1-3 寂寥

 グラウンドでミットがボールを受け止める音が響いている。教室の窓から入り込んでくるそれに意識を分散させながら、玲汰は話を聞き流していた。


「玲汰くん、そろそろ何か部活動に入ってくれない? うち、全入制って知ってるでしょ」


 担任教師、雨谷恵子は言った。眉間にしわを寄せて、困った顔を作っている。


 今年三四になるらしい彼女のしわは、実年齢よりも深く感じた。


「考えておきます」


 この言葉で、高校に入ってからずっと受け流してきた。きっと三年生になってもそうする。


 やがては進路について考えなくてはいけない時が必ずやってくる。そのことに不安を感じる日もあるけれど、実感が沸かないままでいるせいか、一晩眠ると次の日にはどうでもよくなっていた。そんなことを繰り返している。


 夢も趣味もない。そんな人間に、興味のある部活動などあるはずもない。


 無気力な様子を隠しもしない玲汰を心配してなのか、雨谷は入学当時から何かと絡んで来ていた。特に部活動に関しては全入制ということもあり毎月のように聞いてくる。きっと、何か夢中になれるものだとか、やりがいを感じられるものを与えたいと思っているのだろう。怜太にとっては有難迷惑でしかない。


 そこでふと、視線を落とした。玲汰の傍に立っている雨谷の手元。体の前に両手で抱えたリングノートの角に袖が引っかかっており、左手首が露出している。肌に数点、アザがあった。タバコの火を押し付けられたような……根性焼きのように見えた。


「手芸部とかは? モノづくりって楽しいわよ。夢中になれると思うんだけど……」


 言われて、視線を雨谷の首元に戻す。


「……いえ、興味ないので」


「そっか~。今朝の占いで玲汰くんは私が勧める部活動には入らないって出たから……当たらないでほしかったなぁ」


 占い好きな彼女は毎朝タロットカードで自分の運勢を占っているらしい。


 最近はこうやって頻繁に、玲汰は頼んでもいないのに雨谷に占われている。周囲の女子生徒の間では結構当たるということで評判なようだ。


 こんな風に雨谷が玲汰を執拗に気に掛けるのも、一年生の頃から続けて担任を受け持っていることや、玲汰が中学時代に混ざっていたオカルト研究部顧問だったから、ということもあるだろう。


 当時のオカルト研究部は具体的な活動目標を掲げていたわけではなかったので、顧問の雨谷が活動に同伴していることは稀であった。玲汰が雨谷と会ったのも数回程度だった。


 初めて会ったときから愛想が良く、優香に誘われて校内の部室へ忍び込んでいた玲汰を快く迎えてくれた。


 そして、優香が失踪した事件の時には玲汰をよく気にかけてくれた。自身も大変だったろうに、今になって思い返せばその事は想像に難しくなかった。


 雨谷は二年前の当時その優香失踪──報道では“異世界EV女子高生失踪事件”と呼ばれた──に責任を感じており、というのも、近所にあった“曰くつきの廃墟ビルにあると噂になっていた異世界エレベーター”に関する話を、部員に広めたのが彼女自身だったからだ。とは言っても、“都市伝説検証”を実行したのは部員たちであって、雨谷が悪いというわけではない。当然、誰かが雨谷を責め立てることもなかった。


 その廃墟ビルというのは、三年前までは大型の家電量販店として賑わっていたのだが、程なく撤退し、ビル自体はすぐに取り壊しが決定。当時入口にも立ち入り禁止と書かれた黄色い柵が置かれていた。


 そして、家電量販店時代の従業員たちは口々に、ここには何かいる、と証言していたらしく、玲汰自身も、営業当時少なからず不穏な噂を聞いた事があった。


 実は病院の跡地だったやら、昔ここで火災事件があって、やら。しかし、そのどれもただの噂というわけではなかった。事実、昭和四十七年に火災事件が起こったデパートが存在し、このビルはその跡地に建てられたものだった。大勢の死傷者を出した、悲惨な事件である。


