2-11 業火

「おい……」


 守人の体をゆする。


 怜太は頭が真っ白になった。天と地がひっくりかえったような無重力な錯覚に一瞬陥る。


「おい……おい、死ぬな! 守人!」


「まだ死んでへんけど」


 彼の肩を大きく揺さぶってすぐ、かすれた声で返事があった。


「何だよくそ、脅かすなよ!」


「まだ達野さん事あきらめたワケちゃうからな……まだ死ねん」


 そもそも怜太にとっては、いつも本人の前で挙動不審だった守人が真美に想いを告白していたという事実が驚きだ。


「俺……生きて帰れたらもっかい告白するわ」


「全然笑えないんだよ」


『お二人さん、怪異と一緒に居る事を忘れないで』


 幽香に言われてくねくねへ振り返ったその途端。


 くねくねの全身のひび割れから、青い炎が勢いよく四方八方へ噴き出した。くねくねを覆い、怒りを表したような姿へと変貌させてゆく。


「あっつ……もしかして、さっきのって怒らせただけなんじゃ……」


 思わず後退る。


『いいえ。殻を一枚破ったようなイメージが適切ね』


「じゃあ、あと何枚破ればいいんですか!?」


『甲殻類は一枚はがせば中はもろいわ。あと少しよ』


「こいつ甲殻類じゃないでしょ!」


 炎をまとったくねくねはゆっくりと立ち上がり、鬼の形相で玲汰をにらみつけた。



ああああああああついあいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃ



 咆哮と共に、玲汰を囲むように、床の上を瞬時に炎が走った。


 めらめらと燃える火で、部屋全体が赤く照らされる。


 見れば出入り口も炎で閉ざされており、逃げ出す術を封じられていた。


「れ、怜太! 水をくれ! あつい、あついあついあつい! 火を、火を消してくれ!」


 守人が喉の奥から声を絞り出すようにして叫び声を上げながら、再び床の上で暴れ始めた。彼の体に火など燃え移ってはいない。しかし、脚を激しくばたつかせ、、両腕はありもしない火を消そうと体の上を払い続けている。


 近づいてくるくねくねから距離を取るため、玲汰は暴れる守人を引きずってキッチンの端まで後退した。


 壁に背を預けている状態。逃げ場はない。


『玲汰クン、二階で見た鈴木彩のプロフィールを覚えている?』


「す、少しなら覚えてますけど、それがなんだって言うんですか!?」


 くねくねはすぐそこまで迫っている。


『それを全てくねくねにぶつけて。あなたのほうが鈴木彩のことを知っていると、その事実を突きつけるのよ』


「また怒らせるんですか!?」


『いいから!』


 このまま居てもただ焼き殺されるだけだ。ここは幽香の言う通り一か八かそうしてみる他ない。玲汰はどうにでもなれ、と仁王立ちになり、くねくねに叫んだ。


「お、おいお前! 彩のこと、どのくらい知ってる?」


 くねくねは止まらない。こちらに歩を進めている。もはや眼窩に眼球はなく、落ちくぼんで真っ暗だった。


「誕生日は? おれは知ってる。五月二十日生まれだ」


 止まらない。


「好きな言葉は? 艱難汝を玉にす!」


 少し反応したような気がした。ひるんでいる。


「好きな芸能人は? 桐ヶ谷美鈴だ!」


 今度はその反応が明確だった。足が止まった。くねくねが震えている。


「スリーサイズは?」


 纏った火が少し弱くなったように見受けられる。


「上から八五、五四、八四だ!」


 くねくねは大きく揺れた。そこに、動揺が感じられる。


「お前、好きな人の事を何も知らないんだな!」


 効いている。くねくねに、確実に。


 きっと、自分こそが誰よりも鈴木彩を好いていると信じて疑わなかったのだろう。その自信が今、崩れ去ろうとしているのだ。ただ好きでいるだけでは知ることもできなかった情報に、今、衝撃を受けているはずだ。


「お前よりも、おれのほうが彩のことを知っている。誰よりもな!」


 

ああああああああついあいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいぃ



 叫びと共に、くねくねは突進してくるや否や、燃えるその腕を振り払い玲汰を弾き飛ばした。


 冷蔵庫に叩きつけられ、床に崩れ落ちる玲汰。


「っぐ、や、やっぱり怒らせただけじゃないですか……っ!」


 転げ落ちたスマホに文句を垂れる。


「霊は魂。魂は精神。今のくねくねは、もうズタズタに引き裂かれて瀕死の状態と言ってもいいわ。トドメを刺すのよ」


「トドメって、どうやって?」


 再びくねくねはこちらに向かって来る。


 さすがに次はもう耐えられる気がしない。


『近くに包丁はある?』


「ほ、包丁!? やっぱり最後は物理なんですか!?」


『あるの?』


 低い声で脅すように言われ、とっさに目に入ったのはキッチン台の上の包丁立てだった。そこに、三種類ほどの包丁が入っている。


「あ、あります、三つくらい」


『どれでもいいから、それで写真のそいつ、くねくねを、念を込めて思いきり突き刺すのよ!』


 言われた途端、玲汰は理解した。


 これは呪いの一種だ。


 人を呪うとき、相手を模した人形と呼ばれる紙、木、或いは有名なものであれば藁人形を使用し、釘や包丁で徹底的に痛めつける。憎しみを込めた呪いの言葉を口にしながら、徹底的に。形代の呪法や、藁人形であれば不動王精霊返しや、丑の刻参りなどがある。


 そして呪詛に必要なのは道具もそうだが、重要なものの一つに想いの力、念の力がある。それが強ければ強いほど、効果を発揮するといわれている。


 危機に瀕している今、正式な手順を踏む事はできないが、ここには形代の代わりに本人の写真があって、そして、皆を救いたいという強い想いも持っている。


 玲汰は痛む全身に鞭を打ち、急いで起き上がると包丁を掴み、写真を台の上に叩きつけた。


 玲汰がこれから何をしようとしているのかを察したのか、くねくねは大声で叫ぶと、勢いよくとびかからんとした。


 包丁を握る手は恐怖と緊張に震えていて、汗に濡れている。改めて握り直すと、玲汰は写真に写る青年の位置を確認し、真美、守人のことを想う。電話越しに聞えた真美の苦しそうな声。呪いの炎にもがく守人の姿。そして、大事な彼らを呪ったくねくねに対する怒り。その念を握りしめた包丁に込め、一気に振り下ろした。


 キッチン台全体が小さく揺れるほどの衝撃と共に、包丁が写真を貫く。


 しかし。


 包丁の切っ先は青年の隣に並んだ少女の胸を射貫いていた。力み過ぎたのだ。


「は、外した……!」


 瞬間、とびかかって来たくねくねに肩を掴まれ、背後にあった冷蔵庫へと勢いよく打ち付けられた。


 衝撃に一瞬、呼吸が止まってしまう。


 逃れようと必死にもがく玲汰だったが、とてつもない力に両腕を押さえつけられ、その間にどんどん、くねくねの体から噴き出る炎が服に燃え移ってくる。


 手足に突き刺さる鋭い熱。顔に当たる熱気と火の粉。少しずつ迫るくねくねの憤怒の形相をした顔。


 死ぬ。このままでは──。


 今にも抜け落ちてしまいそうな足腰を何とか踏ん張って、辺りに何か逃れる手がかりはないかと目を凝らした。すると頭上、冷蔵庫の上に大きなダンボールが積まれているのが目に入った。あれに何が入っているのかは分からないが、くねくねに落とすことができれば隙を作れるかもしれない。


 玲汰は腰を浮かせると、力の限り冷蔵庫に向かって体を打ち付けた。


 頭上のダンボールがぐらりと揺れる。ガシャリと金属がぶつかり合うような音が聞こえた。感触的にはそれなりに重いものだと思われる。頭上を見ると、ダンボールは少し手前に飛び出してきていた。


