4-5 切符

 家に帰ってシャワーを浴び、髪を雑に乾かすと、どさりとベッドに寝転がった。


「もしどうにかなってしまいそうな時は、きっと狭間先輩が助けてくれるって信じてますので」


『こういうときだけ調子の良いこと言うのね。私は都合の良い女なのかしら……』


「また妙な言い回しするのやめてもらえます?」


 スマホのアラームは二時間後にセットしてある。最初の三〇分はきっと中々寝付けないだろうから長めにとった。


 気味が悪いが、手には猿の指が五本。これを持って、眠る。切符が五枚分で呪いも強め、きっと猿夢を見ることができるはずだ。記憶にも、厭というほど印象付いている。


『二時間後にあなたから連絡がなければ、こちらからコールすればいいのね』


「はい。それでも出なければ……」


『私が直接、あなたを助けに行くわ』


「うちに来るんですか」


『玲汰クンの家は特定済よ』


「あんた怪異より怖いよ」


 幽香が自分をどう助けるつもりなのかは分からないが、いつもは気持ちの籠っていないように感じられるその淡々とした口調が、今はなんだか頼もしく思えた。だからこそ、これから猿夢に挑まんとする状況で、余裕も少し持てている。


 だが、これから怪異に自ら突っ込んでいこうとしているのだ。眠る前だというのに、動悸は完全に収まってはくれない。こんな興奮状態にあって、どうしてすんなり眠り込めるだろうか。


 布団に入ったまま、既に十分が経過していた。あと二〇分以内に眠らなければ想定した時間内に夢を見られない。この意識が、余計に玲汰を焦らせて眠りに入るのを妨げている。


『……玲汰クン、もう眠った?』


「まだです」


 さきほど二時間後にコールといっていたが、ならこのまま繋いでいようという話になった。


『……寝た?』


「……まだです」


『……』


「……」


『……もう寝た?』


「だからまだですって! こんなに話しかけられたら、眠れるものも眠れませんよ!」


『いや、気になっちゃって』


「気になっちゃって。じゃないでしょ! おちゃめぶってもダメですよ、ジャマするなら電話切りますからね」


『眠るときまで電話を繋いでいるなんて、恋人みたいね』


「おれの話聞いてます?」


 思わず上半身を起こしてスマホに大声を出してしまった。


『なんなら、私が子守唄を聴かせてあげましょうか』


「別に……いや、折角なのでお願いします」


 ついいつもの流れで断りかけたが、普通の人ならそんなもの恥ずかしくてできまいと思い、この際乗ってやろうと思ったのだ。


 私の美声に酔いしれなさいと言って、幽香は張り切って歌い始めた。


『ちっちゃな頃から悪ガキで──』


「あんた絶対女子高生じゃないでしょ」


 これから眠ろうとする相手に聴かせる歌でも張り切り方でもない。


 そろそろ本当に切ってやろうかと思った頃、何の前ふりもなく、彼女が静かに歌い始めた。


 その声に、玲汰は今自分が何を言おうとしたのかをすっかり忘れてしまった。さっきまでの悪ふざけはどこへやら、透き通った清らかな水のような、すんなり耳の奥へと入り込んでくる歌声がスマホのスピーカーから聞こえてくる。


 これは何の歌だろうか、どこかで……どこかで聞いたことのあるような気がする。心地よくて──いつの間にか、さっきまで続いていた動悸はもう収まっていた。


 玲汰はそっと目を閉じて全身の力を抜いた。


 そうだ、この声を知っている。いつもはトーンの低い淡々とした声だけれど、この歌声は優香にそっくりだ。いや、そのものといってもいい。心地よさと懐かしさに目頭が熱くなった。


 ついその名前が口をついて出そうになった、その瞬間。


 強い風が玲汰の顔に吹き付けた。とっさに両手で顔をかばう。


 何かと思い周囲を確認すると、そこは駅のホームだった。道之駅ではない、見覚えのないホーム。さっきまでベッドに横たわっていたはずなのに、いつの間にかコンクリートの上に立っていた。持っていた猿の指も手元になければ、服装もジャージではなく学生服で、幽香の歌声どころかスマホすらどこにもない。


