1-5 邂逅

「ごめん、先帰ってていいから」


 頭にはてなマークが浮かびそうな表情の真美に謝ると、玲汰はB棟の入り口へと回り、長い黒髪の女子生徒が通った廊下まで走った。


 息を整えると、なるべく足音を立てずに二階へと続く階段を上っていく。踊り場で折り返して二階へ。右側に続く廊下を見通してみる。


 どこからかパチン、パチン、という音が聞こえてくる。学級表札を見上げてみると、囲碁将棋部と書いてあった。


 さっきの女子生徒の姿は見当たらない。どこかの教室に入ったのか、それともさらに上の階へ行ったのか。


 そこでふと、玲汰は思い出した。


 このB棟の四階には、かつてオカルト研究部の部室があった。


 あれが優香なら、オカ研の部室に行くかもしれない。心のどこかで、あの生徒が優香であることを期待しつつ、一方でそんなわけはないと否定している。


 はやる気持ちを抑えて、玲汰は三階へと上がっていった。そして三階へ上り切って、すぐ四階へ続く階段を見上げた。すると一瞬、折り返していく長い髪がちらりと見えた。


 さっきの女子生徒だ。


 玲汰はすぐに追った。気づかれないよう、気配を消しつつ。


 すぐ後を追っているためか、ふわりと鼻をくすぐる甘い香りが、彼女の通った場所に幽かに残っている。どこか懐かしいような、心地良いような、そんな香だった。


 四階にたどり着き、そっと廊下を覗き込む。


 いた。長い黒髪の女子生徒だ。


 そのとき、パサリ、と何か軽いものが落ちる音が聞こえた気がした。女子生徒が本か何かを廊下へと落としたのだ。それに気づかず、彼女はすっとどこかの教室へと入っていった。


 学級表札を見ると、真っ白だった。よく観察すると、文字が消された跡が確認できる。読むと、「オカルト研究部」と書かれていたと分かる。場所も間違いない。


 彼女はかつてのオカルト研究部室に入っていったのだ。


 ぐっと握った手がいつの間にか汗がびっしょりと濡れている。


 オカルト研究部室へ向かう、まっすぐ奥まで続く廊下のど真ん中にぽつり、と落っこちている本。近づいて見ると、それには表紙に「日常に潜む! 都市伝説の謎②」と題されていた。


 ちょうど、自宅で見つからなかった本だ。


 玲汰は、守人の兄である修人に本を回収してもらったときのことを思い出した。何気なく手に取って見た本が「日常に潜む! 都市伝説の謎」シリーズの一巻だった。八巻まで所持していたはずのそれが、一巻以外全て見当たらなかったのだ。


 まさかと思いながら、裏表紙を見る。バーコードと内容の簡単な紹介と、左下の余白に達筆で「狭間」と書いてあった。持ち主の名前だろうか。


 何気なくぱらぱらとめくると、中盤あたりのページに細長いものが挟まっていた。指でつまむと、それは髪だった。黒く長い。それが挟まっていたページの見出しに目が行く。「くねくね目撃情報! その正体に迫る」とあった。


 それを見た玲汰はドキリとした。


 ついさっき、真美に聞いたくねくねの話を思い出し、奇妙な胸騒ぎを覚えてしまう。


 挟まっていた髪からして、きっとあの女子生徒の本だろう。拾ってしまったからには、これをまた床に戻すわけにもいかない。


 拾ったことに後悔しながらも、本を片手に部室前に立ち、引き戸の扉にそっと手をかけた。


 しかし、手に力は入らない。迷っているのだ。開けるか、開けないか。


 ここへ入っていった女子生徒が優香なのかどうか、気になる。


 まだ優香はどこかで生きていて、自分との再会をきっと心待ちにしている。怪異など存在せず、それはフィクションで楽しむものなのだと証明してくれる。そんな期待がある。


 一方で、ここへ入っていったのは全くの別人で、優香は失踪したままで、怪異が存在する可能性も、存在しない可能性も残るし、玲汰には落胆の未来が待っている。そんな恐怖がある。


 そして何より、玲汰がこの扉を開ける、という行動をとることによって何か起こるのではないか、と恐れていた。ただ扉を開けるだけの簡単な動作が、玲汰にとってはとてつもなく勇気が要った。このときだけは、普段何気ない生活の行動とは全く別の、特別に緊張感を伴う状況だった。ただならぬ雰囲気を、その扉の向こうから感じ取っている。それはただの錯覚かもしれない。脳内で巡るマイナスな思考が影響して、考えすぎているだけかもしれない。


