4-10 糾弾

 玲汰を見て一瞬驚いた雨谷だったが、すぐに表情をいつもの穏やかな笑顔に戻した。


 もし彼女が本当に八重子を利用して事を進めていたとして、それが順調だったならば、今頃オカ研部員は皆、玲汰も含めて猿夢の真っただ中のはずだ。驚いてもおかしくはない。


 写真部の部室内には雨谷しか居なかった。どうやら部員たちは写真撮影の為に外へ出ているようだ。玲汰にとっては好都合だった。


「大事な話って? 今なら、しばらくは皆戻って来ないはずだから聞かれる心配はないわ」


 雨谷は窓際に立って、外を見ながら言った。視線の先では、部員たちが花壇に咲いたオトギリソウをせっせと撮影している。


 玲汰は出入口の内鍵を閉めた。少々困惑する雨谷だったが、玲汰は気にせずに口を開いた。


「オカ研の部室に保管していた猿の指、返していただけませんか」


 他の教室の半分ほどの広さしかないこの部屋では、物が少ない事もあって声がよく響く。そんなに大声は出していないけれど、自分の耳にもはっきりと聞こえる音量だった。


「猿の指……って? 玲汰くん、何の話を」


「部室にある金庫の存在も鍵の場所も、おれと狭間先輩しか知りません。自分たちを除けば、雨谷先生しか居ないんです」


「そんなこと言われても……その、ハザマセンパイって子が取ったんじゃないの?」


 苦笑いしながらこちらへ振り向いた雨谷。


「無いでしょうね。今更手の平を返す意味がありません。おれたちを殺すつもりなら放っておけばいい、邪魔する理由がない。そもそも金庫に入れた事は言っていませんでした。開ける理由も、持って行く理由も無いんです」


「こ、殺すって玲汰くん、あなた一体……」


 雨谷はこちらが話している事を全く理解していないといった素振りを見せている。演技か本心か、玲汰から見てまだその判断はできない。


「八重子から、兄の慶人さんに使った猿の指がなくなっていたことを聞いて、おれたちが教室に居ない間に真美や守人の御守りの中身も確認した。無くなっている事を知ったあなたは、今朝おれが部室へ行っている事を思い出し、もしかすると金庫に隠したのではと思い立って、回収しに行ったんだ。それに、あなたならおれたちが体育の授業中にも教室へ入って、皆の飲み物に睡眠薬を仕込むことだって容易い」


 手に汗を握り、玲汰は雨谷に言葉を投げつけていった。しかし彼女は態度を変えなかった。


「ちょっと、いい加減にしてもらえる? さっきから何の話をしているのかさっぱりだわ」


「もう知ってるんですよ。鈴木家に同級生をけしかけた事も、不良三人を手に掛けた事も」


 それを口にした途端、雨谷の表情は一変した。大きく目を見開いて、右の頬が痙攣している。


 雨谷のこの反応で、信じたくはなかったが玲汰は確信した。彼女が犯人だ。


 雨谷が人を殺すために使ったのは怪異。証拠は残らないし誰も信じないのだから、とぼけ続ければ済む。しかし。


「お願いです。もう認めてください!」


「しつこいわよ」


 額に汗をにじませながら、雨谷はキッと玲汰をにらみつけた。飽くまでもシラを切るつもりらしい。この手は使いたくはなかったが、仕方がない。


 玲汰はあらかじめ教えてもらっていた幽香の指示通りに、出入り口前に立つと、外へ向けて扉を四回ノックした。そして、雨谷を視線の中央に捉えたまま、あの名前を口にした。


「今邑竜彦を、ここへ」


 それを聞いて、雨谷がたじろぐ。


 そのセリフをきっかけに、一瞬のうちに教室の雰囲気ががらりと変わった。まるで日食が起こったかのように周囲は薄暗くなり、空気は澱み、そして霧が立ち込め始めた。道之駅で発生した、あの霧だった。


『雨谷先生が認めようとしなければ、証人を呼べばいいのよ』


 玲汰が雨谷の元へ向かう前に、幽香はそう言った。しかし、証人なんてどこに居るというのだろうかと思った。八重子は既に夢の中、くねくねは消滅してこの世に存在しない。


『四回ノックを合図にしましょう。そして、今邑竜彦の名前を言って。彼を連れてくるわ』


 これが、自称霊感を持つ彼女の本気だと言うのだろうか。信じていなかったわけではないが、道之駅で遭遇した怪異をこの写真部室で目の当たりにすると、胸が高鳴った。これはもはや霊能力なのではと思う。


 足が地につかない様子の雨谷は、きっとこの現象を知っている事だろう。


 彼が、来る。まさしく足が地につかない──タッちゃんが。


 玲汰の傍にある扉が、激しく揺れた。大きくたわんだそれは、今にも打ち破られそうなほどの強い衝撃を受けている。そして扉のガラス越しに、ぬっと人影が現れた。俯いたそれが、ゆっくりと表を上げる。


