隣の住人 後編

「あの呪文みたいなのは、“多分、マリシテンノオンギョウホウだと思う”って言ってた」


 電話の向こうで、真美がカタコトでそう言った。


 大家に続き、二〇三号室の住人までが心臓発作で亡くなったという事を彼女に伝えると、知り合いに“詳しい人”が居るから聞いてみると言って、例の呪文、“呪詛”をその人に聴いてもらったそうだ。それが“摩利支天の隠形法”なのだという。


「それって、昔姉ちゃんが片想いしてた玲太くん?」


 中学から高校まで真美と一緒だった男友達が居る。彼は真美と同じくホラー好きで、とはいってももっぱら都市伝説系をメインに好む人だったが、当時周りに同じ趣味の人が居なかったということもあり、真琴は彼らと学年は違ったが休み時間によく二人一緒に居る所を見かけた。よっぽど仲が良く、いずれ付き合ったりするのかななんて思っていたが、結局そうはならなかった。


 真琴自身も彼と何度か会った事があり、一見不愛想で人見知りそうな雰囲気なのだが、話してみれば人あたりもよく好印象だった。


 真美から今でも何度か彼の話を聞く事があって、どうやら最近その人に彼女ができたとかできなかったとか、電話越しだからあまり様子は掴めなかったけれど、恐らく落ち込んでいたことだろう。慰めるような事は何も言わなかったものの、少し心配はしていた。そんなところへ、この話だ。無理して相談なんてしなくていいのに……と思っていると、


「……の彼女」


 余計に悪い。


 予想外中の予想外の言葉を聞いてなんと言っていいか分からずフリーズしていると、


「正確にはそのどっちにもなんだけど……、彼女は霊感を持ってるらしいから、その二人に聞いたら色々分かるのかなーって」


 平気な風を装って話す真美に、もはや気を遣う気にもならなくなった真琴は黙って彼女の話を聞いた。


 その“詳しい人”の名は亞美というらしく、彼女曰く、隣の部屋から聞こえてきていた“呪文”というのは“呪詛”で、人を呪い殺す事を目的としたものだという。霊感のある亞美も、その音声から“生霊”の悍ましい存在を感じ取ったらしい。


 そこまで聞いて、心の底から胡散臭さを感じた真琴であったが、しかし現実に、隣人に関わった二名が全く同じ方法で亡くなっている。そして、覗き穴越しに目が逢ったときに感じた殺気と、脳裏をよぎった想像。思わず生唾を飲んだ。


「亞美さんが言ってたこと、そのまま言うね」


 真美がその呪詛について、亞美の説明をそのまま口にし始めた。


「隣人が行っていたのは“摩利支天神鞭法”だと思う。

 先に行っておくけど、私は霊感があるってだけでそういうのに詳しいわけじゃないから、今から話す事は調べて分かった事と推測ね。

 隣人が唱えていたのは「ナウマク・サンマンダ・ボダナン・オン・マリシエイ・ソワカ」“摩利支天の真言”て言って「あまねく諸仏に帰命し奉る。マリーチー天女に帰依し奉る」という意味みたい。

 摩利支天っていうのは地域にもよるんだけど、太陽のコロナを神格化した女神で、摩利支天の真言はその女神に忠誠を誓うための文言なの。摩利支天に忠誠を誓って力を貸してもらうことで、呪詛の力を高めるみたい。

 そんで、その真言と一緒に何かを叩く音が聞こえるんだよね。多分、隣人が行っているのは“摩利支天神鞭法”だと思う。摩利支天神鞭法は、真言を幾度も唱えた後、鞭で呪いたい相手の名前を記した紙を、力の限り、憎しみを込めて鞭で叩くの。

 この行為をひたすら繰り返して相手を呪い殺す呪法、それが摩利支天神鞭法。

 夜中の二時に行うのは丑の刻、陰の気の満ちる時間帯に行う事で、さらに効果を高める狙いがあるから」


 亞美からは、そんな説明がされたそうだ。


 まさか本当にこんな事で人を殺せるものかと思ったが、真美が相談した相手である玲汰と亞美の二人は「多分、大家さんも二〇三号室の人も、これで呪殺されたんだと思う」と言っていたという。


