4-11 指猿
「捕まえたッ!」
そして一切の躊躇もなく、彼女は首に両手をかけてきた。
手の平が喉を圧迫し、爪が皮膚の奥深くまで食い込んでくる。きゅうっと顔が破裂しそうなほどの苦しさが頭のてっぺんまで迫って来た。どれだけ腕を払いのけようと抵抗しても、体勢は相手の方が有利である。
「心配しなくてもいいわ。あなたの死体は怪異を使って跡形もなく消してあげる。……いくらでも手はあるから」
込められるだけの力を込めて何度も腕を引き剥がそうとするが、びくともしない。乱雑に叩いても、うまく力が入らない。
……この人って、こんな顔だったっけ。
目の前にある雨谷の顔の造作は、ひどく歪んでいる。記憶の中の彼女は、微笑みの似合う女性。そのはずだった。今この目に映っているのは、血走って吊り上がった目に、歯茎をむき出しにして歯を食いしばっている、鬼の形相をした化け物だ。これが本来の彼女の姿なのだ。まさに化けの皮が剥がれた状態と言えよう。
その時玲汰は、今まで遭遇してきたどんな怪異よりも恐ろしい存在と、今まさに対峙しているのだということに、やっと気がついた。
解決の鍵はもうそこにあるのに、この手には入らない。友人たちを、そして他の皆も……救う鍵が目の前にあるのに。これも、優香の言葉を無視して怪異に関わり続けた罰なのだろうか。自分も、皆も死んでしまう。これは、きっと罰なのだ。せっかく優香が繋ぎとめてくれたこの命を無駄にしてまで怪異と関わり続けてきた──言葉を無視した、罰なのだ。
でも、こうしなければどの道死んでしまっていた大切な人だっている。
──じゃあ、どうすればよかった?
「これでやっと夜も安心して眠れる。お前を殺せば、やっと……狭間幽香だなんて存在しない生徒を作り上げてカモフラージュしてたみたいだけど、結局失敗に終わったわね、玲汰くん!」
狭間幽香は、存在しない。そういえば、八重子も同じような事を言ってたっけ……。
玲汰の視界も思考も、もはや霞んで何も見えず、考えることさえままならない状態となっていた。脳裏にはただただ、走馬灯が駆けているだけだった。
かつて優香と過ごしたオカルト研究部での日々、そして幽香に半ば強制的にではあったが、新たに立ち上げた同好会での日々。怪異に頻繁に襲われ大変だったが、それを乗り越えて深まった絆や活動の日々は、とても充実していた。それを壊したのは、ほかならぬ今、目の前に居る雨谷恵子だった。
そうだ、自分が死ぬだけならまだしも、大切な友人を、その後は幽香だって、その存在が本当であると気づかれた時には殺されてしまう、今ここで諦めてしまえば──。
今や狭間幽香は第二の姉のような存在であった。ポーカーフェイスで何を考えているか分からず、でもたまにズレた妙な感覚のコメントで困惑させてきて、そして事あるごとに甘えてくる事を要求してくる。でも怪異に襲われたときには、そのアドバイスに何度も救われた。
また、ユウカを雨谷の手に掛けてなるものか。また、奪われてなるものか。
最後の力を振り絞って、自分の首を鷲掴みにしている雨谷の手首を握った。しかしどうしても力が入らない。もう、何もできない。非力な自分の情けなさに、目から涙がこぼれた。
「ご、めん……ユウ、カ……」
最後に口から零れたのは、幽かで頼りない、謝罪の言葉だった。
人生の幕が下りるように、瞼が閉じられ、視界が黒く染まっていく──その刹那。
雨谷のすぐ後ろに、ぼんやりと人影が見えた。黒く長い髪の女子生徒が立っている。
彼女の唇が幽かに動いた。
『私が傍にいるわ』
「ユ、ウカ……」
手を伸ばした。届かぬと分かっていて、そこに。しかし、震える指先は空を切る。
「優香だって?」
それに反応して、雨谷が振り返った。
首を掴む手の力がほんのわずかに緩んだ、その瞬間を玲汰は逃さなかった。
雨谷の腕を払いのけて、右足で力の限り彼女の腹部を蹴り飛ばした。部室の机を押しのけながら飛んでいく雨谷。
