第4話

 結局、本をあいつらに取られちゃったから、帰りの時間に読む本がなかった。そのせいで同じ下校班の連中のつまんない話を聞きながら帰らなきゃいけなくて、ずっとイライラしながら家に着いた。

 扉の前で鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。勢いよく回すと音が出ちゃうから、そうならないように、気づかれないように、そっと回す。それで鍵が開いたら、やっぱり音を立てないように扉を開け、そして閉める。

「あ。おかえり」

「……ただいま」

 これだけ注意して、なんとか気づかれないように二階の自分の部屋に入ろうとしてたのに、結局お母さんに見つかってしまった。でも、多分わたしが帰ってきたことに気づいたんじゃない。たまたまなんかの用で廊下に出てたんだ。

 ほんと、最悪。ただでさえ嫌な気分なのに、こんなところでまで顔を合わせなきゃならないなんて。せめてなにか言われる前に部屋に行こう。

「みーふーでー」

 けど、神様はそれすら許してくれない。階段に足をかけたところで、いつまでも部屋に戻ろうとしないお母さんに声をかけられてしまう。どうせろくな用じゃない。

「テスト。出しな。そろそろ返ってきてるでしょ」

「…………」

 ああ、ああ。なんでもいいから、なにかを思いっきり壊したい。

 あいつもそいつも、どいつもこいつも、なんでこんなにわたしの嫌なことばっかり。わざと狙ってやってるんじゃないの。

「……部屋にあるから。取ってくる」

 どうせこのあと顔を合わせなきゃいけないとしても、せめて今だけでも、一人になんないとやってられない。わたしの唯一の避難場所へ向かって、急いで階段を駆け上がる。


「ねえ。ちゃんと聞いてるの?」

 さっきよりもイライラ度を増した声。こうなっちゃうとこれ以上聞いてるフリもできないし、しばらくぶりに机に頬杖をついてわたしを睨みつけるお母さんを見る。

 その机には、三人分の晩ご飯が並んでる。お母さんのとその隣にあるわたしのはまったく手づかずで、もう湯気も消えてしまってる。減ってるのはお父さんの分だけだ。それと、お母さんのお皿の近くにはプリントが三枚。二枚は一昨日返ってきた国語と算数のテストで、もう一枚は明日の授業参観と懇談会のプリント。下の方が切り取られてるのは、出席するってことを書いて先生に提出したから。

 けど、そんなことはどうでもいい。今問題なのは、二枚のプリントの、特に算数のテスト。お母さんは、これを見てからずっと、わたしを晩ご飯の横に立たせて、自分は椅子に足を組んで座って、一人で騒ぎ続けている。わたしは、それに付き合わされている。

「……聞いてるよ」

「じゃあ、おかあさんなんて言った?」

「……だから、わたしが勉強してないってことでしょ」

「分かってるなら、なんでやらないのよ! その理由を説明してみなさいよ!」

 はあ。くだらない。もうご飯はいいから、部屋に戻らせてくれないかな。

 だいたい、こんなことになった理由からして意味が分かんない。

 算数のテストの点数が八十点だった。

 お母さんがさっきからずっと怒ってる原因は、つまりこれ。今回のテストで、わたしの点数はいつもよりちょっとだけ低かった。原因は、さっきはしょうがなく勉強不足なんて言ったけど、そうじゃない。演算をしなかったせいで、小さな計算ミスを幾つかしてしまったから。

 いつもはこんなミスはしないし、科目がなんでも百点を貰うことなんて珍しくもなかった。実際、その下で忘れられてる国語の点数は百点だし。これなら、同じ班のあいつらよりも高いのに。

 じゃあ、なんで怒られてるの?

 この理由も簡単。お母さんは別に、このテストの点数を責めたいわけじゃない。どうせお母さんにとってわたしの理解度なんてどうでもよくて、結局はわたしに自主勉強をするって約束をさせたいだけなんだ。この、たまたま点数が低かったテストを盾にとって。

 自主勉強っていうのは、今年からうちのクラス……それとも学年全体だっけ? とにかく、今年から始まったもの。あの先生も、ことあるごとにしつこく自主勉強をするように言ってくる。これをやる人は「自主勉強ノート」を作って、そこに自分がやりたい勉強をやりたいだけやって、次の日の朝の会で提出する。けど、これは宿題じゃないし、出したって採点とかをしてくれるわけじゃない。ただ、「よくできました」って褒めてもらえるだけ。

