赤い部屋 3
翌日の放課後、亞美は再び文学サークルの部室を訪れると、玲汰は隅っこで本を読んでいた。昨日と変わらず、彼以外に人はいなかった。
部室の戸締りを急かすと、玲汰は顔をしかめながらも急いで準備をしてくれた。
「お前、なんかヤニ臭いぞ」
「女の子に臭いとか言うなや」
実際ここへ来る前に二本吸ってきた。これから“霊を視に行く”と思うと、そわそわして仕方なかった。
亞美は後輩にもらった相談相手である片尾百子のアカウントに「今から向かう」と連絡しておいた。どうやら後輩自身は今回同伴せず、百子とその友人の長田奈津美という子が来るとのことだった。百子の住まうマンションの最寄り駅で待ち合わせる。
百子の家はここから電車で四駅ほどの距離で、着くころには五時を過ぎる見立てだ。
道中、玲汰は自分からは全く会話を振らず、電車を待つ間も、電車で移動している間もずっと気まずい空気が流れていた。
「……ホラーとか、好きなの?」
沈黙に耐えかねた亞美が、苦し紛れに話題を振る。
「まぁ、うん。そう」
「へぇ。例えばどんなの?」
「ひき子さんとか」
「えー、知らない」
「そう」
「……」
会話が全く続かない。向こうは会話するつもりがなさそうだし、そもそも面倒臭がっているようにも感じる。
「ひ、ひき子さんって、どんなの?」
「死体をひきずる女の人」
「へ、へぇ……やば」
“死体をひきずる女の人“が好きって、ヤバい奴じゃん。
亞美は思わず口角が引きつってしまった。
……どうしよう。
まだ三駅もあるのに、もう何を話せばいいのか分からなくなってしまった。そもそも自分が苦手な物を好んでいる相手にどう話を振ればいいのか分からない。というより、どんな話題を振ったところで彼の反応からするに同じような結末を辿る気がする。そもそも会話をしたくないのかもしれない。
そこで亞美は気づいた。どうして自分がこんなに気を使わなければならないのか。その思考に至ってから、亞美も口をつぐんだ。
そうして、つり革と一緒に電車に揺られながら二駅目を過ぎた頃、
「隣。居る」
一瞬、誰がそう言ったのか分からなかった。
左隣の玲汰の方を見ると、ちらりとこちらを見た。顎で反対側を指した。
言われて、右隣へ視線を移すと、そこに真っ青な顔をして口から白濁の液体を垂れ流している男性が居た。
ついさっきまでは気にも留めていなかった存在。周囲の人が一切注目しないところを見るに、霊だろう。
そう気づくや否や途端、額から冷や汗が滲んできて寒気を覚えた。
「アンタも、視えるの」
「臭いだけ。うっすらと感じる」
それを聞いて、少し安心した。ほんのりと胸の奥で温かくじわりと滲むような感覚が広がる。それはきっと、初めて自分と同じ種類の人と出会えた事への感動と親近感なのだと思った。
彼を見上げる。亞美よりも頭ひとつ分背が高い。ちらりとこちらに視線を向けた玲汰。目が合い、すぐに逸らされた。やはり彼は童貞だと思った。
***
駅に着くと、百子から「一番出口で待っています」とメッセージが来たので、改札を抜け、足早にそこへ向かった。
「あなたが片尾百子? と、長田奈津美?」
二人を見たとき、一瞬、本気で女子高生の霊だと思って声を掛けるのをためらってしまった。というのも、彼女らがまとう雰囲気が、あまりにも暗かく陰鬱だったからだ。
制服にカーディガンを羽織っていて、奈津美は短髪の日に焼けた肌で見た目だけは活発そうだ。おさげの百子は対照的に白い肌をしていた。そのどちらもが、目の下にくまを作っていて、一般の人が見ても分かるくらい負の要素を滲みだしていた。
これは霊が自宅に居るというプレッシャーによるものなのか、あるいは霊による干渉によるものなのか。
「はい。今日はわざわざ来ていただいてありがとうございます。そちらは……」
百子は丁寧にあいさつをすると、亞美の隣に立っていた人物の紹介を求めた。
彼女らの暗さを気にした様子もなく、
「風間玲汰。相羽が怖いって言うから来た、ただの付き添いだよ」
と言った。
「は? 怖いなんて一言も言ってないでしょふざけんな」
脛を思いきり蹴飛ばすと、面白いくらいに大げさなリアクションで痛がってくれた。
「仲いいんですね」
百子は上品に笑った。昨日初めて話したばかりだと言っても信じてはくれなかった。
マンションに向かいながら、玲汰の事は亞美が説明した。ホラー小説を出していて、そういう心霊関連の知恵を貸してもらう目的で同伴してもらっている、と。
説明している間も玲汰は無口で、百子と奈津美もあまり口を開かなかった。後輩に聞いた限りでは、二人ともこんなにも暗い人物ではなかったはずなのだが。
