五、■■■さん
5-1 懸想
荒くなった呼吸を少しずつ整えつつ、物陰から廊下の向こうを覗く。今邑竜也の亡霊が追ってきていないかを確認すると──やはり居た。きょろきょろと虚ろな目で周囲を見渡しながら、こちらの姿を探している。腰から上だけの醜い化け物となってまで、復讐を果たさんと、自らを死に追いやった雨谷恵子を探しているのだ。
普段は自転車での通勤以外で運動といった運動を全くしてこなかった恵子は、顔を真っ赤にして汗を流し、中々落ち着かない呼吸に苛立ちを覚え始めていた。
そして、その苛立ちの矛先は一人の男子生徒、風間玲汰へと向けられている。
かつて高校時代の親友だった鈴木彩を間接的に殺した事を発端に、今邑竜也らを殺害してから怪異の存在を知り、以降は怪異を使って安全かつ迅速に、邪魔な存在を消してきた。怪異という非科学的な手法を用いることで、誰にも疑われず、証拠も残すことなく他人を殺せた。
しかし今までに二人、自分を危機へと陥れた人物がいた。そのうちの一人が風間玲汰だ。今、自らが生み出した怪異に追われ命の危機に晒されているのも彼のせいだ。あろうことか、こちらが仕向けた怪異をことごとく退けてきたのだ。霊能力の一つさえ持っていない彼が、一体どうやって。
それに、本来ならば玲汰は二年前、恵子の手によってあの世へ送られたはずである。再び目の前に現れた事も、今回彼が怪異を退けられた事と関係がありそうに思えるが……。
そして恵子の憎むべきもう一人、既にこの世に居ないはずの人物であり、雨谷恵子自らの手で殺した人物、風間優香。玲汰の姉。玲汰の父親の再婚相手が連れていた子である彼女は、何者かが怪異を用いて殺人を犯している事を知り、それを阻止せんと動き始めたのだ。
そして、徐々にその”何者か“である恵子に近づいて来た。それを辞めさせるために、脅しとして彼女の弟である玲汰を、怪異を使って消したのだ。結果的に優香を殺害することで事なきを得たものの、彼女は怪異を祓えたために直接手を下すこととなってしまった。そのリスクの事や、祓われた怪異の事を思い出せば、今でもはらわたが煮えくり返りそうな程の怒りが湧いてくる。
だが今日、そんな優香に一つ贈り物を用意できる事となる。あの世に居るであろう彼女に、玲汰を会わせてやれるのだ。
恵子はポケットから一本の黒く毛むくじゃらな棒を取り出して眺めた。猿の指だ。
玲汰たちを猿夢という都市伝説を模した怪異によって葬り去るために用意した、本物の猿の死骸から作り出した怪夢への乗車券。全部で十本を用意し、それらを猿へ返すことでしかこの怪異を退ける方法はない。そして、うち九本は既に玲汰によって回収されている。
先ほど彼は、全ての指を回収できたと思ってどこかへ向かったようだが、そのうち一本はニセモノとすり替えてある。今恵子が持っているこれこそが、真の最後の一本である。
やっとだ。これでやっと、忌々しい風間姉弟を葬り去り、再び平穏な日々を取り戻せる。しかし、その為にはもう一つ、道之駅の地縛霊となっていたはずの今邑竜也の亡霊をどうにか退けなければならない。どうやってこの学校へ来たのかは分からないが、今はそんな事を考えていても仕方がない。
今まで怪異を生み出してはきたが、祓った事など一度もなく、この状況をどうにかする手立てを考えなければならない。
今ここはA棟の下駄箱で、今邑竜也は職員室前に居て少しずつこちらへ近づいて来ている。
まずはより安全な場所へ逃げることを優先しなければ。
どこへ向かおうかと周囲を観察していると、ふと昇降口を見たとき、その向こうのB棟の廊下に人影を見た。窓越しに見たその人影は、制服を着た女子生徒だった。この状況でそんなものを見たくらいでは気に留めるはずもないが、しかし恵子はすっかりその生徒に視線をくぎ付けにされてしまった。
それはその姿が、もうこの世に居ないはずの、自ら手をかけたはずの──風間優香そのものだったからだ。
彼女はいつも長い髪をポニーテールに結っていたが、その女子生徒はそうではない。黒いストレートヘアーを揺らして廊下を歩いていた。その端整な顔は、何度も部室で見た憎い顔だったからよく覚えている。遠目から見てもそれが分かる程に、彼女は優香だった。自分がこの手で殺したはずの人間だった。
そこで、玲汰を殺すために脅した、写真部の瀬和八重子からの報告を思い出した。どうやら玲汰はオカ研に「狭間」という先輩がいて、その人物から怪異を祓う術を指導されていたらしい。
しかし、調べたところ三年生どころか、二年、一年、この学校には教員も含めて狭間という姓の人物は一人として居ない。玲汰が探られている事を察知して存在しない生徒をでっち上げたのか、はたまたその人物が偽名を使っているのか、分からなかった。
もし今見た優香のような人物が本人だったとして、不可解な点は残るとしても彼女が玲汰に怪異を祓う方法を教えていたなら今までの事は納得できる。玲汰が今邑竜也をこの場所に呼んだときも、扉越しに誰かに合図を送っていた。その相手が彼女だったのかもしれない。なら、彼を退ける術を聞き出せる可能性がある。
恵子は今邑竜也との距離がまだあることを確認すると、なるべく音を立てないような駆け足でB棟へと向かった。