 もはやくねくねの顔は目と鼻の先にまで迫っている。鼻先が鉄板に触れているくらい熱い。


 覚悟を決め、くねくねの炎に飛び込む勢いでもう一度、冷蔵庫に衝撃を与えた。

 すると、くねくねの脳天にダンボールが落下。同時に両手の拘束が解かれ、玲汰はとっさに床に倒れ込んで転がりまわった。


 上着を脱いでズボンを払い、なんとか燃え移っていた炎を消す。肌は赤みがかっていてジンジンと痛むが、今は気にしていられる状況ではない。


 くねくねがまだ怯んでいる隙に、再びキッチン台へ立ち、突き立った包丁に手を伸ばす。


 しかし、台から包丁が抜けない。


 すぐに他の包丁を手に取ると、既に刺さっている包丁の先を目印にし、そのすぐ傍目がけて、振り下ろした。


 包丁が写真に写る青年の顔面を貫き、深く深く、キッチン台に突き立つ。


 途端、大木が折れたような音を発して、くねくねの額ど真ん中に、ぱっくりと大きな亀裂が走った。まるで本当に直接、包丁が突き立ったような大きな亀裂だ。


 人間であれば血を吹き出して倒れるであろう巨大な傷だが、それでもくねくねはその場に立っている。ゆらゆらと、まだこちらへと向かって来る。


 玲汰は包丁を引き抜くともう一度、今度は青年の胸に向かって再び力強く振り下ろした。大声で、強い意志を持って、


「地獄に落ちろ!」


 ドン、と胸に深々と突き刺さった包丁は、シンクロして、くねくねの胸にも頭部と同じような溝を作る。


 そして、くねくねの動きがピタリと止まった。


 悲鳴も上げぬままに、それはぐらぐらと左右に振れた後、頭頂部から灰となって、周囲に煙を立てながら地面に崩れ落ちてゆく。


 玲汰はそれをじっと見つめ、やがて床に粉の山だけが残った。


「……」


 包丁を引き抜き、包丁立てに戻す。


 写真は、青年の居た所だけズタズタになり、もはやそこに誰が写っていたのかは分からない状態になっていた。それをそっとポケットにしまう。


 そして、部屋を見渡した。


 そして、部屋を見渡した。


 いつの間にか、リビングを照らしていた赤い炎も今にも消えそうなほどに小さくなっていた。


 静かな夜の音だけが、玲汰の耳に届いている。


 この家に、もはや脅威は存在していない。


 守人の様子も、全身汗だくではあるが落ち着いていた。


 途端、全身から力がすっと抜けて、玲汰は床に崩れ落ちた。今頃になって、手が小刻みに震えている。


「……やった」


 くねくねを、倒した。その実感が、時間をかけて、じわじわと玲汰の体を満たしてきていた。


『あなたなら出来ると分かっていたわ』


 床に落ちていたスマホから聞こえる幽香の声。震える手でなんとか拾い上げる。


「は、狭間先輩のおかげです」


『いいえ、私はアドバイスをしただけ。倒したのはあなた自身よ。……やっと、私を名前で呼んでくれたのね。狭間先輩って』


 聞こえる声は、いつも淡々と話す彼女にしては少し嬉しそうに聞こえてきた。


「別に何でもいいでしょう。それより、ここから出ようかと……」


 ふと見た窓の外、脚を少し引きずりながら歩いてくる八重子の姿が見えた。手を振っている。


『ええ、そうね。今日はお疲れ様。ゆっくり休んで、また明日、顔を見せて頂戴な』


 通話を切りかけて、


「あ、そういえばさっき、包丁を刺すのを外した時、隣の女の子を刺しちゃったんですけど……あれ、大丈夫なんでしょうか」


 そのときの包丁はしっかりと、少女の胸を貫いていた。


『そうね。……それは、残念だけれど……』


 幽香の深刻な声色に、血の気がすっと引いて行く。


『……大丈夫でしょう。だいたい、念を込めたのは別人だし』


「ちょっと、ほんとに勘弁してくださいよ!」


 散々な思いをしたばかりだというのに。


 玲汰はすっかり呆れかえって、彼女がまだ何か言っているのもお構いなしに通話を切った。


 時計を確認すると、時刻は午前三時を回っていた。


 守人を背負って、玄関から家を出る。扉の鍵は開いていた。


 外に出ると、鼻から入ってくる空気が屋内とは違って、非常に透き通ったような、新鮮に感じられた。


 地面に座っていた八重子が、心配そうな面持ちで足を引きずりながら寄って来る。


 くねくねを倒したことを伝えると、信じられない、と驚いた様子で、でも表情を一変して喜んでくれた。


「八重子、守人のこと見ててくれるか? ちょっと、確認したいことがあって」


「ええ、いいですけど……早く戻ってきてくださいね」


 心細そうにする八重子に守人を預けると、玲汰は守人の懐中電灯を持って鈴木家へ再び入ると、廊下の入り口から地下へと向かった。くねくねとなった青年の死骸を確かめるためだ。


