1-2 剥離

 玲汰が狭間幽香と出会ったのは今から一月前のこと。


 その日、いつものアラームの音で目が覚めた。


 飛び起きると、全身が汗でびっしょりと濡れていた。


(また、あの夢か……)


 追いかけようとしたり、逃げようとしたりしても体が進まない夢。


 壁にかけてある時計を見ると、時刻は午前六時。


 悪夢の記憶を振り払って、寝ぼけた頭でなんとか今日の予定を思い出す。知り合いに不要な本類を回収してもらうのであった。


 玲汰がいるベッドの周囲を埋めているダンボールの山。その中には、玲汰と優香で集めたホラーや都市伝説などの書籍が詰まっている。ざっと千冊はある。そのすぐ傍の壁際には、スカスカになった大きな本棚が五つ、寂しそうに佇んでいた。これもいずれ処分しなくては。


 玲汰は歯を磨いて寝ぐせを直し、普段着へ着替えると自室へ戻り、床に平積みしていた残りの本を段ボールへと詰め始めた。昨日までにほとんどの棚の中身を詰め終えていた玲汰は、最後の棚に取り掛かり、次々にダンボールの中身を埋めいていく。


 ふと、手に取った「日常に潜む! 都市伝説の謎」をぱらぱらとめくる。

 

・怪奇! 幻の杉沢村

 青森県にかつて存在したとされる村で、一人の村人が発狂し村人全員を殺害した後に自害した、と言われている。その事件の後、隣村に編入され公式文書から消された──。


・東京鉄道に呪術が施されていた!?

 東京の中心を取り囲むように、山手線があり、それと交わる中央線。上下に蛇行する形状。これは太極図であり、陽の陰には皇居、陰の陽には歌舞伎町が──。


・富士の樹海に存在!? 自殺未遂者達の村

 自殺の名所とされている富士の樹海。ここでは自殺未遂に終わった人々が暮らしている村が存在しているという噂がある。それはサンカという独自の文化を持つ人々の──。


・実在する!? 異世界へのエレベーター


「……」


 本を閉じ、ダンボールの隙間へ押し込んだ。


 そこで、玲汰は気付いた。この“日常に潜む! 都市伝説の謎”は人気書籍で、以降八巻までシリーズが続いた。その全てを所持していたはずなのだが、一巻以降の本が見当たらない。


 誰かに貸したままになっているのだろうか、でもそんな記憶はないが……。


 本棚以外も探り始めたとき、インターホンが鳴った。それをきっかけに、本は見つかったときに持っていけばいいかと区切りをつけ、急いで残りの本を詰め込んだ。


 そして玄関へと向かうと、覗き穴から相手を確認し、扉を開ける。そこには玲汰よりも数センチ背の高い、坊主頭でジャージ姿の男性が立っていた。八木修人だ。


「おはよう、玲汰。相変わらず暗い顔しとるなぁ!」


 はっはっは、と豪快に笑う彼の声はマンションの通路に響き渡るほど大きい。


 一昨年まで玲汰が通っていた中学の体育教師である修人は、どっしりとした体育会系の肉体と、大雑把な性格の持ち主だ。


 そんな彼は玲汰の幼馴染である八木守人の兄でもあるため、親交は深かった。


 この日は修人に、不要になった本を回収してほしいと頼んでいて、母校に寄付するという名目で快く承諾してくれた。学校側に許可をもらってくれたそうだ。


 挨拶もほどほどに、部屋から本の詰まったダンボールを次々と運び出してゆく。


「これで全部です、ありがとうございました」


 軽トラックの荷台に全てのダンボールを運び終え、ふうと一息つく。


 悲鳴を上げる腕をさする玲汰。一方で修人は全くこたえていない様子だ。それもそのはず、修人の上腕も太腿も玲汰の三倍は太さがある。


「今更やけど、ホンマにええんか? その……大事なモンとちゃうんか」


「いいんです。もう二年も経ったんだから、そろそろ気持ちに区切りを付けないと」


 そうか、と修人は運転席に乗り込み、エンジンをかける。


 じゃあ学校に遅刻すんなよ、と窓から手を振ると、修人は大量の本と共に去って行った。


 怜太は軽トラックが見えなくなると、マンションの正面、道路を挟んだ向かい側の田んぼを見た。一面が緑色の絨毯のようで、深呼吸をすると自然と一体になった気分になる。いっそ緑の上に寝転んで、何も考えず過ごしていたい。が、そういうわけにもいかなかった。


