三、タッちゃん

3-1 快晴

 スマートフォンのアラームを切って、眠い目を擦りながら体を起こし、大きく伸びをする。


 カーテンから差し込む日の光は眩しく、絵に描いたような朝が訪れていた。


 昨晩に怪異と遭遇し、命の危険に晒されていたことなどまるで嘘のように清々しい目覚めだ。


 非日常的な出来事の後で、真美の元気な姿も見ていないうちにベッドに入ったところで、ちゃんと眠れるのだろうかと思っていたが、それこそ馴れないことの連続で疲労していた体は素直に寝入ってくれた。ひと眠りしても、体のあちこちはまだ痛むけれど。


 洗面所で歯を磨いて顔を洗っている間も、昨晩の鈴木家で起こった出来事は頭から離れない。ともすれば、あれはさっきまで見ていた夢なのではないだろうかとさえ思ってしまう。


 真美は本当に助かっているのだろうか。


 朝食もままならないまま、着替えを済ませるとカバンを持ってマンションを飛び出した。


 校門前まで来ると、垂れ目の小動物のような少女、瀬和八重子が立っていた。こちらに気付いた彼女が手を振ってくる。


「昨日はありがとうございました、玲汰センパイ」


 ぺこりと頭を下げる八重子。


 髪を結っているシュシュの柄は、よく見るとデフォルメされたグレイエイリアンの顔が水玉模様のように散らばっているものだった。クセが強い。一体どこで買ったのだろうか。


「生半可な気持ちであんな場所に行ってはいけませんね。玲汰センパイは命の恩人ですっ!」


「いや、大げさだよ」


 あのときは必死だった。真美を助けるために行ったものの、想像していた数倍は危険で、そして映画やゲームなどとは比べ物にならないほど恐ろしかった。


 きっと自分一人では解決するどころか、あっという間に黒焦げて死んでいただろう。


「守人だって助けてくれたし、それに八重子がいなかったらくねくねの本体を見つけられなかったはずだから」


 急に黙り込んで俯く八重子。


「八重子?」


「あっ、いえ、確かにそうかなって思って。私……」


「そういえばお兄さんに何があったのかとか、聞かれたりしたのか?」


 鈴木家に行くために抜け出して、男子二人と会っていたことを知られてしまった八重子。どう言い訳したのだろう、正直にくねくねを見に行ったら襲われて大変だった、なんて言っても信じてもらえるわけもない。


「注意されて、終わりましたね」


「え、それだけ?」


「くひ、それだけですよぉ。何も聞かれませんでした。あまり心配かけんなよって、それだけ」


 昨日は疲れ切っていたためにあまり彼の顔は覚えていないが、ワケのありそうな妹に深く踏み込まないとは察しが良いのだろうか、それとも妹の事を信頼しているのか。深夜に帰りを待ってくれていたこともあり、良い兄なように思える。


「良いお兄さんなんだな」


「へへ、そうなんですよぉ。大好きなお兄ちゃんです」


 なるほど、こんなに人懐っこい小動物みたいな上に甘えるような話し方なのも、お兄ちゃんっ子であるからこそなのかもしれない。


「ところで急いでる感じでしたけど、何かあるんですかぁ?」


「あぁ……真美、来てるかなって」


「真美センパイなら、来ませんよ。だって」


 八重子はカバンを漁り始め、中からスマホを取り出して画面を見せてきた。


「ほら。写真部のグループに今日は休むって」


 真美からの送信で、『体調は良くなったけど、大事を取って今日はお休みします』とある。


「っていうか、そんなに気になるなら自分で電話でもかけてみたらいいじゃないですかぁ」


 鈴木家でのこと、真美の安否、それらで頭がいっぱいで確認方法まで頭が回っていなかった。


 にやにやしている彼女をよそに、玲汰はスマホを取り出して真美に電話をかけてみた。


「じゃ、私はお先ですぅ」


 お邪魔しちゃ悪いので、と、すたこらと玄関へと駆けて行った。


「あいつ……」


『もしもし。玲汰くん?』


 数コールの後、真美が出た。スピーカー越しの真美の声はすっきりとした印象を受ける。


 真美は助かったのだ。


「いや、その……元気かなって」


『私のこと、心配してくれたの?』


「あ、当たり前だろ」


『……ありがと。嬉しい』


 急に小っ恥ずかしくなってきた。


「もう何ともないのか?」


『うん。すごく苦しかったんだけど、昨日の夜中に急に治ったの。最初から何にもなかったみたいに、急に。病院の先生もびっくりしてた』


「そうなんだ。良かった、元気になって……」


 玲汰は心の底からそう思った。今度はちゃんと救えた。


『昨日も電話くれてたんだよね。ごめんね、そのとき話をしたと思うんだけど、あんまり覚えてなくて……』


「大変な状態だったんだから仕方ないよ。……でも」


 言いかけて怜太は考えた。先輩の写真やコンテストでの入賞について、彼女は思い詰めている。何か掛けてあげられる言葉があるはずだ。打ち明けてくれた事を覚えていなくても。


「どうしたの?」


「その……誰も真美のこと、嫌いになんてならないよ。もし誰かが真美のこと悪く言ったって、おれや守人は真美のこと、大事に想ってる、から。今後何かあったとしても、嫌いになんてなれない」


「え……っと、うん。……分かった。ありがとう」


 また明日、学校で話そう。言って、通話を切った。


 真美を救ったんだ。最後の言葉が真美の自責の念に届いたかどうかはわからないけれど。


 真美の声を聞いて、その実感が湧いてきた。


 もし何もしないで彼女を見殺しにしていたなら、きっと後悔しただろう。何かできたかもしれないのにとか、もっと話しておけばよかったと。守人に八重子、そして狭間幽香のおかげだ。


