短編2 赤い部屋

赤い部屋 1

 土が詰まった植木鉢を抱えて、茜色に照らされた道を軽快な足取りで進んでゆく。

 この土には名前も知らない花の球根が埋まっていて、それはきっと自分の一年半に渡る孤独な一人暮らし生活に彩りを添えてくれることだろう。


 そんな期待を胸に、片尾百子(かたおももこ)は植木鉢を抱えた腕にぎゅっと力を込めた。


 家の中のどこに置いておこう。やはり光の当たりやすい窓際だろうか。一日中日に当たるのもよくないだろうか。だったら、台所の傍かな──そんな風に、この球根をどのように育てようかと考えているだけで、あっという間に自宅マンションへと辿り着いた。


 がらりとした玄関のオートロックを解除して中へ入り、エレベーターに乗って三階へ。


「ただいまー」


 誰も居ないのは分かっていても、それはいつもの癖だった。


 母親が長期の海外出張で家を空けてからはこの広い空間にたった一人。以前は大好きだった猫のユリが居たが、寿命でこの世を去ってしまった。ユリが居たときは、こうして玄関を開けると目の前に座って、出迎えてくれていたものだ。


 リビングに入って正面にある棚には、ユリと百子が写った写真がある。彼女は改めてユリに「今帰ったよ」と声を掛けると、植木鉢をその傍に置いた。


「ユリ、新しい家族だよ。どんな花が咲くのか楽しみだね」


 ユリが居てくれれば、母が居なくても寂しくはなかった。学校で友達と喧嘩して落ち込んでいるときや、期末試験が近くて勉強が忙しいとき。どんなときだって、側に来て毛づくろいを始めて、気にかけてくれているのやらいないのやら。そんなユリが居てくれたから頑張って来られたのだが……今はもういない。


 自分がこんなにも寂しがり屋だったとは思っていなかった。


 以前は家族三人と一匹で暮らしていた3LDKの広い空間に、たった一人きり。


 昼間はまだマシだった。テレビでバラエティ番組を流して気を紛らわせることができる。それでも、食事のときだけは誰かと会話しながら取りたくて涙ぐむときがある。


 夜ベッドに入るといつも、他の誰も居ないはずの部屋に誰かが現れたりしていないかだとか、突然玄関の扉を開けようとされたりしないかだとか。そんな考えが頭を過って、一人で眠るが心細くなってしまう。試験勉強を一緒に、なんて理由でよく友達に泊まりに来てもらっていたが、それも頻繁にできるわけでもない。そんなとき、幼馴染の長田奈津美(おさだなつみ)からこんな話を聞いた。


「こないだ近所の商店街の裏を通ったら、小さな花屋さんがあったよ。今まで全然気付かなかったんだけど、なんとなく見てたら中からおじさんが出てきて。花の球根をくれたんだ」


 今では庭に植えたその球根は赤い花を咲かせたらしく、見せてもらった写真に写ったそれは見事に真っ赤な花びらをつけていた。


 そのとき奈津美に「百子も花でも育てたら?」と勧められ、この日、いつもより少し遠回りしてその商店街の裏にあるというその花屋に立ち寄った。


 新しいペットを飼う気になれなかった百子は少し興味が沸いたのだ。


 花屋の店主は奈津美の言った通り中年の男性で、無精ひげを生やして不愛想だったが、話してみればちゃんと花にも詳しくて、そのうち警戒心は薄れた。


 結局気に入った花もなく、今日は帰ろうとしたそのとき、店主は一つの球根を植木鉢に植えて手渡してくれた。何が咲くかはお楽しみ。そう言って。


 その日の夜は、百子はなんだか傍に誰かが居てくれているような気がして、安心してぐっすりと眠ることができた。


 翌朝、カーテンの隙間から差し込む光を受けて目を覚ますと、百子は真っ先に植木鉢の元へと向かった。


 まずはユリの写真に声をかける。


「おはよ、ユリ」


 そして植木鉢を覗き込む。


 昨日今日で芽が顔を出すわけもなく、表面の土は昨晩と何も変わらない様子だった。


 コップに水を注いできて土にかけ、元気に立派に育つんだよと声を掛けた。


 その後、ニュース番組を見ながらトーストをかじってミルクを飲み干し、家を出て学校へ。道中で合流した奈津美に、昨日花屋で球根をもらい、育て始めている事を伝えると、非常に喜んでくれた。


