第7話 暁はただ灰色 Part1

憂鬱な梅雨空が瀬戸内を覆っていた。土曜日の早朝、朝日が差し込む時刻はとっくに過ぎているはずなのに、鉛色の空は一向に明るくはなっていない。路面も昨夜の雨で暗い色に沈んでいた。西国街道から離宮道を少し山側に上り山陽電鉄のガードを潜った先に在原行平が愛した姉妹が結んだ庵がある。さらに須磨離宮に向かって少し進むと昔ながらの小さなレストラン[Dormire troppo]がある。須磨海岸を見渡せる海側の席に光時と沙耶子の姿があった。土曜日の早朝ともあって二人以外に客はいなかった。店内を流れるKiss FMからはスタンダードJAZZピアノの少しアンニュイでいながらパッシオンなメロディが流れていた。生クリームがたっぷりとのったパンケーキをフォークで突きながら沙耶子は昨夜の穢れ払いを思い返していた。

神戸市の北区には国道428号線、地元では有馬街道と呼ばれることが多いが、に沿っていくつかの住宅地が六甲の北斜面に拓かれている。その多くは60年代から70年代の高度成長期に株式会社神戸市と若干の揶揄を含んで神戸市の開発手法が称賛されていた時期に造成されたものであった。それらの住宅地は有馬街道とそれに並行して流れる箕谷川を越える数本の橋で結ばれている。今回の現出点はその住宅地のさらに奥に拓かれた小さな町に現われた。車でのアクセスは2本の道路に限定されていたが、その二本ともが梅雨の長雨で引き起こされた土砂崩れによって塞がれていた。1時間前現着の沙耶子のポリシーのおかげで時間に余裕をもっていた二人であったが行く手を阻まれ、止むを得ず六甲山系を縦横に走る林道を使うことにした。CRFはオフロードバイクではあるが光時の駆るCRF1100Lsはラリー用機体であり、その200kgを超える重量から決して雨でみぬかるみ、倒木と落石に阻まれた林道走行に適したものではなかった。しかし、光時はそれをトライアルマシンのように扱い、倒木や岩を軽々と越えて行った。沙耶子も庸に着く前に操車技術をかなり叩き込まれてはいたし、林道に入ると同時にBOAVを装着し光量は確保されていたが、滝のような降雨の影響と悪路に阻まれ250ccのボディでも正直扱いかねていた。「待って。」あと少しで林道を抜け、星辰見の巫女が見立てた現出点に着くと言う所で一点を指さし沙耶子が短く叫んだ。「ここに今すぐ現出点が開く。」「星辰見の巫女の見立てよりかなり山側だし、早いな。」応えながら光時はもうバイクから降り、武装を整えていた。沙耶子の見立てを全く疑っていない様であった。「光学偏差を確認。120°」夜間、照明も星明りもなく、滝のような降雨で人の目には視界がほとんど効かない状況にも関わらず光時はすぐに変位箇所を特定した。沙耶子は呼吸を整える間もなく神威壁を張ろうとする。一瞬早く現出点が開き梁渠が飛び出してくる。8割以上を光時が射殺する。少し遅れて沙耶子は神威壁の結界を張り終える。「漏出。梁渠13体。」報告しながらも次々と結界外の対象を排除していく。「雨でX線の減衰がひどいな。30mも離れられたら苦しいかもしれない。」晴天なら1パルスで排除できるところ2,3パルスを要する。ぼやきながらも2秒もかからず結界外に漏出した梁渠を排除しきる。すかさず結界内に身を投じる。梁渠だけではなく嘲風もひしめき合い結界を推し拡げようとしている。エミッションボムを起爆する。閃光が煌めく。梁渠と嘲風の動きが目に見えて鈍くなる。そこをすかさずX線レーザーで排除していく。「ズォームー」銅鑼の音に似た金属音が響く。頭胴長6m、体高3m。アジア象ほどの巨体。銅色(あかがねいろ)をした人面の牛が姿を現す。肥え太った中年男の相貌の両こめかみから正面に向け全長2mほどの角が伸びていた。「饕餮(トウテツ)ッ!!それも2体。今日の現出点は二級じゃなかったの。どうして四凶が。」いつもは冷静な沙耶子の声が裏返っている。「サイズが大きい上に動きが鈍い。