「そんな、まさか……今邑……!」


 青白い肌に酷いくまのできた顔を見て、雨谷はひどく狼狽した。今にも腰を抜かしそうなほどに膝を振るわせて、窓にもたれかかる。


『久しぶり、は、今日です。先生、何でドアですか? 開きます、ここ、これ、に』


 バンバンと両手で叩きながら、扉一枚を隔ててすぐ傍に居る玲汰に目もくれずに、雨谷に言葉の羅列を投げかけるタッちゃん。もはや雨谷が彼に手を掛けたであろうことに疑う余地などない。タッちゃんの白く濁った眼は血走っていて、雨谷しか写っていない様子だ。気付くと、足元に扉の隙間から入り込んで来た黒い液体が徐々に広がっていた。扉の向こうからは水滴の落ちる音が聞こえてくる。


 玲汰はドアに掛けた内鍵に手を添えて雨谷に向かって叫んだ。


「もう認めてください。そして猿の指を素直に渡してください!」


「脅しのつもりか風間!」


 雨谷は顔を歪めて歯を食いしばりながら、ゆっくりと姿勢を整えた。そして、やがて観念したかのように懐を探り始めた。


「……コレね。あなたが欲しいものは」


 懐から取り出したそれは、ポリ袋に入った猿の指だ。


「……信じたくはなかったです。でも、あなたが手引きしていたんですね、雨谷先生」


 雨谷は口角を吊り上げると。高らかに笑い始めた。そしてひとしきり息が苦しくなるまで笑うと、腹を抑えながら口を開いた。


「姉に続いて今度はアンタに邪魔されるなんてね……お前ら姉弟はホントに厄介極まりないわ」


 鋭い眼光に射貫かれ、玲汰はヘビに睨まれた蛙のように委縮した。しかし扉の鍵から手は離さないし、いつでも開錠できる。


「姉に続いて……? やっぱり優香の事も、あなたが手に掛けたんですか」


「その通りよ。ホントはあなたを消したはずなんだけど、何で普通に動いてんのかしらね。それに姉と同じように、私の怪異をことごとく祓ってくるなんて」


 自分を消した? 姉と同じように怪異を? 一体どういうことだ。


 玲汰は雨谷が口にしている言葉の意味が理解できなかった。


「まぁ、大方あなたが想像している事で合っているわ。私は高校生の時に親友を間接的に手に掛けた。あの子、容姿も性格も全て恵まれているのに、私の恋人まで奪ったのよ? 今思えばガキのくだらない嫉妬だけれど、当時の私には大問題だったわ。一緒に居て楽しかったけれど、同時に劣等感も付きまとって……。

 それでちょっとした仕返しのつもりで、あの家の抜け道をクラスの陰キャ野郎に教えてやったの。そいつは前にクラスの不良から標的にされててね……一人で廃墟ビルに入って来いって脅されて、逆らえずホントに一人で入って行ったの。その日からちょっと頭がオカシくなっていて……まさか彩の家に火を点けるだなんて思いもしなかったわ。しばらくは本気で後悔した。親友を殺してしまったのは私だって……でもね」


 恍惚な表情で一人語りを続ける雨谷は、今までの彼女とは全くの別人だ。優しかったはずの微笑みは奇怪に歪んでいて、心の濁りが止めどなく表にあふれ出て見えた。


「それからは皆、私を気遣ってくれた。親友を無くした可哀そうな私……あの子が死んで、私はヒロインになったの。そして気付いたわ。邪魔物を消す事が、幸せへの近道だったって事に」


 その事件をきっかけに、雨谷は確実に歪んでしまったのだ。些細な嫉妬心からの行動が、思いもよらない大きな結果に繋がった事によって。


「しばらくは私の人生に大きな問題は無かったわ。けれど、教師になった私の生活を脅かしたのがあの三人のクソガキよね。私はあの子たちの将来を本気で心配した。部活動や成績や進路……親身になって話したのに、あろうことか手を挙げるなんて」


 言って、雨谷はスーツの袖をまくり上げた。いつか見たあの根性焼きの他に、複数のアザが刻まれている。肩まで続いているそれは、きっと腕だけにあるのではないのだろう。


「今邑竜彦、貴志祐太、大松京介……自殺に見せかけて殺してやったのよ。正直言って、彩が死んだときよりもスカっとしたわ。自分で直接手を下したのだから当然よね。でもまさか、今邑竜彦が怪異になるなんてね……その時初めて知ったの。この世に怪異が実在するってことを」


 扉の向こうで未だに低い唸り声をあげながら扉を叩くタッちゃんを一瞥する。


「だからね、怪異を使って安全に他人を消す方法を編み出したわ。くねくねや、猿夢のようにね。異世界エレベーターもその一つよ」


 異世界エレベーター。


 その忌々しいワードに玲汰の胃がきゅっと締め上げられるような感覚がした。


 雨谷は味をしめた獣のような目で玲汰を見据えている。


「私はお節介な友達もセクハラな親戚も無能な上司も生意気な後輩もみんな、みーんな、怪異を使って一人ずつ消していったわ。オカルトな力で消せば、誰にも疑われない、何の証拠も残らない。こんな便利な力ってあるかしら。その日から私の人生は快調に進んでいくはずだった。でも、本当に欲しいものは手に入らないまま……もどかしい日々の中に、さらに邪魔な者が現れたわ。それが、アンタの姉、優香よ」