 ネットで調べれば、今でもそれにまつわる心霊体験の話がいくつも見られる。その中に、エレベーターに関する話も存在した。「閉店後にエレベーターを目指して上司と歩いていると、いつの間にか上司がいなくなっており、そのまま行方不明になった」「夜中にエレベーターに乗っていると突然止まり、扉が激しく叩かれ、助けてという声が無数に聞こえてきた」など。


 おそらくは実際の事件から連想した作り話なのだろうけれど──そんな、調べれば不気味な話が散見される物件が近所にあると知れば、オカルト好きな部員たちがじっとしていられるワケがなかったのだ。雨谷から聞かずとも、いずれ誰かの耳にはきっと入っただろう。


「せっかくだし、今から占ってあげるわ!」


 言って雨谷は、上着の内ポケットからカードの束を取り出した。


「いや、いいですって……」


 遠慮する怜太にお構いなしに、雨谷はカードをシャッフルして扇状に広げ、一枚抜いてと迫ってきた。


 このまま抵抗すればその分長引きそうだったので、さっさと済ませようと怜太は適当に一枚摘まみ、めくった。


 引いたカードは“運命の輪”の正位置だった。


「これから良くも悪くも、何か運命的な……変化や出会いが怜太くんに訪れるかもしれないわ」


「だいぶ大雑把な内容ですね」


 それっぽい事を言っておけば、それに思い当たる事がだいたい起こるものだ。


「いいのよ、大雑把で。占いなんてそんなもん」


「やってるあなたがそれ言っちゃうんですか」


「とにかく、運命的な部活動に出会うのかも! じゃ、何かあったら遠慮なく言ってね」


 いつでも占ってあげるから、と言い残して去っていく雨谷。


 無理やり占われたが、それほど悪い気分でもなかった。


 きっと彼女は、部員たちに廃墟ビルの噂を広めてしまった事で自身を責めていることだろう。しかし、悪いのは自分の方だ。玲汰はそう思っていた。


 異世界EV女子高生失踪事件は当時、テレビでも大きく取り上げられる事態となり、一時期は例の廃墟ビル周辺に報道陣が詰めかけ騒ぎとなるほどだった。これよりも前に起こった、同学校の“高校生連続死亡事故”も、この事件に関連して呪いや怪現象のせいなのでは、と噂され、話題性に拍車をかけた。


「異世界エレベーターが実在!? 女子高生失踪」などと見出しを掲げて連日ニュース番組で取りざたされたのを玲汰はよく覚えている。特に朝のニュース番組では、心霊現象に詳しい専門家などと胡散臭い肩書のコメンテーターによる解説がなされており、以前の怜太であれば食い入るように見入ったであろう内容も、ただ苛立たしさを募らせるだけだった。


 やがてこれが火付け役となり、二〇〇〇年代で最初の都市伝説──オカルトブームが全国で巻き起こった。ネット上では様々な怪現象についての噂話が乱立。多くの専門サイトやまとめサイトが生まれ、SNSでも大量の都市伝説が拡散された。それらをまとめた内容の薄い本もあちこちで出版され、テレビではオカルト番組が流れ始めた。


 ネット上で異世界エレベーターを検索すれば、あらゆるページに「異世界EV女子高生失踪事件」の例が、実際に起こった都市伝説の記録として掲載されているほど、この事件は有名となったのだ。


 それもこれも、最初は小さな出来事、たった一言から始まった。


「〇〇前の廃墟ビルの噂、知ってますか?」


 玲汰の、雨谷へのこの一言から。


 最初は何気ない事だ。本人もきっと、その先に枝分かれするようなあらゆる可能性など想像もしていない。そんな些細な事から物事は連鎖し、大きく成長し、取り返しのつかないことになる。自分が発した、たった一言から優香は失踪し、オカルト研究部は廃部となり、そして雨谷は自らを責めることとなってしまったのだ。


