4-14 零落
薄汚れたスーツに身を包んだそれが、すっと顔を上げる。見ると、玲汰たちがよく見知った顔だった。
「雨谷先生……」
先に声を出したのは八重子だった。
雨谷は何やらひどく怯えているようで、膝が震えて立ち上がれない様子だ。瞳孔も開いていてギラついた目をしている。まるで、さっきまで死の危険に身を晒していたかのような、そんな怯え方だ。スーツも黒ずんでいて、ところどころ裂けている。血も滲んでいた。
そんな雨谷にとっさに駆け寄った真美。そういえば真美も守人も、一連の怪異を仕向けた犯人の事は一切知らない。
「真美、雨谷に近づくな!」
しかし遅かった。真美は雨谷に首を腕で挟み込まれ、喉元にガラス片を突きつけられてしまった。
「せ、先生……?」
真美は困惑した表情で、雨谷の顔を見た。何が起こっているのか理解できていない。
「かっ、風間玲汰! あれは、な、なんだ、あの優香の皮を被った、ばっ、バケモノはっ!」
回らぬ舌で唾を飛ばしながら言葉を吐き出す雨谷。真美に突きつけたガラス片を持つ手は激しく震えていて、今にも真美の皮膚を裂いてしまいそうで怖い。
優香の皮を被ったバケモノ。もしかして、幽香の事を言っているのか?
気付くと、雨谷に気を取られている内に、いつの間にか指猿の姿が見当たらなくなっていた。
「やっ、八木くんは!? ……ここは何処なの? 私を早く帰しなさい!」
真美の首にぐっとガラス片を寄せる。大きく震える手で握ったガラス片は、既に真美の首元に傷を作っていた。血がたらりと流れる。
「そんなことよりも、残りの猿の指はどこにあるんだ!」
「猿の指……? あぁ、アンタはニセモノを持って行ったものね」
ぎこちなく口角を上げて、パンツのポケットから雨谷は指を取り出して見せた。
「……それがあれば、ここから帰れるんです。おれに渡してください。」
言って、手を伸ばす。猿の指、最後の一本。
「フッ、フヒッ、そうか。ここは猿夢か! 誰が渡すか。これで帰るのは私だけでいい!」
言って、雨谷は真美を突き飛ばし、最後の猿の指を高く掲げた。
「お前が欲しいものはここにある。さあ、私を解放しろ!」
やはり、気が動転している雨谷に正常な判断はできないようだ。
雨谷が高らかに宣言した途端、電車内の空気が一変した。それまで生ぬるかった空気は真冬のように一気に冷え渡り、あちこちから監視されているような視線が全身に突き刺さる。
「なんだ、これ……」
視線の正体。それは、外から窓枠の中を覗き込むように、逆さまになった無数の影が車両を取り囲んでいた──猿の群れだ。先ほどの咆哮に引き寄せられたのだろうか、見た目は傷もあれば無傷なものもあり、指猿のように火傷を負っているものが全てではない。全員、雨谷を見ていた。掲げられた指でなく、雨谷を。そして、追い打ちをかけるようにアナウンスが流れる。
『次は、活け造り、活け造りです』
それを合図として、猿たちは飢えた獣のような勢いでいっぺんに雨谷へと飛び掛かった。
玲汰たちは思わず後退った。
黒い毛むくじゃらの群れに、あっという間に雨谷の姿はかき消された。布の破れる音がして、雨谷の身ぐるみは次々に引き剥がされて行き、皮膚、そして肉へと──裁かれていった。
雨谷の断末魔に、玲汰たちは耳を塞いだ。
猿夢が、今目の前で起こっている。夢だが、これは現実でもあるのだ。
玲汰たちは耐えかねて、それを最後まで見届けることなく一号車まで避難した。指を全て返すことができたとはいえ、自分たちが襲われないとも限らない。できるだけ距離を取った。
しばらく気を張った状態が続いたが、猿が追ってくる様子はない。
守人が扉の前に見張りに立った。
