吉川線のドッペルゲンガー

Ritchey

吉川線のドッペルゲンガー

 どうにも蒸し暑さが我慢できずに窓を開けると、ぶわっとぬるい風が体を包み込んだ。カーテンレールにかけてあった風鈴が風に靡き始め、ちりんちりんと耳心地のいい音を奏で出す。

 椅子に座り、再び文字を追う。読んでいる本のページをめくる。無意識に首を触りながらまた文字を追い始める、が。


「なに? どっぺる……?」


 知らない言葉に躓く。

 頭の中でどの記憶の扉を叩いても、ドッペルなんとかというような単語は全く覚えがなかった。

 仕方なくまた椅子から立ち、自室を出て、居間にいる姉に声をかけにいく。今日からお盆なので、普段は仕事で家にいない姉も今日はいてくれているのだ。

 

「お姉ちゃん」


「んー? どうしたの、紗南」


 扇風機の風にあたりながら座布団を敷いて横になっていた姉は、体を起こして紗南の方を向いた。

 休みの日、姉は大抵いつもこうして寝ている。しかし普段から仕事で多忙なのでそれも仕方がなかった。

 

「ドッペルゲンガー? ってなに?」


「ドッペルゲンガー?」


「この……ここのやつ」


 紗南は、ドッペルゲンガーと書いてあったページを開いたまま、手に持った本を姉に渡して見せた。


「ああ、ドッペルゲンガーね。ドッペルゲンガーって言うのはね、もう一人の分身、って感じかな」

 

 姉は本から顔を上げて言った。


「もう一人の分身?」


「そう! じゃあ例えば……今紗南はここにいるよね?」


「うん」


「けど、今ここにいる紗南とは別にどこかここの近くに違う紗南がいて、その人のことをドッペルゲンガーって言うの」


「近くにいるの? 今もいる?」


「さあ、どうだろう。それはお姉ちゃんにもわかんないかな」


 姉は苦笑しながら言った。


「でもね」姉はどこか神妙な面持ちをしながら、「ドッペルゲンガーってのは、知らず知らずの間に本人に近づいてきて、その人の体をのっとっちゃうって噂があってね……?」


「えっ」


「ほら、そこに紗南のドッペルゲンガーが!」


「ええっ⁉︎」


 姉が勢いよく庭の方を指差し、紗南の視線もそれに釣られて庭の方へ向く。

 

「くくっ……」


 紗南の驚きようを見た姉は、腹を押さえて笑いをかみ殺そうとするが、どうにも抑えきれないようで口の端から笑い声が漏れていた。


「やめてよお姉ちゃん……」


 紗南たちの住むこの家は田舎の古びた木造平屋で、ここら辺では平均的な広さの庭がある。

 紗南たちがいる居間から見て、庭の正面の方には、ひな壇のような鉢置き台に色とりどりの花が植わったプランターが置かれている。その鉢置き台の右奥には、いつの間にか開かなくなってしまった少し大きめの物置小屋があり、その真横には今はもう使えない屋根付きの井戸があった。

 紗南が庭の方を見てみても、誰も見えなかった。姉の冗談だったからそれは当然だが、なんだか誰かの視線を感じたような気もしたのだ。


「気のせいかな」


 風呂場で目を瞑って髪を洗っている時もそういう視線を感じることはよくあるし、夜中横向きの姿勢で寝ている時も、反対側の背中の方から見られている気がするものだ。


「ありがと、お姉ちゃん」紗南はとりあえず教えてくれた事に対しての礼を言って、「それと、もうひとつだけ……」


「どうしたの?」

 

「やっぱり私、お母さんに、会いに行きたい」

 

「————」

 

 瞬間、和やかだった空気がきつく張り詰めたのを、紗南は肌身で感じた。

 姉は、まるで紗南の覚悟と言葉の真意を見定めるように、紗南の目を見つめて、


「——わかった」


 姉はそう言うと、真剣だった目を段々といつも通りの柔和なそれに変えていった。紗南はいつの間にか緊張していた肩の力をすっと抜いた。話し方こそ今では柔らかいが、姉はこう見えて結構怖いところもあったのだ。


「今日が十三日でしょ? お姉ちゃん十五日までしか休めないから——じゃあ、明日でいい?」


 姉は居間の壁にかけられたカレンダーで確認しながらそう言った。


「うん、本当にありがとう、お姉ちゃん」


 普段とても忙しい姉の休日を一日潰してまで、自分のお願いを聞いてもらうのだ。そのため紗南は、精一杯の感謝の気持ちを込めて、そう言った。

 かんかん照りだった太陽は、いつの間にか傾き始めていた。

 

   *


 二人で話をしてから少し経ったあと。

 紗南はプランターの花に水やりをしていた。蓮口の取れたジョウロを、水圧で土を抉らないように片手で水の拡散を調整しながら、順番に水をやっていく。ジョウロの中に入っているのは水道水だ。以前までは井戸水を使っていたのだが、今年の四月の初めくらいの時から、水が急に湧かなくなってしまったのだ。

 水道代すら惜しかったため井戸は重宝していたのだが、出なくなってしまったものは仕方がなかった。

 しばらくして紗南が水やりを終えたころ、姉から、ご飯できたよ、との声がかかった。

 普段は朝昼晩、自分が食べる分は紗南が自分でどうにかしているのだが、今日のように姉が休みの日は、私が作ってあげたいから、とのことで姉が紗南の分まで作ってくれるのだ。

 紗南はそれを感謝しながら姉の声に対して返事をすると、縁側から居間へ戻った。

 


 紗南は姉作の親子丼に舌鼓を打っていた。卵は半熟のとろとろ具合がいい塩梅で、鶏肉はしっかり火が通っているのに、まるで赤ん坊のほっぺたのように柔らかい。卵の絡んだ鶏肉を白米に乗せて口に運べば、卵が口の中で解け、鶏肉は噛めばほろほろとくずれ、同時にだしの仄かな風味が鼻腔を駆け抜ける。丼を置き、横の豚汁を啜れば、豚こまの豊かな脂の旨味と七味の辛さが口の中を瞬く間に幸せにしていってくれる。


「美味しい?」

 

