2-9 熱気

『来たわ』


 瞬間、リビングのドアが外側から激しく叩かれた。


 押さえつけている机や椅子が大きく揺れる。


 

 あああああああああああああああああああぁぁぁぁいいいいいいいぃぃぃぃぃぃぃ

 


 声とも物音ともつかない奇妙な振動が、ねっとりと鼓膜をなでていった。つま先から頭まで、一瞬にして鳥肌が駆け巡る。くねくねが、とうとうやってきたのだ。


 おびえた様子の八重子は守人の袖を力強く握っていた。


『あとは対処しながら話すわ。まず言っておくけれど、たぶん、あれは彩じゃないわ』


 そして、「その両親でもない」と、幽香は言った。


「じゃあ、あれは一体誰だって言……」


 背後から突然、ガラスの弾ける音がした。


 喉から掠れた悲鳴を上げて、八重子が飛び跳ねる。


 玲汰は驚いて振り返り、その音のした方向へ目をやった。


 棚の上の写真立ての一つが目に留まる。


 家族写真だ。ヒビが入っている。まるでペンか何かで突き立てたように、それは鈴木彩を中心に広がっていた。


 すると、内側から破裂するように、他の写真立てにも次々とヒビが入っていった。そのどれもが、鈴木彩が中心となっている。おそらく妹の宮であろう写真にまで。


『何か起こった?』


「写真立て全てに、突然ヒビが入っていきました」


 瞬間。


 ドアを押さえつけていたテーブルと椅子が強い衝撃と共に四散し、木片がそこら中に散らばった。入口に置いてあった盛り塩も、四散している。


 咄嗟に両腕でかばったが、鋭く尖った木片が玲汰の頬をかすめていった。


『玲汰クン、伏せてあった写真立てにはヒビは入ってる?』


「え、何で今……」


『早く確認して頂戴』


 急いで棚に寄ると、伏せて置いた写真立てを手に取って確認した。すると、


「ヒビが、ないです……これだけ無傷です」


『やっぱりそうなのね』


「玲汰、はよ隠れんと!」


 ゆっくりとドアが開き始める。


 椅子や机は四散し、隠れられる場所はキッチンの奥くらいしかない。が、玲汰の今いる場所からではもう間に合わない。


 守人と八重子はキッチン奥へ向かい、玲汰は入口の真正面である棚から離れるために、かがんだままキッチンとは反対側の部屋の隅へと移動した。テレビ台の影に体を押し込む。


 ドアがすっと開ききり、黒い物体がこのリビングに足を踏み入れた。


 玲汰はすぐにスマホのライトをオフにした。同時に守人も懐中電灯をオフにしたのだろう、キッチン側に灯っていた光も消えた。


 しん、と静まり返るリビング。


 息を殺し、くねくねの動向をうかがう。とはいえ、明かりが完全になくなり、真っ暗で何も見えない。わずかに聞こえる荒い呼吸と、何かが蠢き布がこすれるような音だけが聞こえる。くねくねが踊っているのだろうか。


 やがてそれらに、ひた、ひた、と、足音が加わった。


 徐々に視界が暗闇に慣れてきた。


 家と空とを遮る建物のない田舎。月明りがリビングを照らしてくれている。


 黒い影が、ゆっくりと棚に向かって歩いているのが分かった。


 棚が面している場所はちょうど壁になっていて、窓から入る月明りが直接当たらない。そのおかげで影になっており、それがくねくねの姿を曖昧にしてくれていた。


 やはりくねくねは、踊っているのではない。月明りの影の中でわずかに確認できるそれの存在は、やはり熱さに悶えるような動きに思える。はっきりと目視しているわけではないが、決して、踊っているようには思えない。


 そのくねくねの向こう側、キッチンの影からひょっこりと何かが顔を出している。一瞬ぞっとしたが、すぐにそれが守人だと分かった。


「おい、玲汰、どうすんだ」


 と、口が動いている。


 ひた、ひた……と、くねくねは歩いている。


 命を懸けたかくれんぼだ。


 守人の頭の上に、今度は八重子が頭を出した。二人のすがるような目に、一瞬思考が止まってしまう。対処法が、何も浮かばない。


 冷や汗が頬を伝って、顎から床に落ちていった。


『落ち着いて、玲汰クン。くねくねの行動を観察するのよ』


 深呼吸して、自分を落ち着かせようとする。そのとき、わずかに鼻をつんと刺激したにおいがあった。肉が焦げたような、不快な匂いだ。それに、煙も混ざっている。


 くねくねが発する異臭だ。


 玄関に居たときに察知した煙の発生源は、やはりこのくねくねだったのだ。深呼吸で落ち着かせるつもりが、胸やけのような違和感を抱えて逆に気分が悪くなってしまった。


 気を取り直して、くねくねの動向をうかがう。


 くねくねが歩くその先にあるのは棚だ。棚の上に置かれているのは小物と、そして「写真」である。ヒビの入った複数の写真。そのうち、無傷だった集合写真を、今は玲汰が持っている。棚の上にはない。


