4-8 証左

 暗闇の底から、何かが聞こえる。頭上の遥か先、見上げても何も見えないが、確かにそこから何かが響いている。反響しているそれは徐々に近づいてきていて、それに伴って音もはっきりとしてくる。この音に──声に引っ張り上げられて──。


「玲汰クン。起きなさい」


 重い瞼を開けると、目の前には机に突っ伏している真美の顔があった。目を閉じ寝息を立てている。


 首の痛みに手でさすりながら、上半身を起こして顔を上げる。左の頬が机に押し付けられていたせいで平らになり、ひんやりとしている。口元のよだれをぬぐって声の主を見上げると、腕を組んだ幽香が自分を見下ろしていた。


「よく眠れたかしら。私の席をよだれまみれにして、さぞご満足でしょう」


 幽香だった。右手にはいつもの本を持っている。


 ワンテンポ遅れて、脳が眠る前の状況を思い出した。


 見ると、八重子も机につっぷして眠っている。隣の真美も、右斜め前の守人も同じだ。


「狭間先輩、今までどこに居たんですか! 八重子が犯人で、おれたちを殺そうとしてて、真美も守人も睡眠薬で眠らされて、おれもそれで……!!」


「分かったから、落ち着きなさい。順番に説明して」


 寝起きで頭も舌も回らず、焦っているところを幽香に宥められる。


 彼女の指示に従って深呼吸し、息を整える。玲汰は立ち上がって幽香に席を譲ると、眠ったままの三人のカバンから猿の指を三本回収した。玲汰のカバンの中にも一本、入れられていた。それら猿の指を机の上に並べる。


「そう。やっぱり瀬和さんが、ね……」


 今日の放課後に起こった出来事を順に説明すると、幽香は目の前で眠る八重子を見た。まっすぐに見据える瞳には、彼女が一体何をどう思っているのか、見当もつかない。


 時計を見ると、どうやら玲汰は既に三十分も眠っていたようだ。運よく、夢を見るかもしれないタイミングで幽香が起こしてくれたようだ。


「真美と守人は既に猿夢を見ています。急いでこの猿の指を返しに行かないと」


 猿夢の猿は自分の指を探し求めている。この怪異を解決するには、ここにある猿の指を猿夢に持ち込み、直接返却する必要がある。しかし、夢の中へ指を持ち込む手段が今はない。どうにかして持って行く方法を探さなければならない。


「れ……た、くん……」と、真美が苦しそうな表情で言葉を漏らした。見ると、左手の小指が変色していっている。夢の中で猿に食い千切られたのだ。既に乗車券の確認は始まっている。


 思わず真美に声を掛けそうになり、思いとどまった。


 その様子を見て、幽香は一瞬目を見開いてはっとしたような表情を見せた。


「あなたは何故今、声を掛けるのをやめたの?」


「それは……寝言に返事をしてはいけないっていう迷信を聞いたことがあったからで」


 怜太が幼い頃に訪れた祖父母の家で、眠っている優香の寝言に反応して返事をしたところ、祖母に止められた事があった。寝言に返事をしてはいけない理由を聞かされたはずだったが、何せ十年以上も前の事であるから記憶が曖昧になっている。


 それでも、祖母に注意されて以来、他人の寝言に冗談でも返事はしないようにしていた。霊の存在を信じないのにホラーを怖がるように、心のどこかでそれを否定しきれない気持ちがあったからなのかもしれない。


「よく思い出してみなさい。以前、私が言った夢に関する説も関連付ければ、分かるはず」


 そういえば、猿夢の怪異が現れる以前にこの部室で何か夢に関する事を話していた気がする。


『人は夢を見ている間、魂は体から抜け出してあの世に行っていると言われているの』


 そこで、祖母が言っていた言葉も似たようなものだったことに気付いた。なんとか、わずかに尾を見せた記憶を奥底から手繰り寄せてみる。


『眠っとる間、人の魂はあの世に行っとる。そこで話した言葉が寝言になって出てくるんや。でもそれに返事をしたらイカン。返事したら、魂がこの世に帰って来れんくなってまうからや』