 姉の言葉に返事をしたかったが、生憎口の中は豚汁の具でいっぱいになっていたので、紗南はこくんこくんと目一杯首を縦に振った。


「そう、よかった」


 言って、姉も親子丼をスプーンで掬い、口に持っていく。

 食器とスプーンがたびたびぶつかる音が二人分、静かな居間にしばらく響き続けた。

 親子丼をもう食べ終わってしまうか否かの時、紗南はふと座卓に置いてあった回覧板に視線がいった。

 紗南は親子丼を食べ終わってから、食器をシンクに入れ、汚れがこびりつかないように水を注いでから座卓に戻って、回覧板を手に取った。

 九月から道路工事が予定されていること、最近真夜中に子供が目撃されているということ、その他の自治体からのお知らせなどなど、回覧板の内容はおおよそそんなものだった。

 いつからか、紗南はこう言うものを見つけると、すぐに読みたくなってしまう癖がついてしまっていた。文字を読むには本が一番なのは当然ではあるが、文字のカタマリを見つけるとついつい読んでしまう。回覧板もそうだし、挙句はカレールーのパッケージの裏の注意書きなども読んでしまう始末。でも、そういうどうでもいい内容で十分だった。頭の中を文字で満たせば、いいことも嫌なことも、全て平等に頭の中から消えていく。頭の中に残るのは、カレールーの原材料だけ。

 そんなふうに紗南が回覧板のページをぺらぺらとめくっていると、ふと姉の顔が紗南の方へ向いた。


「紗南」


「なに? お姉ちゃん」


「明日、大丈夫そう?」


 姉は、紗南の瞳の奥の表情さえ読み取らんばかりに、こちらをじっと見る。


「……うん。大丈夫」


 紗南は少し視線を落としながら頷いた。 

 そんな紗南を見た姉は、四つん這いで紗南に近づき、ふと紗南の体を自分の方へと抱き寄せた。

 紗南もその姉の体に、両腕を回す。


「無理しなくていいんだからね、紗南。明日辛かったら、逃げても大丈夫なんだから」


 優しい声音が耳朶を打つ。紗南は自分の体を包む姉の腕が、さらに一段と強く紗南を引き寄せたのを感じた。姉の体温がより一層強く肌身に沁み入ってくる。その温かみはまさに紗南を想う姉の心そのものだった。


「うん、ありがとう。お姉ちゃん」




 しばらくそうしていたあと、姉に、今日は早く寝ようと言われて、紗南は床に就いていた。

 普段は紗南がしている洗い物も、今日は姉がしてくれるとのことだった。

 紗南は最近毎日毎日、夜には嫌なことを考えてしまって中々寝付けない日が多かった。今日もなかなか寝付けずにいたのだが、今は嫌なことを考えているからではなく、明日のことが不安で眠れなかった。

 あれ以来もう数ヶ月、母と会っていない。明日もし会ったら、一体母はどんな顔をするだろうか。どんな事を言うだろうか。どんな仕草をするだろうか。

 今はもう、母の一挙手一投足すらまるで想像できない。だから、明日のことが不安で仕方なかった。

 だが同時に紗南の体には、今も姉の温もりがまだ残っていた。

 その温かさを頼りに、紗南はゆっくり、ゆっくりと意識を手放していったのだった。

 

   *


「起きろぉーーーー‼ 朝だぞぉーーーー‼」


「キャーーーー‼」

 

 朝が来ると、母が来る。

 それが紗南にとっての毎日である。

 今日も母は紗南を起こしにきて、紗南の体をこれでもかと抱きしめる。

 今日は『抱きしめる』だったが、起こしにきてから母がする行為にはパターンがあり、大きく分けて、抱きしめる、こちょこちょ、何もしない、というものである。

 割合としては、抱きしめるが七割、こちょこちょが二割、そして何もしないのが一割と言ったところ。

 

「——紗南。もういいかげんに一人で起きられるようになれって言ったでしょ? あんたいつまで母さんの手ぇ煩わせるつもり?」


 寝室の外からピシリと、不機嫌な声が聞こえてくる。


「ごめんなさい、お姉ちゃん……」

 

 紗南はその声に対し、謝罪を口にした。

 本当は今日こそ自分一人で起きる算段だったのだ。算段だったのだが、布団がなかなか紗南を離さないものだから、それを引き剥がすのに手こずってしまったのだ。


「有紗、そんなに怒らないであげてー 。 起こしに来るのは母さんが好きでやってるのもあるし?」


 言いながら母は自分の頬を、紗南の頬に擦り付ける。

 紗南はそれが心地よかったので、母にされるがまま、頬をむにゃむにゃとさせていた。

 

「あ、そいうえば昨日の夜、シンクに残っちゃってた洗い物洗ってくれたの、あれ有紗なの?」


 母は紗南から頬を離し、姉の方へ向かって言った。


「まあ一応。あと、中性洗剤もう切れちゃいそうだから、あたし今日帰りに買ってくる」


 姉は有線イヤホンの片耳を外しながら言った。


「えーほんと? じゃあちょっと待ってて、お金持ってくるから」


「いいって。この前言ったでしょ? 私バイト始めたからって」


「それはそうだけど……。でもそれは有紗のお金でしょ?」


「なら尚更、あたしの好きなように使うから。……いってきます」

 

「あ、ちょっと有紗!」


 姉は、議論の勝負は決したと言わんばかりに外したイヤホンをはめ直し、玄関へと向かっていった。

 

「もう……」


 姉を見送ろうとした母が一言漏らした。

 その時の隈の浮かんだ母の目には、様々な感情が秘められているような気がした。それがなんであるかは分からなかったが、紗南には、その瞳はとても綺麗なものに見えた。


  *


 また別の日。その日は、『何もしない日』だった。

 世間は休日で、学校も休みだった紗南は、もう意識は半分くらい覚醒していたのに、布団を首の上の方まで被ってごろごろとしていた。もう春とはいえ、流石にまだ朝は肌寒かった。

 不思議なもので、明日は休日だから早起きしなくても大丈夫、ゆっくり寝られる、と意気込んで寝たのにも関わらず、しっかりと平日の起床時間に起きてしまうというのはよくあることで、今日がそれだ。

 二度寝をしたかったが、段々意識が覚醒してきてしまった紗南は、まだ一縷の望みに掛けて目を閉じながらも、周りの音に耳を傾けていた。隣の部屋からはカタカタと、シャープペンシルが紙を叩く音が微かに聞こえる。今年受験生である姉が夜なべして勉強に励んでいるのだろう。

 普段は台所の方へ耳を傾ければ、母が朝食を作ってくれる音が聞こえるはずなのだが、なぜか今日はそれが聞こえない。

 ふと、居間の方からギシギシと誰かの足音が近づいてくるのがわかった。その音は確実に紗南の部屋の方へと向かってくる。母が今日も自分に何かするついでに起こしにきたのだろう、と紗南は思い、寝たふりをして母が来るのを待った。