 地下室はさほど広いわけでもなかった。右手の壁には一面鏡が貼られており、一瞬写った自分の姿に驚いた。反対には、電子ピアノが一台置かれている。鏡のない壁には小さい穴がたくさん開いており、おそらくここはレッスンスタジオであることが分かった。


 そしてこの部屋の隅っこに、例の黒い塊はぽつんと寂し気に転がっていた。近づいて確かめると、胎児のような姿勢で蹲っている人の形をしたものだった。これがあの青年だというのか。


 それの周囲の床も黒く焦げており、ここで焼身自殺を図ったのではないかと推測した。


 警察の捜査が地下まで及ばず、彼は今日まで発見されなかったのだ。彼自身が、くねくねとなりそれを妨げたわけだ。


 玲汰はその場に膝をつくと、手を合わせて彼の冥福を祈った。


 通路の先にあった出入口は、鈴木家からほんの少し離れた場所にある納屋に繋がっていた。ここへ入る時も床からだったため、恐らく家の者以外誰も気付けないだろう。内側から鍵だって掛けられる仕組みになっている。しかし、恐らく青年は深夜に皆が寝静まった後、ここから侵入して放火した。そして誰にも見つからないようこの場所で自殺したのだろう。


 一体彼はどうやってこの通路を発見したのか。また、何故十年以上も経った今になって、彼はくねくねとなり姿を現したのか。そんな疑問が玲汰の中で巻き起こった。


 暗い中、納屋から出て、長く伸びた雑草を踏みつけながらしばらく歩いていると、足元に何か真っ黒いものが一瞬、懐中電灯で照らされた。何かと思って明かりを向けると、それを見て玲汰は思わず声を漏らした。


 四肢のあるその真っ黒いものは、よく見ると猿だった。山から下りてきたところで、くねくねに遭遇し呪われ、息絶えたのだろうか。


 玲汰はこの猿にもしばらく手を合わせた後、八重子と合流した。


「あ、おかえりなさい、玲汰センパイ。今日はホントに、お疲れ様でした」


 何はともあれ、くねくねを倒し、解決したのだ。真美の死を、その他大勢の人が危機を免れられたはずだ。


 また、彼女のあの笑顔を見ることができるだろうか。


「センパイ、おやすみなさい~」


 守人の自転車を借りて離れて行く八重子。


 あんなに怖い思いをしたのに、一人で帰っていけるなんて、肝が据わっているな。そう思ったが、八重子はまた大急ぎで戻って来て言った。


「……スミマセン、やっぱり送ってもらえますか?」


 恥ずかしそうに俯いて言う彼女は、いくらオカルトが好きとはいえ、やはり女の子なのだなと思った。小柄な体系が、より一層小さく見えた。


 玲汰は守人を自転車の荷台に乗せ、それを押して八重子の家まで向かうことにした。


 帰っている道中、お互いに一言も口を利くことは無かった。それを気まずいとも感じず、ただただ、玲汰も八重子も疲れて何も言えなかったのだ。


 瀬和家の玄関に着くと、一人の若い男性が三人を出迎えた。


 ぎくりとした八重子は、彼の事をお兄ちゃん、と呼んだ。


 どうやら両親にはばれずに家を抜け出したものの、兄には気づかれていたようだ。ひどく怒っているように見える。それに、女子高生が見知らぬ男子高校生二人と夜中に会っていたのだ、これは誰がどう見ても問題である。


 しかし、玲汰も守人も、そして八重子も、薄汚れた風貌で、とても何か他人に言えないようなやましいことをしていたようにも見えない。彼もそう思ったのか、何も責めるようなことは言わず、八重子を家に入れた。


「君たちも、気を付けて帰って」


 それだけ言って、八重子の兄も家に入っていった。


 守人と自転車を連れて、元来た道を引き返していく。


 この時期の夜は冷える。


 吐いた息が、白く目に見えた。


 誰も居ない夜道を進んでいく。深い夜を、気持ち一人で。


 今度真美とまた会えたなら、また昔のようにホラー小説や映画の話を思いっきりしよう。


 そして、幽香と共に、また、楽しいオカルト研究部を立ち上げるために、行動しよう。


 色んな思いを胸に抱えながら、玲汰はゆっくりと歩を進めた。

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