先ほどの出来事に衝撃を受けた様子で、うつむき加減の守人の顔は青ざめていた。それは彼だけでなく、皆そうだった。それに、守人と真美は雨谷恵子こそが自分たちの命を奪おうと怪異を仕掛けてきた黒幕であり張本人ということを、まだ知らないのだ。玲汰がその事を簡潔に伝えても、やはり信じられないといった様子だった。しかし先ほど真美を人質にした事を考えれば、それで納得せざるを得ないだろう。
「でも、八重子ちゃんはお母さんやお兄さんを守るための行動だったんだね……」
胸をなでおろしながら言って、そこで何かに気付いたのか、真美は周囲を見渡した。
それを見て、玲汰もはっとなった。
「慶人さんと、智花さんが居ない……!」
指を返したことが原因となったのかは分からないが、虚ろな目をして座っていた真美と守人が動き回ることができている。ならば、慶人や智花の二人もそうであるはずだ。しかし、前回ここへ来たときは確かに二人共に電車内に居たはずなのに、今回八号車から一号車まですべての車両内を回っているにも関わらず、姿を一度も見ていない。一本道の車両で入れ違いになったということもあるまい。
「誰か一度でも二人の事見た人は? 守人は……守人?」
たった数秒目を離した隙に、守人の姿は消え失せていた。入口を見張っていた彼が車両を移動すれば、扉の開く音で気付く。しかし、そんな形跡もない。
「どこへ行ったんだ? 真美は」
振り返ったが、今度は真美の姿もなくなっていた。
突然の事態に困惑する玲汰。すぐ傍に居たはずの八重子の姿も見当たらない。
この車両に、玲汰がたった一人残されていた──いや、一人ではなかった。
背後に気配を感じて振り向くと、そこに一人の男性が座席に腰を下ろしていて、じっとこちらに視線を送っている。見覚えのある顔。タッちゃんだ。
見た瞬間、心臓が飛び跳ねた。警戒に体がこわばりもしたが、しかしよく見ると彼は今まで見たタッちゃんの姿でなく、五体満足、人の形をしていた。玲汰には恐らくそれが、かつての今邑竜彦の姿なのだと思えた。
そんな彼、竜彦は何かを言いたげにこちらを見ているが、口を開こうとする様子はない。しかし何故か、それが少し微笑んでいるように見えて、妙な安心感を覚えた。焦る必要は無いと、そう言われているような気がして、玲汰はすぐ傍の席に腰を下ろした。
『次は~よる、よるです』
アナウンスが鳴る。それはノイズもなければ猿夢の処刑を知らせるものでなく、次の停車駅のアナウンスだった。つまりこれは──考えた矢先、ふと気づけばいつの間にか車両内の血痕やガラス片などはなくなっていて──ということは、猿夢は終わった……ということだろうか。
電車が止まり、玲汰が座っている側の扉が開いた。
竜彦は玲汰から視線を外して立ち上がり、電車を降りていく。
玲汰は背にある窓へと体を向けて、竜彦の姿を追った。
彼が向かう先には、あのベンチがあり、そこには二つの影があった。影たちは竜彦に気付いたのか、すっと立ち上がると駆け寄っていった。天井にぶら下げられた蛍光灯に照らされて、影たちの正体が露になった。制服を着た男子学生だった。貴志祐太と大松京介だろうか、やはり竜彦の事を待っていたのだ。
三人の再会を見届けたかのように、電車の扉は閉まり、走り出す。彼らの姿が小さくなっていく。ふと、竜彦がこちらに頭を下げたような気がした。しかし、もはやその姿は彼方で、暗闇しか見えなくなっていた。
姿勢を正面に戻して、深く腰掛け直す。
今邑竜彦の事もそうだが、改めて思い返せば、突然現れた雨谷のこと、そして途中で停車したハザマという駅。八重子や雨谷の、狭間という生徒は存在しないという発言。
気になる事が多すぎる。聞きたい事が山ほどある。帰ったら、話したい事がたくさんある。
『次は~きさらぎ──かたす──』
異常現象の影響からか、突如眠気が襲ってきた。
緊張が解けたこと、そして疲労が溜まっていたことも相まって、それに逆らえず、玲汰の意識は深みに落ちて行った。
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