 額からは冷や汗が流れてゆく。


 いずれにしろ、この本を持って帰るわけにも、床に戻すわけにもいかない。


 深く息を吸って、そしてゆっくりと吐いて肺を空っぽにする。ドアに手をかけ、ゆっくりと引き戸の扉を引いた。


 ガチャンと、無機質な音が鳴った。


 ドアは引っかかって開かない。どうやら鍵がかけられているようだ。確かにさっきは女子生徒が入っていったはず。そのあとすぐに鍵をかけたのだろうか。そんな音は聞こえなかったが。


 玲汰は二度ノックして、中に誰もいないのか確認した。しかし、待っても返事は来ない。


 再度、ノックをしたが返事はない。


「あの、すみません。えっと……狭間さん?」


 さっき本を落としませんでしたか? と声を張って中へと問いかけた。


 しばらくすると、中から足音が近づいてきて、鍵を開ける音がした。しかし扉は開かない。開けてくれるわけではないらしい。


 中に優香が居る事を心の奥底で願いながら、玲汰は扉を引いて開いた。


 実に一年ぶりのオカ研部室だった。クラスの教室の半分ほどの広さの部屋の中を見渡す。黄ばんだ本のつんとした匂いと、そこに交じって女性の甘い香りもした。状態はあの頃のままだ。


 正面にあるはずの窓はカーテンが引かれていて、中は薄暗く、埃っぽい。奥の壁には本の詰まった大きな二列の本棚。その対面、黒板の端にはモー公認の毎日滅亡カレンダー。部屋の中央には長机とパイプ椅子。そのうちの奥窓側に、女子生徒が座っていた。


 薄暗い部屋の中で、一人本を読んでいる。


 ぴんと伸びた背。長い黒髪は艶やかで、絹糸のようだ。目元で光る長い睫毛。美しいラインを描く鼻筋と、透き通るように白く滑らかな肌。ページをめくるほっそりとした指は、触れれば壊れてしまいそうなほど端整だ。静謐で可憐なその佇まいに、つい見とれてしまう。


 優香に、非常によく似ていた。髪の長さも、優香がポニーテールをほどいたときとほぼ同じだ。若干釣り目気味なところも、何より目元にある泣き黒子が──。


「あなた、いつまでそこに立っているのかしら?」


 彼女は本から目を離さずに語り掛けてきた。


 どうしていいか分からず完全に固まってしまう。自分でも思っていた以上に動揺していた。


「まぁ、こちらに来なさいな。扉はちゃんと閉めておいでね」


 はい、と掠れた返事をして、玲汰は扉を閉めて彼女の元へ向かった。


「し、失礼します」


 対面側に座ろうとして近づいて見てみれば、パイプ椅子にも机にも埃がかぶっていた。しかし、この状況で初対面の人の前でそれを払うわけにもいかず、勢いでそのまま座った。


 傍に玲汰が来たにも関わらず、彼女は本を読み続けていた。字を追って上下する視線は一ミリもブレず、まるで機械を見ているようだった。


 話し方も雰囲気と違わず、落ち着きがあってしっかりとしていた。それに、声色も少し低く感じる。優香はもっと元気で、声も明るかった。外見は非常によく似ている。髪こそ長いものの、ポニーテールに結えばきっと生き写しのようになるだろう。


 そういえば優香も、先にここへ来ていたときには本を読んでいたっけ。


 このとき、事件が起きる前の平和な頃、まだオカ研が残っていた時のことを思い出した。


 当時玲汰はこの近所にある中学校に通っていて、放課後になるとこの高校のオカ研部室まで足を運んでいた。他の生徒や先生に見つかると面倒なことになるので、こっそりと忍び込んだ。幸い、中高ともに制服は学ランだったため、他の生徒に紛れることができた。雨谷恵子以外にはバレた試しはなかった。


 いつも決まって、部室へ到着する順番は優香、玲汰、それ以外だった。扉を開けると、そこには優香がいて、一番奥の席で本を読んでいた。本と言っても、都市伝説特集などの雑誌や、コンビニに置いてあるようなオカルト単行本の類だ。そして、入って来た玲汰を見ると本を閉じて、「おっ来たな。今日は何しよっか」と笑顔で訊いてくるのだ。


 玲汰がオカルトかるたをやろう、と言うと「いいじゃん。そういや買ったまんまでまだ開けてなかったもんね」と、棚からそれを引っ張り出してくる。


 新品のまま埃をかぶっていたそれのビニールを破き、輝いた目で箱を開ける。そこで優香が、開封はあなたがしたかったかと聞いてきたので、別に、とそっけなく答えた。すると優香は信じられない、と大げさなリアクションで言うのだ。