 厭な予感が玲汰の脳裏に過った。



あうい


あういあういあういあういあういあういあういあういあういあういあういあういあういあうい



 耳に直接叫びこまれたような音が鼓膜を貫いた。


 くねくねの声だ。「ない」と言っているように聞こえた。棚の上にあったはずのもの、それがない。くねくねはきっと、この写真を探しているのだ。


 玲汰は手に持った写真とくねくねが居る方向を交互に指さして、二人に伝えた。そして、自分を指してくねくねを指す。


「おれが囮になる」


 二人にドアを指して、逃げろと伝えた。


 大きく首を振る守人。


 玲汰はオーケーマークを示し、解決策がある、と自信満々な態度を見せた。ほんとかよ、と疑わしそうに顔をしかめられたが、もはや選択の余地はない。


 震える自分の脚に力を入れて踏ん張り立ち上がると、


「解決策ならあるから、早く行け!」


 拳を握りしめて、大声で叫んだ。


 途端、くねくねは我に返ったように、木の枝が折れるような音を立てて玲汰の方へ向いた。


『そうなの?』


 幽香がとぼけたように言う。


「解決策って、あなたの事ですよ!」


 玲汰は身構えて、くねくねからあとずさった。視線は床に落としたまま。


「無茶すんなよ!」


 守人が言って、八重子を背負ったまま部屋から出て行く。


 すぐそこにいるくねくねからひしひしと感じる、とてつもない殺気。棚で写真を見ているときとは様子が大違いだ。


 震えて、今にもすくんでしまいそうな足に気合を入れる。


 玲汰は持っていた集合写真を正面に向けると、


「お、お前が探してるのって、コレか?」


 恐る恐る、くねくねに向かって言い放った。


 もっと大声を出すつもりだったが、たんが絡んで掠れてしまっている。



あつい


あついあついあついあぁつぃ



 途端、金槌で何度も何度も殴りつけられるような痛みと振動が、脳を激しく揺さぶってきた。たまらず、頭を抱えたままその場に膝を着いてうずくまる。


 手からスマホも写真も零れ落ちた。


 これは、くねくねの言葉だろうか。聞こえるというよりは、脳内に反響する、まるでテレパシーのような音だ。それが、衝撃となって脳を痛めつけてきている。


  

あついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあついあつい



 くねくねは激しく揺れながら、悲鳴のように続けた。


「うっ……」


 頭痛と船酔いのような感覚に、胃から酸っぱいものが這いあがって来た。我慢する間もなく、床にぶちまけてしまう。するとそれがきっかけになったかのように、音が止まった。


 しん、と静まり返る。


 そもそも辺りはずっと静かで、玲汰の頭の中だけがずっと煩かったのだ。


 口元を袖で拭いながら、玲汰はくねくねの足元へ視線を向けた。


 まだ頭はじんじんと脈打つように痛んでいる。涙でぼやけた視界の先。


 しかし、そこに居たはずのくねくねが見当たらない。


(どこへ行った?)


 思わず顔を上げて部屋を見回した。



死ね



 玲汰の背後にそれは居た。


 振り返った瞬間にくねくねと視線が合う。


 間髪入れず、首がとてつもない力で圧迫され、足先が床から浮いた。


 何が起こったのか理解できなかった。


 息ができない。


 くねくねの二本の腕が、玲汰へと伸びている。それを見て、首を絞められているのだということにやっと気付いた。


 玲汰の目の前に、その顔はあった。


 焼け焦げた顔はところどころ赤い肉があり、頬は骨が露出している。そんな色の中で、黄ばんだ白の眼球が光っていた。瞼も焼け落ち、むき出しになって血走ったそれは、玲汰をしっかりと捉えている。


 とっさに両手で、自分の首を絞める腕を引き剥がそうとするが、いくら力をこめようともびくともしない。


 気管が圧迫され呼吸ができない。喉ぼとけが押さえつけられるせいで常に激痛が走っている。


 どうにかしなければと思うものの、酸素が足りず、視界も思考もどんどんぼやけていく。


 くねくねの腕を何度も強く叩くだけで、それ以上のことは何もできない、何も思いつかない。ただ、必死にもがくだけ。


 いよいよ顔が弾けそうなほど張った感覚がピークに達しようとしていた、その時だった。


 突然、全身が大きく揺れたかと思うと、途端に首から圧迫感が失せ、同時につま先から地面へと崩れ落ちた。


「っか、……ぐふっ」


 何が起こったのか分からないまま、玲汰は何度もせき込むと、すぐに肺を空気で満たそうと呼吸を繰り返した。


「大丈夫か、玲汰!」


 守人が木の棒、椅子の足だろうか、を持って立っているではないか。これでくねくねを殴り、救ってくれたようだ。ホラー映画ではよく物理攻撃が霊に効いている様を見て、そんなはずない、と不満だったが、これほどその事実に感謝することになるとは思いもしなかった。丑三つ時であるからこその恩恵かもしれない。


 なんで戻って来たんだと言いたいところだったが、命を救われた。


『玲汰クン、無事?』


 すぐそばに落ちていたスマホから幽香の声が小さく聞こえてきた。それと、その横には写真が。両方をすぐに拾うと、


「先輩の言った通り、あれは鈴木家の人間ではないっぽい、ですね」


 首を締めあげられたときに見た、黒いくねくねの姿。体つきはとても女性のものとは思えないほどしっかりとしていて、しかし成人男性のそれではない。鈴木家の三人のどれにも当てはまらないのだ。であれば、それ以外の第三者。


「なあ玲汰、さっき瀬和さんを地下から逃がしたときにな……」


 そういえば八重子は、地下の道を行くと部屋がある、と言っていた。


「そこに、真っ黒いミイラみたいなんが……死体があったんや。それが、あれにそっくりやったんや」


 守人が指す、黒いくねくね。


「何でさっきまで部屋に転がっとったもんが、お前の首を絞めとるんやと思ったけど……もしかしてソイツの霊なんちゃうかって」


 息を切らせながら話す守人。


 すると、言っている傍から、態勢を崩していたくねくねがむくりと起き上がった。

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