 そんな事を確かめようがない為に半信半疑だったが、次に狙われるのが自分かもしれないのだと意識すると、いつの間にか集中して話を聞いていた。


 隣人の呪詛について一通り聞き終えたところで、具体的にどうすればいいのかが知りたい。真美にそう言うと、ちゃんと身を護る術も教えてくれたと言って、その説明もしてくれた。


 真美から全て聞き終えた頃には、真琴の心はぐったりしていた。


 二十年間生きてきて、これまでは無縁だった世界に触れてしまい、気が滅入ってしまったのだ。まさか、自分の身の回りで“呪い”だなんて非現実的なものが人を、自分の住まうマンションの住人を殺しているなんて、どうしても頭の中で整理が追いつかない。


 真美から対処法はしっかり聞いてメモをしてある。これを手順通りに行えば身を護る事ができるらしい。


 半信半疑であっても、不安要素を少しでも取り除けるのであれば、それに越した事はないだろう──そうは思っていても、どうにも非科学的なものを実行する気にはなれなくて、その日は、真美から伝え聞いた“護身法”を試すことはなかった。


***


 夜中、激しい頭痛で目が覚めた。


 喉がからからで、水が欲しくてベッドから起き上がろうとしたが、足に力が入らず床に体を打ち付けてしまった。眩暈で平衡感覚が掴めず、体を起こすことができない。


 しばらく大人しくしていれば収まるだろうと床に寝転がったままでいたが、収まるどころか今度は吐き気まで催してきた。やがて胃が持ち上がって嚥下したが、何も吐き出すものがなくただひたすら苦しみだけが続いた。


 それが一時間ほど続き、救急車を呼んだ方が良いのではないかと思い始めた頃、やっと起き上がれるくらいまでに回復した。


 コップ一杯の水を飲んで一息つき、ベッドに腰掛ける。


 時計を見ると、夜中の三時を回っていた。


 苦しんでいる間、耳鳴りのようにずっと繰り返し聞こえていた不快な音。直接頭蓋骨の中に反響して、脳を激しく揺さぶるような感覚を覚えさせた、呪文。


 ナウマクサンマンダボダナンオンマリシエイソワカナウマクサンマンダボダナン──


 収まった後も、ずっと頭から離れないままだ。


 朝になると、真琴はすぐ着替えて買い物に出かけた。


 帰宅し机の前に座ると、ビニール袋から購入してきたものを並べてゆく。


 和紙、墨、筆、日本酒。


 これから、護身法、“祓”を試す。


 まず、和紙をハサミで切り抜き“形代”を作る。人の形をした紙で、これは自分の身代わりとなってくれる。これを作る時に重要なのは“想い”らしい。自分を清めてくれるよう、穢れを祓ってくれるよう信じ、一心不乱に切らなければならない。


 次に、墨を日本酒で磨り、筆で形代に名前、生年月日、年齢を記す。


 そうしたら、形代の左手、右手、左足、右足、頭、胴の順に撫でる。これを三度繰り返した後、両手で捧げて息を吹きかける。これもまた、三度行う。こうする事で、自身の体に憑いた穢れを形代に移すのだ。


 以上の流れを終えたら、「祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令」と三度唱えながら、海や川に形代を流す。急急如律令とは、“速やかに退散せよ”という意味だ。


 真琴は数十分ほど歩いた先にある川に形代を流した。


「祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令。祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令。祓いたまえ、清めたまえ、急急如律令」


 こんなところを見られでもすれば恥ずかしくてたまらない気分になった。


 形代が沈みながら流れていくのを見送る。見えなくなった頃には、少し体が軽くなったように感じた。それはプラシーボ効果の類ではないのかという考えがよぎったが、想いの強さが重要だと言われた事を思い出してすぐにかき消した。


