4-13 狭間

「八重子、逃げ──」


 反射的に駆け出したが、遅かった。


『つ、つつつつ次は、みみじん切、みじん切みんみみ切りっりでりりりり』


 袋を持った八重子の右手に、指猿は口が裂けるのもお構いなしに大きく開いて噛みついた。


 八重子は悲鳴を上げながら指猿と共に床へと倒れ込んでいく。


 玲汰は大きく振りかぶって指猿の腹部へと向かって右足を振り上げた。しかし、指猿はあっさりと八重子から飛んで離れていった。蹴りは空を切り、勢い余って姿勢を崩し、玲汰は背中を床に打ち付けた。背中に破片が強く食い込む。


「玲汰センパイ、大丈夫ですか!?」


「すげー痛いけど、まだ大丈夫……でも、猿はどこに行った?」


 指猿は暗闇に溶け込んで姿をくらませたようだ。トンネルの照明に照らされた間に車両内を見渡しても行方を掴めない。だが必ずどこかに潜んでいるはずだ。


 玲汰は制服のワイシャツの袖を破き、八重子の右手にぐるぐる巻きにして応急処置を施した。


「この指を返そう。そうすればきっと、おれたちは猿夢から解放されるはずだ」


 頷き合うと、二人で袋から猿の指を取り出し、床に置いていった。しかし。


「なんで……一本足りないぞ……!」


 この袋には回収した全ての指、合計十本が入っているはずだ。しかし、床の上に並んでいるのは九本しかない。


「もしかして、あの時……猿が叫んで驚いたとき転んで、落としたのかも……」


 指猿が、蛍光灯が砕け散り窓に亀裂が走るほどの咆哮を鳴らしたとき、八重子は隣の車両で転んでいた。あの車両は確か、五号車だったと記憶している。この電車の中に全ての指があるならば、最後の一本がどこに落ちていようが指猿がそれを見つければ問題はないだろう。


 しかし今この場に居る自分たちは、指を九本しか返せない。最後の一本を指猿が手に入れるまでは、猿夢は終わらないだろう。自分たちは、奴にとって自分の指を所持していた敵としてしか写っていないだろう。追われ続ける事になる。


 玲汰は急いで床の指を袋に詰めなおすと、八重子の手を引いて五号車目指して走り出した。


 後ろを見ると、頭上にあるつり革がひとりでにに大きく揺れていた。その揺れは一つずつ、連鎖するようにこちらへ向かっている。まるで何かがそれを伝って移動しているかのように。


 トンネルの照明が一瞬、その姿を照らす。


 逆さまになり、足で器用につり革へぶらさがる指猿の姿が見えた。だらりと垂れ下がった長い腕の先には指がなく、あんぐりと開けた口からはどす黒い液体がしたたっている。そして、その眼はこちらへ突き刺すような視線を送っていた。


「走れ!」


 叫ぶや否や、扉の前まで来ると力任せに開けて、七号車へ移った。八重子を先に通して、玲汰はすぐに振り返り扉を閉じようと手を掛ける。しかし、硬い何かがそれを拒んだ。


『つ、つつつつ次は、かかか釜茹で、かままままでですすすす……』


 指猿だった。自らの体を潜り込ませ、扉が閉まるのを防いだのだ。


「玲汰センパイ!」


「おれのことはいいから、早く行け!」


 激しく暴れる指猿の力は強く、とても抑えきれるものではない。玲汰は扉から手を離すと、袋から猿の指を適当に数本取り出して、八号車内へ向かって投げ捨てた。指猿は首でそれを追った後、踵を返して指の方へ駆けていった。その隙に玲汰も六号車へと向かった。


『つ、つつつつぎぎつぎぎいははははは』


 走る玲汰の後ろから、ギシギシとつり革の揺れる音が迫ってくる。思ったよりも指猿が追い着いてくるのが早い。また数本指を床にばらまき、指猿の注意を逸らした。

「八重子、指は見つかったか!?」


 五号車へたどり着いたとき、そこには床の上をくまなく探す姿勢の低い影が三つあった。一つは八重子で、他は、


「まだ見つかってへん。さっき拾ったんは自分の指やったわ」


「暗くて全然見えないの!」


 守人、それに真美だった。


 二人が所持していた猿の指を指猿へ返した事で、呪縛から解放されたのだろうか。食い千切られたらしい指は戻ってはいないようだが、玲汰は目頭が熱くなるのを感じた。しかし、指猿は感動する猶予すらも与えてはくれなかった。