 それなのに、なにを考えてるのか知らないけど、わたしのクラスのほとんどが、朝になると毎日自主勉強ノートを提出してる。一度も出してないのは、多分わたしだけ。

 それが気に入らなかったのが、あの先生。何度かわたしにも自主勉強ノートを出せって言ってきたことがある。もちろんあの先生のことだから、そんな言い方はしないで、もっと遠回しな、鬱陶しい言い方だったけど。

 それでも、わたしは自主勉強ノートを出さなかった。そしたら今度は、お母さんにそのことを告げ口してきた。それが、前回での懇談会のとき。それからというもの、お母さんはことあるごとにわたしは「勉強不足」だって言い張って、自主部強をさせようとしてくる。

 でも、そもそも自主勉強って、自分がやりたいときにするものなんじゃないの? わたしは、今は宿題と授業以外で勉強しなくても大丈夫だと思ってるからしてないだけなのに。なんで「他のみんながやってるから」なんて理由で勉強しなくちゃならないの。こんなの、「自主」でもなんでもない。

 お母さんはまだやいのやいのって騒いでいる。ただ、その動きがちょっとおかしくなってきた。ずっとわたしを睨んでいたはずの目が、ちょくちょく横に向く。その先には、知らん顔でご飯を食べているお父さんしかいないのに。

 ……また始まったよ。

 お母さんは、自分だけじゃわたしに言うことを聞かせられないと気づくと、こんなふうにお父さんに手伝ってもらおうとする。お父さんに怒鳴るなりなんなりしてもらって、それでどうにかしようなんて考えてるんだ。恥ずかしくないのかな。

 お母さんはいつもそう。なにを言ったって、気がついたら言うことが変わってる。その言うことだって、この自主勉強ノートみたく、つまらないことばっかり。

 なんでわたしはこんなことで振り回されなきゃいけないの。

 なんでわたしは家でまでこんな目に遭わなくちゃいけないの。

 こんなの、誰もおかしいと思わないの。

 そろそろ足が痛くなってきた。耳も、頭も、心も痛い。

 あーあ。

 それもこれも全部、人間がここにいないせいだ。


 結局、自分の部屋に戻れたのは十一時だった。面倒くさくって晩ご飯も食べてないけど、もう食べる気もしない。明日は授業参観だし、本当ならもう寝ないといけない時間だし、そうするつもりだったけど。このまま、イライラしたまま寝たくない。

 机に座って、ライトをつける。カッターを右手に、左手は手首を上に。

 ムカついてたせいかもしれないけど、いつもよりずっとはやくカッターが皮膚を切り裂いた。血がうっすら滲み出てくる。指でぎゅっと抓れば、いつもみたく出てくるはず。

「…………」

 でも、なんでだろ。全然すっきりしない。もっと血が見たい。わたしの証拠が見たい。

 もう一度、刃を赤い線に当てる。カッターはきらりと光って、ちょっとずつ手首に食い込んでいく。

 ぞくっと、身体が震えた。

 こんなに深く切るのは初めてだ。どうなるんだろう。痛いのかな。血がたくさん出るのかな。グロいのかな……怖いな。

「……っ」

 迷ってるうちに、カッターの刃が浮いて、手首から離れる。慌てて力を込め直してもとの位置に戻した。

 ……大丈夫。わたしなら大丈夫。だって、人間だもの。ちゃんとした、れっきとした、普通の人間。正しい人間。それを確かめるだけなんだから。

 先生も。

 同級生たちも。

 母さんだって。

 みんなみんな、わたしにあんなことして。散々酷いことをして。それなのにそんなの知らんぷりで。自分はなにも間違ってなんかない、当たり前だみたいな顔して。

 でも、わたしは覚えてる。

 わたしは知ってる。

 わたしは気づいてる。

 あんなの、人間じゃないんだって。だから、あんな意味わかんないことも平気でできちゃうんだって。

 ──あっ。

 気がついたら、カッターの先端が見えなくなるくらいに食い込んでいた。思わず手を引っ込めちゃって、そのときに刃がわたしの手首をもっと引っ掻いていった。

 音はしなかった。それでも、いきなりどばどば溢れ出してくる血は、もの凄い音を立ててるみたいだった。

「あ……あっ……」

 血が。どんどん出てくる。止まりそうもないし、止め方も分かんない。なにもできなくて、ただ溢れた血が机の上に広がっていくのを見てるしかなかった。

 意外と、そんなに痛くはなかった。切るのは怖いけど、一度切っちゃえばそんなことは気にならなくなる。そんなことより、今はただ、嬉しかった。

 よかった。わたしは生きてる。血も、涙も、ちゃんとある。あいつらとは違うんだ。

 ……あ、でも。明日授業参観だった。この傷、どうしよう。

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