5-2 幽香

 目を覚ますと、そこは病室だった。


 相部屋らしく、カーテンで区切られているベッドや、開けたまま雑誌を読んでいる人も居る。


 体を起こそうとすると体のあちこちに痛みが走り、すぐに諦めてベッドに身を預けた。見ると、左腕には点滴の針が刺さっていて、肩にも手にも包帯が巻かれており、黒く血が滲んでいるではないか。


 風間玲汰は、なんとかここに至る経緯を思い出そうと、記憶を辿った。


 そうだ、おれは猿夢に居て──真美は? 守人は? 八重子は、慶人は智花は。どうなったんだ。思うや否や、ベッドの傍にある棚の上に一冊の本と一緒に自分のスマホを見つけ、すぐ手に取ってメッセージを確認した。


 日付時刻に目をやると、どうやら一晩眠っていたようで、臨時放送による犠牲者の死亡日からは一日経っていた。アプリには真美や守人、八重子から連絡が入っていて、無事現実に戻ることができたと報告してくれている。それに八重子は、兄と浅間智花も無事目を覚ましたとメッセージを送ってきていた。


 全身の力が抜けていく。ほっと、胸をなでおろした。


 そういえば今日は終業式だった。明日からは夏休みに入る。


 担任だった雨谷恵子が猿夢の餌食となり、もう臨時放送に、怪異に怯える必要はなくなった。これからは平和な夏休みを、そしてオカルト研究同好会の活動の日々を送ることができるのだ。


 雨谷が居なくなって、学校側は騒いでいるだろうか。そうだ、また顧問の先生を探さないといけない。それよりまずは、狭間先輩に報告を入れないと、また文句を言われる──。


『狭間なんて生徒はいない』


 八重子や雨谷の言葉が脳裏をよぎった。


 狭間幽香という生徒は存在しない。その事についても、幽香から聞かないと。


 守人たちのメッセージに返事を入れてから、幽香と交わしたトークの項目を探した。しかし。


「……ない」


 見当たらなかった。


 さほど友人が多いわけでもない玲汰は、守人や真美、八重子ら以外の知り合いとメッセージのやり取りなどほとんどなく、幽香とのやりとりの項目は上位に来ているはず。なのに、彼女との会話の形跡が一切、見当たらないのだ。その代わりに、ラーメン屋のアカウントとのメッセージが上がってきていた。サムネイルには最後に送った人の文が表示されている。


『メッセージありがとうございます。申し訳ございませんが、こちらではお答えできま……』


 玲汰はこのアカウントにメッセージを送ったことなど一度もない。


 いつの間にか脇が汗で冷たくなっていた。


 厭な予感がしながらも、そのアカウントとのメッセージ項目をタップし、内容を開いた。


 画面いっぱいに表示されたやり取り。玲汰はたくさんのメッセージを、このラーメン屋のアカウントに送信していた。そんな記憶は一切ないが、しかし送った文章には覚えがあった。


『なんで……二人がもし犯人だったとして、おれたちを殺そうとする理由は?』


『メッセージありがとうございます。申し訳ございませんが、こちらではお答えできません。是非お店でお声かけいただくか、電話でも受付いたします。』


『不在着信5:34:28』


『メッセージありがとうございます。申し訳ございませんが、こちらではお答えできません。是非お店でお声かけいただくか、電話でも受付いたします。』


 奇妙なことに、公式扱いのアカウントであるから電話を掛けることができないはずなのに通話の形跡があり、しかも不在着信と表示されているのに通話時間が表示されている。そして玲汰から送っているメッセージは全て、幽香に送ったはずのものだった。


 自分はずっとラーメン屋とやり取りをしていた? いや、そんなはずはない。確かに幽香にメッセージを送って、彼女からも返事をもらって、スタンプだって送ってきていた。電話だってした。この間、朝まで通話していたばかりではないか。


 これではまるで、幽香が存在しない人みたいだ。


 オカ研部室で出会ってから、登校した日はほぼ毎日会っていた。


 そこでふと、玲汰は幽香と部室以外で会ったことがないことに気付いた。


 怪異の現場に共に行ったこともなければ、校舎内ですれ違った事もない。それに、真美や守人、八重子も、まだ一度も幽香と会っていない。幽香の存在を主張しているのは玲汰だけなのだ。まさか本当に、彼女は存在しないというのか。


(もしかして、全ておれの妄想だった?)


