後日譚 短編 独り暮らし

短編1 隣の住人

隣の住人 前編

「お前は一体何回同じミスをすれば気が済むんだ? 何度も注意するこっちの身にもなってくれよったく。こんなクソモデル、ユーザーが喜ぶワケないだろ」


「はい、すみません……」


 口頭でデータの不備を大量に指摘され、また自分のデスクに戻り、修正作業に入る。


 後から見た自分のメモは、ミミズの走ったような文字で大半が何と書いてあるか分からず、どう修正していいものかと非常に焦った。思い出そうとしても、頭がぼうっとしていて記憶も曖昧だった。


 このフロアは空調が効き過ぎているから、寒くて眠らずに済んでいるものの、あと一、二度上がればすぐに夢の世界へ旅立ってしまいそうだ。


 達野真琴は寝不足だった。ここ一週間は三、四時間ほどしか眠れていない。


 高校生の頃は、ゲームが好きで夜更かしなど頻繁にしていたが、卒業して就職してからは業務の忙しさにそれどころではなくなってしまった。というのも、主に上司からの修正依頼の多さによるものだ。


 今の新プロジェクトに配属されてから現在の上司の下に着いたのだが、これがまた厄介で、作成したデータに不備がないかチェックしてもらうのが彼との主要なやり取りで、一度目の修正を行い二度目のチェックをしてもらうと、決まって「前回は問題のなかった点がやっぱり気になるから修正してくれ」と言ってくるのだ。そして二度目の修正を行い三度目のチェックをしてもらうと、また似たような事が起こる。


 とても逆らう事などできないので「そこを直せば全体に影響が出る」なんて点でもしぶしぶ時間を掛けて修正をする。そうして、奥歯を噛みしめて腹の煮えたぎるのを我慢しなんとかデータを完成させ、帰る頃には日付が変わっていた。


 そうしたことから、帰ればすぐに眠りたいほど疲労が蓄積してしまっている。


 しかし、安住の地であるはずの家へ帰って寝入っても、決まった時間になると目が覚めてしまう。


 それは、隣の部屋から夜な夜な聞こえてくる“呪文”のせいだ。


 真琴の睡眠不足は、主にこれが要因である。


 それが聞こえてくるようになったのは、先週の事。


 真琴の住む二〇一号室の隣、ずっと空き部屋だった二〇二号室に女性が越してきたらしい。らしいというのも、真琴はその隣人とは一度も会った事がないからだ。なら何故女性だと分かったのかというと、壁越しに聞えてくる声が甲高いからである。声はこもった音ではっきりとは聞こえないから、そこから年齢まで推測するのは難しい。が、真琴は、隣人は老婆なのではないかと想像していた。


 隣人は決まって、毎晩必ず二時から“呪文”を唱え始める。腹に力の入った唸るような声で唱えるのだ。そこで連想するのが、暑い時期になるとよくテレビで放送される心霊番組の霊媒師だ。そういった人はだいたい白髪で歳のいった老人というイメージがある。


 隣人が呪文を唱えはじめたのは、真琴が早朝に出社のためマンションの自室を出たとき、隣の部屋へ荷物が運ばれてくるのを見かけた、その翌日の晩からだった。


 小さな物音で目を覚まし、それは隣の壁越しに聞えてきていた。一体何かと壁に耳を当てると、単調な音で何かを唱えていたのだ。


 それは時間が経つにつれてどんどん激しくなり、感情がこもってゆく。獰猛な犬が歯をむき出しにして威嚇するような、そんな声になってゆく。そしてそれが十分ほど続いた後、今度は鞭で叩くような激しい打撃音が加わり、壁の向こうで拷問でもしているのかと思うような騒音となった。さらに十分後、突然しんとなって収まったかと思えば、再び単調に呪文を唱え始め、鞭を叩き、呪文を唱え始め──結局、これが深夜の三時を回るまで延々と繰り返された。


 そのおかげで趣味のゲームプレイを進める事は捗ったが、さすがに何日も続けば目元にくまができてしまう。


 上司からの修正指示で遅くまで作業し、家では隣人の呪文で寝不足になり、それが影響して仕事のミスが増え、遅くまで作業し──負のループだ。


 中学から高校まで、ゲーム制作の仕事に就きたいと必死に腕を磨いて来た。絵はもちろんのこと、3DCGも独学で勉強し、作品を大量に作り上げ、大学にも専門学校にも通う事なく見事ゲーム会社に就職を実現させた。


