4-12 前進

 それを見た途端、玲汰は弾かれたように扉を開き、貫通幌を通って四号車へ足を踏み入れると、大声でその黒い塊に──“指猿”に怒鳴りつけた。


「おい、もう無駄に指を貪るのはやめろ! お前の欲しいモノは、ここにある!」


 左右の指十本が入った袋を掲げて示す。


 指猿の図体は動物園で見るようなニホンザルと大差はないが、その焼け焦げた黒い外観と、ただただ一心に足りないモノを求める狂った姿勢から来る威圧感がある。常にこちらは威嚇されているような感覚に陥ってしまう。


 背を丸めたまま、指猿はゆっくりとこちらを向いた。以前見たときは黄色く濁った眼をしていたはずだが──真っ黒だった。オニキスのように深い漆黒の瞳から、頬を伝って紅い涙が止めどなく流れている。


 指猿は玲汰の掲げた袋へ視線を移すと、大きく目を見開いた。自分の指だということがすぐに分かった様子だ。俊敏な動きで体ごとこちらへ向けた。


 これを返せば、全て終わる。指猿へ向かって、それを投げ渡そうとした。しかし振りかぶった途端、手元がふっと軽くなった。


 背後に気配を感じて振り向くと、そこにはさっきまで玲汰が持っていた袋を両手に抱えた、小柄な少女が立っていた。


 瀬和八重子だ。彼女が、玲汰の手から猿の指を奪い取ったのだ。


「猿の指は返させません。あなたたちが全員、死ぬまでは!」


 八重子は踵を返して後方車両へ向かって駆け出した。


「待て、八重子!」


 猿の指が離れて行く。それを認識するや否や、指猿は裂けそうなほどに大きく口を開いて歯茎をむき出しにし、金切り声を上げた。怒りの中に悲しみのような震えの混じった声。


 鼓膜を圧迫される感覚に襲われ、思わず耳を塞いでしまう。


 そして叫びに呼応したように、震えた窓ガラスは耐えかねて次々にヒビが入って行き、天井の蛍光灯は激しく点滅すると、粉々に砕けて四散した。四号車を中心に、波紋のように車両内が暗転していく。


 幸い破片は玲汰に怪我を負わせるようなことはなかったが、視界が著しく悪くなってしまった。電車内を照らすのは、一定間隔で通り過ぎていくトンネル内の照明のみ。それに、指猿の姿は黒く、暗闇に溶け込んでいるため視認が難しい。


 玲汰は姿勢を低くし、息を殺した。


 一定のリズムでトンネルの照明が車両内を照らす。目を凝らせば、それのおかげで指猿の姿は何とか捉えることができた。指猿は暗闇の中でゆっくりとこちらへ向かって歩いてきている。


『た、たたた、だいまかかか、じょき、きききっぷ、きっぷきっぷきっぷますすうぅぅぅ……』


 車内アナウンスは狂ったようなノイズにまみれ、音程は極端に下がって行った。もはや何を言っているのか分からない。


 後ろでジャリっとガラスを踏む音が聞こえた。振り向いて五号車内を見ると、暗闇の中で何かが蠢いている──八重子だ。さきほどの指猿による咆哮で転んだのか、床にうつ伏せになっているのが見える。そして起き上がろうとしている彼女を、指猿は完全に捉えていた。


 八重子が起き上がり走り出した瞬間、指猿は跳躍した。


 この勢いは八重子を殺して奪い取るだろう。思い立ってすぐに玲汰は、とっさの判断で通路の扉を閉じ、そこに立ちふさがった。


 指猿の視線はこちらへ向き、そのまま玲汰の胸へと飛びつく。そして大きく牙をむくや否や、勢いよく玲汰の左肩へと噛みついた。


 筋肉の繊維が次々に切れていく感覚に悲鳴を上げながら、玲汰は傍の座席上に散らばった蛍光灯の破片から大きめのものを見繕って拾うと、指猿に思いきり突き立てた。しかし死した者に痛覚など無く、一切の反応もなかった。