 確か、こんなような意味合いの事を言っていたはずだ。


「寝言に返事すると、魂が帰って来られなくなるから」


「どこから?」


「それは、あの世から……そうか」


 夢を見ている間、魂はあの世へ行く。猿夢も怪異だが同じ”夢“だ。魂だけがあの世へ行く、だから猿の指を持って行くことがきでないのだ。そして、魂だけでなく直接あの世へ向かう方法が、道之駅に存在している。


「きさらぎ駅へ向かうあの電車で、猿の指を持って夢の中に、あの世へ行くことができる」


 幽香は静かに頷いた。


 道之駅にはタッちゃんが居る。非常に危険だ。しかし、今まさに友人が、無関係な人たちが死にかけている。迷ってなどいられない。何もできなかった二年前とは違うのだ。


 玲汰は部室の奥にある棚の金庫を開錠した。保管しておいたものも含めた全ての猿の指を猿に返し、この怪異を終わらせる。


 解決方法が見つかり高揚気味になった玲汰は、金庫の扉を開けて、その中身を目の当たりにして血の気が引いた。絶句する玲汰に、幽香がどうしたのかと問う。


 ゆっくりと振り返り、彼女の目を見据えて、告げた。


「指が……、無くなってます」


 いくら奥まで手を突っ込んで漁っても、指先には冷たい金属の感触しかない。


 高揚した気分から一機に地の底へ叩きつけられたような感覚に陥り、理解が追いつかない。


 一旦冷静にならなければ。状況を整理しよう。


 最初に見つけたのは浅間智花の持っていた左中指。続いて慶人の左薬指、守人の左人差し指、真美の左小指、玲汰の右一差し指。これら五本の指が、金庫から忽然と姿を消した。


 今日、再び仕込まれた分の指が右親指、右中指、右薬指、そして八重子自身が持っていた左親指の四本が手元にある。……そもそも一本、指が足りていない。


 昨晩見た猿夢で、玲汰は右人差し指を食い千切られた。そのときの事をよく思い出してみれば、確かにあの猿は両手の指を全て失っていた。猿が満足するためには、残りの一本も含めて全ての指を返さなければならないだろう。一本でも足りていなければ、それでもし真美や守人たちが解放されたとしても、残ったそれで被害を広げる事は可能だと考えられる。そのことからも、右小指を見つけなければならない。


 とっさに八重子のカバンの中を遠慮なく隅々まで漁った。外ポケット、内ポケット、ピンクのポーチの中までくまなく。再び幽香に仕込むためのものだったのだろうか、ポリ袋に入った指がカバンの底から見つかった。ただ、金庫から失せた指は一つも見つからなかった。


 玲汰は目の前がどんどん暗くフェードアウトしていくような感覚に襲われた。臨時放送によるリミットは今日だ。皆、猿夢に閉じ込められてしまった。事を知る八重子も、既に夢の中に居て問いただすこともできない。


「猿の指……八重子の家にあるのか? いや家の場所を知らない……今から調べて……でもどうやって中に入るんだ……母親に頼んで……何て説明すれば入れてもらえる? しかも八重子の部屋を……部屋にあるとも限らないし……」


 考えれば考えるほど、泥濘にはまっていく。焦りでうまく思考が回らない。急がなければ皆が死んでしまう。


「落ち着きなさい、玲汰クン」


「こ、これが落ち着いていられますか!? 皆が今にも死んでしまうかもしれないって時に!」


 大声で幽香に怒鳴りつけた後、はっとなって目を伏せた。


「す、すみません……先輩に怒鳴ったって、どうにもならないのに」


「落ち着いて」


「お、おれ、どうしたらいいかわからなくてっ」


「落ち着くのよ。こっちを見て」


 震える怜太の鼻先にまで顔を近づけて、幽香は今まで出したことのないほど大きい声で怜太の注意を引いた。


「あなたは立派よ。誰よりも立派。自分には夢も趣味も何も無いって。そう思っているかもしれないけれど、こんなに他人の為に行動を起こせる人は、見つけようとしても見つかるものではないわ。あなたには思いやりや優しさや勇気が、いっぱいいっぱい、詰まっているわ。空っぽなんかじゃない。そして今、私は幸運にもそんな素敵な人と共に居られる。こんなに嬉しい事ってあるかしら」


