3-7 如月

 さきほどの男子学生は、やはり──黄泉戸喫を誘っているのではないか。


 共食信仰、共通のものを口にすればそれはもう仲間だとみなす考え方から来るもので、それは古事記に記されている。


 イザナミが死した後、イザナギが迎えに行くが、イザナミは「既に黄泉戸喫をしてしまったから一緒に行けない」と言うのだ。つまり、黄泉の国の物を口にしたために、イザナミは既に黄泉の住人の仲間となってしまった、ということだ。


 あの世のものを口にすると、現世に戻れなくなってしまう。今この霧に包まれているこの場は、あの世とこの世の堺なのかもしれない。


 とにかく、ここへはまっすぐに歩いてきた。このまま進めば霧を抜けて学校まで戻ることができるはずだ。未だに踏切警報が鳴っていて、その音はどんどん遠ざかっていく──近づいてきた。再び、どんどん音が大きくなってくる。そして、遂に目の前に線路が現れた。


 道之駅だ。反対方向へ進んでいたはずなのに、今玲汰と真美が居るここは、さっき居た場所の向かい側だ。いつの間に回り込んだというのか。


 遮断機の下りたその霧の向こうには、うっすらと人影が見える。その人影はゆらゆらと揺れながら、うー、うー、と唸り声をあげている。意味不明な言葉の羅列を聞くに、さっきの男子学生だ。それはゆっくりとこちらに近づいてきている。


 真美が玲汰の腕にしがみついてぎゅっと力を込めてきた。


 まるで宙に浮く風船のように揺れながら、霧の向こうの影はゆっくりと近づいてくる。


 恐らくここを引き返して行っても、また元の場所に戻ってしまうだろう、あの男子学生が居た場所に戻ってしまう。


 とにかく一定の距離を保つしかない、そう思った矢先。


 右手、霧の中へと一筋の光が差し込んだ。機械の駆動音が近づいてくる。電車だ。電車が来るというのに、霧の向こうの男子学生はこちらへ近づき続けている。


 とうとう男子学生は遮断機をくぐり、線路の上へと踏み込んだ。途端、何につまずいたのか、彼は線路の上にうつぶせに倒れこんでいった。その直後、あっという間もなく、猛スピードで電車が踏切へ突っ込み、男子学生の姿をかき消してしまった。


 隣で真美が小さく悲鳴を上げる。


 聞き間違いでもなく、何かを分断するような重く厭な音がした。


 電車は徐々にスピードを下げて、車輪が線路を擦る音を鳴らしながらゆっくりと道之駅ホームに停車した。続けて警報が鳴り止み、すっと遮断機が上がっていく。


 踏切を通過した跡の線路上へ恐る恐る視線を移動させる。


 居る。何かが這いつくばっている。二つの塊がそこに居る。


 隣で真美が「ひっ」と恐怖に顔を歪めて唸った。


 腰から分断され、上半身だけになった男子学生が、線路の上を這いつくばってこちらを見上げていた。


 真美は手に持っていた缶を落とし、それは地面に着くと数回跳ねて倒れ、そこから中身がどぼどぼと零れた。赤黒い、得体の知れない液体が足元にどんどん広がっていった。


 次の瞬間、上半身だけになった男子学生が──テケテケが、猛烈なスピードで地面を這ってこちらへと向かってきた。


 とっさに、また元来た道を走って引き返していく。


 後ろからは、激しく手を交互に着く音が迫ってくる。荒い呼吸に紛れて、理解不能な言葉を呟き続けている。


 玲汰と真美は無我夢中で走り続けたが、やはり目の前に道之駅の踏切が見えてきた。また一周してきしまったのだ。このままでは延々と追いかけっこが続くだけだ。こちらは真美も居るし、体力にも自信はない。この霧の中ではどこへ逃げて隠れればいいかもわからない。


