赤い部屋 2

 席に着いてフライドポテトをつまみながら、コピーバンド演奏の完成度について話し合っていた。そんな亞美の目に留まった一人のサラリーマン男性の姿。それは店の外、ガラス窓前に立ってじっとしていた。


 亞美たちが入店する前からずっと居て、最初は誰かと待ち合わせでもしているのだろうと気にも留めていなかったが、かれこれ一時間以上、一切動かずそこにいる。友人にどうしたのかと聞かれ、


「あれ……そこのサラリーマン、ずっと立ってるんだけど」


 そういって指をさしたが、皆は「どれ?」と言って、すぐ目の前に居る彼の事を全く見つけられなかったのだ。


「いや、どれってそこに……」


 再び目をやったとき、さっきまで居たはずのサラリーマン男性の姿はなかった。ただの見間違いだったのかと困惑する亞美。しかし、次の瞬間。


 サラリーマン男性が立っていた場所に、すっと影が落下してきた。


 地面に衝突したそれは破裂して、何かを飛び散らせる。


 音は全くなかった。亞美の目には、まるで紙芝居でも見ているような断片的な映像に写った。


 あまりの衝撃に、ひっと空気を吸っただけで、掠れて悲鳴も出なかった。


「亞美、どうしたの」


 気づくと亞美は思わずその場から立ち上がっていて、唇は渇いていた。


 混乱する頭の中。スプーンでかき回されたように思考はぐちゃぐちゃで、今視た光景の整理が全く追いつかない。


 ひとまず椅子に腰を下ろして、水っぽくなったコーラを一口喉に通した。冷たい液体が喉を通り、興奮した脳を幾分か落ち着かせてくれる。


 深呼吸して、もう一度さっきの場所を見てみた。


 また、サラリーマンが立っていた。つい数分前、そこに黒い塊が落ちて凄惨な事態になった事など嘘のように、また、サラリーマンが立っていたのだ。飛び散っていたものも一切無い。


 亞美の普通でない様子に友人二人は心配そうな表情で声を掛けてくれたが、なんとか表情を取り繕って「大丈夫」と返した。


 その後、三人でさらに一時間ほどだべったが、その間にサラリーマンはもう一度、地面にダイブした。そしてまた、何事もなかったかのようにその場に立っていた。


 二人と別れて一人帰路につく。あれは何だったのだろう、自分は何を視たのだろう。あの光景を思い出すだけで動悸がした。


 三時間も店で話し込んだせいもあるだろうけれど、なんだか異様に疲れを感じ、背負っているエレキベースもやけに重い。


 荷物を肩から下ろして地面に置く。駅のホームで電車が来るのを待つ間も、店で見た光景が脳裏に焼き付いて離れなかった。


 時刻は間もなく二十二時を迎えようとしていた。


 スマホに母親からメッセージが来ている。とりあえず「今帰ってるとこ」と返しておく。家についたら確実に説教コースだと思った。


 いつもなら人でごった返すようなホームも、こんな時間になればいつもよりまばらだ。それでもきっと、電車の中は混むだろうけれど。


 頭上から電子音が鳴って、間もなく電車が到着することを伝えてくれる。


 人は皆、自分以外の人など気にも留めない。他人は、いつも見る景色の一部でしかなく、そして彼らは一般人が予測できる範囲内の行動しか取らない。そこに非日常など起こりえないと思っている。亞美だってそうだった。


 しかし、この日は違った。


 亞美の視界の脇で、ゆらりと何かが揺れた。スマホを見ていた視線の注意がそちらへ向く。次の瞬間、亞美の視線はそれに釘づけにされた。


 ホームに猛スピードで駆けこんでくる電車。


 スーツを着た女性が、線路へと吸い込まれて行く。


 手から思わずスマホが零れ落ちた。


 女性に突っ込んでいく電車。ぶつかる瞬間、ガシャンという音で亞美は我に返った。


 足元を見ると、画面に大きな亀裂が走った自分のスマホが落ちていた。放心状態でそれを拾い、顔を上げると、さっき線路に飛び込んだはずのスーツを着た女性が、何事も無かったようにそこに立っていた。


 後から調べてみれば、数年前、この日三人で訪れたファストフード店の入っているビルの屋上から、男性が飛び降り自殺をしたという事件が、そして、亞美がいつも利用している路線のホームでも、人身事故があった事を知った。