 その日の夜中二時、隣人の呪詛が始まる。


 また昨晩のような体調不良に襲われるのではと気が気ではなかったが、しかし体に異変は起きなかった。形代を用いた“祓”の効力なのだろうか。


 真琴は何だか隣人に対して勝利したような気持ちになり、隣人の摩利支天神鞭法が終わるのを待つことなく、ぐっすりと寝入ることができた。


***


 隣人の呪詛に対して祓を行う事で呪殺される危険は免れたものの、相変わらず呪詛は毎晩唱えられる。平日の寝不足はまだ続いていた。


 それに、いくら祓を行おうとも、その効力は長くは続かなかった。飽くまで、自分の身に憑いた穢れを祓い落とすだけで、再び呪詛を掛けられればそれは否応なしに憑くようだ。


 呪詛による体調不良が出始め、また祓を行い、また体調不良で──それを繰り返していた。


「もうお前、この仕事辞めた方がいいよ。向いてないわ」


 職場の上司にいよいよそんな事を言われ、修正指示は荒唐無稽なものまで出てくるようになってきた。あからさまな嫌がらせであることは誰にでも理解できた。


 真琴にとってここは人生で最初の職場で、だからといってこの会社に何かこだわりがあるわけでもなかった。今があまりにも辛いために辞職するという選択肢だってある。それでもその選択を取らないのは、真琴の“負けず嫌い”が発動したためだ。


 幼い頃からあまり気の強い方ではなかった真琴だったが、他人と比べられる事と、他人から一方的に蔑まれるような事があったとき、それに抗ってやろうという気概が沸き起こってくる。そんな性格だった。であるから、この上司に対してもその気概が沸いたわけだ。今住んでいるマンションから引っ越さないのもこれに由来するところがある。


 世の中には相手とまともに取り合う気の無い人物も大勢いる。いくら相手が真剣に紳士に取り合おうとしようとも、目も合わせようとしない。今の真琴の加わるプロジェクトの上司が、まさにそれであった。真琴がどれだけクオリティの高いデータに仕上げても、上司の目的は“クオリティの高いデータを用意させる”事ではなく、“真琴に嫌がらせをする”事なのだ。真琴はやっと、それに気付いた。


 真琴の心は折れかけていた。再び夜中に、あの呪詛を聞いたときの体調不良に見舞われること、そして平日の寝不足。これらが真琴の精神の均衡を崩す事に拍車をかけたのだ。


 このまま、こんな事を繰り返しても根本的な解決には至らない。かといって、辞職すると上司から、引っ越すと隣人から、逃げた事になる。どうしてあんな非常識な人たちのためにこちらが譲歩してやらねばならないのか。


 真琴の気概だけは、こんな状況でもまだめげていなかった。そのせいで、精神の方は追い込まれている。しかし、やがて限界が来る事は明白だった。


 祓なんかよりも、もっと効果のある対処法はないのかと、真美を経由して例の人物に聞きたかったが、しかし姉の事を思うとどうしてもそうは言えなかった。


 自分で調べるしかない。真琴はネットで目ぼしい記事を探し始めた。


 しばらく検索結果のページを進んだり戻ったり、検索ワードを変えてみたり。図書館に出向く事も考えていた。すると、呪詛に関してとある文面が目に留まった。


「呪いを掛けられた者が、術師に対してその呪いを跳ね返す事を“呪詛返し”という──」


***


 数日後、マンション近辺で異臭騒ぎが起こり、やがて二〇二号室から女性の腐乱した遺体が見つかった。遺体は、心臓が内側から爆破されたような、見るも無惨な姿だったらしい。真琴も警察から話を聞かれたが、「知らない」とだけ答えた。


「ご協力ありがとうございました」


 扉を閉じて、覗き穴から警察が去っていくのを確認する。そこで真琴は、自分の口角がぐっと上がっている事に気付いた。


 これからは、家でも職場でも厭な思いをすることはない。平和な毎日が訪れる。そう思うと笑みを抑えられずにはいられなかった。


 鼻歌を歌いながら、着替えを済ませてカバンを肩に掛け、電車の定期券をポケットへしまう。


 真琴はとても清々しい気分で家を出た。

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