 足音が紗南の部屋の前で止まる。——襖が開けられた。

 さて今日は何をしてくるだろう。抱きしめられるか、こちょこちょされるか。

 紗南は待った。今日は何をされるのだろうと、少しだけ心を踊らせながら、待った。

 しかし何もされる気配はなく、部屋にすら入ってこなかったし、挙句は一言も声を掛けられない。なんだか少し不気味な時間が流れる。

 起こしにきたはずだと思ったのだが声すら掛けられないとはどういうことなんだろうと、紗南は考える。もしや寝たふりを見透かされたか。それだったら、母が声も掛けないのは道理だ。

 そんな様子で、紗南がああでもないこうでもないと考えていると、やがて母は襖を閉めた。足音が紗南の部屋から遠ざかっていく。

 今日は『何もしない日』だった。

 しかし、やはり起きていたのはお見通しだったのだろうか。しばしば薄目で母を確認していたから、それも仕方なかったのかもしれない。

 襖の向こうから、ビニール袋が擦れる音が聞こえた。母はビニール袋に薬を入れて保管しているから、今その薬を飲むところなのだろう。紗南はそれがなんの薬なのかは知らなかったが、『何もしない日』は、いつもより薬がたくさん無くなっていることだけは知っていた。

 すっかり目が冴えてしまった紗南は、布団から上半身を起こした。 

 さて今日は何をしようかと考えながら立ち上がろうとした時、ふと、また居間の方から足音が近づいてきた。真っ直ぐに紗南の部屋の方へ向かってくる。速い。襖が開けられた。母だった。


「お母さん? おはよう」


 紗南は母におはようを言った。しかし母はそれに答えることなく、部屋の中に入ってきて、紗南の前に立った。

 なんだかとても顔色が悪かった。なのにまるで憑き物が落ちたように清々しい顔をしていた。紗南は急に全身の肌が粟立つのを感じた。


「お母さ——」


 流石に不自然に思って、何をしにきたのか聞こうとしたその瞬間、母の白くて細長い腕がすっ、と伸び、唐突に紗南の首を両手で鷲掴む。


「あっ、がっ……!」


 その華奢な腕からは想像もつかないくらいの膂力で首を捕まれた紗南は、勢いで後ろの押し入れの襖に全身を叩きつけられ、襖が大きな音を立てる。

 ぎりぎりと、着実に首が絞められていく。痛くて、呼吸ができない。どうにかすり抜けようとしてバタバタと手足を踠くが、踠けば踠くほど、逃がしはすまいと言わんばかりに、首を締める力が増していく。

 やがて段々と、頭がふわふわしてきた。全身から力が抜けていく。口からだばだばと涎が溢れて、筋が浮き立った母の手に垂れる。次第に意識が朦朧としていくのが自分でもわかった。紗南にはまだ死というものがよくわかっていなかった。だが、自分がそれにどんどん近づいていっていることは、肌身で感じていた。

 

「——ね」


 母が何か言っていた。紗南は最後の力を振り絞って、母の言葉に意識を集中させた。


「紗南。ごめんね。ごめん……。紗南ぁ、ごめん……」


 母は泣いていた。自分の娘の首を絞めながら、泣いていた。

 母の涙が、紗南の顔と母の手に零れ落ちる。涙のいくつかは紗南の涎に落ち、ないまぜになって垂れていく。

 

「————」


 紗南は、仕方ないなと思った。仕方ない。仕方がなかった。

 家が経済的な面で危うくて、母がいつもそれに気を揉んでいたことは紗南もなんとなくは知っていた。薬の量が日に日に増えていたことも、知っていた。

 同時に、紗南がどうにかできる問題ではないことも知っていた。けれど、紗南が母に声の一つでもかけてあげられていれば、少しは何かが変わったのかもしれない。

 でも、紗南はそれをしなかった。

 だから、今紗南が母に首を絞められているのも、仕方がない。紗南はそう思った。


 紗南はもう、手足をバタバタとさせて抵抗することは無くなっていた。元より抵抗できる力もまともに残ってはいなかったが、仮に残っていたとしても、今の紗南にはそれをするつもりは全くなかった。

 視界全体が白と黒だけになってしまって、何も考えられなくなってきた頃。ふと、部屋の入り口から気配を感じた。

 紗南はよく見えなかったが、何やら人影が立っているのが見えた気がした。


「母さん? 何やって……」


 その人影は、首を絞める母と、絞められている紗南を見て、絶句していた。すぐに状況が理解できた様子だった。

 そこからは速かった。人影は紗南と母の元まで駆け寄ると、母の胸から首辺りに迷うことなく蹴りを入れた。

 紗南の首に巻きついていた手の力が弱まる。人影は母の手を掴み、強引に紗南の首から手を剥ぎ取った。

 

「紗南! はやく立って!」


 人影は青ざめた顔をしながら、凄まじい剣幕で言った。

 顔を向けられて、声を掛けられてやっと、その人影が姉であったことがわかった。

 

「……ぁ、ぅあ」


 紗南は声を出そうにも、喉が掠れて、同時に燃えるように痛くて、思うように言葉にならなかった。

 代わりに行動で示そうとするも、体に酸素が回っていないせいか、足に力が入らない。

 そんな紗南を見て、姉は片手で紗南の体を持ち上げた。

 そのまま姉は玄関へと突っ走り、自分のサンダルを履いて外へ飛び出した。抱えられていた紗南は裸足のままだった。

 部屋を出ていく時、紗南は後ろへ向いて、母の方を見た。母は姉に蹴飛ばされたまま、紗南の机に虚な目をしながらへたり込んでいるばかりだった。

 

  *

 

「——!」


 がばっ、と起き上がる。

 勢いで腕が机にぶつかり、机の上に置いてあった小さいカレンダーが畳に落ちる。

 額には冷や汗が滲み、動悸が頭に響く。

 窓からは日が差していた。もうすっかり朝になっていたようだった。


「夢……」

 

 紗南は自分の首筋を指先でなぞった。首には真っ赤な痕が一周と、爪が皮膚を抉った痕が無数に、くっきりとついていた。

 それは確かに夢だった。だが、完全な空想というわけでは決してなかった。

 

「紗南、大丈夫? なんかすごい音がしたけど……」

 