 優香を失い、その自責の念と寂しさから無意識の内に生み出していた妄想の産物で、タルパのようなものだったとでも言うのか。もしそうならば、玲汰の前にしか現れなかった事も、姉である優香にそっくりなことも理解できる。しかし、ならばなぜ突然消えたのだろう。


 雨谷がはっきりと「この手で優香を殺した」と宣言していて、事実を知ってそれを受け入れてしまったからだろうか。それまでは漠然とまだ生きているのではないかと思っていた。そこに幽かな希望も抱いていた。その希望から幽香という妄想を生み出し、自ら優香を救い出すためのモチベーションとして維持していた?


 いや、考えすぎだ。そんなはずはない。幽香は、確かに幽香は存在していた。この目で見て、話して──触れた事は一度も無いけれど。それに、浅間智花が瀬和慶人と同じ病院に昏睡状態で入院しているということを教えてくれたのは幽香だ。自分が知りえない情報を、自分が生み出した妄想が教えられるはずがない。


 幽香が「おいで」と手を広げてくれていたこと。彼女が自分の妄想だとしたなら、それは己の無意識が、深層心理が求めてさせたことだということになる。それはあまりにも……。


 寝起きの頭で深く考え込みすぎて、整理が追いつかなくなってきた。とりあえず落ち着こうと、棚にスマホを置く。元あった、本の上に。その本が、気になった。


 玲汰はカバンの中に“日常に潜む! 都市伝説の謎①”ならば、幽香と出会った初日に廊下で拾って以降ずっと入れっぱなしにしていた。しかし、これはその本ではない。そもそもサイズが違う。棚に置かれていたこの本は文庫本サイズで、青いブックカバーがついている。よく見たブックカバー。これは幽香がいつも、部室で一人読んでいた本に違いない。


 そう気付いた途端、さっきまで悩んでいた事が一瞬にして晴れていく感じがした。


(ほらみろ、やっぱりおれの妄想なんかじゃない! 幽香は存在してる。きっと、おれが眠っている間にお見舞いに来てくれていて、これを置いて行ったんだ)


 彼女が何故これを置いて行ったのかは分からないが、まさにここにある本が幽香の存在の証明だ。そう思いながら、本に手を伸ばす。


『この本は私の最もお気に入りの本なの。何度も読み返しているわ』


 幽香がそう言っていた。思い出しながら、ページをめくろうとして──やめた。


 ここに、全てが書かれていそうな気がしたからだ。これを読んでしまえば、全てが変わってしまいそうな気がして、怖くなった。存在しないと言われる狭間という生徒。消えたメッセージ履歴。残された彼女の本。


 玲汰は退院したその日から、すぐに学校へ行き部室を訪れたものの、鍵がかかっていた。いつもなら既に開いていて、幽香が待っていたのに。そして、何日経っても、幽香と会う事はできなかった。探してみても、八重子や雨谷が言っていた通り三年生の生徒どころか、二年、一年ともに狭間という苗字の生徒はおらず、また、幽香に似た生徒すらも、どこにも居なかった。


 夏休みに入ってからは週に二回程度、部室で同好会の集まりを行い、残りの部員はどうするだとか、顧問の先生は誰に相談するだとかを話し合った。最初は後ろめたさから参加を拒んでいた八重子も、真美の説得もあって今では以前のように合流し、会員として皆と活動を共にしている。その光景はまさに、二年前にあったあのオカルト研究部そのものだった。無気力だった頃には想像もしていなかった光景だ。


 しかし、そこにあの人の姿はない。立役者である幽香の姿は。


 オカ研の活動で見せる笑顔の裏側で、常に胸にはぽっかりと穴が開いたような感覚を抱えていた。話したい事や聞きたい事がたくさんあるのに、それが叶わない。まさか二度も、大切な人を失ったような気分を味わうとは。


 そしてもう一つ、雨谷の「お前は私が消したはず」という言葉もずっと引っかかっていた。くねくねの呪詛の影響が薄く、また、他の人と同じ呪詛の条件を満たしていてもNNN臨時放送に名前が載らない。それらと、何か関係が──?


 同好会の活動とは別に、玲汰は一人で部室を何度も訪れていた。二番目の自分よりも先に、いつもの席、いつもの本、いつもの態度でそこに居た彼女に会えるかもしれないという期待を持って。幽香と話せれば、全ての不安が消え去るような気がしていた。だが、誰も居ない。薄暗くて埃っぽい、怪しいグッズで埋められたこの部室には、誰の姿もないのだ。


「あら、いらっしゃい。玲汰クン」


 そんな声が聞きたくて、何度も一人で訪れるけれど、玲汰の望む会いたい人には会えないままだった。校内で、あの都市伝説が広まるまでは──。


『ハザマさんって知ってる?』

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