槍の練習にはもってこいだな。」饕餮から視線は外さず明るく光時が応える。16式レーザーアサルトライフルを胸のホルダーに止め、プラズマブレードを両手に抜き放つ。赤紫色の酸素窒素混合プラズマが強く輝く。「眼球、鼻腔、口腔、咽喉、腋窩、鼠径部、肘窩、膝蓋を狙え。神威槍でもポイントを絞らないとダメージは通らない。強敵だが落ち着いて処理すれば勝てる。俺から見て右をターゲットα、左をターゲットβと呼称する。沙耶子さんはβの足止めを頼む。いいな、落ち着いて処理すれば問題ないから。行くよ。」光時が右側の饕餮に向かって駆け出す。饕餮も頭を低くして角を光時に向け突っ込んでくる。一人と一匹の動線が交わる寸前、光時は右にステップし、角を躱すと今度は大きく左に踏み込み饕餮の前脚と後脚に間に滑り込もうとする。饕餮は素早く頭を振り光時の動きを角で迎え撃とうとする。わずかに光時の速度が上回る。前脚と後脚に間に滑り込みながら刃で左腋窩と右鼠径部を切り裂く。饕餮は傷付いた2本の脚だけではなく4本の脚を全て折りその巨体で光時を圧殺しようとするが、間一髪両後脚の間から滑り出す。饕餮の巨体が崩れ落ちながら突進の勢いのまま神威壁に激突する。すかさず背後から頭部に飛び乗った光時が両の眼窩に逆手で持ったプラズマブレードを突き立てる。「ガボゥォオーン」絶叫を上げαが倒れる。視線をβに転じる。沙耶子は神威壁を槍に変えながら饕餮の急所を狙うがその巨体に似合わぬ俊敏な動きにことごとく外され、分厚い外皮に阻まれ有効打を与え得ずにいた。逆にβはその巨体を神威壁に打ち付け結界を崩そうとする。何カ所か神威壁の光が弱まり消えかけている部位が見られた。光時はβの背後から近づこうとしたがβはすかさず向きを反転させ光時と正対する。αを倒した光時をより大きな脅威と判断したようだった。向きを反転させた瞬間沙耶子は前脚付け根に向けて槍を突き立てる。背後が見えるかの如くサイドステップを踏み沙耶子の攻撃を躱すと光時に向かって身体をたわませ疾駆しようとする、と思えた瞬間その巨体を一瞬痙攣させその場から動けなくなる。沙耶子の槍が右鼠径部に深々と突き立てられていた。前脚への攻撃はフェイントであった。好機とばかりに光時が正面から一気にとびかかる。その時、饕餮が槍で縫い付けられた右後脚を自ら引きちぎり光時に一気に迫り、角を光時の腹に突き立てようとする。寸前にブレードを手放し両手で角を受け、腹を突き破られるのは防いだが饕餮はそのまま下を向き光時を地面に縫い付けようとする。饕餮の鼻尖を蹴飛ばし角の下から抜け出すが間髪入れずに巨大な前脚で踏みつぶそうとしてくる。人の顔よりも大きな蹄が地面にめり込む。外したと見るやすかさず反対の足を振り下ろしてくる。光時は左右に転がりこれを躱すが一発でも当たれば命はない。こんな時に限ってまた封鬼子が不愉快なノイズを発する。また自身の危機に本能が転身を迫っている。「ズボォォォムン」饕餮が吠えラッシュをかけてくる。沙耶子が右後脚の破断面に槍を突き立てる。かなり深く刺さったそれを無視するように饕餮の光時に対する攻撃の手は止まない。「ズボォォォ・・・。」再度の咆哮は突然に途切れた。死のタップダンスを躱しながら光時は饕餮の口腔内にX線レーザーを叩き込んだ。饕餮の動きが一瞬止まる。光時はプラズマブレードを拾うと饕餮の喉笛を切り裂いた。タールのような黒いドロリとした体液をまき散らしながら饕餮の巨体が沈む。「沙耶子さん。修祓を。」沙耶子が祝詞を寿ぐと現出点が見る間に縮み消失した。「今日はチョッとヒヤッと・・・。」言葉とは裏腹に危機感のかけらもない声で光時が沙耶子に語り掛けるが沙耶子の表情を見、言葉に詰まる。顔全体から血の気が失せ蒼白になっていた。「大丈夫か。」光時の声は、先ほどとは打って変わって軽さの全くない真摯で気遣いに満ちたものであった。

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