4-7 軋轢

「ちょっと保健室行ってくる」


 送ると言ってくれた二人を制して、玲汰は保健室へと向かった。しかし、とうとう耐え切れずに、途中で寄ったトイレで戻してしまった。


 洗面器に向かって口元を洗い、鏡で自分の顔を見ると、想像していた以上に青白い肌になっていて驚いた。昼に食堂で食べたカツ丼を無駄にしてしまったと悔やんだが、しかし胃を空っぽにしたおかげで幾分かマシになった。保健室へ向かうのはやめにして、その足で部室へ向かいはじめる。


 通り過ぎる教室はどこも空っぽで、皆帰宅したか、部活動へ向かったのだろう。今日、同じ学校へ通う生徒が死ぬかもしれないなどと、誰も思いもせず、いつもの日常を送っている。


 怪異の存在など、知らないほうが幸せなのだ。自分だってそうでありたかった。彼らがそれぞれの場所を持っているように、玲汰にもこの数か月でオカルト研究同好会という居場所を見つけることができた。真美が居て、守人が居て、そして幽香が居る。そこに優香はいないけれど、何かを楽しむという事は取り戻しつつあった。必ずこの怪異の連鎖を止め、日常を取り戻す。


 部室の扉を開けると、真美、守人の二人が待っていた。


「おお、玲汰、早かったな。大丈夫なんか?」


「やっぱり玲汰くんが居ないと話が進まないよ」


 そんな言葉を期待していた玲汰を──裏切った光景。


 二人は、机に突っ伏して眠っていた。


 最初はただ、玲汰を待っている間に眠ってしまっただけかと思ったが、たった数十分の間に二人ともがぐっすりと眠ってしまっているのはおかしい。ゆすっても起きない。妙だ。今の状況で寝ているフリなんて趣味の悪いことなど二人がするだろうか。……いや、落ち着け。


 玲汰は不穏な空気の漂うこの部室で深呼吸をした。


 彼らの猿の指は回収してある。眠っても問題はないはずだ。この部室に隠した回収済みの猿の指も、幽香の指示に従って札と共に梱包し隔離してある。しかし、


「さ、る……」と苦悶の表情を浮かべて、守人がつぶやいた。寝言だ。今確かに「さる」と言った。真美も、苦しそうにして魘されている。


 二人は今、猿夢を見ているのではと、そう思った。それは果たして怪異によるものか、ただの記憶によるものかは分からない。何せ、二人は猿の指を、切符を持っていないはずだからだ。


 持っていないはず。


 玲汰はとっさに、守人のカバンに括り付けられている御守りの中身を確認した。守人と真美から猿の指を回収したとき、御守りには代わりに紙を丸めて詰めておき、御守り自体はカバンに付けっぱなしにしておいた。外すと怪しまれると思ったからだ。紐をほどいて袋を開き、詰め込んだものを取り出す。そこには──猿の指が入っていた。


「お疲れ様です、玲汰センパイ」


 無いはずのものがそこにあった事実に驚愕する玲汰の背後で、人懐っこい声がした。


 そっと御守りの中に猿の指をしまって、振り返る。居たのは、にっこりと微笑んだ八重子。


 廊下の窓から入り込む夕日の逆光に照らされて、玲汰の目には彼女が悪魔のように不気味に映った。いや、逆光のせいだけではない。一見、表情は柔らかく笑っているようだが、目が、確かに目が笑っていないのだ。


 八重子が、二人を猿夢に誘ったというのか。


「くひひっ。玲汰センパイ、電気も点けないで何してるんですかぁ? あ、でもオカ研なら薄暗いほうが雰囲気あってイイんですかねぇ。……って、あれ? 真美センパイと八木センパイじゃないですかぁ。もしかして、眠っちゃったんですか!?」


 入口に突っ立ったまま、一人でしゃべり続ける八重子。


 演技か本気か。八重子は二人に駆け寄ると、肩を掴んで揺さぶった。しかし、そんなことではもう起きない。真美も守人も、猿の指を持って眠ってしまったのだ。慶人や智花と同じ昏睡状態になってしまったのだ。