「百子んトコはどんなのが咲くのか、楽しみだね!」


 そこで顔を見合わせて、彼女の目元がうっすら暗い事に気付いた。


「最近、眠れてる? くまができてるよ」


 指摘すると、マジで、と動揺する。どうやら思い当たる節が無いらしく、彼女自身は至って不調はないという。嘘をついているようにも見えなかった。肌の調子が単に悪くて、というだけのことかもしれない。


「そういう百子も、よく見るとあるよ」


 人差し指をこちらの目元に近づけて指摘してくる。


「わっ、危ないからやめてよ、もう! へし折るよ」


「いや怖いな」


 人差し指を掴んだ手を振りほどいて冷や汗を流す奈津美。


 そんな冗談を交わしながら登校しているときも、百子は一体あの球根がどんな花を咲かすのか、ずっと頭の片隅で想像を繰り返していた。


 それから数日間、毎朝水をやって世話を続けていると、とうとう植木鉢の土から緑色が顔を出した。嬉しくて、百子はスマホで撮影すると真っ先に奈津美に写真を送った。


 その日の夜の事だった。


 百子は妙な物音で目を覚ました。


 重い瞼を上げて時計を見ると、時刻は深夜二時を回っている。


 物音は寝室のドアの向こうから聞こえてきていた。


 小さく、幽かに何かがこすれるような連続した音。それが一定のリズムで絶え間なく続いている。


 聞き覚えのあるその音に思い当たる節があったが、しかし今となってはあり得ない。なら、それは一体──誰か知らぬ人が、家の中に居る?


 それを想像した途端、心臓が強く脈打ち、全身に悪寒が走った。


 音の正体が何なのか、知りたくない。でも、このまま眠ることもできない。


 百子はスマホを持って、すぐに一一〇通報ができるように準備をしておくと、そっと物音を立てないように扉を開くと寝室を出た。


 廊下で聞き耳を立てると、どうやら音はリビングで鳴っているようだ。


 忍び足で廊下をゆっくりと進む。いつもならたった数歩進むだけでたどり着くはずの部屋が、やけに遠く感じる。


 音の源に近付くのと比例して、百子の動機も激しくなっていった。


 扉の前で動きを止め、耳を澄ます。確かに、一枚ドアを隔てた向こうからそれは鳴っている。


 これは、猫が爪を研ぐ音だ。しかしユリはもうこの世には居ない。それに、ユリはこんな晩にこれほど激しく爪を研いだりなんてしなかった。それに、ちゃんと爪研ぎ用のダンボールでしかしない。今聞こえているのは、もっと硬いモノを引っ掻くような音だ。


 なら、一体何がこの音を立てているのか。


 一人で暮らすようになってからは眠る前に必ずあちこちの施錠は確認している。外から猫が侵入するなんてことはない。そもそも三階だから、ここまで上ってはこないだろう。近所の人だって、猫を飼っている人などいなかったはずだ。