 その日から、亞美は周囲が気になり始めた。


 また同じようなものを目撃するのではないかと気が気ではなかった。しかし、そんな光景は滅多に見なかった。やたらめったら、そこら中で自殺をしている人はそうそう居ないからだ。


 その代わりに、亞美は気付いた。


 ふと、人込みの中すれ違った人の中に、腹部に刃物が刺さったまま歩いている男性が居る事に。ふと、飲んだくれて道路脇に寝そべっているのだと思っていた人がよく見ると血だまりの中に居ることに。そして、周囲の人々はそれに目もくれていないということに。


 最初は、周囲の人々が見て見ぬふりをしているだけかと思ったが、一緒に居た友人にその事を話してみても、誰もかれもそれが視えないのだと言うし、そしてある時それをすり抜けて通って行く人を見て、それらが生者ではない事を理解した。


 一度気付いてしまえば、厭でも目につく。そして、霊は当たり前に生者の中にまぎれていて、どこにでも居て、たくさん居るのだと知った。


 この事を打ち明けた友人の中には、じゃあ視える霊は昔の人や現在の人、色々居るのか? と聞いてくる人も居たが、亞美にはここ数十年くらいの霊しか視えていない。服装などでそう判断したが、どうして昔の人(大正、明治、江戸など)の霊が視えないのかは分からなかった。


 そんな、霊が視えるという話をする亞美を気味悪がって離れて行く友人も大勢いた。大学生になっても未だにつるんでいる友人たちは、それを面白がるか、はたまた受け流すか。稀に信じてくれる人も居るけれど、周囲でたった一人、自分だけがその光景を見ているという事実。周りからすれば、亞美が頭のおかしい人であると思う方が妥当だったろう。


 そんな風に思われるのが嫌で、ここ数年では霊が視えるという話は誰にもしていないし、「最近なんか視た?」なんて聞いてくる友人だって居ない。


 今回「友人の家を視て欲しい」と頼んで来た後輩は軽音部の後輩でもあったので、視える事に気付いた当時に何度かその話をした事があった。そして、彼女は「受け流す」人だった。信じているような素振りだってなかった。それを、今更。都合の良い時だけ頼ってくる彼女に、前向きに協力する気にはどうしてもなれなかった。


 それに、そんな奇妙なものを数年間視続けているからといって、慣れるわけでもない。それらが自分たちに危害を加えないなどという保証もないのだ。


 一度、それを「死者」だと気付かずに声を掛けてしまった事がある。それまでは、触らぬ神に祟りなし。絶対に関わらない方がいいし、視えていないフリをした方が安全だという意識から何でもないフリをしてきた。


 だが、ある夕暮れ時。今思えばあれは“黄昏時”だ。道端でスマホを片手にキョロキョロしている女性が居て、迷ったのだろうと思い「どうされました?」と声を掛けてしまった。そして、後悔した。よく見ると、赤い色のシャツだと思っていたそれは、近くで見ると重く垂れさがって光沢があった。


「良かった。一緒に逝ってくれる人を探していたんです」


 そう言って腕を掴まれ、車道に引っ張られてゆく。


 凍り付くような冷たさの手の感触は今でも鮮明に覚えている。


 道路の向こうから大型のトラックがこちらへ向かって走ってきていた。このままだと跳ね飛ばされ、彼女に連れていかれてしまう。


 パニック状態になり、どうやってその場から逃げ出せたのかは覚えていないが、肺が潰れそうになるほど走り続けて結果、なんとか今も生きている。


 今まで見て来たそれらが、決して幻覚などではないと確信した瞬間だった。


 思い出すと頭痛がしてきた。


 机の上に置いてあったタバコを一本手に取ると、ライターで火を着けて一口吸った。頭痛は少しマシになった。


 煙を空中に吹いて、灰を灰皿に落とす。


 もちろん、害のない霊だって居る。厳密には、亞美にはどれがどれだか視ただけでは判断はできないので、“ないと思われる”としか言えないが、いつの間にか亞美の部屋にも霊が居て、今はポスターの裏側にそれは潜んでいた。壁に埋め込まれたような姿勢で身動きひとつ取らない男の子だ。片目から血を流していて、痛々しい。


 だから、もしかすると後輩が言うその片尾百子という子も、その日から霊が視えるようになって、実は今までずっとそこに居た霊に気付いたというだけかもしれないし、その霊はただそこに居るだけで害などないかもしれない。