 破片から手を離し、今度は指猿の頭部を両手で鷲掴みにすると、地面を蹴って前へと倒れこんだ。このまま押しつぶしてやろうという魂胆だったが、指猿はすっと顎の力を緩めると玲汰の腕を払いのけ、あっという間に背へと回り込んでしまった。


 蛍光灯の破片の上へと倒れ込み、胸元で細かく砕け散る音が体に響く。腕や頬に細かな破片が次々に刺さる。指猿はそんな玲汰へ容赦なく、今度は背後から首元に噛みついた。


 首はまずい!


 手の平に刺さる破片もお構いなしに床へ手を着いて立ち上がると、後ろへ向かって全力でバックした。今度は避けられなかったようで、指猿は通路への扉と玲汰に挟まれ、骨の軋む音が聞こえた。続けて今度は座席へと上り、窓へと突進。すると、亀裂の入っていた窓はその衝撃に耐えられず、何の抵抗もなく粉々となり、車両に大きな穴を開けた。


 体はそのまま飛び出していき、外へと放り出されていく。


 玲汰はとっさに両手を伸ばし、へりにしがみついた。わずかに縁に残っていたガラスのトゲが指へと食い込む。痛みに力が抜けそうになるが、離したが最後、死あるのみ。


 指を持たない指猿は玲汰にとっさにしがみつくことができず、外へ投げ出された体は列車の後方へと吹き飛ばされて行き、あっという間にその姿は見えなくなった。


 脅威は去った。が、今手を離せば命が無い。もはやガラス片による痛みなどに構わず、前腕を引っかけ上半身を手繰り寄せ、片足を潜り込ませでやっとの思いで車両内へと戻って来た。


 座席にもたれかかって大きく息をつく。全身から一気に力が抜けていった。


 死ぬ事に比べればいくらかの生傷など些細な事ではあるが、全身のあちこちでジンジンと痛む。これも、生きている証拠か。


 しかし、指猿を外へと放り出すことができたとはいえ、怪異がこんなあっさりと物理的に葬り去れたとは思えない。現に、電車は走り続けていて、猿夢から覚めていない。


 指猿の追って来ない今のうちに八重子を見つけ出し、猿の指を取り返さねばならない。


 軋む体に鞭を打って立ち上がると、玲汰は急いで後方車両へ向かおうと立ち上がった、が。怜太は体に違和感を覚えた。厭な予感がした。


 体が、重い。またあの夢の症状だ。だが、怜太は無理やり体を引きずって前へ進もうとはしなかった。目を瞑り、焦らず、頭に幽香の姿を浮かべてあの言葉を思い出した。


「……」


 今まで自分は空っぽだと思っていた。何も無い役立たずな奴だと。でも、幽香と出会って、みんなと出会って様々な困難を乗り越えて。自分は空っぽではないと判った。思い通りに行かない事だってたくさんあったし、今もそうだ。でも、これまでとは違う。少しでも確実に進むことができる自分になれた。


 痛む左肩を抑えながら、ゆっくりと右足を出した。そして続けて左足、右足。頼りない足取りで、でもしっかりと、暗い車両内を進む。


 おれは、前へ進めるんだ。


 自分の成長ぶりに驚きつつも、先ほどの指猿との揉み合いで体力を消耗してしまっていた怜太。足の裏で踏みしめる破片の感覚はもはや感じていない。いつの間にか息も上がっていて、少し寒気を感じる。今すぐその場に横になって目を閉じたい欲求に駆られて仕方がない。七号車まで来たとき、その欲求はピークを迎えた。


 完全に歩みが止まり、瞼が次第に重くなっていく。全身の力が抜け去ろうとしていた、そのとき。何か物音が聞こえたような気がして、はっと目を見開く。そして、耳を澄ませた。空耳だろうか。いや、違う。後方から、薄く硬い……まるで鉄板を叩くような音が聞こえる。しかも、上から。もしや、指猿が外に居て、追ってきているのではないか。