「玲汰くん、電車に乗ろう」


 この状況であの電車が、本当にいつも人の使っているものかと言われれば怪しい。が、今はそんなことを言っていられない。


 真美の手を引いて道之駅へと走り、改札口を突っ切る。そのとき、すぐそばにあったゴミ箱を蹴倒して、テケテケの行く手を遮った。間髪入れず、背後から物が崩れる音が聞えてきた。地面を這いつくばって進むテケテケは、上手くそれに引っかかってくれたようだ。


 電車の扉を開いてなんとか駆け込み、とっさに閉ボタンを連打。扉が閉じた瞬間、バン! という激しい衝撃音と共に、扉の窓部分下部が真っ赤に染まった。


 真美が甲高い悲鳴を上げる。


 見ると、テケテケが頭と両手を扉にへばりつけて、充血した目でこちらを睨みつけていた。


 強く叩きつけたからか、潰れた額からだらだらと血を流している。


 それに構わず、電車はゆっくりと走り出す。


 ずるりとはがれていくテケテケを目で追いながら、上下する肩を落ち着ける。


 なんとか危機を脱した二人は、整理券を抜いてすぐ傍の椅子に腰かけ一息ついた。


 車両内にはやはり玲汰たち以外には誰もおらず、二両編成の二両目にも人の気配はなかった。運転席には運転手の後ろ姿が確認できた。しかしその背から漂う雰囲気から生気が感じられない。不気味すぎる。


「ごめんね、私が道之駅見に行こうなんて言ったから……」


 隣に座る真美が、目に涙を溜めながら呟くように謝ってきた。思えば、くねくねには呪われるし、テケテケには追われるし、ここ数日の間に彼女は悲惨な目に立て続けに合っている。


「気にしなくていいよ。怪我一つしてないんだし、大丈夫だ」


 こういう時、なんとか言葉は出ても、体がどうすればいいのか分かっていない。そっと肩に手を回すのだろうか、手を優しく握ればいいのだろうか。膝の上に載せた手が、どうすればいいのか迷って落ち着かない。手汗をかいていて、握るなんてもってのほかだ。


 すると、右肩に何かが触れた。何事かと目をやると、真美が頭を預けてきていた。疲れて眠ってしまったようだ。


 さきほどとは全く原因の違った動悸にドギマギしながら、玲汰は次の駅に着くのを待った。


 しかし、妙だ。


 玲汰は電車内の臭いを嗅いだ。さっきから妙に生臭いような、気味の悪い匂いがする。それに、この電車に乗ってからどれほどの時間が経っただろうか、トンネルに入ったまま一向に外へ出る気配がない。窓の外ではトンネル内のライトが通り過ぎ続けている。


 運転席を見ると、さきほどから運転手はぴくりとも動いていないように思う。ずっと、立ってハンドルを握った姿勢のままだ。


 スマホを取り出して時計を確認する。乗った時の時刻を正確に把握していないため、どれだけの間この電車にいるのかは分からないが、現在の時刻は午後五時二十六分で止まって進んでいない。学校を出たのが午後五時ごろだったはずで、そこから真美と道之駅まで歩いて二十分ほどであるから、おそらく電車に乗ってから、時が進んでいないのではないかと思う。


 幽香に連絡を取ろうとしたが、スマホの画面に記された電波は圏外だった。いくらこんな田舎町とはいえ、過去にこの電車に乗っている間に圏外になったことなどかつて一度もなかった。


 やはり、この電車はおかしい。


 すると、そこへ唐突に車内アナウンスが鳴った。


『次は~よる~よるです』


 瞬間、ぱっとトンネルから抜け出て、夜の町並みが見えた。


 よる? 玲汰は気づけば冷や汗をかいていた。


 道之駅の次はそんな駅名ではない。よる。夜ということなのか。いや、待て。


 玲汰は聞き覚えのあるその言葉について少し考えて、思い当たる怪異を探った。


 やがて電車はよる駅という場所に停止した。


 玲汰は後ろの窓からホームを覗き込んだ。


 天井にぶら下がっている蛍光灯は黄色く光り、虫が数匹たかっていて、そのうち二本は切れ掛けなのかチカチカと点滅している。一見誰もいないように思えたが、奥のベンチに何やら真っ黒な、油性ペンで塗りつぶしたような色の、人の形をした何かが二人、腰かけている。電車を待っていたわけでもないのか、全く動く気配はない。


