狭間幽香の怪奇連鎖
北吹 風太郎
狭間幽香の怪奇連鎖
一、NNN臨時放送
1-1 悪夢
何も見えない暗闇の中。
気付けばそこにぽつりと、風間玲太は立っていた。高校の学ランに身を包んで。
ここは一体どこだ。そう思って周囲を見渡してみると、遠くに点滅する光が見えた。
よく見ると、それはエレベーターだった。光は窓から漏れ出ているものだ。その周囲には数名の人影がゆらゆらと揺れている。
それを見て、妙な胸騒ぎがし始めた。
するとその人影のうちの一つが、もう一つの影の手を引いてエレベーターへと乗り込んでいった──瞬間、心臓が強く脈打ち、全身に寒気が駆け巡った。
乗り込むわずかな間に光に照らされて見えたその顔と、後頭部あたりで揺れたあれはポニーテール──エレベーターに引き込まれたのは、優香だ。
急いで止めなければ。そう思った瞬間には駆け出していた。
力いっぱい地面を蹴って、全力でエレベーターへ向かって走ろうとする。必死に、必死に脚を動かした。けれど。
彼の意に反して体はちっとも前へ進まなかった。まるで車と腰を縄でくくりつけられているみたいに体が重く、思うように前進できない。
焦燥感ともどかしさに気を取られているうちに、あっという間にエレベーターの扉は閉ざされ、そして二人を幽閉した鉄の箱はゆっくりと上昇を始めた。
玲太の体は一向に進まない。
やがて扉窓から二人の姿は見えなくなった。
「優香……!」
からからに乾いた喉から出たかすれた声が、暗闇に反響して溶けてゆく。
すると、エレベーターの周囲に群がって揺れていた影たちの動きがぴたりと止んだ。
そしてぐるりと首らしき部分を回してこちらを見た。こちらを見たと分かったのは、その影の頭と見受けられるそこに、目のような真っ白い二つの丸があったからだ。そしてそれはまっすぐにこちらへ視線を向けている。
反射的に体が後ずさりしようとした。何者なのか理解できない存在の視線に怯えて。ただ一つ理解できる事は、彼らは人ではないということだけだ。
しかし、やはり体が重い。前へ進めなければ、後ろへも移動できない。
額から流れた汗が頬を伝っていく。
顎に溜まって、雫が足元に落ちて弾けた、そのとき。
影達の頭に中心から左右へ向かって大きな亀裂が走り、けたたましい金切り声が無数に鳴り始めた。
笑っている。玲太を見て笑っているのだ。怪異に引きずり込まれてゆく姉を前に、何もできない無力な玲太を──。
手で耳を塞いでも、それは頭の中に無理やりに入り込んできて、意識を滅茶苦茶にしてくる。
悲痛な叫びにも聞こえる笑い声に弾かれたように、玲太は踵を返して逃げ出した。
しかし、どうしても体は進まない。力強く地面を踏みしめて体を前へ前へと押しやる。どんなに必死にそうしても、進んでせいぜい数センチ。
そうこうしている間に背後に声が近づいてくる。どんどん近づいてくる。そこに足音も紛れているのが分かった。
比例して、鼓動の速度も増してゆく。声、足音、鼓動、声、足音、鼓動、声、足音、鼓動──複数の気配がもう背に触れてきそうな程に近付き、いよいよどれが何の音かも分からなくなるほどにどれもこれもが煩く、緊張がピークへと達しようとしたとき。
とうとう、息が後頭部にふわっと触れた──直後。
ピタリと笑い声が止んだ。
気配も一切感じなくなった。
突然の静寂に、耳鳴りだけがする。
やがて徐々に自分の荒い呼吸音が聞こえ始めて。
はっとなって振り返ってみたが、そこには何もいなかった。代わりに、遠くにあったはずのエレベーターの入り口が忽然と姿を現しているではないか。
まるで乗れと言わんばかりに、扉は開ききっている。じっと、獲物が入ってくるのを待っているように見えた。
暗闇の中で唯一の光源、中から漏れる黄色い蛍光灯の明かり。そこに一切の安心感もない。
(これに乗って異世界エレベーターの手順を踏めば、優香に追いつける……?)