 時計を見ると時刻は十六時を回っている。


 既に室内の生徒もまばらで、大半は放課後の部活動に勤しんでいることだろう。


 窓から差し込む夕日のオレンジが、床に落ちた影を少しずつ引き延ばしてゆく。


 肩肘を付いてぼうっと窓の外を眺めていると、ガラガラと勢いよく引き扉が開く音がした。反射的にそちらへ目を向ける。


 周りの生徒たちの視線を一気に集めたのは、坊主頭に砂で汚れたユニフォームを着た男子生徒。彼が教室へと入ってくるなり、玲汰のほうを向いた。


「お、玲汰。まだおったんか」


 関西訛りな喋り方をする、八木守人だった。今朝、玲汰の家から大量の本を引き取りに来てくれていた修人の弟だ。玲汰の小学生の頃からの友人でもある。


 顔が汗でびっしょりと濡れている。服装を見たところ部活動の合間にやってきたようだ。


「サボリかよ」


「違うわい。忘れもんじゃ」


 言って、玲汰の右隣の席へと来ると、机横のフックに掛けられていた水筒を手に取った。


 早速フタを開けて飲み始める。喉ぼとけが上下して、そこに汗が流れていく。それが夕陽の光を反射していた。まるでスポーツドリンクのCMを見ているようだ。


 香ばしいにおいが漂ってきた。中身は麦茶か。


 守人は「はぁ~っ」と一息つくと、フタをパチンと閉めて玲汰を見た。


「なんや、また雨谷に部活動せぇと言われとったんか」


 肯定すると、守人は「雨谷もしつこいもんやな」と机に腰かけた。


「野球部はええぞ。体も鍛えられるし、何より楽しいからな」


「お前ってプロ野球選手にでもなんの?」


「あ~、そうやなぁ。プロ野球選手になって、アナウンサーと結婚するのが夢やな」


「動機が不純なんだよ」


「か~っ、別にええやろ。動機が不純でも夢は夢や」


「……」


 小学校から中学校の頃の守人はサッカー部に所属していたと記憶している。体育の授業でもその身体能力を遺憾なく発揮していた。玲汰が優香失踪事件に心を痛めて引きこもっている間に、坊主頭に刈り上げて野球部に所属したことには大層驚いたが、そのチャレンジ精神には心底感心した。


 そんなスポーツマンの彼は小学生時代から女子には好意的に見られていた。運動神経の良い男子というのは、何故かはわからないがそれだけでも魅力的に見えるようだ。加えて顔も整っていて歯並びも綺麗であるから、バレンタインの日なんかは大量のチョコを自慢されたものだ。


 今でも野球部の女子マネージャーと守人は良い感じだ、という噂を聞く。当の本人は一途なもので、中学時代からずっと、とある女子生徒を思い続けているようだが──たった今アナウンサーと結婚するのが夢だと言っていたのを、怜太は聞かなかった事にした。


「ところであんなようさん、勿体ないんとちゃうか? 手放すんもそうやけど、売ったら結構いきそうやけどな」


 今朝、修人に回収してもらった本の事だ。


「思い入れのある本だし、お金にするより図書室で色んな人が読んでくれるほうがいいな、って思っただけだよ」


 優香と二人で買い集めた本。なけなしのお小遣いを握りしめ、本屋に出向いて色々な本を漁った。都市伝説の本、UMAの本、怪談話の本、などなど。その本を読みながら、これは実はこういう真相があって──これはこういう裏付けがあって信憑性がある──色々な話をした。


 様々な思い出が詰まった本で、しかし、そんな都市伝説が彼女を失踪させることになった。心に区切りをつけるためにも、玲汰はこれを卒業しようと決心したのだった。


「そっか。まあ、俺もちょっと都市伝説の本読んだが、ありゃおもろいな。つい見入ってしもうて朝練に遅刻しかけたわ」


 特に、アニメやマンガ、ゲームについての裏話が気に入ったらしい。


「チーズって、バイキマンの手下だったらしいやん?」


「アンパンマンが犬嫌いだから仕向けたけど、バタコに懐いて裏切ったんだってな」


「マリオがポリーンいう女からピーチ姫に乗り換えたとかなんとか」


「今はただの友達ってことになってるみたいだな」


「……はー、よう覚えとるな。お前はホンマ好きやなこういう話」


「まぁ、前ほどは……」


 守人は、好きなことにはとことんまっすぐな人物だ。何が起きても、自分に素直な人物。彼ならば、例えば野球で誰かを怪我させてしまったり、自分が怪我をしてしまったりしたからといって、やめてしまうなんてことはないのだろう。