「二人はもう起きない。起きられない。猿の指を持って、眠ったから」


「猿の指って……?」


「以前電車内で指の無い猿の焼死体が見つかっただろう。その猿の指さ。それを持って眠ると、昏睡状態になるらしい。つまり、猿夢に囚われる」


 最早ここで八重子の正体を明かし、四人を解放する術を聞き出す他ない。


「それって、臨時放送で名前のあった皆が持っているってこと……ですか?」


「そうだ」


「私も、ですか?」


「……そうだ」


「えぇっ、そんなのどこにあるんですか? 猿の指だなんて、気持ち悪いですよぉ!」


 あわあわとあわてふためく八重子。もはや彼女の言動全てが演技にしか見えない。


「お前がくれた、御守りの中に入ってる」


 言った途端ぴたっと、八重子の動きが止まった。


「守人と真美の御守りの中にも」


 言って、玲汰は八重子の目の間で、二人のカバンに付けられた御守りの中から猿の指を取り出して見せた。毛むくじゃらな黒い枝が、彼女の瞳に写る。


「……八重子。お前が入れたのか」


 断腸の思いでその言葉を口にした。


「そっ、そんな、玲汰センパイひどいですよぉ! 冗談でも傷つきます! それに、誰がこんなヒドいこと。私のあげた御守りに猿の指を隠すだなんて……」


「じゃあ、なんで慶人の……お兄さんの枕の下にコレがあるって、知ってたんだ」


 八重子の動きがピタリとやんだ。


「おれは見た。お前が、病室でお兄さんの枕の下に手を突っ込むのを」


「……」


「病人の世話をするにしても明らかに不可解な行動だろう。それに、この御守りに他人が猿の指を隠したとしよう。なら、それができるのはお前から御守りを受け取った後だ。八重子が持っている間に指なんてモノを仕込まれたなら気づくはずだ。それに、浅間智花の持っていた御守りはどう説明するつもりだ?」


 依然、八重子は黙ったまま動かない。


「浅間智花という吹奏楽部に所属する三年生が、慶人さんと同じく昏睡状態で入院している。彼女は、おれが狭間先輩に渡すはずだった御守りを運悪く拾ったんだ。そして、狭間先輩の代わりに猿夢の被害に合った。

 おれが彼女の病室を訪れるまでは浅間智花が御守りを拾っていたなんて知らなかったよ。多分お前も、そして誰も知らないはずだ。誰がどうやって、どんな理由で彼女の御守りに猿の指を仕込むんだ? おれたちオカ研のメンバーはカバンにつけていて端から分かるが、彼女はカバンの中にしまってあった。持っているなんてことは分からない。猿の指は、最初から御守りに入れられていたんだよ」


 八重子は顔を覆っていた手を元の位置に戻した。


「可愛い後輩にそんな事を言う人だったなんて、思いませんでした」


 うつむいたままの八重子の表情は、暗くて見えない。


「おれだってこんな事言いたくない。何かの間違いであって欲しかった。けど本当だった。今までのくねくねやサッちゃん、そしてこの猿夢……発端は八重子、お前だよな」


「玲汰センパイが言ってる事、さっきから全部、何の証拠にもなってませんよ」


 ここまで話しておいて、八重子がまだ認めようとしない事に少し焦りを覚える。


 八重子が慶人の枕の下を探るところはこの目で目撃したし、何より智花が御守りを持っていた時既に中には猿の指が入っていた。つまり、八重子が最初から入れていたということに他ならない。しかし、このどれもが、ただ玲汰が見て認識したというだけであって、物的証拠にはならないのだ。八重子が猿の指を御守りに仕込んでいる姿を写真にでも収められていたならば決定的なのだが、現状シラを切り通されてしまえば何も言えない。


 猿の指を入れた後は、怪異が事を遂行するだけ。本人は何も手を下さなくて済む。怪異なんていう、世間では非現実的な現象によって被害が齎される──誰も信じず、何も証拠など残らない。怪異を使って人を殺そうとする彼女を犯人であると証明することは、誰にもできないのだ。