「大丈夫。お姉ちゃん、おはよう」


「うん、おはよう」


 紗南は、紗南を気にかけて部屋の襖を開けた姉に挨拶をした。



 二人は朝食を食べ、手早く身支度を済ませた。

 姉が、つい数ヶ月前まで母が使っていた型落ちのミライースに火を入れる。母のものといっても、最近はもっぱら姉の通勤に使われているため、もう立派な姉の足車だ。


「紗南、もうそろそろ行くよー?」


 姉はまだ家にいた紗南に声をかけた。


「ちょっと待って!」


 紗南はところどころ塗装の剥げた洋服かけのてっぺんから麦わら帽子をつかむと、自分の頭に被せ、玄関の方へかけて行った。


「シートベルト締めた?」


 姉が言う。


「いま……締めた」


 カチリ、と小気味良い音が鳴り、シートベルトが締まる。


「よし、じゃあ行こうか」


「うん」


 紗南がシートベルトを締めたのを見ると、姉はゆっくりとアクセルを開けた。



 車は小さいタイヤを四つ転がしながら、軽快に走っていく。視界から段々と緑が少なくなっていき、建物が多くなっていた。

 エアコンの効いた車内は、ラジオパーソナリティの陽気な声が満たされている。

 紗南は横で流れる風景を眺めていた。

 ふとハンドルを握っていた姉の手が、ラジオの音量のボリュームボタンに触れる。それにつれて、陽気な声が車内からフェードアウトしていった。 


「どうしても」

 

 音量がちょうど半分くらいになったのを皮切りに、姉が口を開いた。


「……どうしても聞きたいことがあって」


「——?」


 紗南は視線を窓から外し、姉の方に顔を向ける。


「紗南はどうして、お母さんに会いたいって、そう思えたの?」


 姉は紗南に優しい声音で問いかけた。


「どうしてって?」


「言い方は良くないかもしれないけど……。どうしてお母さんにあんなことをされたのに、それでも紗南は会いに行きたいって思ったのかなって。お姉ちゃんがもし紗南と同じ年のときに同じことをされたら多分しばらく、もしかしたら一生、会いたくないってなると思うの」


「お姉ちゃんはなんで会いたくないと思うの?」


「え? なんでって、それは……」


 紗南に言われて、姉は困惑していた。質問の返答に迷って困惑したのではなく、なぜそんな質問をされたのかということに困惑している様子だった。

 姉は寸刻考えたあと、


「——やっぱり一番は怖いからかな。そうするまでに辛い現実があったり、同情しちゃうような理由があったとしても、自分に殺意をむけてきた人は、どうあがいたって怖い」


 紗南は姉の言ったことを頭の中で反芻した。そのうえで、


「私は、三人がいい」

 

 と紗南は言った。


「前みたいに、三人で暮らしたい。今すぐは無理だとしても、またいつか三人で過ごせる日が来てほしい。そのためには、少しずつお母さんと話をしてく必要があるんだと思う。今の私にはそれくらいしかできない。けどだからこそ、会わなきゃいけないの」


「そっか。三人で……」


 紗南の言葉を聞いた姉は、苦しそうな表情をして、それから唇を噛み締めた。


「じゃあ紗南、頑張らなきゃだね! お姉ちゃんも頑張るから、いっしょに頑張ろう」


 姉はシフトレバーをパーキングにいれてから、紗南に向けて微笑みかけた。


「うん!」


 紗南も姉の表情につられて破顔した。紗南の口元は緩んでいたが、しかし決意は堅くなっていた。

 

 紗南と姉は車を降りた。着いた場所は大きな建物だった。建物の上部、一番目立つその場所には『鶴見ヶ丘西精神病院』の文字が大仰に掲げられていた。二人は病院に入ると受付へと向かい、面会のために来たことを伝える。

 

「須藤紗由理さんですね。二○一号室です」


 受付の女性が母の部屋番号を教えてくれたので、二人は言われた部屋に向かった。

 白を基調とした空間は、いかにも清潔そうな雰囲気を漂わせていた。病院独特の消毒液の臭いが鼻を突く。足裏のリノリウムの抵抗が、紗南をその場に縛り付けようと、母に会わせまいとしているように感じた。

 しかし紗南はそれでも足を一歩一歩踏み進め、とうとう扉の前まで来た。

 ここに来るまで、母に会ったとき自分はどうすればいいのか、紗南はずっと考えていた。

 特に、最初どんな言葉をかければいいのかは、とても悩んだ。

 あの日、姉が紗南を抱えて家を飛び出してから、母とは全く顔をあわせていない。あのあと母は姉が通報した警察によって身柄を拘束され、しばらくして裁判が行われた。判決は精神鑑定により心神喪失が認められ無罪となったが、その後医療観察法の定めによって精神病院に強制入院となった。

 紗南はもう数ヶ月も母の姿を見ていないかわりに、そういう経緯で今母はここにいるということだけを聞かされていた。

 だが、紗南にとってそれは然したる問題ではなかった。

 今はもう、第一声は何を言うか決めた上、母とどんなことを話せばいいのかもわかっていた。

 怖がることはなにもない。あとはもう、目の前の扉を開くだけでいい。

 

「————」


 紗南はゆっくり息を吐くと、扉を開けた。

 部屋の奥にあった大きな窓から、太陽の光が差し入れる。部屋にあったベッドはひとつのみ。そこには女性が窓の方を向いて腰掛けていた。背丈、髪質、姿勢、どれをとっても間違いなく、紗南の母のそれだった。

 その女性は、扉が開いた音に気が付き、紗南の方を向いた。


「お母さん……」


 久しぶりに見る、母の顔だった。

 紗南が思っていたよりも、母は健康そうだった。酷くやつれていたらどうしよう、手足が枯れ木のように細くなっていたらどうしよう、などと一時は心配していたが、どうやら杞憂だったようだ。

 紗南は改めて、準備していた、これから言おうとしていることを頭の中で繰り返す。

 そして、


「私、怒ってないからぁ!」


 言い放った。病院全体に聞こえるのではというくらい、大きな声だった。

 

「怒ってない。首を締められたからって、怒ってない……。お母さんがお金のことでずっと困ってたの、私は知ってた。……でも自分なんかじゃどうすることもできないからって、私はなーんにもしようとしなかった!」


 紗南は肺の中の空気を使い切ると、一度呼吸を整え、再び息を吸い、


「お母さんが薬をたくさん飲んでたのも知ってた。時間がないのに、手間を掛けてご飯作ってくれたのも知ってた。……本当は面倒なのに、毎朝起こしてくれてたのも、知ってた」


「知ってたのに、起こしてもらいたいからって、わざと寝たふりしてまでして……」


 堪えていた涙が、堰を切ったように溢れていく。

 