 どうしても気になった玲汰は、スマホを取り出してカメラを起動し、それの録画を始めた。ポン、と録画開始の音が鳴った、その瞬間。


 じっと座っていた真っ黒のうちの一体が、すっと立ち上がったのだ。


 カメラ越しにそれを見た玲汰の心臓が飛び跳ねる。


 真っ黒のそれは、人で言えば頭である部分を、ゆっくりと玲汰に向けた。それに目があるのかは分からないが、おそらくじっと玲汰の事を見つめている。


 玲汰はカメラを構えたまま、生唾を飲み込んだ。そして結局、電車には誰も乗り込んで来ないまま、再び動き始めた。


 離れて行く玲汰を、真っ黒は首を回して見送った。


 一体、あれはなんだったのだろうか。姿勢を戻して座りなおし、撮影した動画を確認しようとしたとき、


『次は~きさらぎ~きさらぎです』


 そこで、玲汰の思考を遮るように、アナウンスが響いた。


 やはりか、玲汰は予想が当たっていたことに、喜びとも落胆とも捉え難い気分になった。


 きさらぎ駅。夏になると、迷い込む人が増えると言われる、都市伝説の一つだ。それは、とある女性のネット掲示板への書き込みから始まった。


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【きさらぎ駅】


 会社のからの帰り。いつも通りの電車に乗ったはずなのに、何だか電車の様子がおかしい。


 女性はその異様さをネットの掲示板で次のように報告をした。GPSは使い物にならず、カメラもノイズで写真はうまく撮れない。時間感覚がおかしくなり、記憶が飛んだり、眠気に襲われたりする、電話も繋がらない、など。なぜ掲示板にだけ繋がったのかは不明だ。


 そして、長い間走り続けていた電車が“きさらぎ”という駅に止まる。やっとどこかの駅に停まったものであるから、様子のおかしい電車に居続けたくなかった彼女は下車してしまう。


 しかし、電車を降りてもそのきさらぎ駅周辺では奇妙な事が立て続けに起こった。


 まず、きさらぎ駅とはどこなのかを掲示板を見ている人たちに調べてもらった。が、そんな名前の駅は存在しないと言われてしまう。女性は現在地を確認することは諦めて、線路を辿って帰宅を試みることにした。心配した親から電話がかかって来たときには少し安心した気持ちにもなったけれど、現在地が分からない事を伝えると「警察に連絡してみなさい」と言われ、警察に相談したが「いたずら電話」と一蹴されてしまった。


 ただひたすら線路を進んでいると先の方から太鼓と鈴の音が聞こえてくる。するとふと、背後から「線路なんて歩いていたら危ないよ」と声を掛けられ、振り向くと離れた場所に片足だけの老人が立っていて、一瞬のうちにふっと消えてしまった。


 ただでさえ奇妙な状況に陥っているというのに──心細くなって、はやく誰かと会って安心したい気分になった女性は、太鼓と鈴の音がする方へと走った。きっと、祭りか何かをしていて人も大勢いるはずだと思ったのだ。


 進むと、伊佐賀というトンネルの前まで来た。それを抜けたところで偶然にも、親切な人の車に拾ってもらうことができた──が喜ぶのも束の間、明るく話をしてくれていたはずの運転手は突然黙り込み、かと思うとぶつぶつと独り言をつぶやくようになった。


 車も山奥へと向かっていて──そこで「携帯電話の充電が切れそうだ」という書き込みを最後に、掲示板への報告は途切れる。


 その後、彼女がどうなったのかは誰も知らない。


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 そういえば、確かにスマホの時計は止まっていて、電波は圏外となっている。そして、この電車に乗ってすぐに真美は眠ってしまった。それに、少しまぶたが重い気がする。