 振り返るとそれはすぐそこまで迫っていた。とっさに扉を押さえつけ、侵入を防ぐ。


「今の内に、早く見つけてくれ!」


 扉の引手は浅すぎて、今にも指が滑ってしまいそうだ。扉のガラス越しに、おぞましい表情の指猿が暴れているのが目に入ってくる。口を大きく開けて、唾液と血をガラス窓に飛び散らせながら、取り戻した指を引っかけて、激しく引いている。長くはもたない。


「座席の上も探したけど、見当たらないよ!」


「ホンマにここに落としたんか?」


 守人が言って、


「……もしかしてお前」


 八重子をにらみつけた。


「も、持ってないです! 裸になったって見つかりませんよぉ!」


「窓から捨てたとかもあり得るやろ!」


 糾弾する守人と必死に否定する八重子を、困惑した表情で見つめる真美。


「今はそんなことよりも指を見つけるのが先だろ! もう限か……」


 指先を滑っていく引手。開く扉。


 終わった──死を覚悟した、その時。


「あ、あったよ!」


 真美がその手に猿の指をかかげて叫び、そして、それを玲汰に向かって放り投げた。


 飛び掛かってくる指猿。玲汰はまっすぐに手を伸ばしてそれを受け取ると、残り全ての猿の指と一緒に指猿へ向かって投げ渡した。


 床に散らばる自分の指を必死に拾う指猿。


 それを目から離さぬようにしながら、玲汰は三人の元へと下がった。


 四人が固唾を飲んで見守る中、指猿は手で床に転がった指を拾い上げると、目を凝らして選別していった。そして、最後の一本となったそれを、動きを止めてじっと見つめた。


 これで、この悪夢が、猿夢が終わる──思った、次の瞬間。


 指猿は大きく口を開いたかと思うと、鼓膜を突き破る程の勢いで甲高い悲鳴を上げた。


 四人共が耳を手でふさぎ、苦悶の表情を浮かべる。


 亀裂の入っていた窓は全て粉々に吹き飛び、突風が車両内に吹き荒れる。吊り革は激しく揺れ、手すりは共鳴して大きく振動した。


 悲鳴が止むも、頭の奥ではキン、と耳鳴りが続いている。


 指猿は口を閉じると、最後の一本を拒絶するようにこちらへ投げつけた。玲汰は耳からそっと手を離すと、床に転がったそれを拾ってみて戦慄した。よく見ると、それは他の指と見た目も質感もそっくりだが、毛の間から除く皮膚が明らかに作りものだった。


 これは偽物だ。


 そういえば、雨谷から奪った後、急いでいた為に中身をしっかりと確認していなかった。


 まさか偽物を用意していたなんて。


「雨谷……ッ!」


 あまりの悔しさに、血の味がするほど唇を強く噛んだ。


「れ、玲汰センパイ……」


 後ろから弱々しく、八重子が玲汰の袖を引っ張った。玲汰は小刻みに震えているその手を取って強く握りしめた。


 指はもはや揃わない。最後の一本を回収する方法はもうない。では、どうする? ここから逃げるには目を覚ますしかない。どうやって? 皆は自分の意志で動くことができている。明晰夢ならば、覚めろと念じれば……できたなら既にやっている。なら、とにかくここから逃げ出すか? この走る電車のどこに逃げ場があるというのか。


 目の前の指猿が、こちらへとにじり寄った。


 もはや、ここまでか。


 死を覚悟し、目を強く瞑った──そのときだった。


『間もなく、ハザマ、ハザマです。右側の扉が開きます』


 活け造りが始まる前に、アナウンスは到着する駅の名を告げた。


 玲汰は自分の耳を疑った。真美や守人、それに八重子までもが困惑の表情を浮かべていた。


 聞き間違いで無ければ、たった今、アナウンスは“ハザマ”と言ったか。


 車両は徐々にスピードを落とし、停車。しかし、外は真っ暗なままで、いつの間にかトンネルを抜けたわけでもない。空気の抜ける音を立てて、アナウンスされた通りに右側の扉が開いた。しかし、その向こう側にはホームなどなく、ただただ暗闇が広がっているだけだ。誰かが乗り込んで来る気配も感じられない。


『ハザマ、ハザマです』


 玲汰たち四人はじっとその暗闇の向こうを見つめた。指猿も同じように視線を向けている。


 しかし、何も起こらないまま、やがて発車の合図のメロディが流れた。音程がずれ、酷いノイズの混じったそれが止み、扉が閉まる、その瞬間。


 暗闇の向こうからふっと何かが車両内に飛び込んで来た。それはどしゃりと床に転がり、扉が閉まると唸り声をあげながら起き上がった。


 電車がゆっくりと走り出す。


 薄汚れたスーツに身を包んだそれが、すっと顔を上げる。見ると、玲汰たちがよく見知った顔だった。

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