 玲汰の部屋は四階の一号室。


 マンション内へ入り、エントランスからエレベーターの横を通って、階段を一段ずつ上がっていく。本を運ぶときはエレベーターを使ったが、一人のときは乗らないようにしていた。


 あの日から、エレベーターを避けるようになっていた。優香がいなくなった、異世界エレベーターのあの日から。


 二年前のあの日。異世界エレベーターを試そうと丑三つ時に廃墟ビルへと集まったオカ研部員たちを止めるために、優香は皆の元へと向かった。


 優香も部員の一人ではあったが、彼女は昔から頑なに「実際に心霊スポットへ行ったり都市伝説の噂を試してみたりする」事には否定的だった。それは、触らぬ神に祟りなしを信条にしていたからに他ならない。


 怜太もそれに同意していて、一緒に部員を止めるために彼女の後を追った。


 最初は、廃墟ビルに電気が通っているとは思えず、そもそも侵入できるのかという疑問があったために、失敗に終わるだろうとたかを括っていたのだが──心配になって見に行ってみれば侵入は容易く、中へ入ってみれば誰かが優香の手を引いてエレベーターへ乗り込み、実際に異世界への手順を踏んでしまったのだ。


 手順ではエレベーターは二度、二階へ移動する。怜太はとっさに二階へ向かうと操作盤のボタンを押して、エレベーターが下りてくるのを待った。一般的に噂されている内容では、実行中に途中で他人が乗り込んでしまえば失敗になる、とある。しかし、二階へ下りてきたエレベーターに優香の姿はなかった。


 後を追うために玲汰はエレベーターに乗り込んだ。そして、異世界への手順を実行した。するとその後、実際に見知らぬ女性が乗ってきて──そのあたりから、玲汰の記憶は曖昧になっていた。


 あれから二年経ったからといって忘れかけているなどというわけではない。むしろ、優香が居なくなってしまったあの衝撃は昨日のことのように覚えている。今でも夢に見てしまうほどに……。なのに、女性が乗って来たあたりから、まるで誰かに意図的に忘れさせられているような、その部分だけが濃い霧にかかったようになっていて、正確に思い出せないのだ。


 ただ一つ、玲汰にとって言えることは、優香を追うために行ったあの異世界エレベーターは失敗に終わった、ということだ。


 そうして、玲汰の姉である優香は、あの廃墟ビルで行方不明となった。


 まさか本当に異世界へ行ってしまったのだろうか──。


 あの後、近隣の住人によって通報され、廃墟ビルに忍び込んだ玲汰を含む部員たちは軽犯罪法違反によって書類送検された。停学処分を受け、オカルト研究部は廃部となり、メンバーたちは散り散りに。行方不明となった優香は捜索願が提出され、その後三か月に渡って捜索されたが、発見されないまま今に至る。


 すっかり慣れた階段を上り終えて四階へたどり着いた玲汰は、誰も居ない、四〇一号室へと入った。


 玄関で靴を脱ぎ、正面に続く廊下の右手のドアを開けて部屋の中へ。そこは、優香と共同で使用していた自室だった。さっきまで床を埋め尽くしていた大量のダンボール箱も、修人に回収してもらったおかげですっきりしている。


 ベッドに倒れ込んで、目を閉じた。暗い瞼の奥に、干からびて、眼窩の落ち込んだ優香の姿が浮かぶ。優香はいつも言っていた。「心霊現象には自分から関わりにいってはいけない」と。


 優香はみんなを止めるために廃墟ビルに入り、そして異世界エレベーターによって失踪した。まさに言葉通りであることを、身をもって証明してしまったのだ。


 そして、玲汰自身もそれに抗おうと行動し、「心霊現象には自分から関わりにいってはいけない」という言葉を破って異世界エレベーターを実行してしまった。結果として玲汰自身には何も起こらなかった──何も変えられなかった。


 無力な自分。何もせず、ただ時間が過ぎていくだけの日々。


 あの事件が起こるまでは、優香と一緒にオカルトに夢中になっていた。自分の将来についてはただ漠然と、何かそういうものに関わるような……オカルト雑誌のライターかななんて思っていた。当時はただただ、優香と一緒に好きなものについて語り合っているだけで満たされていた。しかし今はもう、どちらも手元には残っていない。


 今の玲汰には、将来の夢や、趣味の一つでさえ無い。失ってしまった。


 生きる目的はおろか理由だってない。この部屋にある本棚のように空っぽな心。


 それを埋められるものはどこにも見当たらないまま、二年が経過していた。そして、このまま老いて死にゆくだけのだろうかと、不安を抱える日々。


 やがて家を出る時間となり、怜太はカバンと無気力な心を抱えてマンションを出た。

 

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