「お母さんは毎日私達のためにずっと働いてくれてて。お姉ちゃんも、高二の時はバイト頑張って、今年は受験勉強頑張ってたのに……。私だけ何もしなかった。ただ面倒と迷惑しかかけなかった。首を締められて当然だった……。だから全然怒ってなんかない。むしろ、怒られなきゃいけないのは私の方で……」


 涙で目の前がぼやける。嗚咽が喉に蓋をしようとしてくるが、紗南は無理矢理言葉を紡いだ。

 そして紗南が一呼吸おいて、思いの全てを伝えきろうとした時、


「あの」


 少し掠れたような声が眼前から聞こえた。

 数ヶ月ぶりに聞く母の声だ。紗南は話そうとしていたことを引っ込めて、一語一句聞き逃しまいと聞き耳を立てた。

 そして、

 


「——どなたでしょうか?」


 

 母は言った。確かにそう言った。

 母のその言葉を耳にした時、かちゃ、と紗南の後ろから音がした。

 後ろを見れば、姉が手に持っていた車のキーを取り落していた。姉は、静かに肩を震わせていた。

 

「——っ」


 姉は途端に踵を返し、扉を乱暴に開け、病室から駆け出していった。

 紗南は、何も考えられなかった。

 どなたでしょうか。どなたでしょうか。——どなたでしょうか。

 頭の中で、母の言葉が永遠に繰り返される。


「……あの」


 姉の行動に少し驚いていた母は、なにも答えない紗南に、声をかけた。


「え? あっ……。え」


 しかし、あれほど伝えたいことがあったはずの紗南は、もう一言も喋れなくなっていた。

 紗南の瞳から溢れていた涙はいつのまにか頬を伝い落ち、首の赤い痕に触れて、じわりと沁みた。


  *

 

「——どなたでしょうか?」


 妹の話を不思議そうな顔で聞いていた母は、妹に向けてそう言い放った。

 有紗は思わず、手にしていた車のキーを落としてしまった。

 

「——っ」


 母が二人を見る目と表情から、少しだけそういう雰囲気は感じ取れたが、冗談であってほしかった。

 こんなことが、あっていいはずはない。こんなことが、ありえてはいけなかった。

 有紗は病室を飛び出すと、近くにいた看護師を捕まえた。


「すみません! ここに入院している、須藤紗由理の家族の者ですが、須藤紗由理の担当医の方はいらっしゃいますか?」


「須藤さんの……。今確認してきますので、受付の方でお待ち下さい」


 看護師はそう言って、受付の方へ、おそらくはその奥の方の部屋へ向かって行った。

 有紗は忙しそうな人に話しかけてしまったのを少し悪く思いながら、自身も受付へ向かった。


「おまたせしました。あちらの診察室へどうぞ」


 三分もかからないうちに看護師が出てきて、有紗にそう言った。

 有紗は言われた診察室へ入った。


「あ、どうも、須藤さんのご家族の方ですね。そちらへおかけください」


 どこか飄々とした様子の五十代ほどの医者は、有紗に言った。

 有紗は言われたように、医者の目の前の丸椅子に腰掛ける。


「あの、母は……。あれは一体どういうことなんですか?」


「それが、なかなかお伝えしづらくはあるんですがねぇ……。おそらくお母様は解離性健忘、その中でも、系統的健忘である可能性が高い」


「解離性健忘……?」


 有紗は聞き馴染みのない単語に眉をひそめる。


「えぇ。解離性健忘というのはわかりやすく言えば、記憶に蓋をしてしまった状態です。そして系統的健忘というのは、特定の人物、……お母様の場合で言えば、有紗さんと紗南さん、お二人についての全ての記憶に蓋をしてしまった状態ということになります、はい」


「それは……。それは治るものなんでしょうか? 記憶を思い出せる日は来るんでしょうか?」


 有紗は言った。いつのまにか膝においた拳に力が入り、手汗が滲んでいた。


「こちらでも施せる治療は行いますが、お母様の場合、自分がしてしまった事にかなり心苦しまれた上、記憶の苦痛があまりにも強く……。その記憶を再構築できない可能性が高い。そうなれば、大変残念ですが、もう以前のように接することは……」


 有紗は、自身の体から、血の気がすーっと引いていくのがわかった。

 そんなことがありえてしまうなんて、と現実を恨む気持ちもあった。しかし、有紗が真っ先に思ったのは、『前みたいに三人で暮らしたい』と車で言っていた紗南のこと。

 その時ふと、背中の方から人の気配を感じた。小さな、気配だった。

 有紗が振り向くと、そこには——。


   *

 

 二人は車に乗り、帰路についていた。

 帰りの車のラジオからは、どこかで聞いた覚えのあるクラシックピアノの曲が流れる。

 紗南は車の中、俯き加減であの時のことを思い出していた。

 

 『こちらでも施せる治療は行いますが、お母様の場合、自分がしてしまった事にかなり心苦しまれた上、記憶の苦痛があまりにも強く……。その記憶を再構築できない可能性が高い。そうなれば、大変残念ですが、もう以前のように接することは……』


 紗南は目の前の扉を開いた刹那、その言葉を耳にした。

 話の途中だった上に、医者の言葉尻も曖昧だったが、つまりなにを言わんとしているのかくらいは、紗南でも理解できた。


「もう二度と、三人一緒に暮らせない」


 紗南は、頭の中で理解した現実をそのまま口にした。


「紗南。まだそうって決まったわけじゃない。……仮に紗南とお姉ちゃんのことを思い出せなかったとしても、また新しく、思い出をつくっていけばいい。三人で」


 姉が言った。


「それじゃ三人じゃない。二人と一人だよ……」


 紗南は自分がとんでもなく我儘なことを思っているのは重々承知でそう言った。

 医者のあの時の話し方は、人に期待を持たせないためのそれだった。

 少しは可能性が残っているというような言い方をしていたが、話し方を鑑みるに、本当はそんな可能性はほとんど無に等しいのだろう。

 紗南は今日、自分の思いを全て母に伝えようとしていた。最初は全く理解されなかったとしても、全然構わなかった。少しずつ話していければと、そう思っていた。

 だが。

 母はもう、いなくなっていた。

 

「————」


 紗南はそのことを改めて痛感し、どうしようもなく涙を堪えられなくなってしまった。

 