場を持たせるため亞美だけが喋り続けた結果、玲汰に“お喋りパンク”というあだ名を付けられるハメになってしまった。黒いパーカーにシルバーのアクセサリー、黒のダメージジーンズを履いている上にバンドまで組んでいるということでパンクらしい。
亞美は玲汰の脛を折る勢いで蹴り上げてやった。
途中、玲汰と電車に乗っているときも今こうして四人で歩いているときも、どうしてこんなに自分は空気を気にしているのだろうとやるせない気持ちになってしまった。
十分ほど歩いた末に辿り着いた場所は、立派な二十階建てのタワーマンションだった。綺麗な外観は建って間もないであろう事を感じさせる。
オートロックの玄関を通りエントランスを抜けて、エレベーターに乗り込み三階へ向かう。
その間、自分の住むマンションとの違いに感嘆していたが、三〇一号室へと入った途端に気分は一変した。
亞美は思わず手で鼻と口を覆った。
まるで針で突き刺されたような感覚が鼻の奥を刺激してきたのだ。強い腐敗臭が、片尾家の部屋に充満している。
百子と奈津美の二人は何も感じていない様子で、玄関で靴を脱ぐと廊下へと足を踏み入れてゆく。
「大丈夫か」
玲汰がそう言って、ハンカチを差し出してくれた。
亞美はそれを受け取ると、それを使ってすぐ鼻と口を塞いだ。
ハンカチから爽やかな甘い香りがする。完全にこの臭いは防げないが、無いよりはマシと思った。
「……タバコ吸って来ていい?」
「ごめんなさい、うちはダメで、この建物も共用スペースは全面禁煙なんです」
百子が申し訳なさそうに言う。
「……アンタは何にも臭わないの」
「アロマの香がする。それと、獣臭と、生ゴミの腐ったような臭いも」
玲汰は言った。
わずかながら感知はしているようだが、やはり亞美ほど敏感ではないようだ。とは言え、自分だけが異常を感じているわけではないと分かって少し安心した。
この部屋はビルの外観に違わず内装もきれいで、普通に遊びに来ただけならばきっとワクワクした気分で訪問できただろうが、この不快な臭いの前にはどんなに美しいものでも霞んで見える。
「こっちです、リビングに出るので……」
玄関の正面に続く短い廊下の先に、例の“男性の霊”が出るというリビングがある。
「お邪魔します」と玄関を上がって、百子にリビングへ招かれる。
リビングに近付くにつれて臭いは強くなっていった。ドアの前に立つ頃には鼻が腐り落ちてしまいそうなほどで、痛みまで感じ始めていた。
中へ入ると、正面に誰かが立っているのが真っ先に目に入った。明らかにこの場にそぐわない存在感。
右手にアイランドキッチン、左手にテーブルとその奥に大型の液晶テレビ。こんなマンションに住んでいるからにはきっと裕福な家庭なのだろうと伺えるが、その中に異様なものが混じっている。それは、亞美が今まで視てきた、日常の中に溶け込んでいたどの霊とも異なった雰囲気を纏っていた。
背を向けたそれは亞美たちが来た事に気づいていないのか、動く気配はない。
ただ一点を見つめて身動きのしない亞美に、百子は口を開いた。
「あの……何か視えますか」
不安気に尋ねる百子は、奈津美の腕にがっしりとしがみついている。よっぽど怖い思いをしたようだ。
質問にイエスかノーで答えるなら、イエスだ。視えるし、そこに居る。玲汰も、それがうっすらと感じられるようだった。ただ、どう返答したものか……。
そこに居るのは、白いシャツにジーンズを履いて、青いエプロンを付けた中年の小太りな、恐らく男性だ。彼は正面にある何かをじっと見つめている。
亞美は玲汰にだけその事を伝えると、男性が何を見ているのかを確かめるために彼に近づいた。
彼の正面には棚があって、その上にいくつかのフレームに入った写真と、植木鉢がある。土からは緑色の芽が青い葉を広げていた。
「片尾さんは、猫でも飼ってんの?」
突然、玲汰がそんな質問を百子にした。
「いえ、えっと……今は飼ってません。前は居たんですが、去年亡くなりました」
玲汰が植木鉢の裏側を指さした。覗き込むと、無数の細かいひっかき傷がついていて、削れた粉が棚に小さな山を作っている。まるで猫が爪を研いだような跡だ。
亞美はふと、足元に何かが触れたような感触がして視線を落とした。見ると、そこには灰色の毛をした猫が居た。が、今の百子の話から察するに、恐らく本物ではない、猫の霊だろう。それは、中年男性の霊に向かって牙をむき出しにしていた。鋭く唸る息遣いが聞こえてくる。
「多分、警戒してるんだね」
