5-6 抱擁
野球部のノック、バスケ部の掛け声、カメラのシャッターを切る音──様々な部活動の音が学校中で混ざり合っている。
グラウンド前を通ると、大勢に交じって守人の姿があった。中庭を抜けると、花壇にカメラを向けている八重子が居た。
玲汰は黙って通り過ぎていく。職員室で鍵をもらいB棟へ向かった。
一階の廊下。ここで、玲汰は初めて幽香を見た。姉と瓜二つの彼女と邂逅したそのときの衝撃は、昨日の出来事のように覚えている。
彼女はここで一冊の本を落として行った。それを拾い、幽香が残していく幽かな香りを追って階段を上がっていき、やがてそれはオカルト研究部の部室へと続いていた。今思えば、彼女に導かれていたのかもしれない。
一つ上の階にある音楽室から聞こえる合奏。今日はパート練習ではないらしい。今までバラバラだった演奏がまとまって、美しい一つの曲になっている。
玲汰はオカ研の部室前に立ち、引き戸に手をかけて──止めた。
ここを開けると、幽香はいつも奥の席に座って玲汰の事を待っていてくれた。そのままの勢いで扉を開けたい衝動に駆られる。そこにいつも通りの彼女の姿を期待した。しかし、何とか思いとどまる。
そして深呼吸をしてから──コン、コン、コン、コン……四回、ノックした。
「ハザマ先輩、居たらノックを……返してください」
鍵がかかっていて誰も居ないはずの部室。都市伝説では、先に中を確認してはいけない。
しばらくすると、コツン──ひっそりと、でも確かに、たった一度だけ。ノックが返って来た。扉のガラス窓の向こうは真っ暗なままだ。
「おれは──ユウカに、会いたい……」
ぎゅっと目を瞑って、祈るようにそう口にした。
やがて、そっと目を開けて扉のガラス窓を見る。するとそこには、人影が現れていた。身長は玲汰よりも少し低い。しかし、シルエットだけしか分からず、暗くて顔は見えない。
「ユウカ……?」
その問いに、影は答えない。
「──ハザマさん、だったんですね」
玲汰は一人で、影に言葉を投げ続けた。様々な情報から、玲汰は彼女、狭間幽香がハザマさんであると結論付けた。
「なんで、言ってくれなかったんですか。怪異だってことも……優香だってことも」
影は一言も発しない。黙ったまま。
この扉を一枚隔てた向こうに、彼女はいる。幽香が──優香が、いる。いや、いつも常に自分の傍に居たのだ。
だが、彼女は厳密には自分の“本当の姉”ではない。それは血の繋がり云々の話ではなく。
「これから話す事は全部おれの推測です。自信はないけど、でもこれであなたを……”ハザマさん“を解決して見せます」
玲汰は一度深呼吸してから再び、口を開いた。
「結論から言うと、ここはおれからすれば“異世界”だったんですね。
雨谷はおれに言いました。お前は私が消したはずだ、と。そして、ユウカの日記にもおれは消えたと書かれていた。風間玲汰は本来ここには居ないはずなんです。でも、おれはここに居る。それは何故か。
二年前、おれが失敗したと思っていた異世界エレベーターが、実は成功していたのでしょう。それによって、一見そっくりなこっちの世界、異世界へと来てしまった。おれが引きこもっていた一年間の間に、真美や守人たちの外見や中身に些細な変化がありました。でも、それは変化ではなくて、別の世界の真美、守人だったからそう見えただけだったんです。あなたの風貌が優香にそっくりで、でも少し違うのもその為です。
あなたがこちらの世界で雨谷に殺されたとき“とある未練”から、自ら創作した“ハザマさん”となった。同時刻、別の世界でおれは一人、異世界エレベーターを試した。優香が異世界へ行ってしまったと勘違いし、追いかけるためです。
ハザマさんが“会いたい”と願った相手であるおれ“玲汰が”、別の世界で異世界を目指したその時、おれは本当に異世界……この世界へとやって来たわけですね。
つまり、おれは二年間ずっと優香が異世界へと行ってしまったと思っていたけれど、本当はその逆だった。おれの方が、異世界へと来ていたんです。ハザマさん、あなたが会いたかった相手として、おれは連れて来られたわけだ。
あなたをハザマさんに変貌させた未練は二つ。
一つは、この町で好き勝手に怪異を使って人殺しをしている人物を止める事。雨谷自身が消したと思ったおれが現れる事で、虚をつくことができ、そして恐らく、元々“怪異の居ない世界”からやってきたおれは、怪異の影響を受けづらい体質だった。オカ研の協力により雨谷は居なくなり、この町に平和が訪れました。
そしてもう一つは、弟に、玲汰に会う事──狭間幽香としてではなく、ハザマさんとしてでもなく……風間優香、ひとりの姉として。違いますか?」
