んだらどうなるんだろね」


 病室の窓から見える青空を飛行機雲が一直線に横切る。まるでドラマのワンシーンみたいだ。

 僕は黙って、彼女の手を握りしめる。


「…安心して死ぬために、宗教って必要だったのかな」


 部屋の隅で空気清浄機が控えめに稼働している音が聴こえる。病室の中に風はない。

 少し寝癖のついた白い髪は、彼女がここに居ることを証明しているように思えた。そこに瑞々しさがなかったとしても。


「神道では子孫を守る神様になるだって」


 みんなに愛された赤い頬。寝たきりの今は青白く、あの日の艶も張りも失われてしまった。感情の溢れ出したような明るさはもうなく、固いそこから彼女の想いは読みとれない。


「仏教だったら仏様になって、ヒンドゥー教なら生まれ変わるんだよ」


 女でひとつ。身を粉にして、僕らを育ててくれたお母さん。実家の飲食店をひとりで切り盛りして、回していた。お店は僕が引き継いだものの、「暇だから」と言って、いつもニコニコしながら厨房で肩を並べていたお母さん。料理の腕も、接客も彼女には未だに敵わなかった。


 ただ先日ちょっとつまずいて、彼女は足を骨折してしまった。

 そのあと、安静にしなければならなかったのが、よくなかったのか。その入院をきっかけに認知症が悪化した。

 以前から、症状がなかったわけではないけれど。

 ほんの少し前まで、僕と一緒にお店に立っていたのに…。 


「そういえば、ちょっと前にインド人の団体客が来たんだよ。びっくりしちゃったなぁ

 知らない言葉が飛び交って、お店が外国になったみたいだったよ」


 インド人のお客さんなんて、僕が店長になってからは一度も来ていない。

 彼女はだんだん過去へと還っていく。お店も僕も、置いてきぼりに。


 いつか僕のことも忘れるのだろうか。


「…――っ」

 溢れた僕の寂しさは、言葉どころか、息にもならずに、身体の中を血と一緒に流れる。あふれる不安が血を追い越して、ゆっくり逆に流れだした。

 息もうまく吸えなくなって、開いた口をゆっくり閉じた。

 そんな僕に気づかない彼女は、いつものように優しく尋ねる。以前のような元気はなくても。


「キリスト教だとどうなるの?」


『天に続くは狭い門』

 僕の口は閉じたままで、モゴモゴ動いた。彼女は静かに応えを待っている。でも、開けてしまえば、何かを無くしてしまいそうで。

 だけど、彼女に届けたくて。

 思考と視界がぐにゃぐにゃに歪んだ。溢れた滴が頬を伝う。


「…ありゃま。どうしたの?…いい歳した大人が何泣いてるの。もう…」

 困ったように微笑んで、彼女は僕の顔をティッシュで優しくぬぐう。


「…ごめんねぇ」

 一瞬、弱々しい瞳の奥には小さな光が見えた気がした。決して消せない灯火ともしびが。

 だけどそれは幻で、きっと僕が息子ということすら、分かっていない。

 こちらを見つめる黒い瞳。いくら覗き込んでも真っ暗なそこに、もう僕は映らないから。


「ゆたか」


 突然、母が僕の名前を呼んだ。

 心が晴れたような気持ちで顔を上げる。

 しかし、彼女は僕を見ていなかった。視線の先には僕の子、“ときお”。

「今日は学校どうだった?」

 優しく語りかける祖母に、困惑する彼はポツポツこたえを返す。

 寂しいような、申し訳ないような気持ちの僕は、ぐっと曲がった彼のの字口に、ふと病院に訪れる前の会話を思い出した。


******************************


『おばあちゃんは認知症っていう病気でね、最近のことが覚えられなくなってるんだ』


『あ!認知症って知ってる!

 あれってさぁ、何か夢を見てるみたいだよね』


『夢?』


『うん!夢も昔のことを思い出すし、本当のこととは別だから』


『なるほど。でも、それならお父さんはおばあちゃんに早く起きて欲しいな』


『駄目だよ、無理に起こしちゃ』


『どうして?』


『きっと疲れてるから、寝てるんでしょ。

 元気になったら、目を覚ますよ』


******************************


 疲れて寝ている祖母に、彼は付き合うつもりなのだ。彼女の見ている夢のまにまに。

 自分の哀しみはその小さな身体からだに押し込めて。


 その姿に、じんわり胸の中で熱が生まれるのを感じた。

 あぁ、そうか。あぁ、情けない。僕はいつまで母に頼っているのだ。

「あら、どうしたの?ゆたか」

 何度も父親の名前で呼ばれて、少し泣きべそをかきそうになっている我が子の背中を優しく撫でる。


『子どもは教えてくれるものだから』


 いつかの母の言葉を思い出し、僕は背筋を伸ばした。


 …母のような光でなくとも、僕の中にも。ほんの少しでも熱があるなら。


 再び滴が流れ落ち、僕の視界は世界を映す。


 白い個室に母、僕、“ときお”。僕の先には母がいて、“ときお”の先に僕がいる。

 さきに進みたいのなら、たまには自分を見返そう。愛しい鏡我が子がここにいるから。それはこういう昔の面影ことではないけど。

 僕は何だか笑いがこみ上げて来てしまった。


 昔の世界を見ている彼女も、心は変わらず母なのだ。


 …どんなに年を重ねても、いつも今が一番好きでした。

 ぐしゃぐしゃの顔を拭って、鼻をかんだ。大きな音が部屋に響き、クスクス笑いが後に続く。

 窓の外の青い空。鮮やかな色が現実だった。…多分、明日もいい天気。

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