「優香が……何をしたって言うんですか」


 自分の声が震えている事に気付いた。拳を強く握りしめて深呼吸し、雨谷の声に耳を傾ける。


「今のあなたがやっているように、私が仕向ける怪異を祓っていったのよ。ことごとくね」


 優香は口癖にように言っていた。「自分からは関わるな」と。それは、怪異が実在することを知っていたからだ。自らその渦に突っ込んでいけば、必ず身を危険に晒すことになる。


 弟である自分にくらい、本当の事を言ってくれてもよかったのに。


「……そしてどんどん私に近づいて来た……だからバレる前にね、殺したの」


 虚ろに宙を見つめる雨谷が口にした言葉。


「私だって鬼じゃあないわ。これ以上邪魔するなら容赦しないわよって、ちゃんと間接的に警告してあげたのよ。玲汰くん、あなたを怪異で消すことでね。でもあのコ、正義の味方ぶってやめなかったの。弟の事も自分で守れると思ったのかしらね……。

 そう、あの時確かにあなたは道之駅で消えたはず。でも数日後には何にもなかったように……不思議。まぁとにかく、私は目障りだった優香も殺したわ。怪異だと祓われるから、彼女に関してはエレベーターの中で待ち伏せして……後ろから私のこの手で直接──やったけどね」


 雨谷は両手の平を広げて玲汰に向けると、ゆっくりと握りこぶしを作った。


 優香の白く細い首が、きゅっと締め付けられていく様が脳裏に浮かぶ。


 優香は異世界エレベーターで異世界へ行ったのではない。行方不明になったのではない。雨谷の手によって──あの世へ送られたのだ。


「あぁ、怒った? ごめんなさいね。でも、やっぱり自分で直接やると……怪異で間接的に殺すのとでは……違うわよね。だって憎い憎い相手が死んでいく様をこの目で直接見ることができるのよ。手にその感触を味わいながら──正直、濡れたわ」


 とろけるような表情で舌なめずりをして、言った。


 頭が沸騰しそうなほどの怒りが湧いて、今にも飛び掛かりたい衝動に駆られた。しかし、思いきり強く、血が滲みそうなほどに唇を噛んで思いとどまった。今感情に任せてしまえば、チャンスを逃してしまう。それに、目的は雨谷を痛めつけて気分を晴らす事ではない。猿の指を手に入れ、真美や守人、そして八重子たちを救うことにあるのだ。


「にしても、八重子は使えないヤツね。脅しで兄貴を半殺しにして、猿夢でアンタたちと一緒に殺せばいいと思ってたけど、最初に殺しておくべきだったわ。そうすればきっとあの子も本気で働いてくれたはず……」


 窓の向こうの花壇に、既に写真部員の姿はなかった。


「でもやっぱり、確実なのは他人でも怪異でもない。自分のこの手よね……あんたさえ居なくなれば、私の平穏がまた戻ってくるわ」


 言いながら雨谷はポケットから一枚のカードを取り出した。審判の逆位置。


「残念だったわね……玲汰くん!」


 途端、雨谷が床を蹴り、玲汰に向かって一直線に駆け出した。


 反射的に玲汰の指は扉の鍵を開錠し、瞬間、物凄い勢いで扉が開いた。


 まるで空腹に耐えかねた肉食動物のような勢いで、足のない下腹部から血を飛び散らせながら、タッちゃんが雨谷にとびかかっていく。


 しかし雨谷は怯まなかった。この凶悪な怪異が居るというのに、無謀な──そう思った矢先、雨谷は懐から一枚の紙きれを取り出すと、それをタッちゃん目がけて投げつけた。紙切れはまるで石でも投げたかのような重みのある速さでタッちゃんの胸元にピタリと張り付く。それが何の効果を発したのか、タッちゃんは事切れたように勢いを失って床に倒れ込んでしまった。


「くねくねをあの家に閉じ込めてた札よ。こいつをはがしたからアイツは外に出たってワケ!」


 床に倒れ込んだタッちゃんの脇を抜けて、雨谷は玲汰の首に掴みかかった。


 まさか対策があったとは予想しておらず、玲汰の反応は大幅に遅れてしまった。とっさにその場から飛びのく。


 雨谷の長い爪の先が鼻の先をかすめた。


 すんでの所でかわしたが、バランスを崩して床へ倒れ込んでしまった。とっさに起き上がろうとするも、馬乗りに押さえつけられ身動きが取れなくなる。


「捕まえたッ!」


 そして一切の躊躇もなく、彼女は首に両手をかけてきた。

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