 辺りを見渡すと、屋根の向こうは星一つない真っ暗な空、なのだろうか、辺りもそれに溶け込んでいて、ここが駅のホームであるということ以外に何一つ分からない。


 振り返って壁に貼られたボードを確認すると、そこには現世(うつしよ)と書かれていた。前後の駅は書かれているはずだが、上からペンキか何かで黒く塗りつぶされていて読めない。そういえば、真美が見た猿夢の話によれば、最初に居た駅の名称がこれだったはずだ。すると、この状況に動揺する玲汰へ言い聞かせるように、天井のスピーカーからアナウンスが響いた。


『間もなく電車が参ります。乗車されますと、恐ろしい目に遭うことになります』


 その言葉で確信した。これは猿夢だ。玲汰は成功したのだ。


 線路の遥か向こうの暗闇から、二つの明かりが小さく灯ったかと思うと、それはどんどんこちらに近づいてきている。猿列車ではない、一般的な電車だ。それが強風を巻き起こしながら玲汰の前を通って、やがて停車した。


 あちこちが黒くくすんだ車体。中は明滅する蛍光灯に照らされて、あちこちに塗られた赤黒い模様が主張していた。窓にも飛び散っているそれは既に乾燥してこびりついているようだった。都市伝説で噂されているような惨劇が起こった跡なのかもしれない。玲汰を歓迎するかのように開いた扉から漂ってきた臭いは生臭く、玲汰の胃を容赦なく持ち上げた。


 大丈夫、ちゃんと目を覚ませるようにアラームはかけてある。いざとなったら、幽香が声をかけてくれるはずだ。


 玲汰は口元をぬぐうと、決意を固め一号車の中へと足を踏み入れた。その途端、待ってましたと言わんばかりに背後で扉が閉まり、電車は駅を出発した。


 やがて電車はトンネルに入り、車内はより視界が悪くなった。生ぬるい空気と血の臭いが夢のくせに妙にリアルだ。見た目だけなら安っぽいお化け屋敷と言えたのに。


 最も前方の一号車に乗ったが、真美の言っていたような小人の姿は見当たらない上に、人一人として居る気配がない。運転席には乗務員の姿もなかった。


 玲汰は二号車へと歩を進めた。重い扉を開けて貫通幌を抜ける。


 一号車と変わらぬ内装と汚れだ。ただ異なっているのは正面左奥に男性が一人、座っている。背を丸めて俯いていて、まるで生気が感じられない。一見してマネキンかと思ったが、恐る恐る近づいて顔を覗き込むと、それは人間だった。病院で見たことのある顔をしている。それはげっそりとして虚ろな目をした、瀬和慶人だった。


「慶人さん、しっかりしてください!」


 彼の肩を掴んで揺さぶっても、一切反応はなかった。どうにかしてここから連れ帰ることができないものか。そう思ったが、ここが夢の怪異であるために勝手がわからない。慶人に触れたまま目が覚めれば連れ帰ることができるなんて言うほど、都合良くいくとも思えない。


 電車が揺れ、体のバランスを取ったそのとき、靴の先で何かを蹴った感覚があった。視線を足元へ落とすと、そこには真っ赤に血濡れた指が一本、転がっていた。

 玲汰は思わず後退った。


 まさかと思い慶人の方を見ると、膝に置いている彼の左手から血が流れていた。薬指の根元から先が無い。断面は荒れていて、刃物で切り取られたような跡ではない。

 そうか。玲汰の頭の中で今までの手がかりが繋がり始めた。


 猿の指は鈴木家の納屋付近で見つかった、くねくねによって焼死した猿のもの。何者かがそれを切り取り、呪いたい人に持たせた。都市伝説に関連付けるために猿の焼死体を電車に持ち込みニュースとして流させ、町の人に夢で見るよう印象付けを行ったのだ。