 雨谷が、部活動に入ろうとしない玲汰にたった一度だけ、廃部となったオカルト研究部を再建しないかと持ち掛けて来たことがあった。事件が原因で廃部となったが、部員を集めてしっかりとした活動目標を掲げれば、同好会として再建できる、と。


 一人で居ることの多くなっていた玲汰に居場所を作ってあげたかったのだろうか。玲汰がそのときに断って以来、二度とこの話を勧められることはなくなったけれど。


「……そろそろ部活に戻らないと怒鳴られるんじゃないのか」


 時計を見ると、かれこれ三十分ほど話し込んでいたようだ。守人は「やば、また明日な」と、水筒を握りしめて教室を飛び出していく。するとすぐ、廊下から彼の声が聞こえてきた。


「あっ、ごめん。たっ、達野ひゃん」


 飛び出して行ってぶつかりかけたのだろうか。なぜか動揺しているような上ずった声だ。


「や、八木くん。大丈夫だよ、全然」


 おとなしい、ひっそりとした女子の声もする。


 そのあと、「じ、じゃあ」と守人の掛ける足音が離れて行った。そして間もなく教室に達野ひゃんと呼ばれた彼女が入ってきた。


 達野真美。守人が中学生のときから長らく想いを寄せている女子生徒だ。


 気づくと、教室には玲汰と彼女の二人だけになっていた。


「玲汰くん。まだ残ってたんだね」


 柔らかく笑った彼女のショートボブがふわりと揺れる。近くを通ったら甘い香りがしそうな、そんな印象の女の子だ。


「もう、帰るとこだけど」


 怜太にとって守人と同じく中学校の頃からの付き合いだが、最近はめっきり話す機会もなかった為、久々に言葉を交わすとなると、妙に意識してぎこちなくなってしまった。


 真美も何を話せばいいのか分からなくなったのか、目を伏せて玲汰の隣を通り過ぎると、教室後方のロッカーに向かった。


 真美が通り過ぎる瞬間、風に乗った柑橘系の香りが、ふわりと玲汰の鼻をくすぐった。ついドキリとしてしまう。


 数年前までは髪を伸ばしていて、そのときのイメージが強かったので、今はショートになって別人のように見える。


 真美は玲汰が中学二年のときにはじめて同じクラスになった。守人と同じく一年のころから知ってはいたが、話すようになったのはその頃からだ。きっかけは彼女が読んでいたホラー小説で、最初に話しかけたのは玲汰だった。


 真美は休み時間はいつも本を読んで過ごしており、当時は長い黒髪が綺麗な大人しい少女、といった印象だった。玲汰がふと見たときの本の背表紙に「リング」と書かれていて、玲汰はそれに思わず話しかけてしまったのだ。


 それから、ホラー作品について彼女とよく話すようになった。どうやら真美がいつも読んでいる本は全てホラー小説のようで、玲汰には女子がそういった本を好んで読んでいるとは意外だった。それだけでなく、映像作品も鑑賞しているというのだ。都市伝説関連のホラー作品を好んでいた玲汰にとって真美は良き趣味仲間になっていった。


 しかし、ここ一年は彼女とはそういった話はしておらず、比例して、単純な会話さえする回数も減っていっていた。引きこもっていた一年間に加えて、高校一年のときにクラスが別になったことも大きく関係している。二年にあがってから再び同じクラスとなり、挨拶くらいは交わしていた。


 彼女自身も、玲汰が引きこもっていた間に何があったのかは分からないが髪もばっさり切ってしまっていて、最近は本を読んでいる姿もあまり見ない。


 守人にしろ真美にしろ、一年足らずで人は変わってしまうものなのだなと怜太は思った。


 それに比べて、自分は何も──。

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