 その時には努力が実ったということや、若くして社会人の一員になった事に自信と誇りを持った。当然、親類や友人達もそれを喜んでくれた。が、いざ働き始めてみれば、周囲には自分よりもよっぽど出来る人が多ければ、自分の技術力の無さを痛感することにも多く出くわした。


 最初はそれこそ、これから出来るようになれば何の問題もないと自らに言い聞かせてきたが、現実は思ったように進んではくれなかった。自分の無力さに落ち込む日々が続き、そして今のプロジェクトに配属され、今の上司の下で修正作業の日々である。いつしかため息がクセになっていた。


 昼休憩時、さすがに気分の沈み様を隠し切れていなかったのか、隣席の同期がコンビニ弁当をつつきながら声を掛けてきた。


 上司についてはいつもの事だとして、寝不足の件を離すと、彼は「大家に注意してもらえばいいじゃん」と、とても当たり前でかつ効果的であろう提案をしてくれた。

 それを聞いて確かにそうだな、と目を丸くする。


 そこに今まで思い至らなかったのはきっと睡眠不足で頭が回っていなかったせいだろう。そう思った。


 真琴はさっそく、昼食を済ませるとオフィスを出て大家に電話を掛けた。


 隣人の夜中の騒音について説明すると、どうやら既にほかの部屋の住人数名からも苦情を受けていたようで、ちょうど警告文書をドアポストに投函しに行くところだったという。


 どうぞよろしくお願いしますと言って、真琴は電話を切った。


「どうだった? 解決しそう?」


 席に戻ると同期が聞いてきたので、曖昧な表情のまま椅子に座り、


「これから警告文を投函しにいくとこだってさ。他の部屋からも苦情が来てたらしい」


 そりゃそうだろうな、と呟いて、同期は席を立った。


 真琴はてっきり、その日から夜中の騒音は収まるものだと思っていた。が、その晩、また例の呪文は夜中の二時ぴったりに詠唱され始めたのだ。


 あの上司ならきっと壁を殴って威嚇したり、直接殴り込みに行ったりしそうだな、などと布団に潜り込んで想像したが、真琴にはそんな事をする度胸は微塵もなかった。


 大家に注意されても続けるのなら、恐らく退去させられることになるはずだ。


 こんな不気味な事を夜な夜な繰り返すような人が隣に住み続けているなんてぞっとする。


 素直に収まるよりも居なくなってくれた方がありがたい。あと少しの我慢だと思って、帰りにコンビニで買った耳栓を付けると無理やりにでも眠った。


 翌朝、部屋を出ると丁度、二〇三号室から中年の女性がゴミ袋を持って出て来たところに出くわした。呪文の隣人が済む二〇二号室を挟んだ一つ隣の部屋の住人だ。軽く会釈をした後、その人の顔を見るとどうも体調が優れない様子だったので、もしやと思い二〇二号室の騒音について小さく尋ねると、「そうなのよ」と顔をしかめた。


 まずい、と思った。


 大家へ苦情を言ったのはおそらく自分が最初のはずと言う彼女の話は、一時間も続いた。早い段階でかなり長引きそうだと悟ったのだが、どうにも切り上げるタイミングを掴む事ができず、会社へ十分も遅刻してしまった。


 その二〇三号室の女性は、夜中の二時に呪文が聞こえ始めると、壁を殴ったり、逆に大声で騒いで邪魔してみたりとあの手この手で対策を講じてみたらしいが、いずれも効果が無かったのだという。そして、大家からの注意も無視するような始末なので、結局、真琴と同じく強制退去させられるのを待つ他ないだろうねという話だった。


 二〇三号室の女性の話を思い出しながら上司の長い説教をやり過ごすと、席へ戻った。すると、同期が「今日で今の手持ちが終わるだろう。飲みに行こう」と誘ってくれた。


「実はその呪文みたいなやつ録音してみたから、後で聞いてみてくれよ」


 自分が毎晩聴いているこの気味の悪い呪文。録音は、何かあったときのためにしておいたものだが、この際誰かに是非味わってみてほしい。気が狂いそうになるし、挙句の果てには夢にまで出てくる。