 そして、当の猿は夢に現れ、自分の指を持つ人間を襲い、失った指の代わりにその人物の指を切り取る──いや、噛み千切ったのだ。猿は指を求めて食い千切ったものの、自分のものではないために馴染まなくて捨てた──まるで、改札鋏で切符を切るように。


 慶人がここに居るならば、智花もここに居るはずだ。


 玲汰は慶人に「必ず助けに来るから」と声をかけて、三号車へと進んだ。


 出入口に立ったまま、奥まで見渡す。どうやらここには誰もおらず、何もないようだ。しかし警戒は怠らず、ゆっくりと進んだ。時折、左右の窓に映る自分の姿に驚きそうになりながらも、玲汰は四号車へと足を踏み入れた。


 同じように、出入り口から奥を確認する。すると、二号車で慶人が座っていたのと同じ左奥のシートに、浅間智花らしき人物の姿があった。膝に置いた左手は赤い。駆け寄って顔を覗き込むと、やはり病院で見た彼女その人のようだった。足元には指が転がっている。中指だ。


 どうにか慶人と智花を共にここから連れ出せないものか。


 考えたそのとき、五号車への通路の奥に気配を感じた。顔を向けると、髪の長い学生服を着た少女が走り去っていくのが見えた。その後ろ姿に見覚えがある。八重子なのか。


 玲汰はすぐさま扉を開けると、五号車へ移動し、さらに六号車へ駆け出した。


 何故ここへ、まさか彼女も犠牲者だった? 犯人ではなく? ……いや、だったら自分から逃げたりはしないだろう。猿夢内の偵察に来ているのかもしれない。


 八号車まで来たあたりで、いつの間にか視線の先に捉えていた少女の姿が見えなくなっていた。夢から覚めて逃げたのか。


 車両の中腹で歩を止めたそのとき、電車内にアナウンスが響いた。


『ただいまから、乗務員が切符を確認に参ります……』


 瞬間、点滅する照明のたった一度の明暗の間に、車両奥に突如人影が現れた。じっとこちらを見つめている。黄ばんだ白い目に、焼けただれた皮膚の──猿だった。


 それをはっきりと認識する前に、玲汰は本能的に危険を察知して元来た車両へと駆け出した。続いて堰を切ったように、猿も玲汰目がけて駆け出した。


 しかし。


(走れない……!)


 体が重い。地面を力いっぱい踏みしめても、思うように体が前へ進まないのだ。


 最近は全く“前へ進めなくなる夢”を見なかったせいですっかり忘れてしまっていた。


 そう、この猿夢も立派な夢の世界である。まさかこんな時にそれが起こってしまうとは想定外だった。


 前へ進めないとはいえ、その場に張り付けられているわけではない。体は重いがなんとか地面を這いつくばって体を力いっぱい引きずり、なんとか手を伸ばして六号車の扉を引いて開いた。


 すぐに振り返り全力で閉じる。そこへ、飛び掛かっって来た猿が指のない手を伸ばしてきた。猿の肘あたりを扉に挟み、途端まるで太い枝が折れるような大きな音がする。しかし、死した者に痛覚などないのか、挟まれた腕などお構いなしに猿は大暴れした。自由な右手で激しくガラスを叩き、その度に扉が大きく振動する。足も隙間に引っかけていて、いくら力を込めて抵抗しようとも、今にも開いてしまいそうだ。


 緊張で手汗が──そう思った時には既に手遅れだった。強く開け放たれた扉の勢いに弾き飛ばされて尻もちをつく。間髪入れずに猿が馬乗りになった。


 左腕は足で押さえつけられ、右腕は両手に掴まれた。強く抵抗しようとも、少しずつ猿の口元に手が運ばれてゆく。黒く薄汚れ、ギザギザに刃こぼれしたような歯が、玲汰の人差し指に食いつこうとしている。


 ダメだ、離れない。


 猿が大きく口を開いた。瞬間、同時に車体が大きく上下に揺れた。


 玲汰の右手人差し指が猿の口に入り、歯が肉に容赦なく食い込む。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る