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【異世界エレベーター】
この世界に飽きたなら、異世界エレベーターを試すといい。
十階まである建物でエレベーターに乗ったら、四階、二階、六階、二階、十階と移動する。その間に誰かが乗ってくるとそれは失敗。
滞りなく進められたのであれば、次は五階へ向かおう。そこで女性が一人乗ってくるはずだ。それは人ではない何か。決して彼女に話しかけてはいけない。話しかけると──。
彼女が乗ってきたら、今度は一階を押して。すると、エレベーターは一階へは向かわず上昇を始めるから。
ここで他の階を押すと失敗になるけれど、これが、異世界へ行く事を止める最後の機会。七階を超えると成功。ようこそ、異世界へ……。
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玲太は流れる汗をぬぐって、重い一歩を踏み出し鉄の箱へと乗り込んだ。
すると、操作などしていないのに、ゴウンと重い音を立てて扉が閉じられた。
ふと、もうここからは出られない気がしたが、出たところで周りはただ真っ暗なだけ。
意を決し、玲汰はパネルの前に立って異世界への手順を脳内で反復し始めた。
二、六、二、十、五。二、六、二、十、五。二、六、二、十、五。
緊張感と恐怖で脳が混乱しそうになりながらも、手順を正しく入力されたエレベーターは五階へと向かい始めた。都市伝説の内容では、ここで女性が一人乗ってくるはずだ。人ではない、何かが。
やがてエレベーターはベル音と共にゆっくりと停止。
扉のガラス越しに目に写ったそれに、怜太の全身に悪寒が走った。
玲太が通う高校の女子生徒が着る制服と全く同じものを纏った、髪の長い女性が立っている。
黒い髪は乱れて顔が隠れており、どんな人相なのか判別ができない。手を見れば肌は青白く、制服も薄汚れていた。
扉が開き、彼女を迎え入れる。
女性がゆっくりと歩を進め、入って来た。玲汰はそれと向かい合う形に。そして扉が閉まり上昇を始めると、彼女はまたゆっくりとした動きで反転し、扉へと向き直った。
扉横のパネルに表示された階数はどんどん数字を増やし、Rへと向かっていく。
やがて表示がRへと達し、その表示さえ超えてエレベーターは上昇を続けた。勢いはどんどん増していく。
そこで玲汰は気付いた。表示パネルに気を取られている間に、さっきまでいたはずの女性がいなくなっているではないか。
どこへ行った? 探そうとしたそのとき。
エレベーター内の照明が明滅しはじめた。
何かが起こっている。やはりこれは普通のエレベーターではない。もしかして、異世界エレベーターが成功した……? そう思った矢先、扉のガラスに自分と、その背後に女性が写っている事に気が付いた。さっきの、制服を着た髪の長い女性だ。
その光景に生唾を飲んだ。
彼女は微動だにせず、玲汰の後ろに佇んでいる。
どうしていいか分からず、玲汰はじっと、ガラスに映ったその姿を凝視した。
エレベーターは上昇を続けている。
心臓の鼓動が鼓膜に伝わってうるさい。冷や汗も止まらない。逃げようにも行き場がないし、そもそも何故か走れない。このままどうなってしまうのか──。
まるで玲汰のそんな状況を察したように、女性がゆっくりと頭を上げ始めた。髪が少しずつ流れていき、顔が露になってゆく。
振り返ろうとしたが、そんな勇気はなかった。ガラスに写る光景を、ただ見ていることしかできない。
彼女がゆっくりと頭をあげる。
長く乱れた髪が、はらりはらりと左右へ流れていく。
そしてとうとう顔が見えた瞬間、玲汰は衝撃に目を見開いた。
それは、真っ暗闇の眼窩に、ぱっくりと裂けた額から血を流した、苦悶の表情を浮かべる姉、優香だった。
「優香……!」
思わずその名を口にした、すると──耳元で女性のささやき声がした。
「あ な た も お い で」
***
隣の空き教室から壁越しに雑音がする。複数の楽器がまとまりなく演奏しているせいだ。ここへ来る時、教室前の廊下でクラリネットを持った女子生徒が集まっているのを見た。
遠くからも小さく、他の楽器の演奏も届いてきている。パートごとに教室に分かれて練習しているのだろう。吹奏楽部は最近よくそうしているようだ。
──そんな耳障りな音楽をBGMにして、目の前の少女が口を開いた。
「歩けなかったり進めなかったりっていうのは、あなたが現実で何か壁に直面していて……心理的に“前へ進むことができていない”ことを現しているのかもね」
怜太が何気なく話した夢の内容について、彼女はさもありなんといった態度で。分析した。
薄暗く、埃っぽいこの小さな部室。
奥の壁には天井まで届く大きな本棚が二列あり、そこにはぎゅうぎゅうに本が詰め込まれている。その対面の黒板端にはムー公認の毎日滅亡カレンダーが磁石でくっつけられていて、二年前の七月五日をループしていた。それらに挟まれて、部屋の中央には長机が二つ並んでいる。
パイプ椅子がそれぞれ向かい合わせになるよう二つずつ、計四つが置かれていて、そのうちの黒板のある入り口側の席に玲汰は座っていた。そして右斜め向かい側に、さきほど夢の内容を分析しドヤ顔の女子生徒が座っている。
左手に持った本のページをめくりながら、「思い当たる節でもあるんじゃない?」と語りかけてきた。