 さらに追い打ちをかけるように、あのアナウンスが鳴り響いた。


『つ、つつつつ次は、みみ、じん切り、みんみみ切りっですすすすす……』


 玲汰は頬を強く叩いて気合を入れると、再び車両内を進んだ。できるだけ早く、駆け足で。


 貫通幌を抜けて扉を開けると、八号車へと足を踏み入れる。最後尾だ。


 視線の先に人影があった。八重子がいる。その手には、例の袋が握られていた。しかし、その袋は大きく開けられた窓の外へとさらされていて、風にあおられ、今にも指猿のように飛んでいってしまいそうなほど激しく揺れている。


「やめろ、八重子!」


 背後でゆっくり、でも確かに、音は近付いてきている。


「あ、玲汰センパイ……くひひひっ。どうしたんですかぁ。満身創痍じゃないですかぁ」


 その笑みは引きつっていて、いつものような皮肉さも陽気さも感じられない。


「よせ、八重子。もうお前が雨谷に付き合う必要はないんだ」


 その玲汰の言葉を聞いた途端、八重子の体はびくりと大きく跳ねた。


「雨谷、先生? 何を言ってるのかさっぱり……」


「とぼけなくても、もう全部知ってる。雨谷が今まで大勢を怪異に襲わせてきた事も……お前を脅して利用してたことも」


「私は私の意志でこうしているんです!」


 音はもうすぐそこまで迫っていた。このままでは、八重子が猿の指を捨てようとしている窓から入ってくる。


「じゃあなんでお前は眠る寸前、ごめんなさいなんて言ったんだ。……泣いてたじゃないか」


 八重子自身、聞かれたとは思っていなかったのだろう。明らかに動揺している。


「見間違いです。泣いてなんかいません、謝ってなんか……いません! 寝ぼけてたんじゃないですか?」


 震えていた。声も手もその瞳も。暗いこの車両内でもそれははっきりと分かった。

「……八重子、お前にやりたいこととか、その……夢とかって、あるか?」


「何ですか、急に。夢だなんて」


「おれは夢も、やりたい事だって無かった。昔はオカルトが好きで、夢なんて要らないくらい毎日が充実してて。ただ漠然と将来はオカルト雑誌のライターか何かになるのかなって……そんな風に思ってた。二年前までは」


「急に自分語りなんて、イタイですね玲汰センパイは」


 冷ややかな言葉を投げかける八重子を無視して、玲汰は続けた。


「二年前、姉が失踪した。原因は怪異だった。その日から何もかもに無気力になって。今もそうだ。こんな辛い事を引き起こす怪異なんてまた本気で好きになんてなれやしないし、やりたい事も見つからないままだ。真美は写真を撮るのが楽しいって言ってた。将来カメラマンになるのも悪くないって。守人はプロ野球選手になって女子アナと結婚するのが夢だって言ってた。正直、羨ましいよ。自分の将来のビジョンがあるなんて。おれには無いから」


 八重子は黙って聞いていた。玲汰を睨みつけたまま。


「お前に、そういうものってあるか?」


「……別に……私には……」


 彼女の視線が床へと向いた。


 玲汰は待った。後方に気配を感じながら、でも焦らず、じっと待った。すると、


「無いです、夢なんて。……でも……平凡な日々を送りたい。誰かとUFOとか、UMAとか好きなものを語り合ったり、写真撮ったり……普通に働いて普通に結婚して、普通の家庭を築きたい……!」


「立派な夢だと思う。……今それを捨てたら、もう叶わなくなるんだぞ」


 八重子の表情が曇る。


「私の事はいいんです。母や兄が助かるためなんです。それに、やりたい事もないあなたは死んだって何の悔いもないでしょう! そんなに尊重してくれるなら、私の為に死んでください」