廊下前まで来たが、生徒一人として見当たらない。突き当りには出入口はなく、あるのは二階へと続く階段だけだ。もしかして、幽香らしき人物はオカ研の部室へ向かったのか。
そう考えていると、背後で不可解な音がした。恵子は素早く、傍にあったロッカーの陰に身を潜めた。
すぐ傍まで、上半身だけの化け物が迫ってくる。不運にも、ロッカーの前で奴は立ち止った。生臭い臭いが漂ってきて嗅覚を刺激し、吐き気を催してしまう。
どうして自分がこんな目に。
思い返せば報われない人生だった。
親友である彩は才色兼備で、彼女とは常に周りと比較されてきた。彩はそんなもの気にする必要はないと言ってくれたし、自分が八木修人を好きだと相談したときには応援もしてくれた。でも、いつまで経っても自分は彼女の引き立て役であったし、欲しいものは皆奪われていった。
想い人の心まで。教師になってからは自分のような惨めな生徒を出さない為にも、誰にも分け隔てなく接して相談にも乗り、良き教師であろうとした。だが、そうして尽くして後に残ったのはこの腕の痣だけだ。結婚はまだなのか、だの、孫の顔が見たいだのと騒ぐ親戚にもうんざりしていた。もう、我慢ならなかったのだ。
自分は悪くない。悪いのは周囲の人間だ。少しくらい良い思いをしたっていいだろう──。
もどかしい気持ちでぐっと歯を食いしばったとき、唐突に電子音のメロディが廊下を走り抜けた。それに反応して、化け物が機敏な動きで音の元を探し始める。
音は恵子のポケットから鳴っていた。スマホだ。
急いで取り出し音を切る。画面には八木修人と表示されていた。
「居ました。先生、で、です。にはを。安心ここここここここここ」
CDが音飛びしたような不気味な声に振り向くと、今邑竜也の顔が目の前にあった。彼の首が、ぐるりと人の構造を無視してフクロウのように回転する。
恵子は地面を蹴って走り出すと、廊下を抜けて階段を全力で駆けあがった。
悲鳴を上げる膝に鞭を打ち、二階へ、三階へ上ってゆく。肺が潰れそうなほどに苦しくなるのを我慢しながら、オカ研部室のある四階へたどり着き、その方向を見た。
居た。風間優香らしき女子生徒が、オカ研部室へと入って行くのが見えた。
振り向くと、十五段下の踊り場には、ずるずると胴体を引きずって、今邑竜也が迫って来ている。一切の迷いもなく、恵子はオカ研の部室まで走った。
扉に向かって右拳を何度も叩きつける。
「おい風間! 居るのは分かってるのよ、出てきなさい! あのバケモノをどうにかしろッ!」
しかし、反応はない。開けようとしても、内鍵がかかっているようで扉はびくともしない。さっき確かに女子生徒が入って行くところを見たし、それに鍵をかけるような音は一切しなかったはずなのに。
「せんせぇ、せんせぇ、あがががまいあがいまいんせぇせせせせせ」
鼓膜をねっとりと舐めるような音声が廊下にこだました。遂に廊下の一直線上、十メートル先に今邑竜也が現れ、こちらの姿を捉えている。
パキ、と彼の首から奇妙な音が鳴る。
次の瞬間、長年探し求めた獲物を発見したように狂喜乱舞する様子で、両腕を器用に前後させ猛スピードで走り寄って来た。
「さっさと開けろ風間! ここに猿の指がある、玲汰がどうなってもいいのか!」
扉は開かない。
今邑竜也は次々と教室の傍を駆け抜け、恵子との距離をあっという間に縮めてくる。口元からだらだらと唾液をこぼしながら、飢えた獣のように髪を振り乱して。
「くっ、来るなぁッ!」
そして遂に、恵子の足は木の枝のように細く青白い手に掴まれ──その時だった。
カチンと開錠される音が廊下に響き、一泊の前の後、一瞬のうちに扉が開いた。
その向こうにはパイプ椅子と机があり、オカルト関連の本が詰め込まれた本棚があって、あちこちに怪しい機器やカードが並んでいて、長年顧問を担い見慣れたオカ研部室──のはずだった。はずなのに、何も見えない。真っ暗だ。まだ夕方で日もかろうじて出ている。なのに、まるで夜明け前の最も暗い空のように、ただただ一面の黒だった。当然、誰の姿も見えない。
一体、何が──恵子の脳が状況の把握に追いつかずフリーズした。
そこから復帰を促すかのように、暗闇から声が届いた。
「さようなら」
理解するよりも速く、暗闇の奥深くから無数の青白い手が現れ、雨谷の頭を鷲掴みした。
「え」
手首、足首、胴体、全身を青白い手に掴まれ、暗闇へと引っぱり込まれてゆく。必死に抵抗するも、一切逆らえないほどの力があった。絶望感に苛まれたとき、窓の向こうに小さく、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。それはよく知った男性の声だった。
「八木くん……?」
八木修人の声だ。何故かはわからないが、会いに来てくれたのだ。
「八木くん、助けて! 私はここ! 八木くん!」
しかし、その声は届かない。修人の声はどんどん遠ざかっていく。比例して、体は闇に沈んでゆく。
恵子は涙を流しながら、今邑竜也ともども暗闇の中へと飲み込まれていった。
そしてゆっくりと扉が閉まり、最後に施錠の音が虚しく廊下へと響いた。
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