 彼女の協力なしには今回の怪異解決に至らなかっただろう。自分を導いてくれた彼女に、今すぐにでも礼を言いたい気持ちでいっぱいになっていた。


「おい、玲汰! 誰と話しとんのや」


 背後から大声で名前を呼ばれ、振り向くと汗だくの守人がいた。朝練終わりの様子だ。


 むわっと生暖かい空気が顔に当たる。制汗剤でも使ったのか、甘い香りが混ざっていた。


「真美だよ」


「ま、まま、真美さん!?」


 相変わらず真美に関する事になるとあからさまに動揺する。


「達野さんと話しとったんか! 俺にも代われ!」


「もう切った」


「も、もも、もう切った!?」


「朝からうるせぇぞ」


 二人並んで歩き出した。


「真美、体調戻ったってさ。夜中、急に」


 体調が戻り元気になって、だが大事を取って今日は学校を休むと言っていたことを伝えると、それを聞いて守人は泣きそうな顔になりながら喜んでいた。意中の人を亡くしてしまうこと、それがどれほど苦しいことか想像に難しくない。玲汰にはそれを優香に置き換えたならば、痛いほどよく分かる。友人がそうならずに済んだことは喜ばしかった。


「正直、朝練全然集中できんかった」


 どうやら、この朝練でボールの取りこぼしを連発し、顧問にかなり怒鳴られたらしい。


 笑い合いながら教室に入り、荷物を置いて席に着くと、間もなく始業のベルが鳴った。


「その……昨日は、ありがとうな」


 隣の席に座る守人にそう言った瞬間、彼は顔をしかめて玲汰の顔を覗き見た。


「なんや、気持ち悪い。ヘンなモンでも食ったんか?」


 友人に改まって礼を言うのがかなり恥ずかしさがあるし、勇気がいる。それなのにこいつは。


「まぁ、何に礼言われたんかは分からんけど、友達やねんから」


 ニカっと笑う守人。


「それに、あれを倒したんはお前自身や」


「お前の協力あってこそだよ」


 そこへ、担任の雨谷恵子が教室へ入って来た。


 見ると、いつも通りのローポニーに結っている髪は、今日はツヤもなく荒れ気味だ。目元にも若干くまができているようにも見える。調子が優れないのだろうか。


 どうやら他の生徒も数名それに気づいたようで、ひそひそ話している。


「こらこら、ホームルーム始めるから静かにしてね」


 雨谷が言った傍から、


「先生、今日コンディション悪そうですけど、良いカード出ませんでしたか~?」


 お調子者の男子生徒が投げかけた。


「節制の逆位置だったわ……。ほら、そんなことはいいから号令」


 節制の逆位置。確か、予期せぬ不調や状況を表しているのだったか。


 雨谷はうんざりした様子で野次を受け流して、教卓に教材を投げ置いた。生徒たちもそれを見て、これはあまり触れない方が良いと察したのか、それ以上誰も何も言わなかった。


 玲汰は少し雨谷の事が心配になったが、後は滞りなくホームルームが進み授業が始まって──やがて放課後が訪れた。


「そういやぁ玲汰、昨日あの家で電話しとった相手って先輩や言うとったけど、この学校のか?」


 去り際、守人に聞かれて、事のあらましを説明した。


 掃除中に姉にそっくりな人物を見かけ、追うと元オカルト研部室にたどり着いたこと。その人物は狭間幽香と言い、姉ではないこと。そして、怪異解決に協力する代わりに、現在のオカルト研究同好会に入会し、正式に同好会として認可されるために協力する、と宣言したことを。


「ほぉ。昨日はその狭間っちゅう人の指示に従って倒したんやな。その人すげぇな」


「なんか掴みどころないけどな」


 最初は風貌や名前に驚かされ、霊感があるなんて言われたときにはうさん臭さがすごかった。少しズレたボケもかましてくる。けれど、あの人がただ者でないことは、今回の怪異解決を持ってして証明された。


「そうかぁ。玲汰が部活……とはちゃうけど活動に入ったんは、雨谷、喜ぶんとちゃうか」


「まぁ、近いうち届出を渡すよ」


 毎度しつこく入部しろ入部しろと急かす雨谷の姿を思い出す。


 やっとどこかの活動に参加するかと思えばオカルト研究同好会である、となると一体どんな反応をするのだろうか。ふっきれたと思うだろうか。とにかく、安心してもらいたい。


「正式な同好会にするん手伝うんやっけ。今何人なんや?」


「おれと先輩の二人だけだな」


 正式に同好会と認められるには、メンバーを最低五人集め、かつ顧問となる先生を見つける必要がある。明確な活動内容も提示しなくてはならない。


「顧問は雨谷先生に頼んでみようと思ってる。他の部員はまぁ、どうにか探してみるよ」


 雨谷は現在、写真部の顧問を担っている。掛け持ちになってしまうが、かつてオカルト研究部の顧問だったこともある。なんとか承諾してくれるよう持って行けると踏んでいる。


 現在三年生の幽香は、最終的にはオカルト研究部を復活させることを目標に掲げている。同好会を部に昇格させるには、一年間活動をして何かしらの成果を上げなければならない。今の時期から同好会になり、そこから一年となるととても間に合わない。幽香は卒業を迎えてしまう。あまり気長にというわけにもいかない。


 とはいえ、どうやって探したものかと考えていると、


「俺、入るわ」


 守人があっさりと言い放った。


「掛け持ちで、あんまりそっちに顔は出せんかもしれんけど、お前と狭間先輩の役に立てるなら協力するわ」


 こうして、オカルト研究部復活に向けてメンバーが一人増えることになったのだった。


 その後、玲汰は自然な足取りで、オカ研部室に向かった。

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