 八重子の言葉は、昔の自分になら深く突き刺さっただろう。特に引きこもっていた時期なら。姉も趣味も失って無気力だった頃の自分になら。でも、今は違う。今死ねば、悔いは残る。


「今も夢の一つだって見つかってないけど、でもおれはまだ死にたくない。色んな怪異と向き合ってきて、おれは空っぽじゃないって判ったから。その事に気付けたなら、きっとやりたいことにだって判るはずだ」


 幽香の言葉が、玲汰に希望を与えてくれた。


「それに、おれは楽しかったよ。姉が居たときのような楽しい空間が、今のオカ研にはあったから。真美が居て守人が居て、八重子……お前の居るオカ研が。怪異が辛くて苦しくたって、それでも楽しかったんだ。雨谷の事は心配いらない。道之駅のタッちゃんに、罰を下してもらった」


 きっと今頃は、憎しみに満ちた怪異の手によって──そのはずだ。


「証拠はあるんですか? 雨谷先生がもう、私を脅かさないって証拠は」


「それは……ないけど」


 ここでそれを証明することはできない。ましてや、雨谷の末路をこの眼で見届けたわけでもなかった。玲汰の言葉は、今の八重子にとって信じるに値しない。


「くひっ。ほら、やっぱり。もう話しても時間の無駄です。猿の指は今ここで、捨てます」


「でも、信じてほしい!」


 八重子の動きがぴたりと止まる。


「嘘だって思うかもしれないけど、どうか信じてほしい。確かに証拠はない……けどもし、雨谷がまたお前を脅かしたなら、その時はおれが助ける。怪異も祓ってやる。お前を守ってやる。守人や真美たちもきっとそうするはずだ」


 精一杯の感情を、心を込めた言葉だった。


「くっくひっ、ひひっ。何をカッコつけた事言ってるんですか。恥ずかしくないんですかぁ?」


 八重子は腹を抱えて精一杯玲汰を嘲笑した。


 一瞬、トンネルの照明が八重子の頬に一筋の線が反射したのを、玲汰は見逃さなかった。


「め、めちゃくちゃ恥ずかしい。でも、おれの本心だ。実際に、おれには実績がある。くねくねも退治したし、タッちゃんからも逃げ延びたし……猿夢だって、もう解決寸前だ。それはもちろん、おれ一人だけの力じゃない。守人や真美、それに狭間先輩の協力があったからこそだ。そして確かに怪異を退けてきた。これからもおれたちなら、皆となら上手くいく。きっと上手くいくよ。だから戻ってきてくれ。オカ研に」


 ゆっくりと、手を伸ばす。


「私は殺そうとしたんですよ。玲汰センパイも、玲汰センパイの大事な人も……なのになんでそんなこと、私に言えるんですか? 殺そうとした人を助けようとできるんですか?」


 言って、八重子は窓の外へ突き出していた手を引っ込めた。


「おれたちを殺そうとしたのは八重子の意志じゃないだろ。大事な家族を守るためだったんだから。そんなお前を、誰が責められる? おれだって、同じ立場なら同じ事をしたかもしれない」


 ぶかぶかの袖で、目元を拭う八重子。


「おれが許すよ。誰かがお前の事を許せないって責めても、おれが許してやる。だってお前はオカ研の大事な部員だし……それに、おれの可愛い後輩、だから」


 瞬間、琴線に触れたように八重子の顔はくしゃくしゃになって、目からは大粒の涙が止めどなく溢れだした。


「ほら、もう終わらせよう。こんなつまんない夢を」


 八重子はもう一度袖で涙を拭うと一歩踏み出し、その手を玲汰に伸ばした──瞬間だった。玲汰の真上の天井からドンと大きな物音が鳴ったかと思うと、八重子の傍にある窓の上からぬっと、黒い影が覗いた。油性ペンで塗りつぶしたような真っ黒の中で、ぎらりと黒光りする二つの目。指猿がとうとう追いついたのだ。


「八重子、逃げ──」


 反射的に駆け出したが、遅かった。

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