「紗南……」


 車内には、ピアノの悲哀なメロディと、紗南の嗚咽だけが満ちているばかりだった。



 会話が途切れてから数分も経たないうちに、車は家に到着した。

 出発時にはからっと晴れていた空は、気がつけば雲が覆い、雨をぽつぽつと降らし始めていた。この様子では、あと数分もすれば土砂降りになりそうな様子だった。

 紗南は未だ際限なく溢れる涙を拭いながら、俯いたまま車から降り、惰性で玄関の方へと向かう。

 

「——南? 紗南!」


 刹那、後ろから姉の声が紗南を呼ぶような声がした。

 しかし、気づいたときにはもうほとんど手遅れだった。


「あえっ」

 

 紗南は井戸の端に蹴躓き、不幸なことに、ちょうど井戸の口の方に体が傾いた。

 どうにか井戸の縁の方を掴もうとするも、手が届かず掴み損ね、紗南の体は仰向けの状態で、真っ逆さまに落ちていく。

 その時紗南が最後に見た景色は、急いで井戸の方へ駆け寄ってきた姉の、焦りで真っ青になった顔だけだった。


   *


 背中の不快な感触に、紗南は意識を取り戻した。

 井戸の底に少しだけ残っていた水が、紗南のワンピースの背中のあたりに染みていた。

 

「また落ちた……」


 紗南はぼそりと呟いた。

 実は、井戸に落ちるのはこれが初めてではなかった。紗南は幼稚園の時にも、誤って落ちたことがあった。それにその時聞いた話では、姉も小さい頃に二回落ちたことがあるらしかった。しかし不思議なことに、井戸に落ちても特に二人とも怪我をしたことがなかった。今回も、紗南は背中に水が染みていただけだった。

 そもそもこの井戸は、ちょうど駐車スペースから玄関までの動線を塞ぐような場所にあるのだ。数回落ちるのは仕方ないと言えよう。

 井戸はもう随分と使われていなかったこともあって、幼稚園児だった紗南が落ちた時に使われた縄梯子が、当時のままかけっぱなしだった。

 紗南は梯子をゆっくり登っていく。やがて半分くらい登ったところで、ふと居間の方から声が聞こえた。


「どうして……」


 紗南はその声を聞いて、自分の耳を疑った。

 しかし、頭の中に過ぎった事が絶対にそうだと決まったわけではなかった。この目で見ないことには、確信はできない。

 紗南は急いで、しかし大きな音が出ないように静かに梯子を登り、そして居間の方を見た。

 紗南は耳だけでなく、自分の目すら疑う羽目になった。


『ドッペルゲンガー? って、なに?』


『ドッペルゲンガー?』


『この……ここのやつ』


『ああ、ドッペルゲンガーね。ドッペルゲンガーって言うのはね、もう一人の分身、って感じかな』


『もう一人の分身?』


『そう! じゃあ例えば……今紗南はここにいるよね?』


『うん』


『けど、今ここにいる紗南とは別にどこかここの近くに違う紗南がいて、その人のことをドッペルゲンガーって言うの』


 居間で、姉と自分が、会話をしていた。

 しかもよくよく耳を澄ませば、それは昨日紗南と姉が話していた内容と全く同じものだった。

 

「————」


 紗南は息を呑みながら、井戸から顔だけ覗かせて二人の話を聞いていた。

 すると姉が不意にこちらの方へ指を差した。そしてそれにつられるようにして、居間にいる紗南がぐるんと頭をこちらの方へ向けた。


「ひっ」


 紗南は梯子に掴まったまま、見つからないよう頭を下げた。

 数秒して、二人はまた会話を再開した。どうやら気づかれてはいないようだった。



 会話が終わりしばらくした後。紗南は一旦井戸の底の方へ戻り、頭の中を整理していた。

 梯子に掴まったままでは、まともに考え事なんてできやしない。

 紗南の記憶が正しければ、紗南は不注意で井戸に落ちて、その後意識を失った。そして気がつくと、話し声が聞こえた。驚くことにその声は、姉ともう一人の自分のものだった。そして会話の内容は、昨日紗南が姉と話していたものと全く同じだった。そして井戸に落ちる前に降り始めていた、土砂降りになりそうな雨は一切降っておらず、空はきれいに晴れていた。

 つまりどういうことか。


「ここは、昨日なんだ……」


 全く信じられない唐突なものではあったが、井戸に落ちたら、丁度一日分過去へと戻った。

 母の古いVHSで、とあるタイムトラベル作品をテープが擦り切れるくらい見ていた紗南は、年端は行かずともそれがすぐに理解できた。


 そして紗南は、これから自分はどうするべきなのかも、理解できていた。

 

「よし……」


 紗南は梯子に手をかけながら、ゆっくりと井戸の中から顔を出し、居間の様子を伺った。思っていた通り居間には姉も、もうひとりの紗南もいなかった。

 紗南は梯子を登りきりって井戸から這い出ると、井戸の方へ向き直った。

 

「これが失敗したら、どうしよう」


 紗南は思っていた不安を口にした。

 今紗南がしようとしている事が失敗すれば、井戸の底で画策した計画はその瞬間に崩れ落ちる。それにやろうとしていることがやろうとしていることなだけに、恐怖で足が竦む。


「でも、これならお母さんを助けられるかもしれない」


 紗南はそう言って、井戸の底を睨むように見た。

 ここでいつまでもためらってはいられない。紗南の記憶では、昨日はこの後少し本を読んでから、花の水やりをしに行ったのだ。となれば、しばらくしないうちに、もうひとりの紗南も庭へ水やりをしに来るに違いない。

 紗南はゆっくり井戸に手を置くと、慎重に井戸の縁に片方ずつ足を乗せる。両腕はクロスさせる形で体に巻き付けた。

 一度、深く深呼吸。そして足を前へ、踏み出した。

 紗南の体は、重力に任せて真っ逆さまに落ちていった。


   *


 再び紗南は目を覚ます。

 背中には水が浸っていて、不快感がある。しかしやはりというべきか、上から飛び降りたのにも関わらず、一切怪我をしていなかった上に、体はどこも痛まなかった。

 紗南は再び梯子をゆっくりと登っていき、また同じように居間を確認するが、誰もいなかった。

 ひとまず胸を撫で下ろした紗南は、井戸から音を立てないように慎重に這い上がると、抜き足差し足の要領で、縁側から居間へ忍び込む。ある程度中の方まで入ることができた紗南は、家で一番太い柱の上の方に備え付けられた、日付も表示される壁掛けの時計を見上げた。