しばらくの沈黙の後、ついに影が言葉を紡いだ。
「……私には、優香としてあなたに会う資格はないの」
「どうして?」
「あなたは玲汰だけれど、この世界とは全く関係のない人よ。それをこんな危険な事に巻き込んでしまった。私のワガママで──」
それを聞いて、玲汰は小さくため息を吐いた。今更そんな事を言うのか、と。
「おれ、感謝してるんです。あなたに」
「……感謝?」
「別の世界の優香だったとしても、あなたが玲汰の事を常に想っていた事は、今までの狭間先輩の行動や日記を見ればわかります。オカ研を復活させるために部員を集めさせたのもきっと、おれの……玲汰の、失われてしまった居場所を取り戻すためですよね。
それに、無気力で将来を何も思い描けないおれでしたけど、あなたのおかげでやりたい事も見つけられました。……おれ、この経験を活かして本を書こうかなって」
ふらりと、影が揺れた。
「見つけたんです、とうとう。やりたいことを。おれは、あなたの夢を継いで作家になろうと 思うんです」
ユウカの息遣いが聞こえる。堪えるような、息遣いが。
「おれは色々なものをこっちでもらいました。だから、感謝してます。そりゃあ、くねくねに吐かされたり投げ飛ばされたりしたし、 タッちゃんにはヘンなモン飲まされかけたし、猿には指食い千切られるし、雨谷には首絞められるし。
色々大変な目に遭いましたけど、それ以上に大事なものもたくさんもらいました。真美や守人、八重子、そしてあなたと過ごしたオカ研での日々や、怪異との遭遇はオカルトマニアからすればとても貴重な経験でした。だからこそ、おれは作家を目指せる。あなたの夢を継ぐことができる」
玲汰は続けた。
「そして、おれが最後に解決する怪異はハザマさん……あなたです。おれは、あなたの本当の弟ではないですけど……でも、おれはあなたを大事な先輩であると……姉さんであると、心から思っています。おれじゃあ、ダメですか」
「……っ」
「おいでって……もう言ってくれないんですか。結構ストックされてると思うんだけど──」
言いかけてその瞬間、扉が開いた。
暗闇から飛び出してくる影。
ふわりとなびく長い黒髪に、幽かに香る甘い香り。幽香が──いや、優香が玲汰の胸に飛び込んできたのだ。
鼻をすする音。彼女は玲汰の胸元に顔をうずめて、泣いていた。
突然のことに一瞬思考が止まったが、
「これじゃあ、おれがおいでって……言ったみたいじゃないですか」
玲汰はそっと優香の背に手を回して優しく抱きしめた。
ひとしきり玲汰の胸で泣いた優香は、顔を見せないようにうつむいたまますっと後ろを向く と、一歩、オカ研部室へと入っていく。
そして、首からチョーカーを外した。その下には、生々しい痣が隠れていた。
「……私の全ての未練は成就されたわ、おめでとう。あなたはハザマさんを解決したのよ。自分の力だけでね」
自分の力で解決した。幽香に頼らなくても……だが素直に喜ぶことはできない。
「さぁ、帰りましょう。あなたが居るべき世界に」
言うや否や、彼女の周囲の暗闇から無数の手が伸び、玲汰の四肢を掴んだ。
「ま、待ってください! あなたはどうなるんですか?」
今までの怪異なら、解決すれば祓った事になり消えて行った。厳密にはくねくねは消滅し、夢猿はそのまま去って行った。タッちゃんは帰るべき場所へ帰った。なら、ハザマさんはどうなるのか。
「私は広く噂され、本当の意味での都市伝説となったわ。崇拝され信仰されるものと同じ、語る人が居る限り私はハザマさんとしてこの世界に存在し続ける──」
抵抗することもできず、そのまま引っ張り込まれてゆく。
「人をハザマへ引きずり込むような事を、続けるんですか……!」
「雨谷を止め、自分が会いたい人に会った。その代償。私はもう風間優香で居る事も、狭間幽香で居ることもできない。噂され続ける限り、私はハザマさんとしてその業を背負い続けるの」
足先が床から浮き、玲汰の体は暗闇に──ハザマに引きずり込まれる。
「私が優香で居られるのは、これで最後」
小さく、呟くように言った。寂し気で、頼りない。いつものような自信に満ち溢れた彼女ではない。
「狭間先輩……優香、おれ、また会いに来る!」
立ち尽くす彼女の傍を通り越してゆく。
「また、会いに──」
振り返る。離れゆく寸前、彼女の唇がそっと頬に触れた。
「大丈夫、私は傍に居るわ。冥界(あのよ)と現実(とこよ)の狭間から、いつも見守っているわ──」
最後に見た優香の俯いた顔。口元は、微笑んでいた。
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