 害がないと言っても、視えるだけで与えられてきた影響も数知れない。徘徊している霊は大抵どこかしらから血を流している(“血を流しているから目に留まる”だけだと思われるが)。不慮の死を遂げて未練を残した故に留まっていると考えるなら、それもそうだろうと納得できる。


 亞美は頻繁にそういうったものを見るせいで、血を見ると気分が悪くなるし、赤い色が嫌いになった。元々グロテスクなものが苦手だったせいもある。


 後輩は、「本当にそこに霊が居るのか居ないのか、それを確認してくれるだけでいい」と、そうは言うけれど。後輩の友人というだけで、実際はただの他人である人のために、自分がリスクを負ってまでその霊を視に行く義理はないのだ。


『お願い! バクナンの限定ピックあげるから!』


「……分かった、任せときな」


 通話を切る頃には、灰皿は吸い殻でいっぱいになっていた。


***


 翌朝、さっそく後輩から例のピックを受け取って、亞美は半ば上機嫌になっていた。パーカーのポケット内でそれを弄びながら、ベースの入ったケースを担いで一コマ目の講義へ向かう。


 欲しかったものをもらえた事は素直に嬉しかったが、物につられて引き受けてしまった事を後悔もしていた。一晩考えても良かったなとため息をついた。


 講義開始前、そんな亞美の様子を見て、隣に居た友人が話を聞くと言ってくれたので、今回の事を全て話した。彼女は亞美が視えるという事を信じて受け入れてくれたたった一人の友人だった。


「そんならさ、文学サークルにホラー作家の学生が居るらしいから、相談だけでもしてみたら?」


 そんな提案を受けて放課後、亞美は文学サークルの部室を訪れた。


 どうやらそのホラー作家は男子生徒で、亞美と同じ一年生、名前は風間玲汰というらしい。そういえば何度か見かけた事があった。塩顔で大人しそうな、あまり目立たない生徒という風に記憶している。派手好きな亞美とは正反対で、きっと卒業までつるまないタイプだなと思っていた。


 きっと彼も、こんな髪も染めてアクセサリーもジャラジャラ付けて、ピアスも開けまくっている女などと関わりたくもないだろう。亞美自身も、あまり気は進まなかった。同行してもらうには、今回の話を説明しなくてはならない。つまりそれは、自身が“視える”事を話さなければならないのだ。四年前に周囲に話して以降、誰にも打ち明けてこなかった事を。


 どんな反応をされるだろうか。ホラー作家であるから、奇妙に笑って喜ぶだろうか。それとも本当に居たのかなんて気味悪がるだろうか。


 友人の勧めがなければ、きっとこんな場所には来なかっただろう。


「失礼しまーす」


 気にしても仕方がない。一切の遠慮もなしに文学サークルの引き戸を開けた。

 中へ入ると真っ先に、古本屋でよく香ってくる、黄ばんだ本の臭いが鼻を刺激した。


 中は案外、がらりとしていた。資料や筆記用具やらで散らかっているのかと想像していたが、机の上はペンと原稿用紙がまとめて置かれていて、後は壁一面の本棚にぎっしりと詰まった本だけ。図書室のそれだ。


 そして、目的の生徒の姿は──どこにも見当たらない。それどころか、誰一人としてこの部屋には居なかった。


 部屋の中央まで来て、周囲をうかがう。すると、奥の本棚と本棚の間に扉があるのを発見した。その傍にある長机の脚元には鞄が置かれている。もしかすると、奥の部屋に誰かが居るかもしれない。