 真琴が勝手に“呪文”っぽいのでそう読んでいるだけだが、一週間聞いている限りでは特に体に影響はない。聞くことによる害はなさそうだし、ただ寝不足というだけだ。減るものでもない。しかし、


「いや、興味はあるけどやめとくよ。僕は霊の存在とかは疑い切れないタイプなんだ」


 そう言って断られてしまった。


 無理強いするつもりもなかったので、同期に呪文を聞いてもらう事は諦めた。


 その日、知り合いの中でなら一体誰が聞いてみてくれるだろう、と考えながら、データの修正作業を進めていたが、


「おいおい、遅刻してきたうえにマトモに修正もできんのか、お前は」


 二十一時を回っても、上司にデータを気に入ってはもらえず、結局、同期との飲み会は流れてしまった。


「じゃあお前はどれだけマトモな修正指示ができてるっていうんだよ、このタコが」

 ……などと言い返せるはずもなく、黙って修正を続けた。


 久々に定時で退社し、同期と酒を飲み、良い気分で熟睡できるのだと楽しみにしていたのに──酒も入れば気分も良くなるし、上司に対する愚痴を存分に聞いてもらうつもりだったけれど、それを思っても今更仕方が無かった。


 帰路に着いたのは二十三時を回った頃だった。


 駅を出て十分ほどの場所にあるマンションへ向かう道中、まっすぐ伸びる道路の向こうに何やら赤い光が回っているのが見えた。速足でその場へ行くと、パトカーと救急車が一台ずつ停車していた。


 マンションに入ってすぐの一〇一号室の扉が開け放たれていて、付近には警察が数人、住人たちから話を聞いている。


 一〇一号室は、大家が住まう部屋だ。


 厭な予感がよぎったが、それはすぐに的中した。


 初老の女性が、救急隊員の運ぶ担架に乗せられ、部屋から出て来たのだ。


 真琴はマンションの階段を上がって、自分の部屋の前まで来た。


 すれ違い様に臭った線香のような香りと、泡を吹いて白眼を向いた大家の姿が、網膜に鮮烈に焼き付いて離れなかった。


 ちらりと、二〇二号室の扉を見る。


 ドアポストには、複数枚の紙がはみ出ていた。


 まさか、な。


 真琴は厭な妄想を振り払うと、自室へと入った。


 その日の晩に聞いた呪文は、今まで聞いてきたどの呪文よりも、気味が悪かった。


***


 真琴が勤める会社は完全週休二日制で、土日だけが真琴にとって気の休まる日だった。なんとか金曜のうちにデータを完成させ提出し、休日出勤だけは避けることができたのだ。


 およそ一週間ぶりに昼まで眠ると、起き抜けはすっきりした気分だった。月曜になってしまえばまた寝不足と上司へのイライラを募らせる日々が始まるかと思うと憂鬱だったが、とにかく今だけはゆっくり過ごそう。そう気持ちを切り替えたときだった。


 テーブルに置いたスマホが振動し、一瞬ドキリとする。手に取って画面を見てみれば、真琴の姉である真美からの着信だった。


「もしもし、姉ちゃん。どうしたの」


 今からゲームを始めるところだったので放っておこうかと思ったが、姉と話すのは久々だったので、少しだけならと応答した。


 が、真美は話し出すと一方的に何時間も語り続ける癖があったのを思い出し、通話に出てから少し後悔した。


 話してみれば、特に何がどういう報告があるわけでもなく、他愛もないただのお喋りで、途中からは適当に受け流しながらテレビゲームを起動して進めていった。


「でね、何が観たい? って聞くから、ホラー映画がいいなって言ったらドン引きされてね。ひどいよね」


「うんうん、ひでーひでー」


 昔からホラー小説を好んでよく読んでいた姉は、確かに周囲の人たちからは少し変わった子と思われている節があった。今でもその趣味は変わっていないが、以前よりは社交的になっているし、大学に通い始めてからは友人も増えている印象だ。


