4-6 厄運

 玲汰の右手人差し指が猿の口に入り、歯が肉に容赦なく食い込む。


「ああああああああぁぁぁぁぁッ!!」


 いくら顎の力が強いとはいえ、すんなり噛み切ることはできない。猿は顎を左右に動かし、人差し指の根元の関節から噛み切ろうとしている。少しずつ、少しずつ歯が関節の奥まで入り込んでくる。砂利を踏むような音が、自分の右手から聞こえる。肉の繊維、神経、そんな細長い束が次々に断裂していく感覚が脳に、音と痛覚となって伝わってきていた。


 激痛に顔を歪めながら、夢から覚めろ、覚めろと何度も何度も頭の中で呪文のように唱える。しかし、中々覚めてはくれない。アラームも聞こえない。まだ一時間半も経っていないのか。


 気づけば猿の頭は右手から離れていた。猿は手の平に噛み切った指を床に吐き出して、じっと見つめ、そしてぽいと投げ捨てると今度は玲汰の左手の指に噛みつこうとし始めた。


 玲汰が持っていた猿の指は智花の左中指、慶人の左薬指、守人の左人差し指、真美の左小指、そして右親指だ。このままでは、それにあたる自分の指全てが噛みち千切られてしまう。智花と慶人の指のアザを思い出してみれば、現実にも影響が出る事は明白だった。これは、ただの夢ではない、怪夢なのだから。


 玲汰は左腕を、引っ張られる力に逆らわずに猿の喉奥目がけて思い切り突っ込んだ。左手が異様に生ぬるい感触に包まれる。思いがけなかったであろう出来事に一瞬、猿が怯んだ。間髪入れず、猿を両足でめいっぱい蹴飛ばす。幸運にも吹き飛んだ猿の頭が椅子と手すりの間に挟まり、身動きが盗れなくなっている。その隙に、六号車への扉を開け全力で体を引きずった。


 六号車から五号車へ。右手の人差し指があった場所から血が流れ続けている。ズキズキと痛む。他の指もそうなるかと思うと恐怖で体がこわばりそうになった。


 五号車から四号車へ。智花が変わらない姿勢で座っているのが目に入った。重い体をなんとか持ち上げて立ち上がる。


 そのときほんの僅かに頭をよぎった、「まさかまた智花が襲われたりしないだろうか」というその心配が、命取りだった。


 玲汰は右足で何かを踏んだ。グミのような奇妙で柔らかな感触だった。足首が内側へと曲がり、バランスを崩して床へと倒れ込んだ。衝撃に視界が大きく揺れる。


 痛みをこらえてとっさに起き上がり振り返ると、今踏みつけたのは智花の中指だった。


 その向こうからとびかかってくる猿。


(ダメだ、やられる……!)


 自分の左手指が猿の歯にかけられ、恐怖に強く瞼を閉じた、そのときだった。


『玲汰クン!』


 はっと目を見開くと、視線の先には白いパネルが敷き詰められた壁があった。全身は柔らかい布に包まれた感触──周囲を見渡すと、そこは電車内ではなく、自室だった。


 徐々に意識が現実になじんでくる。と同時に、耳に煩い音が、枕元に置いてあるスマホから聞こえている事に気付く。しっかりとアラームは起動してくれていたようだ。しかし時計を確認すると、設定していた時刻から十分以上も経過していた。


『玲汰クン、早くアラームを止めてくれるかしら。とても煩いのだけれど』


 幽香と通話が繋がったまま、アラームは鳴り続けていたようで、となると十分間も彼女はアラームを聞いていたということになる。


「……ミュートしたらいいじゃないですか」


 スマホのアラームを止めようと画面に指を置いたところで、玲汰は違和感に気付いた。そういえば、夢の中で噛み切られた人差し指の痛みはない。しかし、痛みどころか感覚さえ全くない。動かないのだ。画面に触れた右手の人差し指に感覚がない。見ると、根本から先にかけて、智花や慶人にあったものと同じようなアザが出来ていた。


 とにかく左手で操作してアラームを止めた。


『玲汰クン、猿夢はどうだった?』


「はい……いろいろあったんですが、指を食い千切られました」


『大丈夫なの!?』


 途端、いつも冷静沈着な幽香が突然声大声を出した。


「えっ、いや、大丈夫というか、指はあるんですが……アザが出来て動かなくなりました」


 まさか彼女がそんなリアクションを取るとは思わなかった。


『そう。猿夢を解決して、治るものだったら良いのだけれど』


 落ち着きを取り戻しながら、幽香が言った。


 利き手の人差し指が使えないとなると、今後かなり不便を強いられる。が、これで友人や巻き込まれた罪もない人の命が救われると言うのなら、まだ安いものだと思える。


「向こうで一匹の猿と遭遇しました。黒焦げで指の無い。電車には瀬和慶人と浅間智花が居たんですが、彼らも指を食い千切られていました」


『それが、現実で指にアザがあった所以なのね』


「おそらく。その人が所持していた部位の指を食い千切っているようでした。おれも、人差し指の後、続けて他の指も食い千切られかけたので」


『やはり、その猿は自分の指を返して欲しいのでしょうね。確信はないけれど、切り取られている指を返せば、なんとかなるかも』


「でも、どうやって持って行けばいいんでしょう。死体のところに返すにしても、もう火葬されて跡形もないでしょうし、かといって猿夢に行くにも夢だから、この実物の指を持ち込むことはできません。さきほど夢の中では指どころかスマホでさえ手元ありませんでした」