 八月十二日。時計の下部には、確かにそう表示されていた。

 紗南と姉が会話していた日がお盆初日の八月十三日。あの日からまた一日分過去へと遡行したことになる。それを理解した紗南は、心の中でガッツポーズをした。

 一日ずつでも過去に遡行する事ができるのなら、紗南が母の涙を浴びたその日まで遡ることもできるはずだ。そうすれば、あの時紗南が伝えたかった事を、母に全て伝えられる。伝えれば、母があんな事にならなくていいようになるかもしれない。

 そうと決まれば紗南がやるべきことはもう一つしかなかった。

 再び紗南は、井戸の縁に立つ。

 そして三度、井戸の中に吸い込まれていった。

 


 それから紗南は何度も何度も井戸の中に落ちるのを繰り返していった。

 怪我をしない、どこも痛くならないということがわかっていたとしても、何度も穴の中に自分から落ちていくというのは、それなりに精神を消耗させるものだった。

 井戸に落ちるためには、井戸から一度這い出る必要があった。つまりその度に居間に体を晒すことになるということで、流石に紗南は何日も前に自分がその時間何をしていたかを覚えてはいなかったため、いちいち顔を少しずつ覗かせて、居間に誰もいないか確認した。

 紗南が何十回井戸に落ちたのかわからなくなったくらいの時には、辺りは真っ暗になっていた。夜であれば、姉ももうひとりの紗南もぐっすり就寝していたため、ほとんど警戒することなく井戸に落ち続けられた。

 やがて段々とその日が近づいていた紗南は、日にちを決して間違えぬよう、しばしば居間の時計を確認して、指折り日数を数えながら落ちていった。

 紗南は落ちた。あの日の母の顔を、涙を心に浮かべながら、ひたすら落ち続けた。


   *


「————」


 紗南は井戸の底で、息を潜めていた。

 白くて薄いワンピースは井戸の残り水でぐっしょりと濡れていた。四月の明け方の肌寒さは、そんな紗南にも容赦なく牙を剥く。

 お腹は減り、足は疲労で膝が笑い、梯子を握り続けた手のひらは皮が剥け、寒さでカチカチと鳴る歯をどうにか律しながら、紗南はその時が来るのを、じっと待っていた。

 やがて、襖が開けられる音がした。母だと、紗南はすぐに理解した。

 母の足音はそのまま台所に行ったり、洗面所に行ったりと、しばらくの間家の中をせっせと動き回った。

 しかし母の足音はまるで何かを思い出したかのように、ぱたっと止まった。また動き出す。そして部屋の前に止まってから、襖を開けた。

 それはおそらく、紗南の部屋を開けた音だったのだろう。あれが一回目で、二回目に襖を開けた後、紗南は首を締められることになる。

 母はしばらくして、何も言わずに襖を閉める。そしてビニール袋をいじりだす音が、カシャカシャと鳴り出した。


「……よし」


 梯子を掴んだまま、井戸の上の方でその瞬間を待っていた紗南は、静かに井戸から這い出る。

 音を消して母に躙り寄り、丁度母が再び襖を開けようとしている手を、掴んだ。



 母の手を掴んだ紗南は、そのまま強引に手を引っ張って家を飛び出し、ひたすら家の裏の方にある山の一本道を駆け抜けた。

 紗南に手を掴まれた母は最初、目の前の光景が信じられないと言わんばかりに瞳孔が開いていた。しかしそれも仕方ないだろう。ほんの少し前に見たパジャマ姿の娘が、なんの前触れもなく、ビショビショでボロボロの夏に着るようなワンピース姿になっていたら、だれだって驚く。

 しかし紗南は、そんな母の反応も一旦は全て無視をして、ただ駆け抜けた。

 そして、たどり着いた。

 

「……紗南、急に、どうしたの……」


 母は息を切らしながら、紗南に問う。


「ごめんねお母さん。でも、いつか連れて来てもらったきれいな場所の方が、いいかなと思って」


 言いながら紗南は、そこから見える景色を見遣った。

 紗南たちの周りには、少し花びらが落ちかけてしまっているものの、美しい桜の木が、それはもう数え切れないくらいに咲き誇っていた。大きく切り立ったガードレールの向こうを見渡せば、紗南たちの家や周辺の建物が豆粒のように小さく見え、そのずっと向こうには朝日に照らされて青く輝く海が見える。

 ここは紗南が首を締められた日、つまり今日より数日前に母が連れて来てくれた、紗南にとっては少し懐かしい場所だったが、


「いつかって、この前来たばかりでしょ?」


 しかし母にとっては、そうではない。


「それに、どうしてそんな薄いワンピースなんて着て……。すごいびしょ濡れだし、風邪引いちゃう——」

 

「お母さん」


 いろいろと戸惑いを隠せず困惑した様子の母の言葉を遮るように、紗南は母を呼び、


「お母さんはさっき、みんなで心中しようとしてたんでしょ?」


 一気に核心へ迫ろうとした。

 そんな紗南の一言に、母は刹那に顔を蒼白にさせた。


「どうして——。どうしてわかるの……?」


 紗南の想像していた通り、やはり母は本心をごまかそうとすることはなく、その意志を認めた。


「私自身もまだ信じられないんだけどね、私、四ヶ月後から来たの。……お母さんが私の首を絞めた後の未来から」


 言いながら紗南は、首にある痕に触れた。

 その仕草を見た母は、目に涙を湛える。自分のやろうとしていた事と、それを成した場合の結果である紗南の首の痕。どうやらすぐに全てが腑に落ちた様子だった。


「そんな……」


 母はそのまま、膝を折り、嗚咽しながら泣き始めた。

 紗南はそんな母の様子を見て唇を引き結び、母の元へ寄ると、その体をきつく抱きしめた。

 紗南の脳裏に今までの、母と紗南が抱擁する姿が浮かんでいく。それはどれも母に抱きしめられる紗南だった。だが、紗南の方から抱きしめた記憶は一つもなかった。思えば朝起こしに来て母が抱きしめてくれるばかりで、紗南の方から抱きしめようと思ったことはなかったかもしれない。だからこそ紗南は今、母をきつく、目一杯抱きしめる。これは紗南の、『紗南』だけの記憶になる。


「首を締められた時、苦しくて息ができなかった。痛くて、全身が燃えるみたいに熱かった。けどあれは、お母さんの苦しみそのものだったんだ……。私、それまでお母さんの苦しみを全然理解しようとしなかった。自分も苦しくなるかもしれないからって何もせず逃げてた……。本当にごめんなさい」