玲汰は肩肘をついて「思い当たる節、ねぇ」と呟き、宙を見つめた。そしてちらりと彼女の顔を見た。
この部室唯一の窓から差し込む日の光に照らされて、彼女の長い睫毛は絹糸のように細く輝いている。
ふわりと風に揺れるカーテンと共に、腰まで届く黒髪が揺れた。
彼女が左手で耳元の髪を押える。
ふと、切れ長の目が玲汰の視線と交わった。
思わず逸らそうとして、でも恥ずかしがっているように思われたくなくて、彼女の右目元にある泣き黒子に目が行ってしまう。
「私の顔に何かついているかしら?」
淡いピンクの唇から、端整な落ち着いた言葉が紡がれる。リップクリームを塗っているのか、艶やかで、つい柔らかそうだと思ってしまう。
「いや、その……」
見とれてしまっていたという部分もあるが口が裂けても言えないし、何より──言い訳がすぐに浮かばず口ごもっていると、
「言わなくても分かっているわ。私に見とれていたのよね。本を嗜む大和なでしこ的超絶文学美少女であるこの私の美貌に」
抑揚の無い淡々とした言葉を連ねる彼女は、一切の羞恥心もなく胸を張っている。
「はいはい、そうですね」
「その態度は真に遺憾だわ。素直になりなさいな」
どこから来るのか分からないこの自信。
確かに彼女はとても妖艶だ。黙っていれば、テレビの中で女優なりなんなり活躍していても不思議ではないと思える。腰まで届く長い黒い髪。猫目に少しかかるくらいまで伸びた前髪はきれいに切り揃えられている。
そして、白く透き通った肌に黒いセーラー服がよく似合っていた。そんな彼女は静謐なままに本を嗜む文学少女。認めたくはないが、本人の言う通り、まさに大和なでしこと言えよう。どれもこれも、黙っていれば、の話だが。
「そうですね、なですこなですこ」
くだらないやりとりをしたおかげで目が覚めた。
「部長の事をなですこだなんて……肯定なさい、この狭間幽香の美貌をね」
言いながら、彼女は首元の黒いチョーカーに手を触れた。
狭間幽香。それが“やまとなですこ”であり、ここオカルト研究部の部長である彼女の名前だ。厳密にいえば、オカルト研究同好会なので部長ではなく会長である。さらに突き詰めて言えば、ここはまだ同好会ですらないので会長でもない。もはやただの一生徒だ。それは部員数が玲汰を含めたとしても、幽香とたった二名しか居ないからである。それに、顧問の先生だっていない。
二年前、ここのオカルト研究部員が起こした“ある事件”をきっかけに、この部は廃部となってしまったのだ。それに怜太自身も関わっていたため、よく知っている。
そして最近この学校へ転入してきたと言う、玲汰の一つ上の三年生である幽香が、オカルト研究部復活を目指して、まずは同好会を設立するために部員を募集していた。とはいえ、具体的に何をしているわけでもなく、毎日放課後に幽香は本を読み、玲汰はそれを眺めていて、たまにこうして他愛ない会話をしているだけ。これのどこが、オカルト研究だと言えよう。部員など集まるはずもない。
ここ元オカ研部室は二年前から変わらず当時のままで、他に誰かが使用するわけでもないため、ずっと放置されていた。それを勝手に使っているのが、幽香なのだ。玲汰が職員室から鍵を借りるまでもなく、いつも先に彼女が部室を開けて椅子に座り、本を読んで居る。
「もうここに来始めて一ヶ月ですけど、何にもしないですね。こんなんじゃあ、同好会にすらできないまま卒業しちゃいますよ、先輩」
幽香が持つ本に視線を向けながら問う。本には青いブックカバーが付けられていて、それがどんなタイトルなのかは確認できない。
幽香の白くて細い指が栞を差した。
「え? 玲汰クンが集めてきてくれるのではないの?」
「え? は、こっちのセリフですよ。なんで同好会員でもないおれが集めるんですか」
「……え?」
「いや、え? じゃないですって。おれはまだ入会したつもりはないんですけど」
「はぁ、おかしいと思ったのよ。一月経っても玲汰クンはずっと私が本を読んでいるのを見て……いえ、私にうっとりとした表情で見とれているだけだから」
また何か言ってるよ……そんな風に呆れながら、怜太は彼女から視線を逸らした。
「まだあなたの言ってた事、信じたワケじゃないんで」
本来ならばこのオカルト研究部の部室に居たくない、オカルトに関わりたくない。玲汰はそう思っている。
このオカルト研究部が廃部となった原因でる二年前の事件から、何事にも無気力となっていた玲汰がここに居る理由。
オカルト研究部室に通い、狭間幽香に関わり続けている理由。それは三つある。
一つは、彼女に霊感がある(自称)からだ。
怜太は、かつて中学生ながら、ここ高等部のオカルト研究部にあしげく通ったほどのオカルト好きであった。二年前に起こった事件で傷つき、どれほど遠ざけようとしても、好奇心を押えられなかった。未だに幽香の霊感を目の当たりにしたことはないが。
もう一つは、オカルト研究部復活の手伝いをすることを条件に、二年前ここのオカルト研究部員に起こった事件──“異世界エレベーター女子高生失踪事件”で行方不明となった玲汰の姉である、風間優香の捜索をその霊感とやらで手助けする、と幽香が言ったからだ。しかし進展もなければ霊感の一つもまだ見ていないので、怜太は部活動復活の手伝いを一切していない。
そして最後に。
彼女が、姉に──優香に、瓜二つだからだ。
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