『そうね、そこが重要よね。……ともあれ、あなたは少し休みなさいな。こちらでも少し方法を探ってみるわ』


 幽香が通話を切ろうとして、玲汰は思わず「あっ」と声を掛けてしまった。どうしたのかと訊かれて、自分でもよくわからずに口ごもってしまう。


「もしかして……怖くなってしまって、まだ私と通話を繋げていて欲しいのかしら?」


 幽香にいたずらっぽく指摘され、彼女がにやつく顔がすぐに想像できた。別にそういうわけでもないですけど、と強がってみたものの、完全に見透かされていた。


『仕方がないわね、朝まで繋いでおいてあげるわ。私は眠るけれどね』


「それ、意味あります?」


 結局、夜が明けるまでくだらない話をした。


***


 翌朝、まだ生徒は誰も来ていないような時間に玲汰は登校した。結局眠ることもできずに時間を持て余していた事もあるが、目的は猿の指を部室に隠すためだ。


 鈴の御守りが保管されていた金庫に入れておけば、放課後までは安全だろうと考えたのだ。


 職員室へ部室の鍵を取りに行くと、担任の雨谷と目が合った。


「あら、玲汰くん。こんな早くに珍しいわね。もしかして占って欲しいとか?」


「いえ。今朝は早く目が覚めてしまって……部室の掃除でもしようかな、と」


 一時、雨谷にも猿夢の件を相談して助けを求めようという意見が出た事があった。結論から言えば、無関係な人を巻き込む事になるし、それに二年前の異世界エレベーターの件もあって、無理をしそうにも思えたために黙っていようということになったのだ。


「そう。玲汰くんがまた何かに熱中してくれるようになってくれて嬉しいわ」


 雨谷は微笑んだ。


 ずっと玲汰の事を気にかけて、部活動に入ることを勧めてくれていた雨谷がこう言ってくれたことに、何だか胸の中が温かくなるのを感じた。今までは何を言われても放っておいてくれと言わんばかりの態度を取っていた自分が恥ずかしくなる。


 部室前まで来ると、鍵を差し込み開錠し、ドアを開ける。当然、中には誰も居ない。


 さっそく金庫を開錠して、猿の指をまとめて突っ込む。家に置いておくと取りに帰るのに時間がかかるし、かといってカバンに入れておくのは不安だ。ここに保管したなら安心できる。しっかりと施錠して、しばらく部室の本を漁って時間をつぶした後、教室へと向かった。


 教室には、真美と守人の姿が既に姿があった。猿の指を手放したため危険は去ったとはいえ、その夜すぐにぐっすり眠るなんてできなかったようだ。あまり顔色は優れていない。それに、


「ホントに八重子ちゃんがこんなことしたの……?」


「他の誰かがこっそり入れたんとちゃうか」


 真美も守人も信じられないといった様子だ。信じたくない、といったほうが正しいかもしれない。それは玲汰だって同じだった。けれど、


「病院で見た八重子は確かにこの猿の指を知っている仕草だった。普通、病人の枕の下に手を突っ込んだりするかな」


「……それで、昨日は何か手がかりは見つかったんか?」


「あれっ、玲汰くん、その指どうしたの!?」


 玲汰が口を開きかけたとき、真美が玲汰の右手人差し指のアザに気付いた。


「指がやられとるっちゅうことは、猿の指と関係あるんやろ」


 猿夢を見て襲われたなんてことを素直に説明する気はなかったが、言及されては誤魔化すこともできない。諦めて昨夜の事をそのまま話すと、


「くねくねのときもそうだけど、無茶しすぎだよ……」


「やっぱりお前に任せるとこっちの心がもたん」


「そんなことより、猿が指を探してることが分かった。どうにか返しに行く方法を探らないと」


 タイムリミットは日付が変わるまで。なるべく早く、猿に指を返す方法を見つけなければならない。真美と守人が猿の指を手放したことによって、二人は現状で認知しうる形での犠牲となる危険性はなくなった。だが慶人や智花は猿夢に囚われたままで、昏睡状態で居続けている。それに、まだ今日を乗り切るまでは、真美と守人が本当に助かるのかは分からない。出来ることはやらなければならない。


 三人は授業そっちのけで策を考えた。時折、昨晩の出来事で寝不足になっていた玲汰は船を漕ぐこともあったが、担任の雨谷は特に注意することもなく、守人に小突かれてなんとか耐えていた。やがて六限目の体育が終わる頃だった。体力のない玲汰が必死にグラウンドを走り周った後、やはり長距離は厳しいと思いつつ、教室へ戻ってペットボトルの水を腹に流し込んだあたりで、頭痛がし始めていた。


「玲汰、お前大丈夫か? 顔色悪いぞ」


 守人も自分の水筒からお茶をがばがば飲みながら言った。


「いや、昨日の寝不足と……もしかしたら熱さにやられたかもしれない」


 この時期は熱中症になる生徒が多い。玲汰に関してはそもそものコンディションが良くなかったせいもあり、加えて少し眩暈もしていた。


「ちょっと保健室行ってくる」


 送ると言ってくれた二人を制して、玲汰は保健室へと向かった。

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