「何でこんな事をするんだ」


「まだ言うんですか?」


 八重子が前髪の隙間から鋭い眼光を向けてきた。


「おれはずっとオカ研を避けてきた。二年前、姉を怪異で失ったからだ」


「……」


「でも、最近……色々あったけど、この皆で集まって色んな事をして、昔ここに居た時のような感じがして、とても楽しいと思えるようになった。八重子は違ったのか? このままだと真美も守人も、それにお前のお兄さんも、ホントに死んでしまうんだぞ!」


「うるさいうるさい! さっさとあなたたちが死んでくれないと、ケイにぃもママも皆死んじゃうんだ!」


 玲汰の糾弾に耐えかねたのか、弾かれたように突然、八重子が叫んだ。


「皆死んじゃうって、どういう……」


 しかし言い切る前に、喉元に触れた金属の冷ややかさで口を閉じてしまった。


 どこから出したのか、八重子は包丁を手にして玲汰に向けていた。


「真美センパイも八木センパイも眠ったのに、なんであなただけ眠ってないんですか」


「……おれたちに何かしたのか」


 八重子は玲汰にカバンからペットボトルを出すよう促した。そして、それを飲めという。どうやらこれに睡眠薬でも混ぜたらしい事は察した。包丁の切っ先は玲汰を捉えたまま。玲汰は黙って従った。先ほどは嘔吐したおかげで難を逃れられたみたいだ。


「いつの間にこんなもの……」


 最後の授業は体育だった。玲汰たちがグラウンドへ出ている間に仕込んだのだろう。同時に、空っぽになった御守りにも猿の指を。しかし──。


「そんなことはどうだっていいんです」


 言って、八重子は玲汰が口をつけたペットボトルを奪い取ると、残りを一気に飲み干した。


 その行動を疑問に思ったが、きっと訊いても答えてはくれない。


 八重子は空になったペットボトルを机の上に置き、玲汰に椅子へ座るように誘導した。


 部室の奥、いつも幽香が座っている席に腰を下ろす。


「そろそろ、その包丁をどけてくれないか」


「あなたが眠ってくれるまでは安心できないので」


 念を押すように、ぐいっと包丁を喉ぼとけに近づけてくる。


 すると、ぼそりと何か音が聞こえた。その方を見ると、守人が口を小さく動かしている。


「電車……が……」


 寝言だ。電車が来たと言っているのか、それを聞いて八重子が守人の耳元に口を近づけ、


「守人センパイ、早くその電車に乗ってくださいね」


 不敵な笑みを浮かべて、そう囁いた。


 きっとにらみつけたが八重子はひるむことなく、口角を吊りあげた。


「……教えてくれないか。なんでこんなことするんだ。おれたちを殺そうとなんて」


「あなたに教える義理はありません」


 言いながら、八重子は玲汰の向かいの席に座った。


「でも、あなたが一つ教えてくれるなら一つ教えます。結局、狭間という人は何者なんですか?」


「……何者って、ただの先輩……この学校の三年生だけど」


「わかってるんです。この学校に狭間という姓の生徒が居ない事は。あなたが早々に私の事に気付いて架空の人物を作ったのか、はたまたそのセンパイを隠すために偽名を用意したのか」


 思いがけない彼女の言葉に玲汰は理解が追いつかなかった。


 狭間という苗字の生徒は、この学校にはいない? 偽名?


「それはどうい……う……」


 しかし、そこでまだ数分しか経ってもいないはずなのに、玲汰の思考がぼやけてきた。胃のものを全て吐いたせいですきっ腹になり、効果が早く現れたのだ。


「効いてきたみたいで良かったです。ここに来たとき、あなただけ眠っていなかったものだからびっくりしました」


 体から力が抜けていく。頭が重い。重力に逆らえない。


「狭間センパイのことはもういいです。知ったところで死ぬんですから。私も、あなたも」


 瞼がゆっくり降りてくる。八重子を視界にとらえようとするが、もはや為す術などない。


 意識が途絶えかけたその瞬間だった。


「……ごめんなさい」


 小さくぼそりと呟いたその声。睡魔によってそれが確かだったか自信がない。


 ほんの一フレームほど目に映った八重子の瞳から、一滴の涙がこぼれているのが分かった。


「猿夢で逢いましょう」


 視界と意識は、暗闇に落ちて行った。

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