その猫の霊は、棚に飾られた写真に写った猫と同じ柄で、おそらく同一の猫だろうと思われる。植木鉢のキズはこの子がつけたものだろう。危険だと知らせているのかもしれない。
「この植木鉢はどこでもらったの? 最初からこんな傷があったわけじゃ……ないよね」
「近所の商店街の裏にある花屋さんでもらったものです。奈津美に教えてもらって。奈津美も、そこでもらった花を育てています」
「店の人はどんな感じだった?」
「四、五十代くらいの男性で、無精ひげを生やしていて、不愛想で……でも、そんなに悪い人ではなかったです」
加えて服装の特徴も聞いたところ、亞美はぞっとした。それらの特徴は全て、今ここに居る霊に当てはまっている。
百子自身は夜中の暗がりに彼を見た為に風貌についてはあまり認識できていないようだった。彼女は、花屋の男とこの霊の共通点には気づいていない。
この植木鉢を百子に譲った男性が今、まさにここに居る。霊として。
玲汰にこの事を伝えると、
「じゃあそこに居るっていう男性は、生霊か……?」
呟くように言って、考え込みはじめた。
「長田さんの家には霊とか、何かヘンなものは出ないのか?」
「……」
「長田さん?」
「あ、はい、なんですか」
玲汰の質問が耳に入って来なかったのか、ぼうっとしていた奈津美。眠そうなわけでもなく、心ここにあらずといった様子だった。
「ウチには……出ないです」
二人とも同じ花屋で球根をもらって、霊は百子の家にだけ出没しているということになる。
「なぁ、おしゃパン。おれにははっきりと視えないから、代わりに、そいつがどこを見ているのか教えてくれないか」
「おしゃパンってのやめてよ。ていうか、どこって、植木鉢じゃないの……」
言いつつ、霊の視線の先を追った。やはり、植木鉢──いや、違う。視線の先は植木鉢からは少しずれていた。
恐る恐る顔を覗き込んで、どこを見ているのか伺う。不意に目が合うのではと緊張したが、男性は瞬きもしなければ視線も一切動かさなかった。
彼の視線の先にあるのは、写真だった。百子が写った写真。この男性の霊は、百子の写真をじっと見つめている。
「写真だよ。この男性が見てるのは、この写真」
亞美が写真を指して玲汰に伝えた。
その時だった。
ぞわりと、悪寒がつま先から頭のてっぺんまで走りぬけた。
鋭い視線を感じて隣を見ると、男性が目玉だけをぎょろりとこちらへ向けて、亞美を睨みつけている。
動機が激しくなり、顔がこわばった。
「そうか。これをもらってからだよな。夜中に男性の霊が出るようになったのは」
「言われてみれば……確かにそうです」
亞美以外には男性は視えていない。亞美の様子にも気付かず、二人は会話を続けている。
亞美は男性の様子を伺いながら、百子の写真を指した手をゆっくりとひっこめた。すると、彼の視線はまた、写真のほうへと戻ってゆく。
気付けば、額と首元に汗をかいていた。構わず玲汰のハンカチでぬぐう。
「やはり元凶はこの植木鉢ってのが濃厚だな。相羽もそう思うだろ」
「え、ああ……うん、そうだね」
「どうかしたのか?」
亞美の様子がおかしい事をやっと察したのか、玲汰が顔を覗き込んできた。
「ううん、別に」
先ほど男性に睨みつけられた動揺がまだ残っている。深呼吸をしたい気分だが、臭いのせいでそれもできない。まだここへ来て数分しか経っていないのに、既にここを出たい気分でいっぱいだった。
「まだ花も咲いてなくて残念だけど、この植木鉢が原因なら早く捨てた方がいいよね──」
言うが早いか、奈津美が植木鉢に手を出そうとしたとき、亞美が止めるよりも先に、玲汰がその手首を掴んだ。
「多分、危ないと思う」
亞美は男性の霊を見た。
さっきまで俯いた姿勢で一ミリたりとも動く様子の無かったそれが、亞美のときと違って今は首ごと動かして奈津美の手をじっと見つめていた。
玲汰が手を離し、奈津美もそっと手を引くと、それを見届けた後に、男性はまた写真に視線を戻していく。
もしそのまま植木鉢に触れていたら、どうなったのだろう。鬼の形相で襲ってくるのか、はたまた、ただ見守っているだけなのか。気になったが、試す気にはならなかった。
静かに佇んだままの奇妙な男性の霊。今まで遭遇してきたものにも静かな霊は数多いたが、これもそのうちの一人なのだろうか。と、そこで一つ思い出した。
「そういえば、その霊って何か言ってたんじゃなかったっけ? 確か……」
「“あなたはすきですか”って、質問されました。うろ覚えですけど」
百子は憚られるように言った。
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