玲汰は呼吸する事も忘れて、雨谷の懐から零れ落ちた猿の指をとっさに拾い上げた。そして肺いっぱいに空気を吸い込む。脳がじんじんと脈打つように痛む。首の違和感も消えない。だが、息をして、生きている。
雨谷は崩れてきたカメラ機材や本に埋もれていて、今立ち上がろうとしているところだった。
周囲を見渡したが、ユウカの姿などどこにもない。幻だったのだろうか。
玲汰はタッちゃんの傍まで駆け寄り、その胸元についていた札を一気に引き剥がしてやった。すると彼は息を吹き返したように飛び跳ね、一切衰弱した素振りは見せず活動を再開した。
「……すみません、雨谷先生。でも、報いは受けてもらわねばなりません」
タッちゃんの白い目は雨谷の姿をまっすぐに捉えている。
「行きました。先生、こそ、それは、今に。死にました、死ししししししし」
「く、来るなっ!」
ついさっきまでの勝ち誇った威勢はもはやどこにもなく、その瞳は畏怖に揺れていた。尻もちをついて後ずさりをする姿は滑稽だ。
玲汰は雨谷に背を向け、写真部室を出た。
「風間玲汰ああああああああああああぁぁぁぁぁッ!」
憎しみと怒りが込められた叫び。
その阿鼻叫喚を背に受け止めながら、玲汰は道之駅を目指して学校を飛び出してゆく。
最後に見た、床に落ちた審判のカードは玲汰に正位置を示していた。
***
『ただいまから、乗務員が切符を確認に参ります……』
一瞬、意識が飛んだような感覚に陥ったかと思うと、気づけば玲汰は車両の通路ど真ん中に立っていた。ここは、以前夢で見た電車とそっくりだ。いや、そのものだ。
鼻の奥をつんと刺激する腐敗臭に、赤黒く汚れた床、白く濁った窓の汚れ。明滅する蛍光灯。
この状況に至った経緯を思い出す。
玲汰は学校から出て道之駅へ向かった。たどり着いた駅周辺には深い霧が立ち込めていて、そこへ間もなくやってきた電車に乗り、席へ腰を下ろした。時刻を確認すると、丁度以前真美とここへ訪れたのと同じ頃合いだった。本当にただ乗るだけで猿夢へたどり着けるのだろうか。そんな心配をしているうちに、やがて誘われるかのように眠気に襲われ──今に至る。
そうだ、猿の指は。
とっさにポケットの中身を確認する。
指先に触れた確かな感触。掴んで引っ張り出すと、袋が出てきた。中には黒く焦げた、毛むくじゃらの生々しい指が十本、入っているのが確認できる。
上手くいった事に、玲汰はその場でガッツポーズを取った。
後はこの指を、猿本人に返却すればいい。
見れば、どうやらここは七号車のようだった。猿を見つける必要があるが、どちらへ向かうべきか。猿夢では後方から処刑が始まるから──八号車へ向かおうか、そう思ったときだった。
甲高い金切り声が、今まさに向かおうとしていた車両から飛んできたのだ。一車両、いや二車両分くらい遠くからだろうか、玲汰は急いで車両を移動した。そういえば、乗務員が切符を確認するとのアナウンスが流れていた。もしかすると、真美や八重子が指を食い千切られているのかもしれない。
玲汰の右手人差し指は、現実であろうが夢であろうが感覚も無ければ動きもしない。
痛々しい光景が頭に浮かぶ。
六号車には誰もおらず、五号車へ。しかし、そこにも誰もいなかった。
四号車へ続く扉の前まで来ると、ガラス窓の向こうに真美の姿を捉えた。真ん中の右手側座席に、虚ろな目をして俯いて座っている。手元から赤いものがしたたり落ちていた。
真美を発見した安堵もつかの間、彼女の目の前に黒い塊が立っていることに気付いた。
玲汰はその姿に息を飲んだ。
そいつは、口元から何かを吐き出した。床に転がったそれを目で追うと、肌色の棒だった。一方の先端は赤く、中央には白が覗いている。真美の指だ。
それを見た途端、玲汰は弾かれたように扉を開き、貫通幌を通って四号車へ足を踏み入れると、大声でその黒い塊に──“指猿”に怒鳴りつけた。
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