 怜太は目に涙を浮かべながらただじっと、彼女の瞳を見つめた。


「見つからないなら、見つかるまで探せばいい。探している答えが見つからないなら、答えが出るまで考えればいい。そこで一人でうずくまって、焦って考えていても仕方がないわ。少なくともまだ時間はあるのよ。隅々まで答えを探して、無いものを見つけて」


「……それでも見つからなければ?」


「それは仕方がないわ。精一杯やって見つからなかったなら諦めもつくし、誰もあなたを責めたりしない。ベストを尽くしたんだもの。それにもし誰かがあなたを責めたとしても、私が許してあげる。だってあなたはこんなに頑張ってきたのだもの。私が許してあげるわ」


「……」


「だから、失敗したときの事なんて考えないでいい。他人の事なんて考えないでいい。今はただ、あなたが求めるものを見付ける事だけに集中して。大丈夫、私が傍に居るわ」


 幽香の言葉を聞いて、怜太は思い切り声を上げて泣きたい気分に駆られた。今すぐ彼女の胸に飛び込んで、めいっぱい抱きしめて甘えてしまいたい気持ちに。だが、自分でそれを許さなかった。ぐっと堪えて、怜太は立ち上がった。それを見て、幽香もふっと優しい微笑みを浮かべて頷いてくれた。


「この私が、この私がよ? 傍に居てくれるだなんて、この世の何よりも幸せだと思わない?」


 一転、いつもの調子で自信あり気な態度を取る彼女に、怜太は思わず笑みが零れた。


「そうかもしれませんね」


 自然に出た言葉に、幽香は初めて眉をひそめた。咳ばらいをして、


「本題に戻りましょう。……そもそも、猿の指は瀬和さんが取ったのかしら。彼女は金庫があるって知っていた?」


 玲汰から金庫の事を話したりはしていないが、八重子はここへ来たばかりのとき、部屋中を興味津々に見て回っていた。見つけていてもおかしくはない。とはいっても、見つけたとしても鍵を彼女が持っているはずがない。守人のようにピッキングでもしない限り開けることはできないのだ。


『ごめんなさい……』


 そのとき、ぱっとあの時の光景が浮かんだ。眠りに落ちる寸前に聴いたその言葉と、八重子の涙。殺したい相手にどうして。これは八重子の本意ではない……気がする。


「八重子の後ろに、誰かが居るのかも。金庫の存在も知っていて、それを開けられる人物が」


 半分は願望だった。


「玲汰クンが猿の指を隠したのはいつ?」


「今朝です。盗られたのはその後から真美と守人が部室を訪れるまでの間でしょう。休み時間中は校内をうろつく人が多くなって目立ってしまうし……体調不良で保健室に行くフリをすれば授業を抜け出せますけど、部室に入るには職員室で保管庫から鍵を取って来ないといけません。かといって盗み出すのは難しすぎる。もしそれらが上手くいったとしても、金庫の鍵がない。そもそも何でおれが金庫に隠した事を知ってるんだ? 誰にも話していないのに」


「じゃあ、部室の鍵を堂々と取ることができて、金庫の存在も、その中に猿の指が入っていることも知っている……かつ金庫の鍵も所持している人物が居る、ということね」


 そんな人、本当に居るのか。しかしじっくりと脳内の記憶を探っていくと、思い当たる名前が浮かんできた。すぐにそれを否定したが、でも、その人以外には思い当たらなかった。

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