 紗南は母を抱きしめながら言う。


「でも、どうかお願いだから、心中だけはしないでほしいの。あれからお母さん、健忘って病気になっちゃって、私とお姉ちゃんの事を全部忘れちゃって。とっても苦しそうにしてて。お姉ちゃんはあの後から、人が変わったみたいに喋り方とか全部お母さんの真似してて。それがすごくぎこちなくて。ずっと明るく振る舞ってくれるけど、最近、お母さんが飲んでた薬と同じような薬を飲み始めてるみたいなんだ……」

 

 今度は泣かないようにと涙を堪えていたのに、やはり我慢できずに、紗南は涙を零す。


「だからお願い。心中だけはどうか——。その代わり、紗南を使っていいから。自分の事はもう全部自分でやるし、紗南にできることなら、たくさん頼って大丈夫だから。お願い……」

 

 紗南は嗚咽しながら、どうにか言葉を紡いだ。


「——そっか。ごめんね……。お母さんの方こそ、ごめん。そんな、そんなことになっちゃうなんて、思ってなくて……。紗南と有紗にたくさん苦労かけちゃったね……。ごめん、ごめんね」


 母はいつしか両腕で紗南の小さい、びしょ濡れの体を抱きしめながら泣いていた。

 二人はそのまましばらく、お互いを抱きしめたまま泣き続けた。そんな二人を四月の明け方の肌寒さから守るように、朝日が優しい光で照らしていた。


   *


 太陽が段々と空を登り始めた頃。

 二人は桜の花びらの落ちる中で、お互い寄り添うようにベンチに座っていた。

 

「すごく、気になった事があって」


 紗南が言った。


「どうしたの?」


「なんで私が四ヶ月後から来たって、そんな突拍子もない事、すぐに信じてくれたの? ……やっぱり、首の痕と、このワンピースで?」


「それもあったけど」母は微笑みながら、「紗南、ちょっと身長伸びたでしょ?」

 

 母はまるで自分の事のように、心底嬉しそうにそう言った。


「————」


 紗南は、声が出なかった。

 確かに紗南は、この四ヶ月くらいで身長が一センチくらい伸びていたのだ。

 紗南が四ヶ月後から来たと言って、母がなぜあんなにもすんなり信じてくれたかというのを紗南は少し、いやかなり、疑問に思っていた。

 だから何か別の、紗南が未来から来たという確信の持てる判断材料があったのかと思って紗南は母に聞いてみたのだが——、

 

「それが身長……。身長なんかで……」


 俯いた紗南のワンピースに、水滴がポタポタと零れる。


「よしよし」


 母はポケットからタオル地のハンカチを取り出し、紗南の涙を優しく拭う。しかし紗南はその手を途中で止めた。


「自分で、拭える」


 紗南は母の手のひらからハンカチを取ると、自分の涙を拭った。


「あははっ。そうだったね、そういう約束だった」


 紗南は母に、ハンカチを返す。母はそれを受け取った。


「——じゃあそろそろ、私行くね」


 そう言って紗南はベンチから降りた。


「わかった。でも紗南、元のところにはちゃんと帰れるの?」


「うん! 大丈夫」


「そっか、わかった。じゃあ……。さようなら、紗南」


「うん、バイバイ」


 そう言うと、来た道とは真逆の方へ歩き始めた。

 もっと母と話をしていたかった。できることならずっと、一緒にいたかった。そう思いながらも、それでも歩みを進める紗南に、ふと後ろの方から——、


「さなぁー、もしダメそうだったら、いつでも帰ってくるんだよー!」


 紗南がその声に振り向くと、後ろから母が手をブンブンと振っていた。

 紗南は数回振り返すと、再び一本道を登り始めた。


   *


 母が見えなくなったくらいで、紗南は歩みを止め、ガードレールの向こう側の景色を見ていた。

 あの時母にはああ言ったが、紗南は元の時間に帰る手立てなど、本当のところは一つも持ち合わせていなかったし、紗南は量子物理学者でもないから、今後その手立てを思いつくことも無いことはわかっていた。

 ふと脳裏に、最後の母の言葉を思い出す。あれは、最初から紗南が戻れない事を見越してのことだったのかもしれない。だが、紗南は戻るつもりはなかった。戻れば母に一人分、負担が増えてしまうだけだ。

 八方塞がりの状況だったが、紗南はそれはもう満足げな表情で微笑んでいた。

 

「多分、もう大丈夫。三人でまたいつも通り暮らせる」


 その三人の中に、首に痕がついた自分は含まれていない事くらい、紗南はわかっていた。

 しかし、紗南ができることはやりきった。あとは、首に痕のない、もうひとりの紗南に任せるしかない。

 

「……あ」

 

 ふと、紗南は自分の両目に涙が溢れている事に気がついた。

 しかし紗南は溢れる涙を拭わず、そして今度こそ零すことなく、晴れやかな顔つきで一本道を登っていった。


  *


どうにも蒸し暑さが我慢できずに窓を開けると、ぶわっとぬるい風が体を包み込んだ。カーテンレールにかけてあった風鈴が風に靡き始め、ちりんちりんと耳心地のいい音を奏で出す。

 椅子に座り、再び文字を追う。読んでいる本のページを捲る。また文字を追い始める、が。


「なに? どっぺる……?」


 知らない言葉に躓く。

 頭の中でどの記憶の扉を叩いても、ドッペルなんとかというような単語は全く覚えがなかった。

 仕方なくまた椅子から立ち、自室を出て、居間にいる母に声をかけにいこうとして、


「——よし」


 紗南は辞書を開いた。

 辞書を目分量でガバっと開き、それからドッペルゲンガーを探してペラペラとページを捲る。


「なるほど……」


 紗南は辞書の説明を読み、ドッペルゲンガーが何たるかを理解できた紗南は、再び本を読み始めようとして、

 

「なんだろう、これ」


 新しい見開きに、紙切れが挟まっていた。紗南がその紙切れを裏返すと、なにやら文字が書かれていた。それを読んだ紗南は、目を大きく見開き、部屋の襖を勢いよく開け放って、


「大変、どうしよう⁉ お母さん、お姉ちゃーん!」


 居間に全速力で駆けていった。


「紗南ぁ! 勉強してるから静かにしてって言ってるでしょー⁉」

 

 そんな紗南を叱る姉の声と、


「どうしたの紗南? はやくこっちにおいで!」


 心配する母の声が聞こえた。

 そして紗南に置いていかれた紙切れにはこう書いてあった。



『もうひとりの私へ どうか三人で幸せに暮らせますように。 ドッペルゲンガーより』










—了—

 

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吉川線のドッペルゲンガー Ritchey @Ritchey0609

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