 百子はそれ以上何も考えないようにして、冷や汗をぬぐうと、恐る恐る、扉をゆっくりと開けた。


 扉の隙間からゆっくりとのぞき込む。


 窓から差し込む月明りでうっすらと照らされたリビング。正面にある棚に目を向ける。


 何かが立っていた。


 それを見た瞬間、心臓を鷲掴みにされたような感覚がして、全身が強張った。


 何かがこちらに背を向けて立っている。首はだらりと俯いていて、そこにあるはずの植木鉢を見下ろしているようだった。


 本来居るはずのないモノの存在に、百子は息を飲んだ。まるで背骨を引き抜かれたように体に力が入らなくなり、すとん、とお尻が床に落ちてしまった。


 その反動で扉がすっと開き、その音に反応したのか、そこに立っている何かがぴくりと動き、ゆっくりとこちらへ振り返る。


 何かを引っ掻くような音は続いたままだ。むしろ、勢いがどんどん増している。


 耳にこびりつくようにガリガリ、ガリガリと繰り返される。百子の心臓の鼓動をはやし立てるように、ガリガリ、ガリガリと。


 その音に交じって、今度はカチカチ、カチカチとプラスチックがぶつかり合うような小さな音が聞こえ始めた。


 何かと思えば、それは百子の歯から鳴っていた。震えているのだ。


 百子の体は完全に腰が抜けて動かなかった。ただただ震えて、言う事をきいてくれない。自分の体なのに、まるで自分のものではなくなったような感覚。今すぐこの場から逃げ出したいのに。スマホだって、あとはたった一度タップするだけで通報できるのに、できない。


 黒いシルエットの中、真っ白な、瞳孔のない二つの丸が、こちらを見据えている。

 それがふと、口を開いた。


「あ な た は ── す き で す か」


 鼓膜の表面をヤスリでなでられたかのような、ざらざらとした痛みと不快感のある声。


 威圧と畏怖に押しつぶされるように、百子の意識は暗闇に飲まれていった。


***


「で、視える私にそれを見て欲しい、ってワケ?」


 背もたれに体重を預け、エレキベースの弦を指先で弾きながら、相羽亞美(あいばつぐみ)は机に置かれたスマホに言い放った。


 通話の向こうに居る高校の後輩は、亞美の言った事を肯定した。


 どうやら同じクラスの友人が、ここのところ毎日心霊現象に悩まされているというのだ。最初は見間違いだったかもしれないと言っていたようなのだが、次の日も同じものを目撃し、もう家に帰りたくない、と学校で泣いてしまう始末。


 そこで後輩は「先輩に霊感のある人が居るから頼んでみる」と言ったようで、その先輩である亞美にこの話が来たというわけらしい。


「視て欲しいって言われても、あたしは視えるだけで何にもできないんだけど……」


 スラップの手を止めて、染めたての赤い毛をくるくるといじる。


 言いながらふと、自室を見渡した。


 入口付近の壁に貼り付けている、大好きなスリーピースバンドグループのポスター。


 各々が楽器を携えて憂いのある表情を浮かべている。元々は、目を覚ましたときにすぐ目に入るようベッド脇に飾っていたものだ。どうして移動させたかといえば、そこに現れるものを隠すために他ならない。


 亞美には霊が視える。しかし彼女にできることは、視えるものを視ないよう工夫することだけ。追い祓ったり、ましてや除霊することなどできない。


「どこぞの寺とか神社にお祓いを頼んだほうがいいでしょ」


『いや、そうなんだけど……つぐチャン先輩にとりあえず視てもらって、マジで居たらそのときはそうするからさ~。大学生ってヒマなんでしょ?』


「あんたさァ、しばくぞ?」


 実際、大学に入ってから半年、軽音サークルに入って活発に活動こそすれどそこまで多忙というわけでもなかった。やりたい事をやっていられる時間もそれなりに確保できているし、休日なんかはバイトをして小遣いも稼いで、空いた時間にはテレビでバラエティやドラマを観て過ごしている。


 一人暮らしを始めてからは自炊もそれなりにしているし、割と充実した大学生生活を送ることができていた。当然、ものの数分から数時間、困っている後輩の友人宅へ出向いて部屋の中を見る事くらいどうということはないといえば、ない。


 ただ、そんな日常の中に、霊なんてものは当然のようにそこに居るものなのだ。後輩の友人が家で数回視たからといって、何も不思議な事ではない。少なくとも、霊が視える亞美にとってはそうだ。


 今から四年前、亞美は突然、それが視えるようになった。もしかすると、本当は以前から視えていて、ただその時に自分が視えるという事に気付いただけなのかもしれない。きっかけは、友人らと三人で軽音部の活動を終え、ファストフード店でだべっていた時の事だ。

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