 そんなくだらない話を聞いて、ふと、真琴は無理やり忘れようとしていた“隣人の呪文”の事を思い出した。


「姉ちゃん、ちょっと聞いてもらいたいものがあるんだけど」


 真琴は以前録音しておいた、その隣人の呪文を真美に送り付けた。


「え、何。歌でも歌ったの」


「んなワケないじゃん。いいから、ちょっと聞いてみてよ」


 突然音声ファイルを送られてくれば、当然警戒するだろう。


 真美は渋りながらも、電話の向こうでその音声ファイルを再生してくれた。スピーカー越しに、聴きなれてしまった呪文が流れる。



ナウマクサンマンダボダナンオンマリシエイソワカナウマクサンマンダボダナンオンマリシエイソワカナウマクサンマンダボダナンオンマリシエイソワカ──



「いや、気持ち悪」


「だろ」


 想像通りの反応をしてくれた。


 これは一体何なのかと説明を求められ、真琴はこれが隣の部屋から毎晩二時に聞えてくるもので、かつ大家に注意されても止まないし、その上つい先日、大家が“心臓発作”で亡くなったという事を伝えた。


「それってやばくない? いつから? っていうか、大丈夫なの? もっと早く言いなよ。引っ越した方がいいかもしれないよ。呪文で大家さんが死んだのかどうかは分からないけど、そういう変わった人が近くに居るとほんとに何をしてくるか分からないしトラブルに巻き込まれると本当に大変だから。そういうニュースもテレビでよくやってるんだし真琴も気を付けたほうがいいんだからね。今すぐにでもお父さんとお母さんに相談したほうがいいんじゃない? 私にだって、遠慮しなくていいんだからね」


「姉ちゃん、相変わらずだな……」


 真美は一度興奮してしまうと濁流の如く喋り倒す癖がある。ホラー好きなんてものよりも、この喋りのほうがよっぽど他人に引かれる要素だろうと常々思う。


「さすがに、呪文で大家さんが死んだとは思わないけど……でも確かに、ちょっと怖いな」


 直接隣人に何かされたわけではないが、実際に寝不足になって肉体的にも精神面的に良くない事は確かだし、今後、隣人との間にトラブルが起こらないなんて保証もない。


 平和な土地に引っ越して安寧が手に入るのであれば、きっとその方が良い。が、引っ越すのにも時間と手間、お金だって必要になる。この付近にはスーパーやコンビニ、病院があり、そして駅も近い。家賃も手ごろで、真琴自身気に入っている場所だった。また物件を探して、引っ越した後もその場に慣れる事を考えると、あまり動きたくはないというのが本音だ。


「まあ、そうだな……もう一人亡くなりでもしたら、少しは考えるかも……」


 その時は冗談で言ったつもりだった。


 姉との通話を切った後、真琴はそのままゲームをプレイし続け、夜中の二時に呪文が聞こえ始めるとヘッドホンを付けて音量を上げ三時まで耐え抜き、ベッドに入る頃には窓の外が明るくなってきていた。


 昼過ぎまで寝るつもりで布団にもぐっていたのだが、玄関の扉の向こうから聞こえる激しい足音で目が覚めてしまった。時計を見ると、十時頃だった。


 何事かと思い玄関へ向かい、扉の覗き穴から外の様子をうかがう。


 警察と救急隊員が、二階と一階の階段を行ったり来たりしている。


 彼らが出入りしているのはこの階の部屋だ。


 じっと外を見つめつつ、耳を澄ませた。すると、微かに「二〇三……」という言葉が聞こえて来た。瞬間、胸が強く脈打って、寝ぼけた意識がはっきりとした。


 二〇三号室から誰かが担架で運ばれていく。


 その後すぐに、ギィと扉の軋む音が外の廊下に響いた。


 見ると、視界の端から──二〇二号室のある方から、全身真っ黒なひらひらの服を着た女性がぬっと現れた。真っ白な化粧に真っ赤な口紅を塗った、恐らく三十代半ばほどの……メイクが濃すぎるせいで正確には分からないが、その辺りだろう。


 彼女が、毎晩呪文を唱え、そしてもしかすれば大家と、二〇三号室の女性を殺した──呪殺した人物なのかもしれない。


 想像していたものと全く違った風貌に唖然としていると、ちらりと、女性がこちらを見た。


 覗き穴越しに一瞬、目が逢う。


 額から冷や汗が頬を伝う。


 彼女はすっと顔を逸らすと、コツコツとヒールを床にぶつけながら階段を降りていった。


 真琴は、あの目が語り掛けて来ていた気がした。「次はお前だ」、と。

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