 近付いてみれば、中から微かに話し声のような音が聞こえる。


 ドアノブを引くと、奥は小部屋になっていた。変わらず、結局は本の詰まった棚ばかり。その中に、脚立の上に座って棚を漁っている男子生徒が目に入った。


 しかし、彼以外には誰も居る様子はない。先ほどの声は聴き間違いか、或いは彼の独り言だったか。


「あの! あんたが風間玲汰?」


 大声で呼びかけた。意図したわけではない。普段から大音量で音楽を聴いたり、ライブに出向いたりすることの多い亞美の声は大きい。こんな小さな空間で発すれば尚更だ。


「うわっ?」


 男子生徒はその声に体を大きく揺らした。


 脚立はバランスを崩し、運悪くも亞美の方へと倒れていった。


 亞美はとっさに避ける事もできず、巻き添えを食らって床に倒れ込む。続けてばさばさと数冊の本が二人に降り注いだ。


 衝撃に閉じた目を開けると、息の触れる距離に男子生徒の顔があった。四つん這いになった彼が、覆いかぶさっている。澄んだ黒い瞳に端整な顔。


「急に大声出すなよ。危ないだろ」


「ごめん……」


 降り注いできた本は全て、彼が盾になってくれたおかげで亞美は無傷だったようだ。


 起き上がった彼は腰を押えて顔をしかめている。


「ていうか、その……見えてんだけど」


 言って、亞美から顔を逸らした彼。


 自分の姿を見てみれば、さっきの衝撃のせいか、パーカーの下に着ていたシャツがめくれあがって下着が少し露出していた。


「何見てんの、ムッツリなの」


「お前がそんなヘソが出るようなシャツ着てるからだろ!」


 その後、黙って片付けを始める彼に倣って、亞美も床に散乱した本を棚へと直していった。時折、亞美が直したものを玲汰が黙って並べ替えたりしていて、少しムッとした。


 一通り片付けが終わると、彼は亞美が居るにも関わらず、一冊手に取ってそそくさと部屋を出て行ってしまった。


 困惑しながらも亞美はその後を追いかけた。


「ち、ちょっと。無視すんな!」


 部室の一角にあるパイプ椅子に座って、何事もなかったかのように読書を始めた彼の本を亞美がつまみ上げる。彼の顔は少し赤く見えた。


「……あんた、もしかして童貞?」


「喧嘩売ってんのか」


 睨みつけてくるのも気にせず、亞美は続けた。


「風間玲汰、だよね。ホラー作家って聞いたんだけど」


「……別に、作家じゃないけど」


 玲汰が亞美の手から本をひったくる。


「作家じゃないって、実際に本出してたみたいじゃん」


 風間玲汰に会う事を提案してくれた友人に、彼が出したという本の情報を教えてもらった。実際に、ネット通販や書店に並んでいるようだった。あらすじを読むに、怪奇モノで、次々と襲い掛かってくる怪異を退治していくような内容らしかった。活字本など一切読まない亞美にとって、ましてやホラーな内容など、一切興味はなかったので読む気にはなれなかった。


「その一冊だけでもう書いてない。……っていうか、何の用だよ」


 すっかり亞美に警戒している様子で、玲汰の口調にはトゲを感じる。しかしそれに動じず、


「あたしは相羽亞美。ちょっと、相談したいことがあって」


「相談って? おれに?」


「ここにはアンタしか居ないんだから、当たり前でしょ」


 玲汰は少し何か言いかけたが、間を置いて半開きになった口を閉じた。


「で、どんななんだ」


「心霊現象絡みのね」


 より一層、怪しいものでも見るような態度を見せた玲汰だったが、心霊現象という言葉を出した途端に表情を変え、ひとまず座るように促してきた。


 亞美は彼の傍のパイプ椅子を広げて、どしっと腰かける。


 そして早速、後輩から聞いた話をそのまま話した。


 その間、玲汰は興味深そうに真剣な表情をしていた。やはりホラー小説を書いただけあって、興味津々な様子だ。


「だから、霊とかに詳しそうなあんたに同行してもらいたいの。なんかそういうの詳しいだろうから、知恵を借りたいというか……きっと、書き物とかの良い材料になると思うし……」


 取って付けたような彼にとってのメリットを付け加える。


「なるほど。それで、何で相羽さんがそんな事頼まれたんだ?」


 当然の疑問を口にされる。「私は便りにされているから」と言ってしまえば良かったのだが、亞美は初対面の相手に自らの秘密を打ち明けた。何故かはわからないが、彼なら信じてくれそうな気がしたのだ。それは単に、玲汰がそういった類のものを好んでいそうだったからかもしれない。


「あたし、視えるの。霊が」


「……ふぅん」


 玲汰はそれだけ言うと、背もたれに体をあずけて、


「分かった。一緒に行くよ」


 そう言った。


 あまりにも淡白な反応に亞美は一瞬、呆気に取られてしまった。


「……驚かないんだ」


「何が?」


「私が視えるってこと。たいていの人は冗談だとかウソだとか、気味悪がるのに」


「相羽さんは、わざわざココに気味悪がられに来たワケ?」


「別に。……で、明日の放課後、十九時ごろ。行ける?」


「急だな。行けるけどさ」


 ため息をつきながら答える玲汰。さっきから目は一切合わせようとしない。人見知りなのか。


「オッケ。じゃ、スマホ出して」


 無理やりに連絡先を交換させると、亞美は「じゃあ明日ね」と言って部屋を後にした。

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