第5話
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授業参観は、三時間目と四時間目。普通の時間割なら体育と国語の二教科だけど、今日だけは特別に体育が二時間で、クラスで小さな運動会みたいなことをするってことになってた。ただでさえ授業参観は嫌なのに、その内容はもっと嫌だ。
体育は嫌い。先生に睨まれてわざと大きな声を出すのも、周りの目に気を遣いながら身体を動かすのも。しかも、それをよりにもよってお母さんに見られながらやるなんて。
きっと、家に帰れば今日のことをあーだこーだって言ってくるんだ。キモい物真似なんかして、お父さんにも言いふらすんだ。自分だって普段はずっとソファで寝てるくせに、ここぞとばかりにわたしの運動音痴をからかうんだ。今日だって、どうせそのために来てる。
お母さんは、体育館の入り口のすぐそば、ステージのところにいるわたしとは一番離れたところにいる。そうなるように、わたしがここまで逃げてきたから。でも、わたしの番がきてコートに立たされたら、きっと見つかる。
……はあ。でも今日は大丈夫。こういうときのために、ちゃんとお守りを持ってきたから。
周りから見られないようにこっそり、体育着のポケットに手を入れる。指先に馴染んだ感触がする。そのまま指を伸ばして、細長いカッターを握り込んだ。
学校にこれを持ってくるのは初めてだけど、持ってきて正解だった。これがあるだけで、いつもよりずっと安心していられる。お母さんがいるのはあいかわらず嫌だけど、思ってたほどじゃない。
今みんなはバトミントンをやっている。二つのコートに分かれて、二人一組で試合をする。ペアの人はもう決まっていて、わたしのペアは隣の席のあいつ。せめて名前の順で決めてくれればよかったのに。席順で決めたりするからこんなことになった。
そいつはわたしと二人分くらい離れたところで誰かに手を振っている。多分親にだ。
なるべくその視界に映らないように移動しながら、ポケットのなかのカッターを弄る。
カチ。カチカチカチ。
周りにバレないように、なるべく音は立てないで。出したり引っ込めたり。退屈なだけの時間は、これくらいしかやることがない。けど、結構楽しい。
とうとう、わたしたちの番が来た。コートは、お母さんに近い方。思わずため息が出そうだけど、代わりにもう一度だけカッターを鳴らしてコートに向かった。
相手の二人はもう向かい側のコートにいて、仲良さそうに喋ってる。わたしがコートの真ん中よりちょっと前くらいに立つと、ペアのこいつも隣に並んできた。テレビで観たバドミントンの試合だと、一人が前の方にいてもう一人は後ろの方にいたけど、そんなことをするつもりはまったくないみたい。
「頑張ろうねっ!」
いつもの二つ結びを今日は一つに変えたこいつは、そんなことを言って手を振る。ついでに保護者席にも振っていた。
「よーし、それじゃ、準備してー」
少し離れたところから先生の声。別にそんなことをしなくても嫌ってくらい聞こえるのにわざわざマイクを使ってるせいで、聞きたくもない声が五月蠅い。もう一回カッターを触りたいな、できるかな。
そーっと手をポケットに入れて、カッターをまさぐったとき。
「ああっ!」
隣から、急に大きな声がした。びっくりしてそっちを向くと、さっきまでにこにこだったこいつが、今度はなにかに怖がってるような顔でわたしを指さしている。
まさか、カッターがバレた? いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
左の手首に貼った絆創膏が、剝がれてる。
念のために今朝貼り直してきた大きめの絆創膏。何度も何度もちゃんと貼れてるか確かめたのに、いつの間にか剥がれて、どこかに落ちてた。だから、その下の真っ赤で大きな傷が剥き出しになって。
こいつは、それを指さして大声を上げていた。
「せ、せんせいっ! 三筆ちゃんがっ! 手首がっ!」
黙って欲しかった。でも、もう遅かった。試合開始のホイッスルは鳴らないし、先生も、周りの同級生も、保護者席のおばさんたちも、みんな興味津々でわたしを見てる。
「どうしたのっ、これっ!」
しかもそれだけじゃなくて、わざわざわたしのところにまで来て、わたしの手首を勢いよく掴んだ。そのせいで握ってたラケットが落ちて、また騒々しい音を立てる。
「これ……血が出てるじゃん! なんでこんな……どうしたのっ⁉」
五月蠅いな。耳元で喚かないでよ。
気持ち悪いくらい必死なこいつの顔の後ろからは、同じようなヘンな顔した先生も走ってきてる。その二人の顔は、笑っちゃうくらいそっくりだ。
「……別に、なんでもない。ほっといて」
「そんなわけないじゃんっ!」
ああもう、だからそんなに大きな声出さないでってば。それとも、これも作戦の一つなの。先生と打ち合わせでもして、一学期の続きのつもり? 誰のせいでこうなったのかも知らないし、知ろうともしないくせに。
もうすぐ先生がわたしのところに着く。それまでにはこの騒ぎを収めたい。でも、いくら力を込めても、左手は全然自由にならない。
それに、お母さん。きっとわたしが騒ぎの中心にいるのは気づいてる。今も絶対にこっちを見てる。なにを考えてるの? なにをしようとするの? また余計なことをするんでしょ。
「二人とも! いったいどうしたのっ?」
ああ、先生が来ちゃった。先生もこの傷を見る。それでもっと大騒ぎする。
なんで。なんのつもりなの。よってたかって、わたしを心配するフリして、結局はわたしを困らせるだけ。
止めてよ。そんなことしないでよ。そんなことしなくていいんだよ。
わたしは、ただ放っておいて欲しいだけなの。だってわたしはなにもおかしくないんだから。これだって、別にヘンなことじゃないんだから。
これはわたしがちゃんとしたひとで、他のみんながそうじゃないことを確かめるだけの、必要なことなんだか、
「──こんなの、絶対ヘンだよっ!」
ずっと、わたしの右手はカッターを握ったままだった。
でも、気づいたらそれはポケットの外にあったし、先っぽは白く光ってた。
そういえば、辺りが静かになってる。みんないなくなったみたい。
いるのは、わたしと。
足元にはさっきまであんなに五月蠅かったあいつ。先生。それとお母さん。
どれも、急にすっごく静かになってる。
しばらく、ぼーっとそれを見てた。
気づいたら、その三人もいなくなってた。その代わりに、真っ赤な線が三本、わたしのいるところから体育館の出口まで伸びてる。
……あれ。真っ赤?
そういえば、わたしの左手首から血が出てる。昨日の傷が開いちゃったのかな。
カッターを捨てて、手首を顔の前まで持ってくる。
血がわたしの目の前で溢れ出て、流れていって、滴り落ちて。
そして、床に広がる赤色に入っていく。
…………?
ヘンなの。この赤い液体、わたしの血にそっくり。血も涙もないくせに、こんなのは持ってたってこと? ふん、どうせ偽物かなにかなんでしょ。
でも。
じゃあ、なんで。
わたしの本物の血と見分けがつかないんだろう。
床に頬を付けても、手で掻き分けても、新しく出てきた血と見比べてみても、床の赤色に混ざったわたしの血は見つからない。区別がつかない。
どうして。どうして。
こいつらはみんな血も涙もないんじゃなかったの。血があるのはわたしだけじゃなかったの。この血は、わたしの証拠じゃなかったの。
わたしは、どこにいるの?
血も涙もないひと @HAZUMI
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