 玲汰はさきほど撮影した動画を確認してみた。


 再生した動画は画面が赤みがかってノイズが多く、ベンチに腰かけていた真っ黒い何かは、とてもではないが認識できない。かろうじてそこが無人駅のホームであると分かる程度だ。


 ネットでは、きさらぎ駅の前はよる駅、後はかたす駅であると言われている。実際に、さきほど止まった駅はよる駅だった。ネット上の推測では、よる駅は黄泉、かたす駅は根之堅州國のことを指しているのでは、と言われていた。


 いずれにしろ、ここが異界であることは間違いない。


 そこで、意識してしまったからだろうか、徐々にまぶたの重みが増してきていた。隣で真美はまだ寝息を立てている。玲汰は兎にも角にも、船を漕ぎ始めている自分の頬をはたいて、眠り込んでしまわないように気を張り続けた。


 しばらくして、電車はとうとうきさらぎ駅へと停車した。


 窓から覗き込んだホームは、さきほどのよる駅とはさほどかわらない。というよりほぼ同じだった。切れ掛けの点滅する蛍光灯、ぽつんと一つだけ置いてあるベンチ、の無人駅だ。ただ、今度は真っ黒の何かは一体もいなかった。


 そして、きさらぎ駅でも誰も乗ることはなく、再び電車は動き始めた。本当は降りて、ネットに書き込まれた話が本当なのかどうか、この目で確かめに行きたい気持ちでいっぱいだった。しかしあまりにも未知で危険すぎる。幽香と連絡も取れない以上、眠気と一緒にぐっとこらえた。


 離れて行くきさらぎ駅を、見えなくなるまで見送った。


『つぎは~かたす~かたすです』


 降りた先がどうなっているのかは分からないが、どうやらきさらぎ駅の前後は本当によるとかたすらしい。なら、きっときさらぎ駅周辺でも太鼓と鈴の音と共に囃子が聞こえ、線路を歩けば片足のおじいさんが声を掛けてきたり、伊佐貫というトンネルがあったりすることだろう。そんな事を思いながら、玲汰は船を漕ぐのを止められず、やがて意識は暗くなっていった──。


 大きな揺れでうっすら目を開けると、玲汰は眠ってしまっていた事に気付いて飛び起きた。


 その振動で、寄りかかっていた真美も目を覚ましたようで、目をこすっている。


 とっさに窓の外に目をやると、外はまだうっすらと明るく、景色も見覚えのある場所だった。


 スマホの時計を見れば、ちょうど午後五時三十分を回ったところを示している。


 やがて停車した駅は、道之駅の隣駅だった。


 お金を払って駅から出ると、どうやら現実世界で間違いないらしい。周辺にちらほら人の姿も見られる。無事戻って来られたようだ。真美は、玲汰が何をそんなに焦っているのか分かっていない様子だ。思い返してみれば、最後は眠ってしまっていたわけだから、もしかすると本当は真美と同じタイミングで眠っていて、きさらぎ駅のくだりは夢だった可能性もある。


 そういえば動画を撮った事を思い出し、玲汰はスマホを取り出してデータを確認してみた。


 そこに、例の動画は存在した。きさらぎ駅は、夢ではない。


「どうしたの、玲汰くん」


 スマホの画面を見て青ざめた顔をする玲汰を心配して、それを覗き込もうとする真美から画面を隠す。


「いや、なんでもないよ。もう帰ろうか」


 道之駅で恐ろしい目に合ったこともあり、一駅くらいなら、と二人で歩いて帰ることにした。


 道中は、お互いに努めて明るい話だけをした。幸い、沈黙することもなく、真美の家に着くまで話題には困ることがなかった。途中、家に帰っても晩御飯に困る玲汰は真美を外食に誘ったが、既に親が用意しているからと言われたときには少し言葉に詰まってしまった。


「こ、今度! 明日? はダメだけど、明後日、明後日いこう!」


 興奮気味に取り繕う真美に、思わず笑みがこぼれた。


 彼女を家まで送った後、すぐに今日の出来事を幽香へと報告すべきか迷ったが、明日、部室で直接話したほうが伝えやすいかと思い、連絡を見送った。

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