「新しいものを自分の手で開けるこの快感を味わえない体なのね……」


「妙な言い方すんな!」


 そんなくだらないやり取りをした後、気を取り直して、箱からかるたを取り出していく。他の部員が来るまでは、読み上げはCDに任せて二人で遊ぶのだが、優香は非常に強かった。中学時代は陸上部に所属していた彼女は運動神経が非常に良く、かるたなど瞬発力が必要になる遊戯にはもっぱらその能力を発揮したものだ。玲汰は一枚もカードを獲得することなく、その時の勝負は幕を閉じた。


 優香の得意げな表情を、今も鮮明に覚えている。その笑顔を見ると、かるたで負けたことなどどうでも良くなってしまっていた。この時がずっと続けばいい、そんな風に思っていた。


「ところであなた、何をしに来たのだっけ」


 はっと我に返る。気付けば、黒髪の女子生徒が本を閉じてこちらを向いていた。手の本をひらひらさせて、「ごめんなさいね、区切りが悪かったの」と。


 玲汰の顔と向かい合う。


「私の顔に何か付いているかしら」


 眉一つ動かさず問う姿は、まるで精巧に作られた人形が喋っているように思える。


「いえ、その……これ、廊下で落としませんでしたか? さっき拾ったんですけど」


「あら、そうだったかしら。わざわざありがとう」


 抑揚のない無機質な話し方。


「狭間さん、ですか」


 拾った本の裏表紙に書かれていたはずの名前を口にして確認する。


「ええ。狭間ユウカっていうの。三年生よ」


 聞いた途端、想像もしていなかった彼女の名前に、玲汰の視界はぐらりと揺れた。


「ユウカ、ですか」


「ええ。ユウレイの幽に、かおり、と書くのよ」


 幽香。優香ではない。しかし、名前が同じことに変わりはない。風貌がそっくりで、オカ研部室にいて、本を読んでいて、それに名前まで?


 だめだ、頭が混乱してきた。


「どうかしたかしら?」


 狭間幽香が顔を覗き込んでくる。


 もしかして、優香が遊びで自分をからかっているのではないか。一年ぶりに会うためにドッキリでもしかけているのではないか。そんな風に考える。しかしわざわざそんなことをするだろうか、冗談でも人を騙したり嘘をついたりしなかった優香が。


 もしくは、一年という歳月が彼女の人格を作り変えてしまったのか。守人だって真美だって、そんな短い期間の間に少なくとも髪型は変わっていた。さらに守人は以前にも増して活動的になり、真美も社交的になっていた。それが、優香には顕著に現れたのでは。


 名前と、場所と、学年と、そして外見がそっくり。本人以外の何だと言うのだろうか。泣き黒子の位置まで同じなのに──幽香の顔をまじまじと見て、そこで玲汰は気づいた。


 いや、違う。


 玲汰は彼女の目元をじっと見つめた。優香の左目には無き黒子があり、そして今玲汰の目の前にいる黒髪の女子生徒も、目元に黒子がある。しかし、彼女の泣き黒子は、右目の傍だった。泣き黒子の位置が反対にある。性格も、明るい幽香に反して物静かなのが幽香だ。まるで、彼女は鏡に映った優香だった。世界には自分にそっくりな人間が三人存在するという。それが、天文学的確立を引き当て玲汰の目の前に現れた。そうなのかもしれない。


「なあに、さっきから私の顔ばかり見つめて。誰かに似ている?」


「……すみません。少し、あなたが姉に似ているもので」


「へえ。そうなの。あなたのまじまじと見る具合から鑑みるに、相当似ていたのね」


 微笑む幽香。


 優香にそっくりだからといって、玲汰は彼女に対して警戒心を解くことはできないでいた。肌でひしひしと感じる気配と勘が、狭間幽香をすっかり怪しんでいた。


「まあ……割と」


 言いながら、今回ここへ来た目的である、彼女の持ち物らしい本を差し出した。


 しかし、幽香はその差し出した本を一瞥しただけで、受け取ろうとしない。


「どうしたんですか?」


「私、そんな本持っていたかしら」


 人差し指をあごにあてて、考える幽香。


「え? いや、さっき見たら裏に名前が……」


 とっさに本の裏表紙を確認した。


 しかし、どこにも「狭間」という文字はない。あるとするならば、浅間洋一、というライターの名前が記されているくらいだった。そんなはずはない。これを、わざわざ狭間と読み間違えたりするだろうか。それに、狭間という文字を読んだときには、それは達筆で書かれていたと記憶している。

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